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第20話 感情を捨てた男

第20話 感情を捨てた男


初雪が降った。


迷宮都市アルカディアの屋根が白く染まり、石畳の道にも薄く雪が積もっている。


鋼鉄の牙の食堂では暖炉が赤々と燃えていた。


湯気の立つクリームシチュー。


焼きたての丸パン。


蜂蜜を塗った林檎のパイ。


冒険者たちは寒さを忘れるように食事を楽しんでいる。


そんな中。


ヴィクトリアはふと気付いた。


ケイがいない。


「珍しいわね」


いつもなら一番隅の席で書類を読みながら食事をしている。


誰よりも規則正しい男だ。


遅れることはない。


「どこ行ったんだ?」


ガルガがパンをちぎる。


「執務室じゃねぇか」


「そうよね」


だが。


嫌な予感がした。


ヴィクトリアは二階へ向かった。


廊下は静かだった。


窓の外では雪が舞っている。


執務室の扉を開ける。


暖炉の火は消えかけていた。


机の上には大量の資料。


そして。


ケイは椅子に座ったまま眠っていた。


いや。


気絶に近かった。


顔色が悪い。


目の下には濃い隈。


手にはペンを握ったまま。


ヴィクトリアは青ざめた。


「ちょっと!」


肩を揺する。


反応が遅い。


ようやく目を開けた。


「おはようございます」


「夜よ!」


「そうでしたか」


「そうでしたかじゃない!」


額に触れる。


冷たい。


そして。


妙に軽い。


「ちゃんと食べてる?」


「はい」


「何食べたの」


ケイは少し考えた。


「昨日はパンです」


「それだけ?」


「一昨日もパンです」


ヴィクトリアは頭を抱えた。


翌日。


半強制的に休暇を取らせることになった。


もちろん本人は反対した。


「業務があります」


「却下」


「期限があります」


「却下」


「書類が」


「却下」


ヴィクトリアが珍しく強かった。


そして。


暇になったケイは途方に暮れた。


本当に。


心底困っていた。


「何をすればいいのでしょう」


「休むの」


「具体的には」


「散歩とか」


「なるほど」


理解していない。


ヴィクトリアは確信した。


この男は重症だ。


昼過ぎ。


二人は市場を歩いていた。


焼き栗の香り。


果物屋の呼び声。


雪の残る石畳。


子どもたちが走り回っている。


ヴィクトリアは厚手の白いコートを着ていた。


毛糸のマフラーも巻いている。


対してケイは相変わらず黒いコートだけだ。


「寒くないの?」


「普通です」


「嘘でしょ」


屋台で温かいスープを買う。


鶏肉と野菜のスープだ。


湯気が立ち上る。


ケイは一口飲んだ。


そして少し驚いた顔をした。


「温かいですね」


「当たり前よ」


「そうですね」


ヴィクトリアは笑った。


本当に変な人だ。


その時だった。


市場の広場で楽師が演奏を始めた。


優しい音色。


冬の空気の中に笛の音が広がる。


子どもたちが踊る。


恋人たちが笑う。


ヴィクトリアは音楽を聴きながら尋ねた。


「ねえ」


「何でしょう」


「前の世界の話」


ケイの動きが止まった。


初めてだった。


彼が反応したのは。


しばらく沈黙が続く。


雪が降る。


笛の音が遠くで響く。


やがて。


ケイは静かに口を開いた。


「働いていました」


「うん」


「毎日」


短い言葉だった。


だが。


その声は妙に冷たかった。


「朝から夜まで」


「休みは?」


「ありませんでした」


ヴィクトリアは顔をしかめる。


「ずっと?」


「はい」


「何年も?」


「はい」


言葉が出なかった。


ケイは続ける。


まるで他人の話をするように。


「終電で帰りました」


「終電?」


「最後の乗り物です」


「毎日?」


「ほぼ毎日」


広場の音楽が続いている。


だが。


ヴィクトリアには遠く聞こえた。


「辛くなかったの?」


その質問に。


ケイは少し考えた。


そして答える。


「途中から分からなくなりました」


風が吹いた。


白い雪が舞う。


「怒ると疲れます」


「悲しむと疲れます」


「期待すると疲れます」


「なので」


ケイは空を見る。


灰色の冬空。


「やめました」


ヴィクトリアは息を呑んだ。


感情を。


やめた。


その言葉の意味が理解できた。


だからこの人は。


怒らない。


泣かない。


喜ばない。


恋愛にも興味がない。


全部。


生き残るためだった。


「その方が楽だったので」


ケイはそう言った。


だが。


ヴィクトリアにはそう見えなかった。


楽だった人間が。


こんな顔をするはずがない。


その夜。


ギルドへ戻る。


暖炉の火。


シチューの匂い。


仲間たちの笑い声。


温かい場所だった。


昔の鋼鉄の牙にはなかった光景。


ケイは食堂の入口で立ち止まる。


ガルガが手を振った。


「おう!」


セリアも笑う。


「早く来なさいよ」


新人たちも席を空ける。


「ケイさん!」


「こっちです!」


賑やかだった。


騒がしかった。


少し前のケイなら。


面倒だと思ったかもしれない。


だが。


今は違う。


ほんの少しだけ。


胸の奥が温かかった。


その様子を見て。


ヴィクトリアは思う。


この人は強い。


誰よりも強い。


でも。


一人で強すぎた。


だから。


初めて願った。


ギルド長としてではない。


一人の女性として。


「この人を助けたい」


暖炉の火が揺れる。


笑い声が響く。


雪は静かに降り続いていた。


そして気付かぬうちに。


感情を捨てたはずの男の世界にも。


少しずつ春が近づいていた。



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