第二章「呼び出し」
五日前の夜、十九時を少し回った頃だった。
アーバンプロモーション株式会社、営業企画部長の関根孝司は、自宅のリビングでスマートフォンを耳に当てていた。テーブルの上にはワインボトルとつまみが並べられている。
「美紀ちゃん、明日のプレゼン資料の件で話があるんだ。修正してほしい箇所もある。悪いんだが、今から俺の家に来てくれないか。このままじゃ明日のプレゼンは失敗に終わる。そうなれば君のクビくらいじゃ責任を負えないほどの重大な事態になる」
電話口の向こうで、わずかな沈黙があった。
「……分かりました。1時間ほどで伺います」
短く応じる声。
通話が切れると、関根はテーブルの上のワインボトルに手を伸ばし、コルクを抜いた。乾いた音が小さく響く。グラスを手に取り、ボトルを傾けるが、結局注がずにそのままテーブルへ戻した。
口元には、どこか含みのある笑みが浮かんでいた。
やがて二十時頃、玄関のチャイムが鳴る。
ピンポーン。
「どうぞ、開いてるよ」
関根はソファに腰掛けたまま声をかける。
「失礼します」
雨宮美紀がリビングに入ると、すぐにテーブルの上の光景に目を向けた。開けられたワインボトルとグラス、並べられたつまみ。
「すみません、どなたかいらっしゃる予定なんですか?」
警戒を含んだ声だった。
「これは君の為に用意したんだよ」
「いえ、私は仕事の話をしに来ただけですので……」
距離を取るように立つ雨宮に、関根は構わずボトルを手に取る。
「まあ、そう言わずに、先ずは一杯やろうじゃないか」
ボトルの口がグラスに向けられる。
「いえ、結構です!仕事の話じゃないのなら帰ります!」
雨宮は強い口調で言い、踵を返そうとした。
その瞬間、関根が立ち上がり、腕を掴む。
「きゃっ!止めてください!」
引き寄せられ、ソファに押し倒される。
「いいじゃないか、処女じゃあるまいし」
「止めてください!警察呼びますよ!」
「一人暮らしの男の部屋に入った時点で同意したとみなされるんだよ!」
「そんな……!」
もみ合う中で、関根の手から離れたワインボトルがテーブルの上で傾き、そのまま横倒しになる。ボトルの口から赤い液体が勢いよく流れ出し、テーブルを伝って床へと滴り落ちた。
やがてボトルはテーブルの端から滑り落ち、床に転がる。
中身はほとんどそのままこぼれ落ち、床に広がっていく。
関根はそんなことには構わず、荒い息を吐きながら雨宮のスカートをまくり上げる。
「嫌っ!止めて!」
必死に抵抗するが、力で押さえ込まれる。
関根の手が下着にかかる。
そのとき、雨宮の手が、床に転がったボトルに触れた。
逆さに近い状態でソファの脚に当たって止まっていたそれは、軽く、すぐに持ち上がる。
考える余裕はなかった。
雨宮はそれを掴み、そのまま振り上げて、関根の側頭部へ叩きつけた。
鈍い音が響く。
関根の身体が一瞬強張り、そのまま崩れるように動きを止めた。
雨宮は荒い呼吸のまま、その場に固まる。
関根の頭部から血が流れ、ソファへと染みていくのが目に入る。
「……っ」
震える手でその身体を押しのけると、よろめきながら立ち上がる。
下着を引き上げ、スカートの裾を整える。その動作はぎこちなく、焦りが滲んでいた。
そして、振り返ることなく部屋を飛び出す。
廊下を駆け抜け、玄関を開け、外へ。
どれだけ走ったのか分からない。
気が付けば、自分の部屋にいた。
鍵を閉めた記憶も曖昧なまま、その場に崩れ落ちる。
全身が震えていた。
涙が止まらない。
ただひとつ確かなのは――あのとき、自分の貞操を守ることしか考えていなかったということだった。




