第83話 弥五郎を呼べ
弥五郎を呼ぶ文は、詮議の文ではなく、商いの文にした。
――五の印ある薬箱より、眠り草と煙草が出た。
――弥五郎の箱の名を守るため、本物と偽物の見分けを示されたし。
――薬売り、箱職人、熱田の小荷筋が困っている。
――これは咎めではなく、箱の名を守るための問いである。
強く責めれば、弥五郎は逃げる。
弱く問えば、笑って流される。
なら、名を守るために来い、とした。
箱職人にとって、自分の箱の名が傷つくのは痛い。
薬売りにとって、箱の名が疑われるのも痛い。
商人にとって、箱の戻り先が曖昧になるのはさらに痛い。
弥五郎本人が悪いのか。
弟子筋が勝手にやったのか。
弥五郎の名を騙る者がいるのか。
それを見分けるには、本人の口が要る。
本人が来なければ、弥五郎の箱の名はもっと揺れる。
来れば、顔と言葉が見える。
どちらでもよい。
いや、本当は来てほしい。
だが、そう思っている顔を見せるわけにはいかなかった。
「若様」
長秀が文面を見て言った。
「これなら、弥五郎は断りにくいでしょう」
「断る道はあるか」
「あります。病、遠方、弟子を寄越す、箱は自分のものではないと文だけ返す」
「全部ありそうだな」
「はい」
信勝が文を横から見ていた。
「でも、どの返しでも、弥五郎殿が何を守りたいか見えますね」
「どういうことだ」
「本人が来れば、箱の名を守りたい。弟子を寄越せば、自分の身を守りたい。文だけなら、責を遠くへ置きたい。逃げれば、名より身が大事」
帰蝶が小さく頷いた。
「よい見方ですね」
信勝は少し照れたように目を伏せた。
俺は少し面白くない。
いや、面白くないわけではない。
頼もしい。
たぶん。
「その言葉も使う」
俺が言うと、信勝は苦笑した。
「兄上、最近すぐ使いますね」
「便利だからな」
「便利な言葉は偽られますよ」
「玄斎みたいなことを言うな」
その玄斎は、横で薬箱を抱えていた。
「私は悪い見本として便利に使われておりますな」
「便利だ」
「せめて少しは遠慮を」
「では、少しだけ感謝する」
「雑です」
つね婆が笑った。
「雑に扱われているうちが花だよ。あんた、前なら薬箱ごと取り上げられてたんだから」
「婆様の言葉は、いつも薬より効きます」
「苦いだろう」
「たいへん苦い」
こうして、文は三つの道へ出された。
薬売り筋。
箱職人筋。
熱田の小荷筋。
弥五郎がどの道から返すかを見るためだった。
返りは、思ったより早かった。
昼を過ぎる頃、熱田の宗次から使いが来た。
「弥五郎本人は、来ませぬ」
使いは、少し息を乱しながら言った。
「代わりに、弟子の佐太郎という者を寄越すと」
「弟子か」
長秀がすぐ書く。
「佐太郎は何者だ」
「弥五郎の箱場で、仕切りと蓋を作る者だそうです。箱そのものを見る目はあると」
「弥五郎本人ではない」
「はい」
信勝が静かに言った。
「自分の身を守りたい、ですね」
「ああ」
弥五郎は、箱の名を守りたい。
だが、自分の顔は出したくない。
弟子を出すことで、責を少し下へ置く。
予想通りといえば、予想通りだった。
「断るか」
柴田が言った。
「本人を呼び直すべきでは」
「いや、受ける」
俺は言った。
「弟子にも、見えるものがある」
「佐太郎が切られ役かもしれませぬ」
「だから見る」
帰蝶が言った。
「佐太郎殿は、弥五郎に守られているのか、それとも差し出されているのか。そこも大事ですね」
そうだ。
弥五郎が佐太郎を守るために出したのか。
佐太郎へ責をかぶせるために出したのか。
それは、会えば分かるかもしれない。
会わなければ分からない。
翌朝、佐太郎は見立て場へ来た。
那古野ではなく、見立て場を指定した。
理由は簡単だ。
薬箱が実際に使われる場所で話をしたかったからだ。
箱は座敷で見るものではない。
薬を求める者、咳をする者、傷を洗う者、粥を炊く者がいる場所で見るべきだった。
