第81話 弥五郎の薬箱
弥五郎の名は、薬売りの道へ流した途端に効いた。
よい意味ではない。
薬売りたちが、互いの薬箱を見るようになったのである。
これまで薬売りは、薬箱の中身をあまり見せたがらなかった。
薬の配合は商いの種だ。
どの草をどれだけ混ぜるか。
どこの村で何が効いたか。
どの宿の客が眠れずに困っているか。
どの家が薬代を払えず、次の仕事を受けるか。
そういうものは、薬売りにとって銭であり、顔であり、時には弱みでもある。
だから、箱は閉じられる。
閉じられた箱は、薬を守る。
だが同時に、影も守る。
弥五郎は、そこへ入った。
薬売りの箱に、悪い薬を混ぜる。
眠り草を忍ばせる。
煙を強くする草を隠す。
見立て場の箱へ入れようとする。
玄斎の名を汚そうとする。
つね婆の目を曇らせようとする。
だが、薬箱に封をした。
針仕事の結びを使った。
朝は二人で開け、夜は二人で閉じることにした。
強い薬は別の小箱に分けた。
そして、弥五郎の名を返した。
――弥五郎の名で、薬箱へ悪い薬を入れようとした者がいる。薬売りは、自分の箱を守れ。
その言葉は、玄斎の口から薬売りの道へ流れた。
効果は早かった。
「嫌われました」
翌朝、玄斎は薬箱を抱えてそう言った。
「誰に」
「薬売り仲間に」
「仲間がいたのか」
「若君様、私にも人付き合いくらいございます」
つね婆が横で鼻を鳴らした。
「怪しい者同士の寄り合いだろう」
「婆様、それは言いすぎです」
「半分は?」
「……半分は、否定しません」
見立て場の朝は、妙に賑やかだった。
井戸の白布の桶には水が張られ、赤紐の桶は傷洗い用として離されている。
薬箱は三つ。
日常薬。
強薬。
預かり薬。
それぞれに布紐の封がついていた。
赤糸の角度は志乃が結んだものだ。
朝、つねと玄斎、それからおたえの女中が二人で開けた。
封は無事。
薬も無事。
その確認を、見立て場の者たちの前でやる。
最初は面倒だと思った。
だが、見ている者の顔が少し落ち着くのを見て、必要なのだと分かった。
信用は、言葉だけではなく、手順で作るものなのだ。
「それで、嫌われた理由は?」
俺が聞くと、玄斎はため息をついた。
「薬売りたちが、自分の箱へ封をし始めました。すると、古い薬、薄めた薬、混ぜ物をした薬が出てくる」
「よいことではないか」
「薬を買う者にはよいことです。薬売りには、腹の痛い話です」
「腹痛ならつねに見てもらえ」
「若君様まで、ずいぶんおっしゃるようになりましたな」
玄斎は苦笑した。
だが、その顔は以前ほど曇っていない。
自分の過去を見られ、それでも役を与えられている。
その落ち着きが少し出てきた。
つねが薬草を分けながら言った。
「薬売りが箱を見られて困るなら、困るものを入れているからだよ」
「婆様、真っ直ぐ刺しすぎです」
「曲げた薬の方が怖い」
見立て場に来ていた村の女たちが小さく笑った。
笑いながら、薬箱を見る。
その視線は、以前より少し柔らかかった。
しかし、弥五郎は黙っていなかった。
昼前、薬売りが一人、見立て場へ来た。
年は三十前後。
痩せていて、目がよく動く。
薬箱を背負っている。
箱には、布紐の封がしてあった。
赤糸も入っている。
見た目は、こちらの封によく似ていた。
「若君様」
男は丁寧に頭を下げた。
「薬売りの宗七と申します。弥五郎の名で薬売りが疑われていると聞き、私の箱も見ていただきたく」
自分から来た。
これは怪しい。
いや、自分から来るから怪しいと決めつけるのも危うい。
