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第78話 笠井久蔵

笠井久蔵。


 嘉助の口からその名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。


 井上半九郎。


 嘉助。


 そして、笠井久蔵。


 名が一段ずつ上へ伸びている。


 だが、上へ伸びたからといって、すぐ掴めるわけではない。


 むしろ、名が重くなるほど扱いは難しくなる。


 笠井久蔵は、朝比奈家中の末の者だという。


 朝比奈。


 その名は、今川の内では軽くない。


 重い名だ。


 重い名に近い者は、それだけで周囲を動かせる。


 だが、重い名そのものではない者ほど、名を大きく見せたがる。


 俺は嘉助を見た。


 夜通しの詮議で、顔色は悪い。


 右腕の傷には布が巻かれている。


 つねが見れば「血は止まっているが、熱を持たせるな」と言うだろう。


 だが、嘉助の目はまだ死んでいない。


 恐怖と意地が混ざった目だった。


「笠井久蔵は、朝比奈の何だ」


 俺が聞くと、嘉助は少し喉を動かした。


「朝比奈家中に仕える者の縁筋です。直臣というほどではありません」


「なのに朝比奈の名を使う」


「直臣でないからこそ、使います」


 嘉助は苦く笑った。


「直に名を背負う者は、軽く名を使えませぬ。末の者ほど、名を借りたがる」


 嫌なほど分かる話だった。


 信勝の名も、そうだった。


 本人の意思より、周囲が勝手に使う。


 本人に近いようで遠い者ほど、名を大きく語る。


 その名で人を動かし、失敗すれば「本人の命ではない」と逃げる。


「久蔵は、半九郎に何を渡した」


「朝比奈の名が通じる道を」


「道?」


「駿河から三河へ、三河から尾張へ入る荷の中で、今川の正面の荷ではなく、朝比奈の周辺の荷として扱えるものがあります。薬草、傷薬、小瓶、馬具、油紙、香木。そういうものです」


 長秀の筆が走る。


「つまり、今川本体の荷ではなく、朝比奈周辺の小荷として動かす」


「はい」


「それなら、責は薄い」


 嘉助は小さく頷いた。


「今川の正式な命ではない。朝比奈様ご本人の命でもない。だが、朝比奈の名が近くにある。商人は恐れて通す。薬売りは断りにくい。馬借も、深くは聞かない」


 信勝が静かに言った。


「名を重ねて責を消す」


 嘉助は目を伏せた。


「まさに、それでございます」


 その言葉を、こちらが何度も見てきた。


 信勝の名。


 俺の名。


 帰蝶の名。


 大浜屋の名。


 半九郎の名。


 朝比奈の名。


 同じだ。


 名は大きいほど、人を動かす。


 だが、名が大きいほど、責が遠くなる。


 それを悪用する者がいる。


「笠井久蔵は、今どこにいる」


 嘉助は黙った。


「嘉助」


 俺は声を低くした。


「ここで黙れば、お前は笠井を守ることになる」


「守りたいわけではありません」


「なら言え」


「……三河の岡崎近くに」


 岡崎。


 また、そこだ。


「岡崎の城内か」


「いいえ。城内ではありません。岡崎の外、寺と宿を兼ねたような場所です。商人が泊まり、僧も出入りし、武家の小者も紛れます」


「名は」


「龍泉寺」


 長秀が筆を止めた。


「龍泉寺……」


「知っているのか」


「岡崎近くに似た名の寺があります。ただ、これは確認が必要です」


「確認しろ」


「はい」


 嘉助は続けた。


「笠井久蔵は、そこへ直接いるわけではありませぬ。出入りするだけです。いつもは別の宿を使う。ですが、朝比奈の名を匂わせる時は、龍泉寺で人と会います」


「誰と」


「半九郎様と」


 ようやく、半九郎と笠井がつながった。


 しかし、まだ遠い。


 岡崎近く。


 龍泉寺。


 朝比奈の名。


 半九郎。


 これだけで踏み込める距離ではない。


 俺は尾張の主だ。


 三河の寺へいきなり手を出せるわけではない。


 それをやれば、こちらが乱暴な火種になる。


 半九郎や笠井は、それも狙うかもしれない。


「兄上」


 信勝が言った。


「笠井久蔵の名を、どう返しますか」


「返す?」


「半九郎の名を揺らした時と同じです。笠井久蔵の名も、いきなり捕らえるのではなく、名を戻すべきでは」


 分かってきている。


 いや、俺より先に見えていることもある。


「どこへ戻す」


 俺が問うと、信勝は少し考えた。


「朝比奈本家へ直接ではなく、朝比奈の周辺へ。『笠井久蔵なる者が朝比奈の名を使い、尾張の小荷と病人の道へ触れている。朝比奈の名を守るなら、この名を見よ』と」


 長秀が頷いた。


「朝比奈本家を責める文ではなく、朝比奈の名を守るための問いとして流す」


「そうだ」


 帰蝶が静かに口を開いた。


「ただし、言葉を間違えると、朝比奈を直接疑った形になります」


「ああ」


「『朝比奈がやった』ではなく、『朝比奈の名を使う者がいる』。ここをはっきりさせるべきです」


 佐久間も頷いた。


「今川本体へ喧嘩を売るには早すぎます」


「分かっている」


 早すぎるどころではない。


 尾張はまだ縫い直しの途中だ。


 熱田の小荷。


 薬の値。


 境の見立て場。


 信勝の名。


 犬千代の半歩。


 こんな細い糸を結び直しているところで、今川本体へ正面から噛みつけば、尾張の内がまた裂ける。


 だから、名を返す。


 責を戻す。


 ただし、槍ではなく問いとして。


「嘉助」


 俺はもう一度、男を見た。


「笠井久蔵は、半九郎へ何を求めていた」


「尾張が割れているかどうか」


「まだそれか」


「はい」


 嘉助は、少し力なく笑った。


「尾張が割れていれば、今川は動きやすい。けれど、尾張が割れたまま見えなくなってきた。稲生の後、信勝様が生きている。柴田殿も生きている。熱田の火は曇らず、薬の値も見られ、小荷も止められ、見立て場まで作られた」


