タイムリミットは三日後。三十年分の不正を一枚の時系列に組み直し、母が遺した防壁の真意を暴き出す
「査問法廷の最終証拠提出期限は、三日後。過ぎれば審理は数年先へ持ち越されます」
書記官の声は書類をめくる音と変わらぬ調子だった。エステルは受理印の乾いた紙を見つめ、口の中で三日という数字を転がす。
インクの匂いがした紙面に、指先がじわりと湿る。
「三日で、三十年分をまとめろと」
「まとめられなければ、審理は数年先です。それだけをお伝えします」
「数年先というのは、正確には何年」
「私の口からは、申し上げられません。前例によれば、五年から十年です」
「十年経てば、証人の記憶も、証拠の紙も傷むでしょうね」
「それも、審理の外の話です」
書記官が去ると、事務所には資料の匂いだけが残った。埃と古紙の混じった匂いが、鼻の奥に張りつく。
エステルは机に積まれた紙束に目を落とす。
「母の裏帳簿、父の断片、遺族の証言、グレゴワール様の署名、告発状の解析……」
「全部で、これだけの量です」
リオネルが指差した束は、机の端からはみ出していた。エステルはその高さを見て、小さく息を吐く。
「三十年分を、一枚の時系列に畳むしかないわね」
「畳む、というのは、日付順に並べ直すということですか」
「それだけじゃ足りない。誰が、いつ、いくら動かしたか。線でつなぐの」
「記録院の開館時間は、日没まで。一日では終わりません」
「終わらないなら、何日でも通う。今日から始めるわ」
「今日から、ですか。もう昼を過ぎていますが」
「過ぎているからこそ、今から動く。一分でも早く」
記録院の閲覧室で、エステルは日付ごとに紙を並べていった。祝祭予算の記載、幽霊部隊の給金台帳、ギヨームへの資金の動き――ひとつずつ突き合わせる。
ペン先が紙をこする音だけが、閲覧室に響いていた。
リオネルが台帳の写しを繰り、日付を読み上げていく。エステルはそれを聞きながら、自分の年表に書き加えていった。
「この日、ロシュ様の署名が二重になっています」
「二重? 同じ日に、別の帳簿にも同じ額が」
「はい。片方は祝祭予算、片方は幽霊部隊の給金です」
「金額は、一致している?」
「端数まで、寸分違わず」
「同じ日に、二つの不正を同時に動かしていたということね」
「動かせる立場にあった、ということです」
「立場だけじゃない。動かす理由があった、ということでもある」
作業は初日で終わらなかった。日が落ち、閲覧室の職員が「閉めます」と声をかけた。
二人は資料を抱え、暗くなった通りを事務所まで歩いた。
二日目の朝、二人は再び記録院の扉をくぐる。
「昨日の続きから」
「はい。……エステル様、待ってください」
リオネルが一枚の紙を掲げ、日付を指す。指先はわずかに震えていた。
「この日付、記録院の閉庁日のはずでは」
「閉庁日?」
「ええ。この帳簿には、閉庁日付で受理印が押されています」
「確かなの、それは」
「先週、閉庁日の一覧を写させていただきました。念のため」
エステルは手を止め、自分の年表とその紙を並べて見比べる。指先が紙の上を往復した。
「……本当だわ。ここ、書き直さないと」
「誤記、ですか」
「誤記か、意図的な改竄か。今は分からない。でも、この日付のまま統合すれば、時系列そのものが崩れる」
「崩れると、どうなります」
「二つの不正の前後関係が、入れ替わる。どちらが先に動いたかで、意味が変わってしまう」
「確かめる方法は」
「記録院の受付台帳を、もう一度見せてもらう。今すぐに」
二人は再び受付へ向かった。係の職員が台帳を繰る手を、エステルはじっと見つめる。
台帳が止まる。
「やっぱり……この日は、閉庁日で間違いない」
「では、帳簿の日付が」
「誤記ね。本来の受理日は、その三日前」
「三日前だと、時系列の順番が変わりますね」
「変わる。祝祭予算の不正よりも先に、幽霊部隊の名義が動いていたことになる」
