第80話 薬箱に封を
薬箱に封をする。
たったそれだけの話が、思ったより難しかった。
箱に縄をかけるだけなら簡単だ。
結び目を作り、札を下げ、誰かが触れば分かるようにすればいい。
だが、それだけでは足りない。
封は、人を疑うためだけのものではない。
信用を守るためのものだ。
つね婆の薬箱も。
玄斎の薬箱も。
見立て場に置く薬箱も。
どれか一つだけに封をすれば、その者だけが疑われているように見える。
特に玄斎はまずい。
この男は、以前に高い薬で人の弱みを食っていた。
今は見立て場で薬を見る側に回っている。
だからこそ、笠井久蔵の手の者が噂を立てるなら、ここを突く。
――あの薬売りの箱に、悪い薬が入っている。
――見立て場の薬は危ない。
――井戸も薬も信用できない。
そう言われれば、見立て場は揺れる。
だから、玄斎だけを見張る形にしてはいけない。
つねも、玄斎も、見立て場の薬箱も、同じ決まりで守る。
疑うためではなく、守るための封。
その言葉を形にする必要があった。
「若様、縄だけでは駄目です」
帰蝶が、布の切れ端を机の上に並べながら言った。
「なぜだ」
「縄は、誰でも結べます。似せられます。切って結び直されても、暗い場所では分かりにくい」
「では、布か」
「布と結びです」
帰蝶は、細い布紐を一本取った。
白い布だ。
だが、端に小さな赤い糸が一筋だけ通してある。
「この赤糸は、針仕事の家でしか使わない結び方にします。結び目の内側へ一度だけ糸を入れる。外から見れば普通の結びですが、ほどけば分かります」
長秀が食いついた。
「結び目の内側に印を入れるのですね」
「はい。ただし、複雑すぎてはいけません。つねさんや玄斎殿が毎朝開けられなければ意味がありません」
つね婆が横で鼻を鳴らす。
「複雑なら、その場で切るよ」
「だから簡単にします」
帰蝶はさらりと答えた。
この二人も、いつの間にかやり取りが噛み合うようになっている。
玄斎は少し離れて座っていた。
自分の薬箱が話題の中心なのに、珍しく口を挟まない。
「玄斎」
俺が呼ぶと、男は顔を上げた。
「はい」
「不満か」
「不満がないと言えば嘘になります」
「正直だな」
「若君様の周りでは、嘘が高くつきますので」
「それで?」
玄斎は、自分の薬箱を見た。
使い込まれた箱だ。
角は削れ、留め具には古い傷がある。
この箱で、いくつもの村や宿を回ったのだろう。
よい薬も売った。
悪い値もつけた。
その箱に封をされる。
薬売りとしては、面白くないはずだ。
「薬売りにとって、薬箱は顔でございます」
玄斎は言った。
「顔に封をされるようなものです」
「なら、顔を守る封だと思え」
「信勝様のようなことをおっしゃる」
信勝が少し笑った。
「兄上の言葉です」
「半分はな」
俺が言うと、帰蝶がすぐ見た。
「そこは全部でもよろしいのでは」
「……全部だ」
玄斎が苦笑した。
「では、顔を守る封として受けましょう。ただし、薬を出すたびに封を開け閉めしていては、急ぎに間に合いません」
「そこはどうする」
つねが言った。
「朝に開ける。昼は薬箱を開けたままにはしない。使う薬だけを小箱に分ける。夜に大箱を封じる。強い薬は、小箱にも別の封」
「強い薬とは」
「眠り草、痛み止めの強いもの、煙を強くする草、毒消しに近いもの。間違えれば薬ではなくなるものだよ」
玄斎も頷いた。
「それがよろしい。軽い咳止めや傷洗いの草まで毎回封をすれば、場が止まります」
「では、薬箱は三つに分ける」
長秀がすぐ整理し始めた。
「一つ、日常薬。咳止め、軽い熱冷まし、傷洗い。二つ、強薬。眠り草、強い痛み止め、煙草、毒消し。三つ、預かり薬。来た者が持ち込んだ薬を一時置く箱」
「預かり薬も要るね」
つねが言った。
「持ち込まれた薬をすぐ混ぜると、あとで何が何だか分からなくなる」
「箱が増えます」
長秀が言った。
「増えたな」
「帳面も増えます」
「嬉しそうに言うな」
「必要ですので」
必要なら仕方ない。
この頃の俺は、その言葉に弱い。
必要な面倒から逃げると、後で大きな火になる。
薬箱も同じだ。
午前のうちに、針仕事の家からおまきと志乃が呼ばれた。
薬箱の封に使う布紐を作るためだ。