薬売りの中には、本当に自分の箱を守りたい者もいるだろう。
だが、このタイミングだ。
見ないわけにはいかない。
「玄斎」
「はい」
「知っているか」
玄斎は宗七の顔を見て、少し眉を寄せた。
「顔は知っています。駿河寄りの道で薬を売る男です。腕は悪くありません。ただ……」
「ただ?」
「商いの相手が軽くありません」
宗七は笑った。
「玄斎殿に言われるとは心外ですな」
「私だから言えます」
玄斎は返した。
「同じ穴にいた者は、穴の深さが分かる」
場が少し静かになる。
宗七の笑みが薄くなった。
つねが薬箱へ近づいた。
「封を見せな」
「どうぞ」
宗七は箱を下ろした。
布紐の結びは、よく似ている。
赤糸も入っている。
志乃がいれば一目で分かったかもしれないが、今日、志乃は針仕事の家にいる。
代わりにおまきが来ていた。
おまきは結び目を見て、首を傾げた。
「似ています」
「本物か」
「本物ではありません。けれど、昨日の偽封よりずっと近いです」
早い。
相手は、もう封の内側に赤糸を入れることを知ったらしい。
ただし、おまきは指先で結び目を押さえ、言った。
「角度が違います。赤糸が結び目の腹に入っています。本物は喉へ入る」
「腹と喉?」
犬千代が奥から小声で呟いた。
信勝が説明した。
「結び目にも向きがあるのです。たぶん」
「結び目にも喉が……」
犬千代は本気で感心している。
今はそこではない。
「宗七」
俺は言った。
「この封は誰が結んだ」
「私でございます」
「嘘だな」
おまきがはっきり言った。
宗七の目が動く。
「この結びは、薬売りの手ではありません。針を使う女の手を真似ていますが、指の逃がし方が違う。男の手です」
おまき、強い。
つね婆とは別の強さだ。
宗七は、少しだけ肩を落とした。
「では、開けますか」
「開ける」
つねと玄斎が左右に立つ。
おまきが封を切らずにほどく。
中を開ける。
薬草の匂いが広がった。
最初に見えたのは、普通の咳止め。
次に傷薬。
熱冷まし。
どれも悪くない。
だが、つねは箱の底を指で叩いた。
「二重底だね」
宗七の顔が少し変わった。
玄斎が留め具を外す。
底板が浮いた。
中に、小さな薬包が五つ。
黒い紐で結ばれていた。
昨日の黒紐と同じ。
「弥五郎だな」
俺が言うと、宗七は黙った。
玄斎が薬包を嗅ぐ。
「強い眠り草。煙草。それから、腹を下す草が混じっています」
「腹を下す草?」
信勝が顔を上げる。
「井戸の噂の続きでしょうか」
「だろうな」
つねが低く言った。
「これを誰かに飲ませれば、『見立て場の薬で腹を壊した』と言える」
井戸の次は薬。
薬箱封を始めたら、封を似せた薬箱を持ち込む。
その中に腹を下す草。
さらに眠り草と煙草。
複数の噂を同時に作れる。
笠井か。
弥五郎か。
いや、ここは弥五郎の手だろう。
薬の作りが、あまりに薬売りの道に寄っている。
「宗七」
俺は低く言った。
「誰の命だ」
宗七は黙っている。
信勝が前へ出た。
「名は最後でいいです。ですが、薬で人を傷つけるなら、最後は早く来ます」
宗七は信勝を見る。
少しだけ笑った。
「信勝様は、恐ろしいことを柔らかくおっしゃる」
「病人に悪い薬を飲ませる方が恐ろしい」
信勝は静かに返した。
宗七の笑みが消えた。
「弥五郎です」
ようやく言った。
「弥五郎本人か」
「……本人ではありません。弥五郎の薬箱を預かる者です」
「名は」
「源内」
また名が出た。
弥五郎の下の源内。
名の階段は下にも伸びる。
だが、今日は目的が違う。
弥五郎本人へ近づくための名だ。
