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第82話 薬売りの夜市

 薬売りの夜市は、火の少ない場所で開かれる。


 明るすぎると、薬の色が見えすぎる。


 暗すぎると、銭の数をごまかされる。


 だから、火は少しだけ。


 顔が見えるか見えないか。


 薬包の紐が赤か黒か分かるか分からないか。


 そのくらいの明るさで、人は妙に大胆になる。


 清洲外れの細い道。


 昼間なら、ただの空き地にしか見えない場所に、夜になると薬箱が集まる。


 薬草の匂い。


 乾いた根の匂い。


 古い布の匂い。


 油紙の匂い。


 そして、少し甘い眠り草の匂い。


 つね婆は、そこへ堂々と入った。


 杖をつき、背中を丸め、けれど目だけはまったく丸まっていない。


 玄斎は薬箱を背負って、その半歩後ろを歩く。


 仁助の者が二人、姿を変えてついている。


 一人は薬を買いに来た百姓。


 もう一人は、荷を運ぶ下働き。


 俺と信勝は行っていない。


 行けば夜市が夜市でなくなる。


 だから、俺たちは那古野で報せを待った。


 待つのは嫌いだ。


 最近、そればかり言っている気がする。


「兄上」


 信勝が火鉢の前で言った。


「今日は顔に出ています」


「まだ何も言っていない」


「言わなくても出ています」


「便利な顔だな」


「不便な顔です」


 帰蝶が静かに茶を置いた。


「今夜は、つねさんと玄斎殿を信じるしかありません」


「ああ」


「信じるというより、役を信じるのですね」


 帰蝶らしい言い方だった。


 つねは薬草を見る役。


 玄斎は薬売りの道を見る役。


 仁助の者は足と荷を見る役。


 それぞれの役を置いた。


 なら、ここで俺が焦っても仕方がない。


 仕方がないのだが、仕方がないから落ち着くわけでもない。


 薬売りの夜市で、最初につねと玄斎へ声をかけたのは、痩せた薬売りだった。


 名を市助という。


 玄斎の昔の顔見知りらしい。


「おや、玄斎殿」


 市助は薄く笑った。


「近頃は尾張の若君様のお抱え薬売りになったとか」


「お抱えではない」


 玄斎は答えた。


「見張られ役だ」


「それはまた、出世なのか落ちたのか分からんな」


「私にも分からん」


 市助はつねを見た。


「そちらの婆様は?」


「婆で悪かったね」


 つねが即座に返した。


「薬を見る目は、あんたの目より若いよ」


 市助の笑みが少し固まった。


 玄斎が小声で言った。


「この方の前で、薬を誤魔化さない方がいい」


「誤魔化すとは人聞きの悪い」


「誤魔化している薬売りほど、そう言う」


 つねは市助の薬箱を覗いた。


「その咳止め、古いね」


「古くはありません」


「じゃあ、干しすぎだ。香りが飛んでる。なのに匂いの強い草を混ぜている」


 市助は黙った。


 夜市の周囲で、何人かがこちらを見た。


 つね婆は、夜市に入ってすぐ喧嘩を売っている。


 いや、喧嘩ではない。


 薬を見ているだけだ。


 ただし、見方が喧嘩に近い。


「婆様」


 玄斎が小声で言った。


「初手から刺しすぎです」


「刺さる薬を置いている方が悪い」


「薬売りが逃げます」


「逃げるなら、足を見ればいい」


 つねは本気でそう思っている顔だった。


 仁助の者が、少し離れて笑いをこらえたという。


 夜市の奥には、小さな灯が三つ並んでいた。


 そこでは、表の市では売りにくい薬が置かれている。


 眠り草。


 強い痛み止め。


 腹を下す草。


 煙を強くする草。


 古い薬を新しく見せる香草。


 それらが、薬包にされ、油紙に包まれ、小瓶へ入れられていた。


 見立て場で見たものと同じ匂いが、そこにあった。


 玄斎の表情が変わる。


「ここです」


「弥五郎かい」


「弥五郎本人は、たぶん奥には出ません。出るなら、源内か、その下」


