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第79話 井戸の噂

 井戸は、ただの穴ではない。


 水がある。


 だから人が集まる。


 人が集まるから、暮らしができる。


 飯を炊く。


 薬を煎じる。


 傷を洗う。


 粥を作る。


 手を洗う。


 喉を潤す。


 見立て場の真ん中に井戸があるというのは、考えてみれば当然だった。


 水がなければ、病人も怪我人も見られない。


 だが、水があるということは、そこを疑わせれば、見立て場そのものを疑わせられるということでもある。


 笠井久蔵は、そこを突いた。


 ――あの井戸は危ない。


 ――三河から来た病人の水だ。


 ――飲むと病が移る。


 ――尾張の者まで巻き込まれる。


 毒を入れたわけではない。


 水を汚したわけでもない。


 ただ、噂を落としただけだ。


 それでも、人は水を怖がる。


 水を怖がれば、粥を食べない。


 薬を飲まない。


 傷を洗わせない。


 そして、見立て場へ来なくなる。


 火をつけるより、よほど静かで厄介な手だった。


「若様」


 翌朝、つね婆は井戸のそばで腕を組んでいた。


 小柄な体なのに、井戸より強そうに見える。


「水は悪くありません」


「分かるのか」


「分かります。匂い、濁り、桶の底、汲み上げた時の泡。悪い水なら、まずそこに出ます」


 つねは桶の水を俺の前に置いた。


 澄んでいる。


 だが、人の不安は、水の澄み方だけでは消えない。


「ただし、噂はもう水に入っています」


「噂が入った水か」


「はい。水そのものより厄介です」


 玄斎が横で薬箱を開けながら言った。


「薬でも同じですな。中身が悪くなくても、『あれは悪い薬だ』と噂が立てば、誰も飲まなくなる」


「お前の場合は、昔の行いも混じっている」


「否定できないところが苦しい」


 玄斎は渋い顔をした。


 笠井が次に玄斎を狙うかもしれない。


 嘉助はそう言った。


 井戸の次は、見立て場の中の者を疑わせる。


 特に玄斎。


 元々怪しい薬売りで、今はつねの横で薬を見ている男。


 噂を立てるには、これほど都合のよい相手もない。


 ――あの薬売りは、前に高い薬を売っていた。


 ――そんな男が見立て場で薬を見ている。


 ――井戸も薬も怪しい。


 そう言われれば、見立て場の信用は揺れる。


 だから、井戸の噂を鎮めるのと同時に、玄斎の置き場も整えなければならない。


「つね」


「はい」


「井戸の水をどう見せる」


「まず、使い分けです」


 つねは杖で地面を突いた。


「飲み水。傷を洗う水。器を洗う水。手を洗う水。全部同じ桶でやると、噂の餌になります」


「桶を分ける」


「はい。桶に印をつけます。飲み水は白。傷洗いは赤。器洗いは黒。手洗いは縄を巻く」


 長秀がすぐ書こうとした。


 つねが睨む。


「長秀様、書くのはよいですが、桶に字ばかり書いても読めない者がいます。色と形で分けるのです」


「……承知しました」


 長秀が少し悔しそうに頷いた。


 帳面様が、婆に負けている。


 よいことだ。


「次に、汲む者を決めます」


 つねは続けた。


「誰でも勝手に汲むと、あとで『誰が触ったか分からない』と言われます。飲み水を汲む者、傷の水を汲む者、器を洗う者。それぞれ決める」


「それでは手間が増える」


 俺が言うと、つねは平然と答えた。


「病を扱う場所は、手間を惜しむと後で十倍手間が増えます」


「正しいな」


「正しいです」


 強い。


 かなり強い。


 信勝が井戸を見ながら言った。


「水の使い方を見えるようにすれば、『水が危ない』という噂に返せますね」


「そうだね」


 つねが頷く。


「危なくないと言うだけでは足りません。どう危なくしないかを見せるのです」


 これもまた、何度もやってきたことだった。


 名は聞かないと言うだけでは足りない。


 仮名帳を作る。


 薬を安くすると言うだけでは足りない。


 薬の値と中身を見せる。


 小荷を止めると言うだけでは足りない。


 何を守る荷かを聞く。


 水も同じだ。


 危なくないと言うだけでは足りない。


 どう使い分けるかを見せる。


 見える形を作る。


 昼前には、井戸の周りが少し変わった。


