第六章「視線の先」
山岸が出て行ったあと、事務所には静かな空気が戻っていた。
テーブルの上には、広げられたままの資料。田所はそれを動かすことなく、背もたれに体を預けたまま眺めている。
視線だけが、ゆっくりと一枚一枚をなぞっていた。
「さすがですね。プッペの法則でしたっけ?よくそんなこと知ってましたね」
夏野がコーヒーカップを手に取りながら言う。
田所は目を離さないまま答えた。
「伊達に長年引きこもってたわけじゃない」
「引きこもってた十数年間、ずっとそんなこと調べてたんですか?」
「どんなことでも、疑問が沸くと何でも調べてたよ」
淡々とした口調だった。
夏野は小さく息をつく。
「それで何で高校中退なんですか?」
「学校の勉強は興味をそそらなかったからな。人付き合いも苦手だったし」
「勿体ないですね」
率直な感想だった。
田所はわずかに肩をすくめる。
「記憶力はあまり良くないんで、“覚えるだけ”の学校教育なんてものは苦痛なんだよ」
「そういうものですか」
「そういうもんさ」
短い会話のあと、再び沈黙が落ちる。
その沈黙を破るように、夏野がじっと田所を見た。
「それだけ博学なのに、どうして糖分の摂り過ぎと運動不足と肥満が健康に悪いことを知らないんでしょうね」
少しだけ呆れた口調。
田所はようやく視線を外し、カップを手に取る。
「頭を使うには糖分が必要だし、その分、塩分も多量に摂って中和されてるから大丈夫だよ」
「どこかのゼロカロリー理論みたいな事言わないで下さい」
間髪入れずに返す。
田所は少しだけ笑った。
「彼は高血圧だが、俺は血圧も血糖値も正常だから良いんだよ」
「とにかく!」
夏野が身を乗り出す。
「先生がいなくなったら困るんですから、健康には気を使って下さいね」
その声には、普段よりわずかに強い感情が混じっていた。
田所は一瞬だけ視線を向ける。
「なんで俺がいなくなると困るんだよ?」
軽い調子で続ける。
「夏野君はそれだけ美人な上に東大卒の才女なんだから、就職口なんていくらでもあるし、永久就職だって可能だろ」
「そういう問題じゃないですよ」
即答だった。
夏野の頬が、ほんのわずかに赤くなる。
田所はそれに気付かないまま、少し考えるように視線を宙に向けた。
「そうか……分かったぞ」
「えっ!?」
夏野の顔が一段と赤くなる。
だが次の瞬間。
「この写真の違和感」
「……事件の話ですか」
肩の力が抜けたように呟く。
「何の話だと思ったんだ?」
「いえ、別に」
視線を逸らす。
「それで、何が分かったんですか?」
田所はテーブルの上の一枚の写真を指で押さえた。
「このテーブルの上の写真……」
夏野も覗き込む。
「ワイングラスと料理が並んでますね。それとノートパソコン……」
「そうだ」
田所は写真の左右を指で示す。
「片側は料理がきちんと並んでいる」
指を反対側へ移す。
「だが、もう一方は料理を動かして、その場所にノートパソコンが置かれている」
夏野の眉がわずかに寄る。
「どういうことですか?」
田所は背もたれに体を預け直し、ゆっくりと言う。
「この料理は、被害者が雨宮さんの為に用意したものだ」
一拍置く。
「無理やり押し倒してまで欲した相手の為の料理を、わざわざ押しのけてまでノートパソコンを置いている」
夏野の目が少しだけ見開かれる。
「……優先順位が逆ですね」
「そういうことだ」
田所は静かに頷いた。
「つまり、このノートパソコンには、それより大事なものがある」
夏野は小さく息を吸う。
「殺害の動機になるようなものが……という事ですか?」
「おそらくな」
短く答える。
そして視線を写真から離さずに続けた。
「これを調べてみる必要がある」
その一言で、空気が再び張り詰める。
“解決したはずの事件”は、まだ終わっていなかった。