 つねは杖を鳴らした。


「じゃあ、源内を探すよ」


「探すというより、向こうからこちらを見ています」


 玄斎が言った。


 その視線の先に、男が一人いた。


 年は四十に近い。


 顔は丸いが、目は笑っていない。


 薬箱は小ぶり。


 だが、革の留め具が良い。


 夜市の中で、少しだけ周囲が道を空けるような男だった。


「源内です」


 玄斎が低く言った。


「弥五郎の箱を預かる者。薬を作る腕はあります。だから厄介です」


「腕があるなら、まともに使えばいいものを」


「腕がある者ほど、悪く使うと値が上がります」


「嫌な世だね」


「はい」


 つねは、源内の前へ歩いて行った。


 玄斎が慌てて追う。


「源内殿」


 玄斎が声をかける。


 源内はゆっくり振り向いた。


「玄斎か。尾張の犬になったと聞いたが、夜市へはまだ鼻が利くようだ」


「犬なら、悪い薬の匂いにも吠えます」


「ずいぶん綺麗になった口だ」


「洗われましたので」


 源内は、そこで初めてつねを見た。


「こちらは?」


「薬を見る婆だよ」


 つねが自分で言った。


「名はつね。あんたの薬箱を見に来た」


 源内が笑った。


「夜市で、いきなり箱を見せろとは」


「見られて困る箱なのかい」


「商いの種を、そう簡単には見せられません」


「種が腐っているかもしれないから見たいんだよ」


 つねは容赦がない。


 源内の横にいた若い薬売りが、思わず吹き出しかけて、慌てて口を閉じた。


 源内の目が冷える。


「玄斎。年寄りを盾にして、弥五郎様の道を邪魔する気か」


 出た。


 弥五郎様。


 玄斎は小さく息を吐いた。


「弥五郎殿の薬箱へ、悪い薬を混ぜる者がいると聞きました」


「弥五郎様の箱に、悪い薬などない」


「では、見せられるはずです」


「尾張の見立て場では、そういう理屈が流行っているらしいな」


 源内は笑った。


「何を守る薬か。誰のための薬か。名は最後でいい。ずいぶん耳触りのよい言葉だ」


「耳触りだけなら、ここまで薬売りは騒ぎません」


 玄斎は返した。


「効いたのでしょう」


 源内の笑みが消えた。


 つねが、源内の前に置かれた薬包を一つ指した。


「これは何を守る薬だい」


「眠れぬ者を眠らせる薬です」


「どれくらい眠らせる」


「使い方次第で」


「薬売りがその言い方をする時は、たいてい危ない」


 つねは薬包を手に取ろうとした。


 源内が止める。


「買わぬ薬に触るな」


「買えば触っていいのかい」


「銭があるなら」


 つねは、懐から銭を出した。


 玄斎が少し驚く。


「婆様、持っていたのですか」


「薬を見るのに銭を持たずに来る馬鹿がいるかい」


「私が馬鹿のように聞こえます」


「聞こえたなら、耳がよい」


 つねは銭を置き、薬包を取った。


 匂いを嗅ぐ。


 指先で粉をほんの少し潰す。


 舌へはつけない。


 さすがに強い薬だと分かっているのだろう。


「これは眠り薬じゃないね」


 源内の目が動く。


「眠り薬です」


「眠らせるだけなら、こんなに腹を下す草はいらない。これは眠らせた後、具合を悪く見せる薬だ」


 周囲の薬売りたちがざわついた。


 眠らせる。


 腹を下させる。


 具合を悪く見せる。


 見立て場で仕掛けられようとしていた手と同じだ。


 玄斎が、周囲へ聞こえるように言った。


「この薬が誰かの箱へ入れば、その箱の主が悪い薬を出したことになる」


 源内が低く言う。


「玄斎。自分が清くなったつもりか」


「なっていません」


 玄斎は即答した。


「だから分かる。これは、昔の私より悪い」


 源内は黙った。


 夜市の空気が少し変わる。


 薬売りたちは、玄斎を好きではない。


 つねを歓迎しているわけでもない。


 だが、薬をすり替えられ、自分の箱に入れられるのは困る。