 飲み水の桶には白い布。


 傷洗いの桶には赤い紐。


 器洗いの桶には黒い焼き印。


 手洗いの桶には縄。


 桶の置き場も分けた。


 井戸のすぐそばには飲み水を置かない。


 汲んだ水を少し離れた台へ置く。


 傷を洗う場所は風下。


 咳の者の場所とは離す。


 器洗いの水は使い回さない。


 おたえの女中たちが、実に手際よく動いた。


「おたえのところは強いな」


 俺が言うと、女中の一人が少し笑った。


「台所では、間違えた桶を使うと怒られますので」


「誰に」


「おたえ様に」


 なるほど。


 那古野の台所は、見立て場より前から戦場だったらしい。


 玄斎が白布の桶を見て言った。


「薬にも、こういう印が要りますな」


「今さらか」


「薬箱の中では分けています。ただ、人に見せる形としては弱い。つね婆様の言う通り、読めない者にも分かる印は必要です」


 つねが少しだけ満足そうにした。


「やっと薬売りらしいことを言ったね」


「私は元から薬売りです」


「元から怪しい薬売りだよ」


「婆様」


 場に小さな笑いが起きた。


 噂は、笑いに弱い時がある。


 不安で固まった場に、少し笑いが入ると、人は近づける。


 だが、笑いだけでは足りない。


 昼、あえて皆の前で粥を炊いた。


 井戸の水を白布の桶から取り、釜へ入れる。


 おたえの女中が米を洗い、火にかける。


 つねがそばで見ている。


 玄斎は薬箱を少し離した場所に置く。


 信勝は、見立て場に来た者たちへ説明した。


「飲む水と、傷を洗う水を分けました。器を洗う水も分けました。咳の方がいる場所も、風下にしました。水が危ないかどうかを、隠して決めません。皆の前で見ます」


 村の年寄りが聞いた。


「それでも、病は移らぬのですか」


 つねが答えた。


「絶対とは言いません」


 場が少しざわついた。


 だが、つねは続ける。


「だから分けるのです。咳の者の器を洗った水で、粥は炊かない。傷を洗った水で、手は洗わない。水を怖がるだけなら、何もできません。使い方を間違えないことです」


 正直な言葉だった。


 絶対に安全だ、と言わない。


 だから信用できる。


 信勝が頷いた。


「怖いと思ったら、聞いてください。聞かずに噂だけで離れれば、本当に困った時に水も薬も使えなくなります」


 その後、粥が炊けた。


 昨日と同じように、俺と信勝が食べる。


 今回は、つねも少し食べた。


「飲むなと言われましたが、粥ならよろしいでしょう」


「勝手だな」


「婆は勝手なものです」


 つねは平然としていた。


 村の女が一人、恐る恐る粥を受け取った。


 次に、昨日の少年が来た。


 母親はまだ休んでいるが、少し歩けるようになったらしい。


 少年は粥を一口食べ、真顔で言った。


「昨日より薄い」


 おたえの女中がぎょっとする。


 俺は思わず笑った。


「よく分かるな」


「母ちゃんの粥の方が、もっと米が少ない」


「それは薄いというより……」


 信勝が少し言葉に困る。


 つねが少年の頭を軽く撫でた。


「元気になってきた証拠だよ。文句が言えるようになった」


 少年は少し得意そうにした。


 場の空気が、また緩む。


 こういう小さなことが、噂を押し返す。


 井戸は危ない。


 その噂に対して、粥を食べ、味に文句を言う子供がいる。


 それは、百の説明より強い時がある。


 しかし、笠井の手はそこで終わらなかった。


 午後、見立て場へ一人の女が駆け込んできた。


 近くの村の者だ。


 顔が青い。


「若様、井戸の水で腹を壊した者がいると」


 場が凍った。


 来た。


 噂の次は、実例を作る。


「誰だ」


 俺が聞くと、女は震えながら答えた。


「村の与平です。朝、ここの粥を食べたあと腹が痛いと」


 つねが眉をひそめた。


「与平? あの大食いの?」


「知っているのか」


「知っています。腹が弱いくせに、何でも拾い食いする男です」


「おい」


 つねは女へ聞いた。


「与平は、粥だけ食べたのかい」


「それが……朝、古い干し魚を食べたとも」


「ほら見なさい」


 つねが怒った。


「井戸のせいにする前に、干し魚を見せな」


 女は慌てて頷いた。


 だが、問題はそこでは終わらない。


