「数字は、殴られても壊れない」——帳簿が暴いた架空借入。二人で集めた証拠で、ついに反撃の法廷へ!
「王室財務査問法廷は、七日以内に規定数の証拠と共同申立人が揃わねば、この件を受理しない」
書記官の声が、狭い控えの間に響く。壁際の砂時計が、かすかに乾いた音を立てて落ち続けていた。
エステルは手元の名簿を数え直した。指先でひとつずつ名前をなぞり、また最初に戻る。
「あと、三人足りません」
「三人……」
リオネルの声が沈む。窓の外では、七日目の朝の光がすでに斜めに差し込んでいた。
「たった三人、と思うか。それとも、まだ三人、と思うか」
「後者です。正直に言えば」
「なら、後者のまま動きましょう。数えている暇に、足で稼いだほうが早い」
「足りないのは、誰と誰でしょうか」
「仲買のオルタンス様、老獄吏のご遺族。あと一人は、当日までに見つける」
「当日までに、とは随分と大胆な言い方ですね」
「大胆にならなければ、七日は待ってくれない」
「時間がないわね。手分けしましょう」
「あなたが回るのは、危険では」
「危険を恐れて動かなければ、七日目に何も残らない」
「それは、わかっています。わかっていて、なお不安なんです」
「不安なら、私の代わりに老獄吏のご遺族を丁寧に頼んでちょうだい。それで十分」
エステルは羽織りを取り、扉へ向かう。振り返らずに続けた。
「私はマダム・オルタンスのところへ行く。あなたは老獄吏の遺族を」
「説得できますか、あの方に」
「説得じゃないわ。事実を見せるだけ」
「事実だけで、動く人でしょうか。あの方は」
「動かない人はいないわ。動けない事情があるだけ」
商人街の路地で、エステルはオルタンスの店先に立った。軒先に吊るされた乾物の匂いが鼻をつく。
相手は帳簿を抱えたまま、顔を背ける。指先が帳簿の背表紙を強く押さえていた。
「私が名を連ねたら、次に狙われるのはうちの店だよ」
「もう狙われています。仲買の帳簿、去年から誰かに覗かれているでしょう」
「……なぜそれを」
「先月の仕入れ値が、三度だけ市価より不自然に高い。誰かが帳面を見て動いた形跡です」
「数字が教えてくれるんです。あなたが黙っている限り、その誰かは動き続ける」
オルタンスの手が、帳簿の端を強く握った。指の関節が白くなるほどだった。
「署名すれば、この覗き見も止まると?」
「止まる保証はありません。でも、記録に残らなければ、永遠に泣き寝入りです」
「泣き寝入り、か」
「他に、道はないのかしら」
「あります。黙り続けて、いつか誰かがまた同じ目に遭う道と、今ここで止める道」
「あなたが黙れば、次の被害者も黙るしかなくなる。それだけは、確かです」
「名を連ねるのは勇気じゃありません。正しい記録を残す仕事です」
「仕事、ね。あんたらしい言い方だ」
長い沈黙の後、オルタンスはペンを取った。羽根の先が震え、それでも紙面へ下りていく。
一方、洗濯屋の裏口では、マリーが古びた木箱を抱えて待っていた。木箱の縁が湿って黒ずんでいる。
「兄の給金台帳、写しを取ってきました。これで足りますか」
「十分よ。ジョエルは?」
「表で、老獄吏さんのご遺族と一緒に」
戸口から少年が駆け込んでくる。息を切らし、頬が紅潮していた。手には折りたたんだ紙束。
「証言書、もらってきました! あと、セシル様からも預かり物が」
「セシルが?」
「借入先の印章の写しです。三日月に小さな鍵の……本物の型を、こっそり写させてもらったって」
「危ない橋を渡らせたわね、私」
「セシル様、そう言ったら笑ってました。危ない橋のほうが近道だからって」
エステルは紙を広げ、目を見開いた。蝋の型が光を受けて、鈍く艶を放つ。
