タイムリミットは日没。古い登記簿に眠る隠された遺産を暴き、理不尽な政略結婚を退けます
「エステル様……! 本日日没までに証言を撤回しなければ、私は今日限りこの家の娘ではないと、父が」
戸口に駆け込んできたセシルの声は、震えて掠れていた。息が上がり、髪が乱れている。
靴の踵が片方だけ泥で汚れ、袖口のレースが引きちぎれかけていた。急いで馬車を降りたのだろう。
エステルはペンを置き、椅子から立ち上がった。
「日没まで……あと何刻あるの」
「三刻ほどです。父はもう、仮契約書に日付まで入れて」
「仮契約書? まさか、婚姻の」
「ロシュ様に近い家との縁組です。私が証言を続けるなら、勘当のうえで嫁がせると」
「相手の家に、あなたの意思を聞く気は」
「ありません。父にとって、私はもう駒のひとつなのでしょう」
リオネルが帳簿から顔を上げた。眉間に皺が寄る。
「三刻で答えを出せと言うのですか、随分と急な話です」
「急がせているんです。私が翻意する前に、既成事実にしてしまいたいのでしょう」
「あなたはどうしたいの、セシル」
「証言は、撤回したくありません。でも……勘当されれば、私には何も残らない」
セシルの指先が、スカートの布地をきつく握りしめる。爪の白さが、そこだけ浮き上がって見えた。
「何もない、というのは本当かしら。あなたの家の記録、以前少し見せてもらったことがあるわ」
「記録、ですか」
「祖母様の帳簿。あなたの家系のものを、ちらりとだけ」
エステルは棚から古い写しの束を取り出した。紙の端が乾いて反り、指先が触れるたびに小さく擦れる音がする。
指先でめくる音だけが、しばらく部屋に響いた。窓の外で、日はすでに傾きはじめている。
「セシル、あなたの祖母様は、生前ご自分の店を持っていらしたのよね」
「小さな雑貨の店です。祖母が亡くなってからは、誰も気にしていませんでした」
「その持分、正式に相続された記録がどこにもない。まだ、あなたの家の総財産に紛れたままよ」
「それが、私に何の関係が」
「祖母様が生前、あなたに個人的に遺していたとしたら?」
「そんなこと、聞いたこともありません。本当に、そんな記録があるのですか」
「あるかもしれない、というだけよ。だから、確かめに行きましょう」
セシルの目が見開かれた。
「本当ですか、確かめる方法は」
「相続の原本を、直接見るしかないわ」
「時間は、足りるでしょうか」
「足りるかどうかより、今動くしかないわ」
三人は男爵家の相続管理人――セシルの伯父を訪ねた。書庫の扉の前で、伯父は腕を組んで動かなかった。
木の扉は分厚く、鉄の金具が黒ずんでいる。伯父の靴音だけが、石の廊下に硬く響いた。
「そのような書類、うちにはない」
「ないのではなく、出したくないのでは」
「何を根拠に、そんなことを」
「私は王室指定の監査対象者。閲覧を拒む正当な理由があるなら、聞かせていただけますか」
「監査権限を、こんな私事に振りかざす気か」
「私事ではありません。セシル様個人に帰属するかもしれない権利の話です」
「たとえ帰属していたとして、今さら掘り返して誰が得をする」
「セシル様が、ご自分の足で立つための材料になります」
伯父はしばらく黙り、やがて舌打ちして書庫の鍵を差し出した。
「勝手にしろ。ただし、時間はかけるな」
古い登記簿の束が机の上に積まれる。埃が舞い、紙の匂いが立ち込めた。
黄ばんだ表紙をめくるたび、乾いた紙の匂いが鼻をつく。羊皮紙特有のかすかな獣脂の匂いも混じっていた。
エステルは一枚ずつめくり、指を止める。
「……あった。ここに、祖母様の店の持分が」
「本当に、ですか」
「相続手続きを経ないまま、放置されている。父君の総財産に、紛れ込んでいたのよ」
「なぜ、こんなに長く見過ごされていたのでしょう」
「見過ごされたのではなく、誰も探そうとしなかった、それだけよ」
リオネルが横から覗き込み、印影に指を這わせた。
蝋の色は年月でくすんでいたが、押された文様の輪郭ははっきりと残っている。
「印影も、日付の書式も……古い型のものです。本物だと思います」
「偽物じゃないと、言い切れるの」
「照合しました。この筆致は、当時の登記官のものと一致します」
「筆致だけで、そこまで断言できるものなのですか」
「癖は誤魔化せません。数字を書くときの止め方、払い方まで、当時の他の書類と同じです」
セシルの手が、紙の上でわずかに震えた。
「私の……名義で」
「ええ。祖母様が、あなた個人に遺したものよ。父君の承諾はいらないわ」
「これがあれば……独り立ちできる、ということですか」
「小さいけれど、確かな足場よ。誰にも取り上げられない」
セシルは紙を胸に抱き、しばらく目を閉じていた。やがて、静かに顔を上げる。
「決めました。証言は、撤回しません」
「勘当されても?」
「構いません。父の家の娘でなくなっても、祖母の店の娘には、なれます」
「後悔は、しない?」
「祖母が遺してくれたものを知った今、後悔する理由がありません」
日没の少し前、セシルは自分の足で男爵家へ戻り、父に告げた。戻ってきたときには、荷物ひとつだけを抱えていた。
肩に担いだ布包みは小さく、それだけが今の彼女のすべてだった。
「勘当されました。でも、後悔はしていません」
「これから、どうするの」
「事務所の隣に、部屋が空いていると聞きました。借りてもいいでしょうか」
「あなたが望むなら」
セシルは小さく頭を下げ、それから少し照れたように付け足した。
「明日から、私も帳簿を習ってもいいですか」
「望むところよ。手が増えるのは、助かるわ」
「本当に、いいのですか。私、何も知らない素人ですけれど」
「知らないところから始めた人を、私はもう一人知っているわ」
夜が更け、事務所にはエステルとリオネルだけが残った。蝋燭の灯りが揺れる。
炎の先端が細く尖り、壁に伸びた二人の影をゆっくりと揺らしていた。
「あなたも、同じように何もかも失って、それでも立て直した」
「立て直したのは、一人の力じゃないわ」
エステルはそう言って、机の上のリオネルの手に、自分の手を重ねた。
「今日届いた副業の分、セシルの引っ越し費用に回そうかと」
「それは事務所の名目で出しましょう。あなたの蓄えには、手をつけないで」
「意味のある額になるまで、と言ったのを、覚えていてくれたのですね」
「忘れるはずがないでしょう」
「いつか、その額の意味を教えてくれる?」
「教えます。ただし、まだ少し先の話です」
蝋燭の火が小さく爆ぜ、二人の影が壁に重なった。