 与平という男の腹痛が本当に干し魚のせいでも、噂は「井戸のせい」として広がる。


 腹痛の理由より、広がる言葉の方が早い。


「すぐ見に行く」


 つねが言った。


「私も」


 信勝が立とうとする。


「待て」


 俺は止めた。


「信勝が行けば大事になる」


「ですが」


「つねと玄斎、おたえの者で行け。俺たちは少し遅れて行く」


 つねが頷いた。


「それがよろしい。まず腹を見ます」


 玄斎が薬箱を持つ。


「私も?」


「腹の薬を見る者が要る」


「疑われる側なのですが」


「だから行け。逃げたと思われる方が悪い」


 玄斎は苦い顔をしたが、従った。


 つねたちが村へ向かった後、俺たちは見立て場を閉じなかった。


 ここで慌てて閉じれば、井戸が危ないと認めたように見える。


 ただし、水の配り方をさらに慎重にした。


 白布の桶だけを使う。


 粥は一度止める。


 原因が分かるまで、新しい粥は炊かない。


 止めるものと止めないものを分ける。


 これも大事だった。


 しばらくして、つねから報せが来た。


 与平の腹痛は、干し魚が原因らしい。


 魚は悪くなっていた。


 井戸の水とは関係が薄い。


 ただし、与平は見立て場の粥も食べていた。


 噂に使うには十分だ。


「誰が井戸のせいと言い出した」


 俺が聞くと、報せの者は答えた。


「村の外から来た男です。『三河の病人の水だから腹を壊した』と」


「捕まえたか」


「逃げました。仁助殿の者が追っています」


 やはり、噂を置く者がいた。


 笠井か、その手か。


 井戸を直接汚すのではなく、腹痛を井戸に結びつける。


 人の不安は、事実より結びつきで動く。


 見立て場へ戻ったつねは、怒っていた。


「与平の馬鹿は、あの魚を食うなと前にも言ったんだよ」


「腹は」


「痛いだけです。死にはしません。ただ、しばらく粥です」


「見立て場の粥で?」


「そうです。腹を壊した男に、井戸の水で炊いた粥を食わせます」


 強い。


 つねは本当に強い。


 その話を、見立て場にいる者たちの前で説明した。


 ただし、与平の名は伏せた。


 「村の男」とした。


 名を晒す必要はない。


 腹を壊した理由だけを伝える。


「井戸の水ではなく、悪くなった魚が原因と見ています」


 信勝が言った。


「ただし、原因がはっきりするまで、粥は一度止めました。水は分けて使っています。疑いがあれば、こうして止め、見て、また使います」


 つねが続けた。


「腹を壊した者には、この井戸の水で炊いた薄い粥を食わせます。それで悪くなれば、私が先に怒ります」


 村人が少し笑った。


 笑いの中に、安心が混じる。


 完全ではない。


 だが、噂に対して、こちらは見える形で返した。


 夕方、仁助の者が逃げた男を見失ったと報告した。


 ただし、落とし物があった。


 小さな黒い紐。


 赤紐ではない。


 黒い紐。


 長秀が見て、眉を寄せた。


「これは、薬箱を結ぶ紐に似ています」


 玄斎が手に取る。


「駿河筋の薬売りが使うことがあります。箱の中の眠り草や強い薬を分ける時に」


「玄斎を狙う線か」


 信勝が言った。


「次は、玄斎殿の薬箱に何かを混ぜるつもりかもしれません」


 玄斎の顔がさらに渋くなった。


「嫌な予想をなさいますな、信勝様」


「すみません。でも、あり得ます」


「あり得ます」


 玄斎は認めた。


「私を疑わせるなら、薬箱に悪い薬を入れるのが早い」


 つねが言った。


「なら、今夜から薬箱は二人で見る」


「婆様と私で?」


「私と、おたえさんの者でも見る。あんた一人には任せない。信用していないからではない。信用を守るためだよ」


 玄斎は、少し黙った。


 それから、静かに頭を下げた。


「承知しました」


 その姿を見て、俺は少し意外だった。


 玄斎が、素直に頭を下げた。


 自分が疑われる立場だと分かっている。


 そして、信用を守るには、自分一人で薬箱を抱え込んではいけないと理解したのだろう。


 夜、那古野へ戻って評定を開いた。


 議題は井戸の噂。


 そして、次に狙われる玄斎の薬箱。


 長秀がまとめた。


「笠井側は、見立て場の信用を三段で崩そうとしています。一つ、井戸そのものを疑わせる。二つ、腹痛などの出来事を井戸に結びつける。三つ、内部の者――特に玄斎殿を疑わせる」