佐太郎は、二十代半ばほどの男だった。
職人らしく手は荒れている。
目は落ち着いているが、落ち着きすぎている。
緊張を隠しているのか、初めから感情の出にくい男なのか。
背には小さな箱を二つ背負っていた。
見立て場へ入る時、彼はまず井戸を見た。
次に薬箱を見る。
つね婆。
玄斎。
弥平。
最後に俺と信勝を見た。
順番が悪くない。
つまり、この男はただの使いではない。
見る目はある。
「弥五郎が弟子、佐太郎にございます」
佐太郎は頭を下げた。
「師は、足を痛めておりまして、代わりに私が参りました」
「足を痛めたか」
「はい」
「いつからだ」
「昨夜から」
俺が言うと、佐太郎の眉がわずかに動いた。
「便利な足だな」
玄斎がぼそりと言った。
佐太郎は玄斎を見た。
「玄斎殿でございますな」
「悪名の方で覚えられているなら、たぶん私です」
「薬箱へ粉を投げられたと聞きました」
「封のおかげで中には入りませんでした」
「それは、よろしゅうございました」
佐太郎の声は丁寧だった。
しかし、どこか距離がある。
まるで、自分は箱を作るだけで、中身には関わらないと言いたげだった。
信勝もそれを感じたのか、すぐ口を開いた。
「佐太郎殿。箱を作る者は、中身に責を持たないのですか」
いきなり核心を突いた。
佐太郎は、少しだけ驚いた顔をした。
「箱は、使う者次第にございます」
「それは分かります。ですが、悪く使いやすい箱を作れば、その箱は悪い道へ行きやすくなります」
「刃物も同じでございます。包丁は飯を作り、人も傷つける。作る者がすべての使い方に責を負うことはできませぬ」
「では、隠し底は?」
信勝が静かに問う。
佐太郎は黙った。
いい沈黙だった。
弁の立つ者は、すぐ逃げる。
佐太郎は逃げなかった。
少なくとも、考えた。
「隠し底にも、使い道はございます」
「たとえば」
「湿気を避けたい薬を底から浮かせる。小さな匙や紙を入れる。薬の値札を分ける」
「眠り草を隠すためにも使える」
「はい」
「それを知っていましたか」
「知っています」
佐太郎は答えた。
正直だった。
場が少し静まる。
「知っていて作った」
「はい。ただし、悪い粉を隠せと命じられて作ったわけではございません」
「誰に命じられた」
俺が聞いた。
佐太郎は少し目を伏せた。
「師、弥五郎に」
「弥五郎は、何と言った」
「旅の薬売りが使いやすい箱を作れ、と。軽く、仕切りが多く、薬が多く見え、湿気を避けられ、急ぎの時に紙や匙をしまえる箱を」
玄斎が低く言った。
「薬が多く見える、か」
佐太郎は玄斎を見た。
「薬売り殿は、それをお嫌いですか」
「昔は好みました」
玄斎は自嘲気味に言った。
「今は、嫌いになりたいところです」
つねが横から言う。
「なりたいじゃなく、なりな」
「はい」
佐太郎は、そのやり取りを少し意外そうに見ていた。
怪しい薬売りと、薬草婆が並んで薬箱を見ている。
普通の詮議ではない。
そこに戸惑っているのだろう。
「佐太郎」
俺は、例の五の印の箱を出させた。
「これは弥五郎の箱か」
佐太郎は箱を手に取り、蓋を開け、底を見た。
角を撫でる。
仕切りを外す。
五の印を見る。
そして、はっきりと言った。
「師の箱ではありません」
場が揺れた。
予想通りの答えではある。
だが、即答ではない。
見てから言った。
「理由は」
弥平が聞いた。
佐太郎は、初めて弥平を正面から見た。
「あなたが、弥平殿ですか」
「はい」
「偽札を作った」
空気が、少し冷えた。
来た。
帰蝶の予想通りだ。
弥平の過去を突く。
弥平の顔がこわばる。
犬千代が半歩出かける。
信勝が目だけで止めた。
犬千代は止まった。
佐太郎は続ける。
「偽を作った目で、師の箱を見るのですか」
弥平は、しばらく黙った。
拳が震えている。
だが、逃げなかった。
「はい」
