出航までのタイムリミットは30分。元監査官の知識と記帳係の矜持で、逃亡する証人から決定的な署名を奪い取ります
「グレゴワール様を乗せた船が、本日日没、南港から出航します。それが最後です」
情報屋の少年は息を切らし、戸口に手をついていた。汗が額から顎へ伝い落ちる。
「本当に、最後の船なの? 見間違いではなくて」
「見間違えるはずがありません。船名まで確かめました、〈シレーヌ号〉です」
「積荷の届け出は、もう済んでいる?」
「今しがた、港湾事務所に出したばかりだと聞きました」
「日没まで、あとどれくらい?」
「一刻半ほどかと。急がねば、間に合いません」
エステルはペンを置き、羽織っていた上着の襟を正した。リオネルはすでに帳簿の束を抱え、扉に手をかけている。
「行きましょう、エステル様。港までは馬車で」
「証拠になるものは、持った?」
「監査証と条文の写し、両方揃えてあります」
「情報料は?」
「先に渡してあります。蓄えの一部を使いました」
「意味のある額の方には、手をつけていない?」
「もちろん。今回はこちら側の出費です」
「その線引き、律儀ね」
「律儀でなければ、いつか蓄えの意味そのものが崩れます」
馬車が石畳を鳴らして走り出す。窓の外を、傾きかけた陽が流れていった。
車輪の音が次第に速まり、二人の体が座席の上で小さく揺れる。
南港に着くと、埠頭には人足が忙しなく行き交い、大きな船が舫い綱を軋ませていた。潮の匂いと魚市の喧騒が入り混じり、鴎の声が頭上を横切る。港湾長らしき恰幅の良い男が、書類を手に立ち塞がる。
「臨時の帳簿検査だと? そんな権限、聞いたことがない」
「王室指定監査対象の権限です。積荷の勘定科目に不一致があれば、出航前に検査を求められます」
「不一致があるという証拠は、どこにある」
「これから確かめます。だから検査を求めているのです」
「聞いたことがないと言っている」
「では条文をお読みください。財務査問法廷発行、第十七条」
エステルは懐から身分証と一枚の写しを取り出し、港湾長の目の前に突きつけた。羊皮紙の端が風にはためく。
「これは……本物か」
「疑うなら、書記官に照会すればいい。ただし、その間も時計は進みます」
「今この場で、照会に人をやれと言うのか」
「やってもやらなくても構いません。私が申請している事実は、もう記録に残ります」
港湾長の視線が、船と身分証のあいだを何度も往復した。額に汗が滲む。
「……三十分だけだ。それ以上は待てん」
「充分です」
「充分だと、簡単に言うが」
「時間は足りるかどうかより、動くしかない、そういう場面です」
リオネルが先に舷梯を駆け上がる。甲板では船員たちが忙しく綱を巻き上げていた。
「グレゴワール様はどちらに」
「客室に。誰も近づけるなと言われている」
「なぜ、そこまで人を避けている」
「知りません。ただ、機嫌が悪いのは確かです」
「監査の名目なら通していただけますね」
船員は渋々、扉のひとつを指し示した。リオネルが木の扉を叩くと、内側から低い声が返る。
「今さら、何をしに来た」
扉を開けると、グレゴワールは荷物を膝に抱えたまま、窓の外を睨んでいた。顔には焦りが張り付いている。
「署名をいただきに来ました」
「断る。もう船は出る」
「出るまで、まだ時間はあります」
「金なら払う気はありません。あなたも承知でしょう」
「金の話は、最初からしていません」
「ならば何を出せる。俺は、これから国を出るんだ」
リオネルは扉の外を振り返った。廊下でエステルが待っている。
「私が話します」
「本人が出てきて、何が変わる」
「あなたが本当に恐れているものが、何かを知っているからです」
「知っているつもりか、俺の何を」
「今は、知っていると言うより、確かめに来ました」
エステルが客室に入ると、グレゴワールの視線が険しくなった。彼女の帳簿嫌いは、初対面のときから変わっていない。
「あなたか。俺を告発した女が、今度は何を」
「証言をいただきに来ました。あなたの名で」
「名を出せば、俺は国のどこにいても追われる。冗談じゃない」
「名を出す気は、ありません」
「証言は、正式な審理まで封印されます。あなたの名は表に出ません」
グレゴワールの手が止まった。膝の荷物をきつく握りしめる。
「……信じろというのか、その言葉を」
「信じなくてもいい。私は記帳係です。約束を数字のように守ります」
「数字のように、とは」
「一度記した勘定は、動かさない。それだけです」
「都合よく動かす記帳係も、俺は何人か見てきたぞ」
「その人たちと、私を同じにしないでください」
甲板の鐘が鳴った。船員の声が響く。
「出航まで、あと十分!」
グレゴワールの喉が動いた。窓の外では、埠頭の人足たちが最後の荷を積み込んでいる。
「署名すれば、俺はどうなる」
「船に乗ったまま、国を出られます。追手はかけません」
「本当に、それだけか」
「それだけです。私が欲しいのは、あなたの身柄ではなく、証言だけですから」
「身柄はいらない、と言い切るのか」
「いりません。あなたを追う手間より、証言の重みの方が、私には大事です」
グレゴワールはしばらく黙り、やがて震える手でペンを取った。羊皮紙の上を、インクが滑る。
「これで、満足か」
「充分です。ありがとうございます」
「感謝など要らん。俺は、逃げるだけの男だ」
「逃げるだけの男が、最後に署名を残した。それも、記録には残ります」
鐘が二度、三度と鳴り響いた。船員たちの声が甲板を駆け抜ける。
エステルとリオネルは舷梯を駆け下り、埠頭に降り立った。背後で綱が解かれ、船体がゆっくりと岸を離れていく。
「間に合いましたね」
「ぎりぎりだったわ」
「あなたが権限を使うと決めた瞬間、私は口を挟めなかった」
「あなたが手続きを知らなければ、権限があると思いつきもしなかったわ」
「知っていたのは私、決めたのはあなた。それでいいと思います」
「二人分の仕事だった、ということよ」
船影が夕陽の中へ小さくなっていく。二人はしばらく、その背を見送っていた。
そこへ、伝令が息を切らして駆け込んできた。手にした紙が、風でわずかに震えている。
「エステル様! ロシュ様側が、エステル様への報復を実行に移したようです」
夕陽が沈みかけ、港の喧騒が急に遠くなった気がした。エステルは伝令の顔を見つめ、静かに問い返す。
「報復とは、具体的に何を」




