「今夜拘束する」という脅しには、監査規定第九条で反撃します――迫る令状を撃ち落とす深夜の緊急申立て
「今夜のうちに証言を取り下げなければ、日付が変わる前にエステル嬢を拘束する。今度は、脅しでは終わらせない」
ロシュの声は静かだった。だからこそ、事務所の空気が凍りついた。
蝋燭の炎さえ揺れを止めたように見える。窓の外では、商人街の喧騒がすでに遠のいていた。
壁に伸びたロシュの影が、実際の彼よりも一回り大きく見えた。
机の上の書類の端が、わずかに震えている。誰の手も触れていないのに、そう見えた。
「脅しではない、と念を押すあたりが、かえって脅しに聞こえます」
「好きに取ればいい。結果は変わらない」
「今の一言、一言も違えず書き留めて」
エステルは即座にリオネルへ告げた。ペン先が紙を走る音だけが響く。
インクの匂いが、張り詰めた空気の中でやけに鮮明だった。
「証言の撤回を強要する発言、確かに記録しました」
「記録したところで、何が変わる。俺はもう動いている」
「動いている、というのは、具体的にどこまでですか」
「知る必要はない。今夜のうちに、答えを出すことだ」
「答えを出す期限を、あなたが勝手に決める権利は」
「権利の話をしに来たのではない。忠告をしに来ただけだ」
ロシュは口の端をゆがめ、踵を返した。扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
木の軋む音が余韻のように残り、それが消えるまで誰も動かなかった。
静けさの中、廊下から足音が近づいてきた。息を切らした伝令が飛び込んでくる。
「エステル様。書記官が、既に拘束令状の下書きを進めているようです」
「下書き……本当に、そこまで」
「はい。あとは署名を待つだけの段階だと」
「署名するのは、誰」
「筆頭書記官だと聞いています。ロシュ様の息のかかった方です」
「署名は、いつ揃う見込み」
「早ければ、今夜のうちにも」
伝令の声が掠れ、息継ぎのたびに肩が上下していた。額の汗が、ひとすじ顎を伝って落ちる。
リオネルの顔から血の気が引いた。エステルは手にしたペンを、ゆっくりと置く。
指先が紙の端を撫で、それから拳を握った。震えを抑えるような、短い動作だった。
「記録だけでは、間に合わない」
「では、どうします。抗議書を出しても、審理は明日以降でしょう」
「今夜のうちに、申し立てる」
「今夜? もう記録院は閉まっています」
「監査対象に関わる案件には、緊急受理の窓口が別にある。第十一話の一件で、私は覚えている」
「本当に、そんな窓口が」
「調べる時間はない。行って確かめるしかない」
「確かめてから動くのでは、遅いということですね」
「その通り。動きながら、確かめる」
「もし窓口が閉じていたら」
「そのときは、開けさせる」
「開けさせる、と簡単におっしゃるが、相手は規定を盾にするはずです」
「盾にするなら、こちらも規定で応じるだけよ」
エステルは上着を羽織り、書類の束を抱えた。リオネルが先に扉を開ける。
冷たい夜気が頬を打ち、二人の吐く息がわずかに白く見えた。
石段を降りる足音が、静まり返った通りに響いていく。
「私も行きます」
「手数料が要るはずです」
「今日届いた分が、ちょうどある」
リオネルは懐から小さな革袋を取り出した。硬貨の触れ合う音が、暗い廊下に響く。
「蓄えの方には、手をつけていない?」
「もちろん。ちょうど、今日の分が役に立った」
「その線引き、今夜も律儀ね」
「意味のある額になるまでは、崩しません」
「崩さないと決めた日から、一度も」
「一度も。今日も、その日ではありません」
馬車が石畳を駆ける。窓の外を、夜の商人街が流れていった。
軒先の灯りが次々と消えていく通りを、車輪の音だけが規則正しく刻んでいく。
エステルは膝の上で書類を抱え直し、条文の一節を口の中で反芻していた。
「第九条、対象者への圧力行為が確認された場合……」
「暗唱するほど、読み込んでいたのですか」
「まさか使うことになるとは、思っていなかったけれど」
記録院の門はすでに半ば閉ざされ、係官が鍵束を手に立っていた。
蝋燭の灯りが窓の内側で揺れ、今にも吹き消されそうに見える。
「本日の受付は終了しました。出直してください」
「監査対象に関わる圧力行為の緊急申立てです。受理を求めます」
「緊急受理は、原則として夜間は受け付けません」
「原則、ということは例外がある。そうですね」
係官の手が止まった。エステルは間を置かず言葉を継ぐ。
「王室指定監査対象規定、第九条。対象者への圧力行為が確認された場合、深夜であっても緊急窓口での受理を妨げない」
「その条文を、どこで」
「条文は誰にでも開かれています。読めば分かることです」
「……確かに、そういう定めはある。だが、私の一存では」
「一存で判断できないなら、規定に従うだけです。窓口はまだ開いている」
「開いている、とおっしゃるが、もう鍵を」
「鍵を回す前に、私が来た。それだけのことです」
「規定に従えとおっしゃるが、上への確認なしには」
「確認を取っている間も、令状の署名は進みます。どちらが先か、分かりますね」
「今夜のうちに署名が揃えば、確認を待つ意味そのものがなくなります」
「……それを、私に決めろと」
「決めるのはあなたです。ただ、決めない、という選択肢はもうありません」
係官は鍵束を握りしめたまま、しばらく動かなかった。やがて、諦めたように扉を大きく開ける。
蝶番が軋み、内側の暖かい灯りが石畳の上にこぼれた。
「……分かりました。書類を」
エステルは差し出された台の上に、申立書を滑らせた。インクの匂いが、夜気に混じる。
紙の表面に、リオネルが記録した一言一句がそのまま書き写されている。
筆跡の乱れひとつない、几帳面な文字だった。
「拘束令状の下書きが進んでいる件も、圧力の証拠として付記しています」
「これは……確かに、受理番号を発行できる内容です」
紙にポン、と印が押された。その音が、二人の耳に長く残る。
「受理されました。令状の処理は、この申立てが審理されるまで保留となります」
「保留、という言葉が、今夜はこれほど重いとは」
「規定が重いのではなく、それを使う人がいるかどうかです」
「ありがとうございます」
門を出ると、夜風が頬を撫でた。リオネルが小さく息を吐く。
肩の力が抜け、それまで気づかなかった疲労が一気に押し寄せてくるようだった。
「父の名前を、やっと堂々と口にできる日が来る」
第十九話で聞いた言葉と、同じ響きだった。だが今度は、握手ではなく言葉が返る。
「ここまで来られたのは、あなたがいたから」
リオネルは何も言わず、ただ小さくうなずいた。それだけで、十分だった。
夜空に月が高く昇り、二人の影を石畳の上に長く落としていた。
馬車に戻ろうとしたとき、暗がりから別の伝令が駆けてくる。
息を切らし、手にした紙を握りしめたまま、二人の前で立ち止まった。
「エステル様。今夜のうちに、エステル様への逮捕状が実際に発行されていたようです」
夜風が止んだ気がした。エステルは伝令の顔を見つめ、静かに問い返す。
「発行されたのは、いつ」