弥平は答えた。
「偽を作った目で見ます。偽を作ったから、どこを真似るかも、どこを雑にするかも少し分かります」
佐太郎の目が細くなる。
「それを誇るのですか」
「誇りません」
弥平の声は震えていた。
それでも、言葉は途切れなかった。
「恥です。今でも恥です。ですが、その恥を隠して目を伏せれば、また誰かが偽を作ります。だから見ます」
場が静かになった。
信勝が、ゆっくり頷いた。
帰蝶が小さく息を吐いた。
俺は、弥平から目を離さなかった。
よく言った。
本当に、よく言った。
佐太郎も、すぐには返せなかった。
やがて、少し低い声で言った。
「……失礼しました」
弥平は首を横に振った。
「いいえ。言われるべきことです」
「いや」
佐太郎は箱を見た。
「職人にとって、作ったものが悪く使われるのは怖い。あなたは、その怖さを私より先に知っているのですね」
佐太郎の声が少し変わった。
今までより、人間の声になった。
「では、理由を言います。この箱は、師の箱をよく真似ています。底板は薄い。角は厚い。仕切りも細かい。五の印もあります。ですが、蓋の噛み合わせが違う」
弥平が箱を受け取り、蓋を閉じる。
「少し鳴りますね」
「はい。師の箱は、蓋を閉じる時に鳴らないよう削ります。旅の薬売りは夜にも箱を開ける。音がすると困るので」
玄斎が頷いた。
「確かに。夜の薬売りは音を嫌います」
「この箱は、形だけを真似ている。音を消す手間を省いている」
佐太郎は底を指した。
「五の印も浅い。師の焼きではありません。弟子筋か、外の者が真似たものです」
「なら、弥五郎は無関係か」
俺が問うと、佐太郎は口を閉じた。
完全には答えない。
「佐太郎」
「はい」
「箱は弥五郎本人の作りではない。そこまでは分かった。だが、弥五郎の作りを知らなければ、ここまで真似られない」
「……はい」
「誰が真似た」
「それは」
「名は最後でいい」
信勝が言った。
「まず、どの筋の箱かを教えてください」
佐太郎は信勝を見た。
また少し迷い、やがて答えた。
「弥五郎の箱場から、一度離れた者の作りです」
「弟子か」
「弟子というほどではありません。下職です。名は……」
佐太郎はそこで止まった。
弥五郎の弟子筋の名を出すことは、自分の箱場の内を晒すことになる。
それが怖いのだろう。
俺は急かさなかった。
信勝も待った。
つね婆だけが、ぼそりと言った。
「薬なら、ここで黙ると腐るよ」
佐太郎が少し笑った。
緊張が、ほんの少し緩む。
「名は、吾平」
佐太郎は言った。
「弥五郎の箱場にいた男です。腕はあるが、手間を嫌う。箱を安く早く作ることばかり考える」
「吾平は今どこだ」
「清洲外れの市に出入りしています」
「昨日の箱か」
「おそらく」
線がつながった。
弥五郎本人ではなく、弥五郎の箱場を出た下職・吾平。
吾平が弥五郎の箱を真似、五の印を入れ、隠し底を作る。
そこへ弥五郎が関わっているのか。
笠井の弥五郎筋が吾平を使ったのか。
まだ不明だ。
だが、名は一つ降りた。
「佐太郎」
俺は言った。
「弥五郎は吾平を知っているな」
「知っています」
「吾平が弥五郎の名を使っていることも?」
佐太郎は黙った。
この沈黙は、答えだ。
「知っているのだな」
「師は、知っていたと思います」
「なぜ止めない」
「吾平の箱は安い。弥五郎の名が広がる。師の箱場へも仕事が来る」
佐太郎は苦しそうに言った。
「ですが、悪い粉を隠しているとは」
「知らなかったか」
「私は」
「弥五郎は?」
佐太郎は答えなかった。
名は最後でいい。
だが、ここは最後に近い。
「弥五郎に伝えろ」
俺は言った。
「吾平の箱が、弥五郎の名を使い、見立て場で悪い粉を隠した。弥五郎本人が名を守るなら、吾平を出せ」
佐太郎は顔を上げた。
「吾平を」
「そうだ」
「出さなければ?」
「弥五郎の箱は、吾平の箱と同じ扱いにする」