志乃は子を抱いていない。
今日はおまきに預けてきたのではなく、近所の女に見てもらっているらしい。
見立て場の仕事に、志乃自身が来た。
「志乃、無理をするな」
俺が言うと、志乃は少し驚いた顔をした。
それから、静かに頭を下げる。
「無理はしておりません。私も、薬箱の封は見たいのです」
「なぜだ」
「子の薬を、誰かに勝手に触られたら怖いからです」
その一言で十分だった。
薬箱の封は、政の道具ではない。
母親にとっては、子の薬を守るものだ。
その目が要る。
おまきが布を見ながら言った。
「結びは二つでいいです。朝に開ける者と、夜に閉じる者が覚えられる程度に」
帰蝶が頷く。
「見分けは?」
「結び目の裏へ赤糸を一度通します。ほどけば赤糸の位置がずれる。切れば布端で分かる。似せようとしても、赤糸の入る角度が違う」
志乃が細い指で布を結んでみせた。
無駄がない。
針仕事の家で鍛えられた手だ。
長秀がじっと見ている。
「帳面に描きます」
「描いても、手で覚えないと分かりません」
志乃が言った。
長秀が少し黙る。
「……承知しました」
また長秀が負けた。
今日の見立て場には、薬箱封の実演をすることになった。
隠れて決めると、あとで噂になる。
――玄斎の薬箱だけが封じられた。
――薬に何かあったから隠している。
そう言われる前に、見せる。
見せるものと隠すもの。
この加減も、ずいぶん続いている。
見立て場へ着くと、井戸の周りは昨日より落ち着いていた。
白布の桶。
赤紐の桶。
黒印の桶。
縄巻きの桶。
水の使い分けが見える形になっている。
村の者も、まだ遠巻きではあるが、昨日ほど怯えてはいない。
少年がまた来ていた。
母親は少し歩けるようになったという。
少年はつねに向かって言った。
「今日の粥は濃い?」
「お前さん、粥を食べに来てるのかい」
「母ちゃんが、つね婆ちゃんに挨拶してこいって」
「なら挨拶が先だよ」
「こんにちは!」
場に笑いが起きた。
こういう子供の声は、噂を薄める。
ありがたいが、本人には言わない。
調子に乗る気がする。
昼前、薬箱封の説明を始めた。
俺ではなく、つねと帰蝶が前に出る。
その横に玄斎。
さらにおまきと志乃。
信勝は少し後ろ。
俺はそのまた後ろ。
犬千代は、奥で場を見る役だ。
「今日から、見立て場の薬箱には封をします」
つねが言った。
「薬を隠すためではありません。誰かが勝手に薬を入れたり、抜いたりしないようにするためです」
玄斎が続けた。
「薬売りの箱も同じです。私の箱だけではなく、つね婆様の箱も、見立て場の箱も封をします」
村の男が聞いた。
「玄斎殿の箱が怪しいからではないのか」
直に来た。
場が少し硬くなる。
玄斎は、一瞬だけ苦い顔をした。
だが、逃げなかった。
「私の箱が疑われやすいのは、事実です」
自分で言った。
つねが少し目を細める。
帰蝶も黙って聞いている。
「私は以前、薬の値を高くつけすぎました。薄い薬を高く売ったこともあります。だから、疑われるのは仕方ありません」
場が静まった。
玄斎は続けた。
「ですが、今この見立て場で薬を見る以上、私だけが疑われても困ります。薬箱そのものを守らなければ、悪い薬を入れられた時に、誰のせいか分からなくなる。だから封をします」
よい。
玄斎にしては、かなりよい。
つねがぶっきらぼうに言った。
「そういうことだよ。この男を信用するためじゃない。薬を信用するために封をする」
「婆様、そこは少し」
「事実だろう」
「事実ですが」
また笑いが起きた。
玄斎は不満そうだが、場は緩んだ。
帰蝶が布紐を見せた。
「この結びは、針仕事の家で作りました。朝、二人で開けます。夜、二人で閉じます。強い薬は、別の小箱へ入れます」
志乃が実際に結んで見せる。
おまきがほどいて、赤糸の位置を見せる。
長秀の手代が、木札に簡単な絵を描いて立てる。
字ではなく、絵。
箱。
布紐。
赤糸。
二人の手。
「二人で開ける」
信勝が言った。
「一人を疑うためではありません。一人だけが疑われないようにするためです」
この言葉は、よく効いた。
玄斎の顔が少し変わった。
自分を見張る封ではなく、自分だけが疑われないための封。
