「今まさに帳簿が焼かれています!」――慌てる助手を尻目に、彼女は経費帳から証拠隠滅の時間を読み切っていた
「先生! ロシュ子爵邸の裏庭で、今まさに帳簿が焼かれています!」
ジョエルが事務所の扉を蹴破るように飛び込んできた。息が上がり、言葉の続きが出てこない。
肩を激しく上下させ、額から汗が滴り落ちる。喉の奥からひゅう、と空気を吸う音がした。
エステルは筆を置く手を止めなかった。
インクの乾く間も惜しむように、最後の一行を書き終えてから顔を上げる。
「予想通りね」
「予想通り、ですか。悠長な……!」
「悠長じゃない。三日前から、待っていたの」
「待っていた? まさか、先生は今夜燃やされると知っていたんですか」
「知っていたわけじゃない。読んでいたの」
リオネルが立ち上がり、外套に手を伸ばす。動きに迷いはなかった。
「待っていた、とは。何を根拠に」
「ロシュ様の日常経費帳よ。監査対象としての閲覧権限で、薪と灯油の仕入れを調べていた」
「仕入れ量に、何か」
「季節の必要量を、明らかに超えて積み増されていた。書類を燃やす準備よ」
「それだけで、今日この時刻だと分かるんですか」
「給金台帳も見た。使用人の交代の隙間、警備が手薄になる時間帯まで割り出してある」
「隙間、というのは」
「交代の記録が、いつも半刻ほど空く時間がある。人が減る時間が、燃やす時間よ」
ジョエルが目を丸くする。頬の汗を拭う手も止まっていた。
「先生、それって……帳簿を読むだけで、そこまで分かるものなんですか」
「数字は、嘘をつかない人ほど正直に語る。ロシュ様は、まだ数字の癖を隠しきれていない」
「今しかない、ということ。裏庭の焼却炉、荷運び口から」
エステルは既に外套を羽織っていた。留め具を留める間も惜しんで、振り返らずに扉へ向かう。
「荷運び口なら、警備の詰所から死角になっているはずです」
「そう。だから、そこから入る」
「詰所から死角になっているのも、給金台帳で?」
「屋敷の見取り図と、警備の配置記録。両方合わせれば、見えてくる」
三人は夜の商人街を駆け抜けた。石畳を打つ足音が三つ重なる。
冷えた夜気が肺を刺し、息を吸うたびに胸の奥が痛んだ。街灯の乏しい路地では、影がまっすぐに伸びる。
「間に合いますか」
「間に合わせる。足を止めないで」
「先生、もし読みが外れていたら」
「外れていたら、その場で次を考える。今は、走ることだけ考えて」
ロシュ邸の裏手に着くと、焼却炉の炎が塀の上まで赤く映えていた。積み上げられた紙束が、次々と炎に飲まれていく。
紙の焼ける独特の匂いが鼻を突く。パチ、パチと爆ぜる音が絶え間なく響いていた。
「もう半分近く……!」
「まだ半分は残っている。数えるより、動いて」
「でも、どの束から手をつければ……全部同じに見えます」
「見た目で選ぶな。中で見分ける」
荷運び口の扉は施錠されていなかった。エステルが体当たりで押し開ける。
蝶番が軋み、肩に鈍い衝撃が走った。それでも構わず、勢いのまま中へ踏み込む。
「リオネル、見分けられる?」
リオネルは炎の前に膝をつき、積まれた束を一つずつ指でなぞった。指先が熱で赤くなっていく。
「綴じ糸が、違います。これだけ、他より硬い」
「硬い?」
「油を含ませた糸で、燃えにくく加工してある。持ち出すために作られた束です」
「他の束は」
「囮です。燃やされても構わない、周辺の書類でしょう」
「囮だと、どうして分かる」
「加工の跡がない。表紙の質も、明らかに一段落ちます。急いで用意した紙」
エステルは炎の熱を手で遮りながら、リオネルの指す束を覗き込む。表紙の端がわずかに焦げていた。
「確かね。これが、本物」
「本物は、この三つの束だけです。あとは……」
「あとは、置いていく。持てるだけ持って、走って!」
ジョエルが真っ先に一束を抱え上げた。両腕でしっかりと抱え、後ずさりながら熱から遠ざかる。
「熱い、けど、持てます!」
「無理はしないで。落としたら終わりよ」
「分かってます、先生の帳簿より軽いですから!」
「軽口を叩く余裕があるなら、足元を見て。躓いたら全部無駄になる」
エステルとリオネルも束を抱え、荷運び口を抜けた。背後で炎が爆ぜる音がする。
腕の中の紙束はまだほんのり熱を持っていた。表紙の革の匂いと焦げた匂いが入り混じる。
外に出て、ようやく足を止めた。三人とも肩で息をしている。
夜風が汗ばんだ首筋を撫で、ようやく指先の震えに気づいた。
エステルは抱えた束を地面に広げ、一枚一枚を確かめていく。
紙をめくる音だけが、静まり返った裏路地に響いた。
「……数ページ、間に合わなかったわね」
「端の方が、焦げています」
「どのページです。祝祭予算の方ですか、それとも」
「幽霊部隊の方の、末尾。名義の一覧が、少し欠けている」
「それは、痛手では」
「周辺の記録よ。核心部分は、無事」
「無事なら、良かった……」
「良かった、で終わらせない。これを、明日の判決までに法廷へ届ける」
リオネルが煤で汚れたエステルの手を取った。指先がわずかに震えている。
その手のひらの熱が、まだ焼却炉の炎を覚えているようだった。
「エステル様」
「何」
「これで最後まで、あなたの計算が私たちを間に合わせた」
エステルは自分の手を見て、それから彼の顔を見た。頬が炎の名残りでまだ熱い。
「計算だけじゃない。あなたが見分けなければ、囮ごと運んでいたわ」
「見分けられたのは、かつて改竄のために叩き込まれた技術です。皮肉なものですね」
「皮肉でも、使い道があったということ」
「使い道があったと、あなたに言われると救われます」
ジョエルが咳き込みながら束を抱え直す。
「先生、これから法廷まで走るんですか」
「走る。夜のうちに、判決に間に合わせる」
「僕も一緒に行っていいですか。まだ足、動きます」
「来て。一人でも多く運び手がいた方がいい」
リオネルが外套の内側を軽く叩いた。
「そういえば、今週の分はもう信頼できる商人に預けてあります」
「こんな時に?」
「こんな時だからです。邸の家探しに巻き込まれて、失うわけにはいかない」
「いつの間に、そんな手回しを」
「昨日のうちに。何かが動く予感が、していたので」
「用心深いのね」
「用心深くなければ、三十年分の記録と一緒に、資金も灰になっていたかもしれません」
エステルは束を抱え直し、法廷のある方角へ顔を向けた。夜空には星が瞬いている。
「行きましょう。夜が明ける前に」
「はい。今度こそ、最後まで」
三人は闇の中を、灯りひとつない道へ向けて走り出した。




