第一章「解決済みの事件」
午後の光がブラインドの隙間から細く差し込み、室内に淡い縞模様を作っていた。新宿三丁目の喧騒は遠く、田所探偵事務所の中だけが時間の流れを緩めている。
田所は椅子に深く腰掛け、片手に持ったマグカップをゆっくりと傾けた。中のコーヒーは、いつものように砂糖とミルクで濃く甘く仕上がっている。
夏野は自分のデスクでキーボードを叩いていたが、不意にその手を止めた。
ドアがノックされたからだ。
「入っていいか」
聞き慣れた声だった。
「どうぞ」
夏野が応じると、ドアが開き、山岸が姿を見せる。ネクタイをわずかに緩めたその様子は、いかにも外回りの帰りといった風情だった。
「近くに寄ったんでコーヒーでも飲みにと思ってな」
そう言いながら、遠慮なく応接のソファに腰を下ろす。
「ウチは喫茶店じゃないぞ」
田所は視線も上げずに言った。
「まあ、そう言うな」
山岸は軽く手を振る。
夏野は小さく息をつきながらも立ち上がり、給湯室へ向かった。数分後、湯気の立つカップを三つトレイに乗せて戻ってくる。
「どうぞ」
「助かる」
山岸はカップを受け取り、一口飲みながら田所の様子を見る。
三本目のスティックシュガーを入れるところだ。
「……相変わらず砂糖入れ過ぎだな」
「頭を使うには糖分が必要なんだ」
田所は淡々と答える。
「お前のは使いすぎだ」
軽口が交わされ、短い静寂が戻る。
そのとき、田所の視線が山岸の手元に止まった。ソファの横に置かれている封筒。厚みのある書類が収められているのが分かる。
「その書類は何だ?」
山岸は一瞬だけ目をやり、あっさりと答えた。
「今、地検に書類出してきてな。これはその控えだ」
「ちょっと見せてくれ」
「もう解決した事件だし、大した事件じゃない」
山岸はそう言って肩をすくめる。
だが田所は引かない。
「ここのところ暇でな。夏野君としり取りでもしようかと思ってたところなんだ」
「しませんよ。そんなの」
間髪入れずに夏野が返す。
山岸が吹き出した。
「退屈しのぎに見るようなもんじゃない」
「そう言わずに、ちょっとだけ」
田所はカップを置き、初めて山岸の方を見た。その目には、いつもの静かな興味が宿っている。
山岸はしばらく迷うように封筒を指で叩いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……まぁ、普段世話になってるからな。ちょっとだけだぞ」
封筒を開け、中から写真と書類を取り出してテーブルに広げる。
室内の空気が、わずかに引き締まった。
田所は無言で資料に目を落とす。
写真。現場の室内。倒れた椅子。床に広がる血痕。そしてワインボトル。
書類。被害者の情報。供述調書。鑑識の報告。
田所の視線は、ゆっくりと、だが確実にすべてをなぞっていく。
ページをめくる音だけが、静かに響いた。
やがて、最後の一枚に目を通し終えると、田所は資料から顔を上げる。
「これじゃ、不起訴か無罪だな」
あまりにもあっさりとした一言だった。
山岸が身を乗り出す。
「どういうことだ!?」
その声には明らかな苛立ちが混じっていた。
「動機も凶器も自白もある。悪い冗談はやめろ」
田所は首を横に振る。
「冗談なんかじゃないさ」
静かな口調だったが、揺らぎはない。
山岸の眉間に皺が寄る。
「ちゃんと説明しろ」
「ああ、分かった」
田所は一度カップに手を伸ばし、残りのコーヒーを口に含んだ。甘い液体を喉に流し込んでから、ゆっくりと続ける。
「だが先に事件のあらましを説明してくれ」
山岸は不満げに鼻を鳴らす。
「いいだろう」
そう言って背もたれに体を預け、話し始める体勢を整えた。
夏野も自然と身を乗り出す。
“解決済み”とされた事件が、今まさに、別の形で動き始めていた。