信勝の言葉は、そういう場所へ届く。
実演が終わると、薬を求める者が何人か前へ出てきた。
封を見た後だからか、昨日より薬箱への視線が落ち着いている。
まずは咳の薬。
つねが見る。
玄斎が匂いを確かめる。
おまきの結んだ日常薬の小箱から草を出す。
長秀の手代が仮名帳へ「咳、日常薬」とだけ書く。
名は聞かない。
薬は見える。
それでいい。
午後になって、狙いが来た。
若い女が、薬包を持って現れた。
顔色は悪い。
しかし、足取りはしっかりしている。
「母の薬を見てほしいのです」
女は言った。
つねが薬包を見る。
「これは、どこで」
「道の薬売りから」
玄斎が匂いを嗅いだ瞬間、眉を寄せた。
「強い薬です」
「何の薬だい」
つねが聞く。
「眠り草と痛み止めが混ざっています。悪い薬とは言い切れませんが、母御の症状を見ずに出すものではない」
女は目を伏せた。
「母は、夜眠れないと」
信勝が静かに聞く。
「その薬を、ここへ持ってくるように言われましたか」
女の肩が揺れた。
「……はい」
「誰に」
「知らない男に。見立て場で薬箱へ混ぜてもらえと。そうすれば、同じ薬が安くもらえると」
来た。
薬箱に混ぜさせる。
つまり、見立て場の薬箱へ強い薬を入れさせる狙いだ。
あとで、玄斎の箱から危うい薬が出たと言える。
あるいは、つねの箱から出たと言える。
封がなければ、誰が入れたか分からなかった。
「封を始めた日に来たか」
俺が呟くと、嘉助の予想が頭をよぎった。
笠井の下、弥五郎。
薬箱を扱う者。
こいつの手かもしれない。
つねが女へ言った。
「母御には、この薬をそのまま飲ませてはいけない。症状を見てからだよ」
「でも、眠れないと」
「眠らせることと、治すことは違う」
この言葉は、何度も出ている。
だが、何度でも要る。
女は泣きそうになった。
「薬代がなくて」
また、そこだ。
玄斎が静かに言った。
「その薬を渡した男は、薬代の話をしたのでしょう」
女は頷いた。
「見立て場の箱へ入れてもらえば、次から安くなると」
「嘘です」
玄斎ははっきり言った。
「薬箱へ勝手に薬を入れさせる者は、薬を安くする者ではありません。薬の責を消す者です」
場が静まった。
玄斎が、それを言った。
昔、自分が値で人を縛っていた男が、今は薬の責を消す者を批判している。
不思議な光景だ。
だが、必要な光景だった。
「この薬は預かる」
俺は言った。
「ただし、母御の名は聞かぬ。症状を聞き、必要ならつねと玄斎が薬を作る。女の荷は、志乃が見る」
志乃が前へ出る。
女は少し安心したように薬包を渡した。
その時だった。
奥にいた犬千代が、半歩出た。
顔が険しい。
俺はそちらを見た。
犬千代の目は、見立て場の端に向いている。
男が一人、去ろうとしていた。
薬包を持ってきた女が話し始めた瞬間、静かに離れた男。
仁助の者も気づいた。
しかし、男は人混みの向こうへ抜けようとしている。
犬千代が一歩出た。
だが、走らない。
低い声で言った。
「その男、止まれ」
男は走った。
犬千代は、今度は走った。
俺は止めなかった。
場を守る者は他にもいる。
逃げた者を追う時が来た。
犬千代は速い。
男は見立て場の外へ出る前に、犬千代に回り込まれた。
殴らない。
槍も向けない。
ただ、進路に立つ。
「止まれと言った」
男は懐へ手を入れた。
その瞬間、犬千代の足が動いた。
男の手首を打つ。
小刀が落ちる。
仁助の者が後ろから押さえた。
見立て場は、一瞬ざわついたが、大きく崩れなかった。
犬千代が追った後も、信勝が場に残り、つねが薬を見続け、玄斎が薬箱を押さえていたからだ。
役が分かれてきた。
これは大きい。
男の懐から、黒い紐が出た。
昨日、井戸の噂を置いた男が落としたものと同じ種類だ。
さらに、小さな封布もあった。
赤糸を似せようとした跡がある。
だが、角度が違う。
志乃が見て、すぐ言った。
「これは違います」
「分かるか」
「はい。真似ていますが、結び目の内側に糸が入っていません。外だけです」
封を作ったその日に、偽の封が出た。
早すぎる。
だが、今回は早さが相手の粗さになった。
急いで真似たため、内側の赤糸までは分からなかった。
「名は」
