突然の資産凍結と三日間の猶予。筆跡は偽造できても、数字に刻まれた「計算の癖」までは隠せない
「エステル・ド・ヴェルヌイユ。王室財務横領の容疑により、資産を凍結し、正式起訴までの三日間、身柄を拘束する」
役人の声は事務用の紙をめくる音と同じ調子だった。抑揚のない読み上げが、狭い事務所の壁に反響する。
エステルは受け取った書面を見つめ、口を開く。
「拘束、と今おっしゃいましたが、私はこの通り事務所にいます」
「三日以内に潔白の証明がなければ、その通りに執行される」
「証明の場は、どこに」
「正式起訴の審理だ。それまでは、逃亡の恐れなしと見なし、身柄拘束は猶予する」
「資産凍結は、いつから」
「本状の受理と同時、たった今からだ」
「本日付の商談金も、含まれますか」
「一切合切、すべてだ。異議は審理の場でどうぞ」
役人は印を押すと、後ろも見ずに去っていった。扉が閉まる音の後、事務所には紙の匂いだけが残る。
インクと蝋の混じった、いつもの匂いのはずなのに、今日は妙に冷たく感じられた。
エステルは告発状を机に広げ、リオネルはその隣で拳を握った。指の関節が白くなっている。
「凍結された金額……これでは、証人たちへの交通費も、ジョエルへの謝礼も出せません」
「今すぐ必要な分は、いくら」
「少なくとも、明日の朝までに銀貨にして二十枚は」
「三日という期限も、金がないという圧力も、同時に来る。手口として、分かりやすいくらいね」
「分かりやすいなら、崩し方もあるということですか」
「ある、と信じるしかないでしょう。まずは、署名の筆跡を確かめて」
リオネルは告発状の署名欄に目を落とし、手元の帳面と見比べ始めた。ペン先の払いを何度も往復させる。
蝋燭の炎を近づけ、紙面を斜めにかざして、インクの乗り方まで確かめていく。
「……エステル様。これは」
「一致しない?」
「はい。ロシュ様の筆跡とは、明らかに違います。今回は、他人の手を借りている」
「借りた手というのは、代筆屋か何かかしら」
「おそらくは。払いの角度も、止めの癖も、これまでの二通とはまるで別人です」
エステルは椅子に沈み込んだ。指先で額を押さえる。
「筆跡という手が、最初から使えないということね」
「これまでの二回とは、違うやり方です。慎重になったのでしょう」
「慎重になった相手を崩すには、筆跡以外の何かが要る」
そこへジョエルが息を切らして駆け込んできた。手には数枚の紙束を握っている。
「エステル姉さん! 告発状の発行経緯、記録院で写してきた! あと、担当した役人が誰かも!」
「ありがとう、ジョエル。助かるわ。息、切れてる。水を飲んで」
「セシルさんは過去の似た案件を調べてる。マリーさんは証人になってくれそうな人を回ってる」
「二人とも、今この時に動いてくれているのね」
「みんな、姉さんのためだから。俺だって、走るくらい何でもない」
エステルは紙束を受け取り、一枚ずつ広げていく。数字の並びに目を走らせた。
「発行経緯はいいとして……肝心なのは、この告発状に書かれた横領額そのもの」
「金額に、何か問題が?」
「問題があるかどうか、確かめる。私は、これを帳簿として読む」
エステルはペンを取り、横領額の内訳を紙の端に写し始めた。数字を一つずつ分解していく。
丸め方、端数の処理、そこに乗せられた上乗せの比率――ひとつずつ書き出すたびに、指先の動きが速くなる。
「この端数の丸め方……見覚えがある」
「見覚え、というと」
「あなたが私の報告書に足した運送費。あのときの上乗せ割合と、同じ」
リオネルが息を呑んだ。エステルは別の紙を引き寄せ、比べる。
「ギヨーム家の内容証明、賠償額の算出式もある。あれも、同じ形式だった」
「まさか、三十年変わらない癖が……自分を陥れる告発状にも?」
「ロシュの帳簿の作り方は、変わらない。私を陥れる時さえ、いつもの手癖で数字を作った」
「筆跡は変えられても、計算の癖までは、変えられなかった」
「人は、字は真似られても、考え方までは真似られない。会計とは、そういうものよ」
エステルの声は静かだったが、指先は震えていなかった。リオネルはその横顔を見つめる。
「これを、証拠として出せますか」
「出せる。ただし、裏付けが要る。あの報告書と内容証明、両方を知る証人が」
「オルタンス様、ですね」
二人はその足でオルタンス商会へ向かった。オルタンスは戸口で腕を組み、二人を見据える。
「証人として名を貸せ、という話なら、断るよ」
「なぜですか」
「なぜって……ロシュ側に睨まれた店がどうなるか、あんたも知ってるだろう。うちは、これからも商売を続けなきゃならないんだ」
「見せずに帰るつもりはありません。一目だけでも、見ていただけませんか」
「一目見たところで、答えは変わらないよ」
「見ていただきたいものがあります」
エステルは紙を差し出した。丸め方と上乗せ割合を並べて示した一枚だった。
オルタンスはしばらく黙って見つめ、やがて眉を寄せる。
「……この形、見たことがある。うちの帳簿を見せてもらった時と、同じだ」
「同じだと、感じますか」
「感じるも何も……これは、間違いない。あの時あんたに助けてもらった借り、今度は返す番だね」
オルタンスは紙に指を置いたまま、深く息を吐いた。
「証言する。名前も出す」
「危険はないと、言い切れません。それでも構いませんか」
「危険を承知で黙ってるほうが、性に合わないんだよ、あたしは」
「ありがとうございます」
三日目の朝、書記院の窓口にエステルとリオネルは並んで立っていた。証言書と分析書が机に積まれる。
係官がそれを一枚ずつ読み進め、やがて印を取り出した。
ポン、と乾いた音が響く。
「容疑を撤回する。資産凍結も、本日をもって解除とする」
「ありがとうございます」
外に出ると、リオネルが小さな革袋を懐から取り出した。硬貨の音が鈍く響く。
「三日間の運転資金、こちらで賄いました。副業の蓄えから」
「全部、あなたのお金で回していたの」
「はい。他に、方法がなかったので」
「あなたの稼いだお金で、私が生き延びた……」
「あなたが私を拾ってくれた時と、順番が入れ替わっただけです」
エステルは革袋を受け取り、その重みを確かめるように両手で包んだ。
「いつから、これだけ貯めていたの」
「個人で依頼を受け始めた頃からです。帳面を、見ますか」
「見せて。全部、正確に知りたい」
「今夜、事務所で。数字は、隠さず全部お見せします」
商人街を二人で歩く。潔白は証明された、はずだった。
だが、通りすがりの顔見知りの何人かは、目が合っても軽く会釈するだけで、以前のように声をかけてこない。
「……まだ、目を逸らす人がいる」
エステルはつぶやき、それでも足を止めずに歩き続けた。