佐太郎の顔色が変わった。
これは効いた。
弥五郎本人の箱と、吾平の箱を分けたがっていた。
なら、分けたければ吾平を出せ。
出さなければ同じ扱い。
箱職人にとって、これは痛い。
「若君様、それは師にとって」
「名を守るとは、そういうことだ」
信勝が静かに言った。
「使われた名を放っておけば、その名ごと疑われます。私も、それを知りました」
佐太郎は、信勝の顔を見た。
信勝の言葉は、こういう時に重い。
自分の名を使われた者の言葉だからだ。
「承知しました」
佐太郎は深く頭を下げた。
「師へ伝えます」
「逃げるかもしれぬな」
俺が言うと、佐太郎は顔を上げた。
「師が、ですか」
「弥五郎がだ」
「……逃げるかもしれません」
正直に言った。
「なら、お前はどうする」
佐太郎は唇を噛んだ。
「私は、箱場へ戻ります」
「弥五郎を逃がすためか」
「違います」
佐太郎は、はっきり言った。
「箱を守るためです。師が逃げても、箱は残ります。箱場の者も、弟子も、下職も残る。私が逃げれば、弥五郎の箱場は完全に悪い箱場になります」
よい。
この男は、まだ使える。
いや、使えるという言い方は悪い。
箱の名を守る気がある。
「佐太郎」
「はい」
「お前の名は、今ここに置いた」
佐太郎が静かに頭を下げた。
「承知しました」
その日の夕方、佐太郎は帰った。
ただし、一人では帰さなかった。
表向きは熱田までの道案内。
実際には、仁助の者がつく。
佐太郎が弥五郎へ伝えるか。
途中で消されるか。
吾平へ向かうか。
それを見る。
見立て場に残った弥平は、しばらく例の箱を見ていた。
「弥平」
「はい」
「よく耐えた」
弥平は首を横に振った。
「耐えたというより、言うしかありませんでした」
「それでいい」
「若様」
「何だ」
「偽を作ったことは、消えません」
「消えないな」
「ですが、今日少しだけ……それでも見ていいのだと思えました」
俺は頷いた。
「見ろ。お前にしか見えないものがある」
弥平は、深く頭を下げた。
信勝が横で小さく言った。
「兄上、今のはよい言葉でした」
「珍しくか」
「かなり」
「お前、帰蝶に似てきたな」
信勝は少し笑った。
夜、那古野へ戻ると、報せが入った。
佐太郎は弥五郎の箱場へは真っ直ぐ戻らなかった。
清洲外れの市へ寄った。
そこで、吾平らしき男と会った。
さらに、その場にもう一人いた。
黒い薬箱を持つ男。
玄斎が話を聞いて、顔を険しくした。
「弥五郎ではありません。おそらく弥五郎の箱を悪く使う筋の男です」
「名は」
「まだ。ただ、薬箱を黒く塗る者は限られます」
「弥五郎の上か、笠井の下か」
「どちらもあり得ます」
線はまた伸びた。
弥五郎本人を呼んだ。
本人は来なかった。
弟子の佐太郎が来た。
佐太郎は弥平を揺さぶったが、逆に箱の見分けを示し、吾平の名を出した。
そして佐太郎は、清洲外れで吾平と黒い薬箱の男に会った。
次は、吾平だ。
そして、黒い薬箱の男。
箱の名を返したことで、弥五郎の周りが動いた。
まだ弥五郎本人は見えない。
だが、箱場の内側へ入った。
「明日は清洲外れだな」
俺は言った。
「吾平を追う」
信勝が静かに頷いた。
「弥五郎殿の名ではなく、吾平殿の手から見るのですね」
「ああ」
「箱は逃げない。でも、箱を作る人は逃げます」
「だから、今夜から見ろ」
仁助の者へ命じる。
佐太郎を守れ。
吾平を見る。
黒い薬箱の男を追う。
弥五郎本人は、まだ動くな。
焦れば、向こうが逃げる。
箱の名は返した。
今度は、箱を作る手が見え始めた。
最後には逃がさない。
だが、まだ最後ではない。
箱の底を一枚ずつ外すように、名の下を見ていく。
その先に、弥五郎がいる。
さらにその先に、笠井久蔵。
そして、半九郎が見ている。
なら、こちらも見る。
右を見て、左を見て。
箱の底まで。




