表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
22/24

タイムリミットは日没。古い登記簿に眠る隠された遺産を暴き、理不尽な政略結婚を退けます

「エステル様……! 本日日没までに証言を撤回しなければ、私は今日限りこの家の娘ではないと、父が」


戸口に駆け込んできたセシルの声は、震えて掠れていた。息が上がり、髪が乱れている。


靴の踵が片方だけ泥で汚れ、袖口のレースが引きちぎれかけていた。急いで馬車を降りたのだろう。


エステルはペンを置き、椅子から立ち上がった。


「日没まで……あと何刻あるの」


「三刻ほどです。父はもう、仮契約書に日付まで入れて」


「仮契約書? まさか、婚姻の」


「ロシュ様に近い家との縁組です。私が証言を続けるなら、勘当のうえで嫁がせると」


「相手の家に、あなたの意思を聞く気は」


「ありません。父にとって、私はもう駒のひとつなのでしょう」


リオネルが帳簿から顔を上げた。眉間に皺が寄る。


「三刻で答えを出せと言うのですか、随分と急な話です」


「急がせているんです。私が翻意する前に、既成事実にしてしまいたいのでしょう」


「あなたはどうしたいの、セシル」


「証言は、撤回したくありません。でも……勘当されれば、私には何も残らない」


セシルの指先が、スカートの布地をきつく握りしめる。爪の白さが、そこだけ浮き上がって見えた。


「何もない、というのは本当かしら。あなたの家の記録、以前少し見せてもらったことがあるわ」


「記録、ですか」


「祖母様の帳簿。あなたの家系のものを、ちらりとだけ」


エステルは棚から古い写しの束を取り出した。紙の端が乾いて反り、指先が触れるたびに小さく擦れる音がする。


指先でめくる音だけが、しばらく部屋に響いた。窓の外で、日はすでに傾きはじめている。


「セシル、あなたの祖母様は、生前ご自分の店を持っていらしたのよね」


「小さな雑貨の店です。祖母が亡くなってからは、誰も気にしていませんでした」


「その持分、正式に相続された記録がどこにもない。まだ、あなたの家の総財産に紛れたままよ」


「それが、私に何の関係が」


「祖母様が生前、あなたに個人的に遺していたとしたら?」


「そんなこと、聞いたこともありません。本当に、そんな記録があるのですか」


「あるかもしれない、というだけよ。だから、確かめに行きましょう」


セシルの目が見開かれた。


「本当ですか、確かめる方法は」


「相続の原本を、直接見るしかないわ」


「時間は、足りるでしょうか」


「足りるかどうかより、今動くしかないわ」


三人は男爵家の相続管理人――セシルの伯父を訪ねた。書庫の扉の前で、伯父は腕を組んで動かなかった。


木の扉は分厚く、鉄の金具が黒ずんでいる。伯父の靴音だけが、石の廊下に硬く響いた。


「そのような書類、うちにはない」


「ないのではなく、出したくないのでは」


「何を根拠に、そんなことを」


「私は王室指定の監査対象者。閲覧を拒む正当な理由があるなら、聞かせていただけますか」


「監査権限を、こんな私事に振りかざす気か」


「私事ではありません。セシル様個人に帰属するかもしれない権利の話です」


「たとえ帰属していたとして、今さら掘り返して誰が得をする」


「セシル様が、ご自分の足で立つための材料になります」


伯父はしばらく黙り、やがて舌打ちして書庫の鍵を差し出した。


「勝手にしろ。ただし、時間はかけるな」


古い登記簿の束が机の上に積まれる。埃が舞い、紙の匂いが立ち込めた。


黄ばんだ表紙をめくるたび、乾いた紙の匂いが鼻をつく。羊皮紙特有のかすかな獣脂の匂いも混じっていた。


エステルは一枚ずつめくり、指を止める。


「……あった。ここに、祖母様の店の持分が」


「本当に、ですか」


「相続手続きを経ないまま、放置されている。父君の総財産に、紛れ込んでいたのよ」


「なぜ、こんなに長く見過ごされていたのでしょう」


「見過ごされたのではなく、誰も探そうとしなかった、それだけよ」


リオネルが横から覗き込み、印影に指を這わせた。


蝋の色は年月でくすんでいたが、押された文様の輪郭ははっきりと残っている。


「印影も、日付の書式も……古い型のものです。本物だと思います」


「偽物じゃないと、言い切れるの」


「照合しました。この筆致は、当時の登記官のものと一致します」


「筆致だけで、そこまで断言できるものなのですか」


「癖は誤魔化せません。数字を書くときの止め方、払い方まで、当時の他の書類と同じです」


セシルの手が、紙の上でわずかに震えた。


「私の……名義で」


「ええ。祖母様が、あなた個人に遺したものよ。父君の承諾はいらないわ」


「これがあれば……独り立ちできる、ということですか」


「小さいけれど、確かな足場よ。誰にも取り上げられない」


セシルは紙を胸に抱き、しばらく目を閉じていた。やがて、静かに顔を上げる。


「決めました。証言は、撤回しません」


「勘当されても?」


「構いません。父の家の娘でなくなっても、祖母の店の娘には、なれます」


「後悔は、しない?」


「祖母が遺してくれたものを知った今、後悔する理由がありません」


日没の少し前、セシルは自分の足で男爵家へ戻り、父に告げた。戻ってきたときには、荷物ひとつだけを抱えていた。


肩に担いだ布包みは小さく、それだけが今の彼女のすべてだった。


「勘当されました。でも、後悔はしていません」


「これから、どうするの」


「事務所の隣に、部屋が空いていると聞きました。借りてもいいでしょうか」


「あなたが望むなら」


セシルは小さく頭を下げ、それから少し照れたように付け足した。


「明日から、私も帳簿を習ってもいいですか」


「望むところよ。手が増えるのは、助かるわ」


「本当に、いいのですか。私、何も知らない素人ですけれど」


「知らないところから始めた人を、私はもう一人知っているわ」


夜が更け、事務所にはエステルとリオネルだけが残った。蝋燭の灯りが揺れる。


炎の先端が細く尖り、壁に伸びた二人の影をゆっくりと揺らしていた。


「あなたも、同じように何もかも失って、それでも立て直した」


「立て直したのは、一人の力じゃないわ」


エステルはそう言って、机の上のリオネルの手に、自分の手を重ねた。


「今日届いた副業の分、セシルの引っ越し費用に回そうかと」


「それは事務所の名目で出しましょう。あなたの蓄えには、手をつけないで」


「意味のある額になるまで、と言ったのを、覚えていてくれたのですね」


「忘れるはずがないでしょう」


「いつか、その額の意味を教えてくれる?」


「教えます。ただし、まだ少し先の話です」


蝋燭の火が小さく爆ぜ、二人の影が壁に重なった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