「玄斎を守るには?」


 俺が聞くと、帰蝶が答えた。


「玄斎殿を特別扱いで庇うのではなく、薬箱の扱いを全体の決まりにするべきです」


「全体?」


「はい。つねさんの薬箱も、玄斎殿の薬箱も、見立て場の薬箱も、夜は封をします。朝は二人以上で開ける。薬を出す時は、薬札をつける。玄斎殿だけを見張る形にすると、かえって噂になります」


 信勝が頷いた。


「疑うためではなく、守るための封ですね」


「そうです」


 また、見える形だ。


 薬箱封。


 夜に封をし、朝に二人で開ける。


 薬の種類ごとに印をつける。


 眠り草や強い薬は、つねと玄斎、どちらか一人では出さない。


 これで玄斎を守る。


 同時に、薬を守る。


「玄斎は嫌がるか」


 俺が言うと、帰蝶は少し笑った。


「嫌がるでしょう。でも、受けると思います」


「なぜ」


「今日、受ける顔をしていました」


「顔か」


 どうやら、この城では顔を見る者が多い。


 翌朝から薬箱封を始めると決まった。


 井戸も、薬箱も、名も、荷も。


 すべて封じるためではない。


 正しく使うために、見える形を作る。


 夜が更けた頃、嘉助がまた呼ばれた。


 井戸の噂、与平の腹痛、黒紐の話を聞かせる。


 嘉助は、少し目を閉じた。


「やはり、玄斎殿を狙います」


「誰が動く」


「笠井の下に、薬箱を扱う者がいます。名は、おそらく弥五郎」


「おそらく?」


「私は直接会っていません。ただ、嘉助の道へ悪い薬を流した者の名として聞いたことがあります」


「弥五郎」


 長秀が書く。


 また名が増えた。


 だが、名が増えることは、影が薄くなることでもある。


「弥五郎は、薬箱に触れるか」


「触れます。薬売りにも化けられる。箱の封を似せることも」


「では、封も偽られる」


「はい」


 長秀の顔が険しくなる。


「封の見分けも必要です」


「増えるな」


「増えます」


 もう誰も笑わなかった。


 必要だからだ。


 ただし、増やしすぎればまた複雑になる。


 つねに怒られる。


「簡単な封にする」


 俺は言った。


「読めない者にも分かる。破れば分かる。似せにくい」


 帰蝶が言った。


「布の結びと、焼き印を合わせましょう。針仕事の家で結びを決めます」


「薬箱に針仕事か」


「はい。布の結びは、女たちの方が見抜きやすいです」


 また右と左だ。


 薬はつねと玄斎。


 箱の結びは針仕事の家。


 封の焼き印は弥平。


 帳面は長秀。


 一つの信用を、複数の目で守る。


 それが、今の尾張のやり方になりつつある。


 俺は、少しだけ感慨を覚えた。


 最初は、ただ火を消すだけだった。


 今は、井戸の水と薬箱の封まで話している。


 小さい。


 だが、その小さいものが国を守る。


 井戸の噂は、まだ完全には消えていない。


 だが、井戸の周りには白い桶、赤い紐、黒い印、縄の手洗い桶が並んだ。


 薬箱には、明日から封がつく。


 玄斎は一人で薬箱を抱えなくなる。


 つねは怒りながらも見る。


 信勝は言葉を置く。


 犬千代は場を守る。


 帰蝶は結びを決める。


 長秀は書く。


 俺は、その全体を見て、怒りすぎないようにする。


 井戸は、ただの穴ではない。


 見立て場の心臓だ。


 そこへ噂を流されたなら、こちらは水の使い方を見せる。


 次に薬箱を狙われるなら、薬箱の守り方を見せる。


 笠井久蔵は、見えないところから名と噂を投げてくる。


 だが、投げ込まれるたびに、こちらは形を増やしていく。


 それが間に合うかどうか。


 まだ分からない。


 だが、今日の井戸は守った。


 明日は、薬箱だ。

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