「源内はどこにいる」
「薬売りの夜市へ」
「夜市?」
玄斎が顔をしかめた。
「薬売りたちが、夜に集まる場です。表の市では売りにくい薬、強い薬、旅荷の余り、怪しいものも出ます」
「お前も行っていたのか」
「……昔は」
つねが即座に言った。
「今夜行くよ」
「婆様もですか」
「薬の夜市なんて、放っておく方が悪い」
玄斎が困った顔をした。
「つね婆様が行くと、薬売りが逃げます」
「逃げる薬売りなら、逃げる薬を持っているんだろう」
強い。
とんでもなく強い。
「若様」
玄斎は俺を見た。
「夜市へ行くなら、兵では駄目です。薬売りは散ります」
「誰が行く」
「私、つね婆様、それから薬を買う者に見える人間。あと、荷を見る者が一人」
「仁助の者か」
「はい。ただし、いかにも馬借ではない姿で」
信勝が言った。
「私も行きます」
「駄目だ」
俺は即答した。
「ですが」
「夜市に信勝が行けば、夜市ではなく詮議場になる」
信勝は言葉に詰まった。
「兄上は?」
「俺も行かない」
帰蝶がいれば頷いただろう。
ここは、俺たちが出る場ではない。
出れば相手が逃げる。
薬売りの道は薬売りの目で見る。
つねと玄斎。
それから、仁助の者。
必要なら、遠くに柴田の者。
「犬千代」
「はい!」
「お前も行かない」
「まだ何も言っておりません!」
「顔が言っていた」
犬千代は肩を落とした。
信勝が小声で言った。
「犬千代殿は、今日は見立て場を守る役です」
「また守る役」
「とても大事です」
「信勝様がそうおっしゃるなら」
扱いがうまい。
夜市へ向かう準備が始まった。
宗七は逃がさない。
ただし、見立て場の前で縄を見せない。
奥へ置く。
宗七からさらに話を聞く。
源内。
弥五郎。
薬売りの夜市。
そこに、強い薬と偽封の道がある。
夕方、見立て場を閉じる前に、玄斎はまた人々の前へ立った。
「今日、封を似せた薬箱が持ち込まれました」
ざわつきが起きる。
玄斎は続けた。
「ですが、針仕事の結びで見抜きました。つね婆様と私で中を見ました。悪い薬も見つけました。薬箱に封をした意味はありました」
つねが隣で頷いた。
「封は、疑うためじゃない。見抜くためだよ」
おまきも言った。
「結びは、女たちも見ます。薬売りだけのものにはしません」
この一言は大きかった。
薬箱の信用を、薬売りだけに戻さない。
針仕事の家も、台所も、見立て場も見る。
また複数の目だ。
夜が近づく。
薬売りの夜市。
怪しい匂いしかしない。
だが、弥五郎の薬箱へ近づく道でもある。
つねは杖を持ち、玄斎は薬箱を背負った。
仁助の者が二人、姿を変えてつく。
俺は見立て場の端で見送った。
「つね」
「はい」
「無理はするな」
「婆に無理と言うだけ無駄です」
「玄斎」
「はい」
「逃げるな」
「若君様、順番が逆では」
「お前にはこれでいい」
「承知しました」
つねが笑った。
「薬売り、行くよ」
「はいはい」
二人は、夕暮れの道へ出た。
小さな背と、薬箱を背負った男の背。
奇妙な組み合わせだ。
だが、今の尾張らしい組み合わせでもある。
夜市で何が出るか。
弥五郎本人か。
源内か。
笠井の次の手か。
まだ分からない。
だが、薬箱の封は一つ役に立った。
偽封を見抜いた。
悪い薬を止めた。
玄斎の名を守った。
そして、弥五郎の道を一段近づけた。
薬箱は、ただの箱ではない。
薬売りの顔であり、薬を受け取る者の命であり、影が入り込む穴でもある。
その穴に封をした。
今度は、穴の奥を見る番だった。