「先に動いた方が、主犯に近い、ということですか」
「近い。今はそこまでしか言えない」
訂正のため、統合した年表を組み直す作業に半日を費やした。窓の外はすでに夕暮れに近い。
「半日、使ってしまったわ」
「気づかないまま提出するよりは、良かったはずです」
「そうね。でも、残りは一日と少し」
「今夜も、続けますか」
「続ける。ここで止まれば、三十年が無駄になる」
「無駄にはさせません。私も、最後まで付き合います」
蝋燭の灯りの下、エステルはペンを走らせ続けた。芯の擦れる音が、静かな部屋に規則正しく続く。
リオネルは資料を仕分け、必要な束を差し出していく。二人の影が壁に長く伸びていた。
「これで、告発状の解析までつながりました」
「あとは、清書するだけ」
「清書は、私が」
「いいえ、これは私の手で。母と、あなたのお父様の記録だから」
明け方近く、リオネルが年表の隅を指でなぞった。
「三十年、あなたの母の字と、私の父の記録と、両方が同じ紙の上に並びましたね」
「これでやっと、二人分の因縁を一枚にできたわね」
「そう思うと、不思議な気分です」
「不思議?」
「憎み合うはずの二人の記録が、今はひとつの真実を示している。それだけです」
エステルは顔を上げ、リオネルを見た。ペンを止め、しばらく黙って彼の横顔を見つめる。
「あなたの副業の依頼は、進んでいるの」
「はい。昨日、新しい依頼の前金を受け取りました」
「帳面には、どう記した」
「『出資のために』と書きました。初めて、はっきりそう書けた気がします」
「曖昧に書かなかったのは、なぜ」
「曖昧なままでは、いつか自分でも忘れてしまう気がして」
「意図して、貯めているということね」
「はい。曖昧なままにはしておきたくなかったので」
三日目の夕刻、最終陳述書が完成した。エステルはそれを両手で持ち、記録院へと急ぐ。
石畳を踏む足音が、二人分重なって響く。
「間に合う?」
「間に合います。日没まで、まだ少し」
「少しって、どれくらい」
「四半刻もないかもしれません。走りましょう」
窓口の係官が陳述書を受け取り、印を確かめる。時間をかけて一枚ずつ、丁寧に目を通していく。
ポン、と乾いた音が響いた。
「受理します。これで、最終評決段階へ進みます」
「ありがとうございます」
外に出たエステルは、統合した年表の写しをもう一度広げた。指先が一点で止まる。
「リオネル、見て。この月」
「どうしました」
「幽霊部隊の受取名義が設計された月と、ギヨーム様への資金供与が始まった月……同じだわ」
「同じ月、ですか」
「偶然とは思えない。ロシュ様は、この月に何かを一気に動かした」
リオネルは年表を覗き込み、二つの日付を見比べる。
「二つの不正が、こんなに近くで繋がっているとは」
「繋がりの深さを、まだ私たちは知らない」
「もう一つ、腑に落ちたことがあるわ」
「まだ何か、ですか」
「なぜ幽霊部隊の受取名義に、他でもないヴェルヌイユ家の遺族基金が選ばれたのか」
「没落した家の基金なら、狙いやすかったから——それだけではないと」
「ええ。この基金の規約、第十二条。死んだ人間の名で金を受け取れば無効になる、あの条文。母が家の帳簿を預かっていた頃に、自分の手で書き加えたものだと思う」
「母君が、ご自分で」
「死んだ人間の名で金が動くことが、どれほど恐ろしいか——母は知っていたから。この基金にだけは、同じことをさせないつもりだったのよ」
「その基金に、よりによって同じ手口を仕込んだと」
「ロシュはこの家を三十年見てきた男よ。母が何を防ごうとしていたかも、きっと知っていた。知っていて、ここに埋め込んだ」
「家が没落して、母君が亡くなれば、もう確かめる者はいない——そう踏んだ、ということですか」
「ええ。その見込みが崩れたのは、私がまだここにいたから」
エステルは紙を折りたたみ、胸元に抱えた。
「調べる必要があるわね。この月に、何があったのか」