信勝が男へ聞く。
男は黙る。
俺は黒紐を見た。
「弥五郎か」
男の目が動いた。
出た。
「弥五郎本人か」
男は黙ったまま、唇を噛んだ。
「弥五郎の手の者か」
また目が動く。
本人ではない。
手の者だ。
嘉助の予想は当たった。
弥五郎が動いている。
薬箱を狙った。
封を偽ろうとした。
「奥へ」
俺は言った。
「薬の女は責めるな。使われた者だ。男は分けて聞く」
女は泣いていた。
自分が薬箱に悪い薬を入れる道具にされかけたと分かったのだろう。
志乃がそっと寄り添っていた。
「お母様の薬は、ちゃんと見ます」
志乃の声は柔らかかった。
こういう時、帰蝶の作った道が効く。
女が女の荷を見る。
母の薬を、母の心配として扱う。
これがなければ、女は逃げていたかもしれない。
夕方、捕らえた男の話が少し取れた。
名はまだ伏せている。
仮名帳では「黒紐男一」。
弥五郎本人ではない。
弥五郎の下で、薬箱や封布を扱う者だった。
目的は、見立て場の薬箱へ強い眠り薬を混ぜること。
そして翌日、別の者が「玄斎の薬で母が眠ったまま起きない」と噂を立てる予定だったという。
玄斎の顔が、ひどく青くなった。
「私の名で」
「ああ」
「……昔の私なら、疑われても仕方ありません」
つねが言った。
「今のあんたが黙っていると、また昔のあんたに戻されるよ」
玄斎はつねを見る。
「では、どうしろと」
「言うんだよ。自分の箱を守るために封をした、と」
玄斎はしばらく黙った。
それから、見立て場の者たちの前へ出た。
日が傾き、帰ろうとしていた者も足を止める。
「今日、私の薬箱へ悪い薬を混ぜようとした者がありました」
玄斎は言った。
「私の名で、誰かを眠らせたと噂を立てるつもりだったようです」
声は少し震えていた。
だが、逃げなかった。
「私は、かつて薬の値で人を苦しめました。だから、私の名は疑われやすい。ですが、だからこそ、今日から薬箱に封をしました。一人で箱を開けない。つね婆様と、見立て場の者と、針仕事の結びで守る。これは、私を守るためでもありますが、薬を受け取る皆様を守るためでもあります」
つねが腕を組んで聞いている。
信勝も静かに聞いている。
玄斎は、最後に深く頭を下げた。
「私の薬が不安なら、言ってください。つね婆様にも見せます。隠して飲ませることはしません」
場が静まった。
やがて、少年が言った。
「玄斎のおじさんの薬、苦い?」
玄斎が一瞬固まる。
「薬は、だいたい苦いものです」
「じゃあ、つね婆ちゃんの薬と同じだ」
つねが笑った。
「私の薬の方が効くよ」
「婆様」
場に笑いが起きた。
玄斎は少し困った顔をしたが、たぶん救われた。
笑いは、時々薬になる。
薬売りに言うのは癪だが。
夜、那古野へ戻ると、嘉助に黒紐男の話を聞かせた。
嘉助は疲れた顔で頷いた。
「弥五郎の手です」
「弥五郎本人はどこだ」
「薬売りの宿を渡っています。笠井久蔵の下にいますが、久蔵本人とは直接会わないことも多い」
「弥五郎を揺らすか」
「揺らせます」
嘉助は言った。
「薬箱封が効いたなら、弥五郎は焦ります。偽封が見抜かれたなら、次は薬売りの道で弥五郎の名を使いにくくなる」
「なら、返す」
俺は言った。
「弥五郎の名で、薬箱へ悪い薬を入れようとした者がいる。薬売りは、自分の箱を守れ。そう流せ」
玄斎が横で頷いた。
「薬売り筋には、私からも流します」
「お前の名でか」
「はい。怪しい玄斎が言うから、薬売りは無視できません」
「自分で言うか」
「今日は、そういう日ですので」
玄斎は少し笑った。
この男も、変わり始めている。
完全には信用しない。
だが、変わり始めている。
その変化を見せることも、見立て場の信用になる。
薬箱に封をした日、相手は薬箱へ手を伸ばした。
だが、封があったから見抜けた。
針仕事の結びがあったから偽封が分かった。
つねと玄斎が二人で見たから、強い薬が分かった。
犬千代が一歩で動いたから、男を逃がさなかった。
信勝が場に残ったから、騒ぎにならなかった。
帰蝶の言葉が、志乃の手を動かした。
長秀の帳面が、仮名を残した。
一つでは守れない。
いくつもの目で守る。
それが、今の尾張のやり方だった。