「これがあれば、ロシュ様の帳簿とグレゴワールの写しがつながる」
「つながる、というと?」
「印章の型が一致すれば、借入自体が架空だった証拠になるの」
「架空の借入……つまり、最初から存在しない金を、あるように見せていたと」
「そう。存在しない金に、存在しない利子までつけていた」
机の上に、断片、証言、写しが次々と並べられていく。誰の証拠も単独では弱いが、重ねれば線になった。
「一人分じゃ足りない。みんなの証言が、要るのよ」
「一人ずつなら、風で吹き飛ぶ紙切れ。重なれば、動かない壁になりますね」
「うまいこと言うじゃない、ジョエル」
その夜、事務所の灯りの下でリオネルが一枚ずつ確かめていた。筆跡を照らし、数字を指でなぞる。
蝋燭の芯が時折ぱちりと爆ぜ、灯りが紙面の上で細かく揺れた。
「この老獄吏の証言書、日付の書式が他と違います」
「え……不備?」
「いえ、逆です。当時の書式そのままだから、後から偽造できない証拠になる」
「よかった……胸が冷えたわ、一瞬」
「もう一つ。マリーさんの台帳とセシル様の印章写し、突き合わせると符丁が一致します」
「くろまる、点二つ?」
「ええ。三代にわたる符丁が、ここでも同じ形で出てきた」
「三十年経っても、消えない癖ってことね」
「癖というより、刻印です。手が覚えているものは、誰にも消せない」
「刻印、か。父も、そうやって誰かに見つけてもらうのを待っていたのかしら」
「待っていた、というより残そうとしたんだと思います。読める人が、いつか来ると信じて」
リオネルは最後の一枚を置き、深く息をついた。肩の力がようやく抜けていく。
「不備なし。これで、申立て一式が揃います」
「共同申立人は?」
「オルタンス様の署名で……ちょうど、規定数です」
「ちょうど、ね。一人でも欠けていたら」
「欠けていたら、また七日待つことになっていました」
七日目の午後、二人は書類を抱えて法廷の窓口に立った。窓口の木の台は、擦れて丸く光っていた。
書記官が一枚ずつ数え、印を確かめる。指先が紙をめくるたび、乾いた音が続いた。
「共同申立人、規定数を満たしています。証拠も……揃っていますね」
「不備は、ございませんか」
「筆跡、日付、印章。すべて照合済みと見受けます」
「三十年前の分も、含めてでしょうか」
「含めてです。当時の獄吏の証言まで、揃っております」
書記官はしばらく紙面を見つめ、やがて印箱を開けた。蓋の軋む音が、静かな窓口に響く。
「受理番号、発行します」
紙に朱印が押される。乾いた音が、静かな窓口に響いた。
「初回審理は十日後です」
「十日後……」
エステルの手が、思わずリオネルの手を握った。指先が冷たいまま、それでも強く。
「ここまで、二人で来た」
「ここまで、来ましたね」
リオネルの声が、わずかに震える。握り返す手に、少しずつ力がこもっていった。
「震えているのは、私だけじゃないのね」
「あなたの震えを、真似しているだけです」
窓口を出たところで、息を切らした伝令が駆けてくる。足音が石畳に大きく響いた。
「申し上げます! ロシュ様側が、提出書類の真正性に異議を申し立てる構えだと」
「異議……どの書類を狙うつもりかしら」
「詳しくは、まだ」
「真正性、と来ましたか。次は正面から殴り合う気ですね」
「殴り合うなら、望むところよ。数字は、殴られても壊れない」
「頼もしいですね、その言い草」
「頼もしいのは、あなたが最後まで確かめてくれた数字のほうよ」
エステルはリオネルと顔を見合わせた。受理番号を握りしめたまま、次の一手を考え始める。
「十日、無駄にはできないわね」
「ええ。今度は、こちらから先に手を打ちましょう」
夕暮れの光が、窓口の朱印をわずかに照らしていた。