 誰にとっても他人事ではない。


「弥五郎様は関係ない」


 源内は言った。


「では、誰が作った」


 玄斎が聞く。


「私だ」


「誰に売る」


「客に」


「どんな客だ」


「眠れぬ客だ」


「腹を下す草は?」


「体質による」


「嘘だ」


 玄斎が言い切った。


 源内の顔が変わる。


「お前に嘘と言われる筋合いは」


「ある」


 玄斎は一歩前へ出た。


「私は、薄い薬を高く売った。眠れる粉で楽になった気にさせた。薬代で人を縛った。だから、この薬が何をするものか分かる。これは治す薬じゃない。噂を作る薬だ」


 噂を作る薬。


 その言葉が、夜市に落ちた。


 ざわめきが広がる。


 つねが頷いた。


「よい言葉だね。腹立たしいが、よい」


「婆様、褒め方が」


「薬売りにしては上出来だ」


 源内は、もう笑っていなかった。


「玄斎。お前、戻れなくなるぞ」


「どこへ」


「薬売りの道へだ」


「戻る気なら、今ここに来ていません」


 玄斎の声は震えていなかった。


 この男も、夜市へ戻ってきて、自分の昔と向き合っているのかもしれない。


 那古野で報せを聞いていた俺は、その言葉を後で知った。


 噂を作る薬。


 見事な言い方だった。


 悔しいが、使える。


 いや、もう使われた。


 夜市では、源内が薬を片づけようとした。


 その時、仁助の者が動いた。


 百姓姿のまま、薬包を一つ落とさせる。


 偶然を装って拾い、つねへ渡す。


 中には、黒紐で結ばれた小さな包み。


 そこに、細い布紐が入っていた。


 偽封用の布紐だ。


 赤糸が混ざっている。


 だが、志乃やおまきの結びとは違う。


 つねがそれを掲げた。


「源内。これは薬かい?」


 源内の顔が青くなった。


「知らぬ」


「薬箱に封を似せる布が、薬包に入っていた。知らぬで通るかね」


 周囲の薬売りたちが一歩引いた。


 自分たちの薬箱を汚されるかもしれない道具が、夜市で売られていた。


 これは効く。


 玄斎が低く言った。


「弥五郎殿は、薬売りの箱を守る気があるのか。それとも、薬売りの箱を汚す気なのか」


「弥五郎様の名を出すな」


「では、弥五郎殿へ伝えろ。源内が、薬売りの箱を汚す薬と偽封を売っていた、と」


 源内は逃げようとした。


 だが、夜市は狭い。


 仁助の者が、すでに出口を見ていた。


 つねが杖を鳴らす。


「逃げる薬売りは、逃げる薬を持っている」


 さっきの言葉を本当に使った。


 源内は逃げ切れなかった。


 ただし、その場で縄を大きく見せることはしなかった。


 仁助の者が、薬箱ごと源内を静かに連れ出す。


 夜市はざわついていたが、騒ぎにはならなかった。


 玄斎は最後に周囲へ言った。


「薬箱に封をしろ。自分の箱を守れ。見られて困る薬を入れるな。弥五郎の名でも、源内の名でも、箱を汚されるな」


 市助がぼそりと言った。


「偉くなったな、玄斎」


「偉くはない」


「では、何だ」


「やり直し中だ」


 玄斎はそう答えたらしい。


 似合わない。


 だが、悪くない。


 那古野へ報せが来たのは、夜半だった。


 つねと玄斎は戻っていない。


 源内を連れて、見立て場の近くに一度置いているという。


 薬箱をそのまま那古野へ運ぶと、道中で襲われる可能性があるからだ。


 仁助の者は慎重だった。


「源内は捕らえたか」


 俺が聞くと、報せの者は頷いた。


「はい。薬箱、偽封、腹下し草、眠り草、煙草、すべて押さえました」


「弥五郎は」


「源内はまだ口を割っていません。ただ、夜市で弥五郎の名はかなり揺れました」


「薬売りたちは?」


「自分の箱を見始めています」


 よい。


 これが一番大事だ。


 源内一人を捕らえるより、薬売りたちが自分の箱を守り始めたことが大きい。


 弥五郎の名は、薬売りの道で使いにくくなる。


