第三章「発見」
翌日。
朝の出社時間を過ぎても、関根孝司の姿はなかった。
アーバンプロモーション株式会社の営業企画部フロアでは、最初は誰も大きく気にしていなかった。外回りや直行直帰も珍しくない立場だからだ。
だが、時間が経つにつれ空気が変わっていく。
関根は午後のプレゼンの責任者だった。その資料も、最終確認は彼しかできない。
それにも関わらず、連絡がつかない。
電話も出ない。メッセージも既読にならない。
昼を回った頃には、さすがに異様だという認識が共有された。
「……おかしいな」
本部長の高木裕太郎が腕時計に目を落としながら呟く。
「関根が今日に限って無断で来ないとは考えにくい」
隣に立つ企画課長の岸川義行も頷く。
「プレゼンの準備も万全でしたし……あの人が逃げるようなタイプじゃありません」
短く相談した結果、二人は関根の自宅へ向かうことになった。
午後一時過ぎ。
都内のマンションの一室。関根の部屋の前に立った高木と岸川は、インターホンを押した。
ピンポーン。
反応はない。
もう一度押す。
やはり応答はなかった。
「……寝てるんですかね?」
岸川が不安げに言う。
「この時間にか?」
高木は眉をひそめ、ドアノブに手をかけた。
念のため、軽くひねる。
カチャリ。
拍子抜けするほどあっさりと、ドアは開いた。
二人は顔を見合わせる。
「鍵が……」
「掛かっていないな」
しばしの逡巡の後、高木が声を張る。
「関根!いるのか!」
返事はない。
玄関に踏み込み、靴を脱ぐ間も惜しむように室内へ進む。
「関根!」
廊下を抜け、リビングへ。
その瞬間、二人の動きが止まった。
床とソファの周囲に広がる血の跡。
そして――頭部から血を流し、倒れている関根の姿。
「……っ」
岸川が息を呑む。
高木は数歩近づき、声をかけた。
「関根!……関根!」
反応はない。
身体は微動だにせず、呼吸の気配も感じられない。
高木はすぐに振り返る。
「岸川、警察に連絡しろ」
「分かりました!」
岸川は震える手でスマートフォンを取り出し、通話を開始する。
その間、高木はできるだけ遺体に触れないよう注意しながら、室内を見渡した。
荒らされた形跡はない。
引き出しは閉じられ、家具も整っている。強盗の類とは考えにくい。
だが、床の一角には赤黒い染みが広がり、その近くにワインボトルが転がっていた。
割れてはいない。
ただ、口元と周囲の床には、乾きかけた液体の跡が残っている。
それが血なのか、それとも別のものなのか、この時点では判然としなかった。
二人はそれ以上近づくことなく、その場で警察の到着を待った。
やがて、サイレンの音が近づいてくる。
数分後、パトカーが二台停まり、制服警官と私服警官が慌ただしく現場に入ってきた。
先頭に立っていたのは山岸だった。
「新宿東警察署の山岸です。通報されたのはあなた方ですか」
高木が一歩前に出る。
「はい、そうです。被害者は……うちの社員で、関根孝司です」
「あなた方は?」
「上司の高木です。こちらは部下の岸川です。関根が出社してこないので様子を見に来たところ、鍵が開いていて……呼びかけても応答がないので中に入りました」
山岸は小さく頷きながら周囲に目を走らせる。
「なるほど。いつから出社していなかったんですか?」
「今日です」
「……早いですね」
山岸がわずかに首を傾げる。
「出勤しなくなって何日か経っているなら分かりますが、当日で様子を見に来るのは」
高木はすぐに答える。
「今日は午後から社運を賭けた大事なプレゼンがあるんです。関根はその責任者でした。今日に限って無断欠勤するとは考えられません」
「それほど重要なプレゼンなら、プレッシャーに耐えられなくなったという可能性もありますが」
「いえ」
高木は首を横に振る。
「私も資料は確認しましたが出来は良かったですし、本人も自信満々でした」
「……なるほど」
山岸は短く頷く。
「それで今日来ないのはおかしいと判断したわけですね」
「はい」
山岸は再び現場へ視線を戻した。
倒れている関根、周囲の血痕、そして床に転がるボトル。
「外傷や状況から見て他殺の可能性が高いと思われます。被害者を恨んでいるような人物に心当たりは?」
「他人に厳しい男でしたので、同僚や部下からは恨まれていたかもしれませんが……殺すほどとは」
「分かりました」
山岸は淡々と応じる。
「後ほど会社の方で社員全員に話を伺います。それまで誰も社外に出さないようにして下さい」
高木が一瞬言い淀む。
「しかし、先ほど申し上げた通り、社運を賭けた重要なプレゼンが……先方の会議室で予定されているんですが」
「参加者は?」
「関根の代わりに私が行きます。他にクリエイティブディレクターの小林と、アカウントプランナーの雨宮の二名です」
「何時からですか?」
「十五時です」
山岸は腕時計を確認し、わずかに考える。
「分かりました。その二名にはプレゼンに間に合うよう、先に話を伺いましょう」
「助かります」
高木が深く頷く。
現場では既に鑑識の作業が始まっていた。
だがこの時点で、まだ誰も気付いていなかった。
この事件が“解決済み”として処理されるには、決定的に何かが足りていないということに。