「玄斎は」


「無事です。つね婆様に何度か叩かれていましたが」


「それは無事だ」


 信勝が少し笑った。


「玄斎殿は、戻ってきましたね」


「薬売りの道へか?」


「いえ。自分が逃げていた場所へ」


 信勝は、時々こういうことを言う。


 玄斎は夜市へ戻った。


 昔の自分がいた穴へ。


 そこで、昔の自分に似た者たちの前で、自分の箱を守れと言った。


 それは、たぶん大きい。


 帰蝶が静かに言った。


「弥五郎は次に、源内を切るでしょう」


「ああ」


「源内を守る必要がありますね」


「増えるな、守る者が」


「増えます」


 吉次。


 小僧。


 庄八。


 嘉助。


 源内。


 罪ある者、使われた者、使った者。


 全員を同じには扱えない。


 だが、すぐ消されれば道が切れる。


 守る必要がある。


 面倒だ。


 本当に面倒だ。


「犬千代を増やすか」


 俺が言うと、信勝が首を傾げた。


「犬千代殿を増やすのは、少し大変では」


「冗談だ」


「でも、守る役を増やす必要はあります」


「そうだな」


 守る役。


 止まれる武者。


 見立て場で生まれた役が、今度は薬売りの夜市にも必要になっている。


 夜が明ける頃、つねと玄斎が戻った。


 つねは疲れていたが、目は鋭いままだった。


 玄斎は、もっと疲れていた。


 薬箱を下ろすと、深く息を吐く。


「若君様」


「無事か」


「婆様の杖よりは」


「叩かれたのか」


「三度ほど」


 つねが横で言った。


「二度だよ」


「三度です」


「一度は薬箱に当てた」


「私の手にも当たりました」


「細かい男だね」


 この二人は、どうも噛み合ってきている。


 よいのか悪いのか。


「源内は」


 俺が聞くと、玄斎の顔が締まった。


「見立て場の奥に置いています。まだ弥五郎を庇っています」


「庇う理由は」


「恐れです。弥五郎に切られるより、弥五郎を売った後に笠井の道から消される方を恐れている」


「笠井まで見えているのか」


「薬売りの中では、名だけは」


 つねが言った。


「薬売りは、どこの誰が薬を買うか知っている。戦の前に傷薬を買う者、夜に眠り草を買う者、噂を作る薬を買う者。名は知らなくても、道は知っている」


「源内をどう口にさせる」


 玄斎は少し考えた。


「薬売りの前で、源内の薬を見せます」


「また表へ出すのか」


「はい。源内だけを締めても、弥五郎は切ります。ですが、薬売りたちの前で『この薬は箱を汚す薬だ』と示せば、弥五郎の名が薬売りの道でさらに落ちます」


「源内は?」


「逃げ道を失います」


 信勝が言った。


「逃げ道を失った人は、話すか、暴れるか、黙って壊れるかです」


「そうだな」


「壊さないように、話す道を置く必要があります」


 玄斎が信勝を見た。


「信勝様は、本当に柔らかく怖いことをおっしゃる」


「そうでしょうか」


「はい」


 俺もそう思う。


 信勝は、優しさと実務が混ざってきた。


 だから、時々怖い。


「では、次は源内の取引だ」


 俺は言った。


「源内を使って、弥五郎の薬箱へ届く道を作る」


 玄斎が頷いた。


「弥五郎は、薬を捨てるかもしれません」


「なぜ」


「自分の箱を守るより、証拠を消す方を選ぶ男です」


 つねが低く言った。


「薬を捨てる薬売りは、薬売りじゃないね」


「まったくだ」


 次の火種は、水ではなく、捨てられる薬か。


 薬を川へ捨てれば、水がまた疑われる。


 井戸の次は川。


 笠井の手は、やはり水と薬を絡めてくる。


 夜が明ける。


 外が白くなる。


 薬売りの夜市は終わった。


 だが、弥五郎の薬箱はまだ奥にある。


 その箱を見つけるまで、終わらない。

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