「気味が悪いか」


「はい」


 嘉助は正直に言った。


「斬って終わるなら分かりやすい。焼いて終わるなら怨みも残せる。ですが、困りごとを拾われると、どこへ火を置けばよいのか分からなくなる」


 その言葉は、佐橋の言葉と似ていた。


 怨みの置き場を奪う主は厄介。


 また、それだ。


 俺は厄介なことをしているらしい。


 いいことなのか悪いことなのか、まだ分からない。


 だが、敵が厄介だと言うなら、続ける価値はある。


「笠井は、次に何をする」


 嘉助は唇を噛んだ。


「私が捕らえられたなら、笠井久蔵は私を切ります」


「どう切る」


「嘉助は勝手に動いた。半九郎も知らぬ。朝比奈の名も関わらぬ。そう言うでしょう」


「予想通りだな」


 信勝が低く言った。


「でも、その前に嘉助殿が笠井久蔵の名を出した」


「はい」


 嘉助は、信勝を見た。


「信勝様。私は、助かりますか」


 部屋が静まった。


 信勝はすぐ答えなかった。


 優しい言葉を言おうとしなかった。


 そこが、今の信勝の強さだ。


「分かりません」


 信勝は言った。


「あなたの罪は重いです。病人も子供も使った。悪い薬も通した。吉次さんや小僧さんを切ろうとした」


 嘉助は目を伏せた。


「でも、あなたが話したことで、次に同じことをされる人が減るかもしれない。そこは、兄上が見ると思います」


 俺を見るな。


 いや、見るべきか。


 嘉助は俺へ視線を移した。


「若君様」


「今すぐ斬りはしない」


 俺は言った。


「だが、許すとも言わない」


「はい」


「お前には、笠井久蔵の道を書かせる。半九郎の道もだ。人を使った道、薬を使った道、小荷の道、宿の道、寺の道。知っている限り」


「書けば」


「責の置き場は変わる」


 嘉助は、小さく笑った。


「本当に便利な言葉で」


「便利に使っている」


「私も、使われるわけですな」


「そうだ」


 嘘は言わない。


 嘉助は道として使う。


 ただし、使い捨てにはしない。


 使い捨てれば、こちらも半九郎たちと同じになる。


 それが難しい。


 その日の昼、嘉助から聞き取りを続けた。


 吉次は別の場所にいる。


 小僧も守られている。


 犬千代は、二人の近くで守り役をしていた。


 後で聞くと、犬千代は小僧に木の枝で槍の構えを教えようとして、つねに怒られたらしい。


「病み上がりの子に槍を教えるんじゃないよ」


「しかし、自分を守る術は」


「まず飯だよ」


「はい……」


 そのやり取りを聞いて、少し笑った。


 見立て場も、守りの小屋も、少しずつ日常を持ち始めている。


 日常がある場所は、影に強い。


 たぶん。


 一方、三河では、笠井久蔵が嘉助捕縛の報せを受けていた。


 これは後に、仁助の道から入った話である。


 岡崎近くの龍泉寺。


 夜明け前、笠井久蔵は寺の奥で報告を受けた。


 久蔵は、三十半ばほどの男だったという。


 目立つ武者ではない。


 だが、言葉の端に朝比奈の名を匂わせる癖があった。


 自分の名ではなく、背後の名で人を黙らせる男。


 報告した男は震えていた。


「嘉助が、尾張に」


「捕らえられたか」


「はい」


「喋ったか」


「分かりませぬ」


「喋ったと思え」


 久蔵は即答した。


「嘉助は、自分だけが切られるとなれば喋る。そういう男だ」


「では」


「嘉助は勝手に動いた」


 久蔵は静かに言った。


「井上半九郎も、朝比奈の名も関わらぬ。そう流せ」


「ですが、半九郎様は」


「半九郎殿も同じことを言う」


 久蔵は、経机の上に置いてあった紙を取った。


 そこには、尾張の見立て場の配置、熱田の小荷札、大浜屋の動きが書かれていた。


「尾張の三郎は、名を返すことを覚えた。なら、こちらは名を切ることを覚えねばならぬ」


「名を切る」


「嘉助の名を切る。嘉助の下も切る。吉次という者も、小僧も、庄八も、使えぬ者は道から外せ」


 報告の男は、さらに青くなった。


「消すので?」


「消せと言っているのではない。道から外せと言っている」


 久蔵は笑った。


「ただ、消える者もいるだろうな」


 その言葉が届いた時、俺は胸の奥が冷えた。


 笠井久蔵は、嘉助を切る。


 半九郎も切るかもしれない。


 そして、吉次や小僧や庄八のような者も道から外す。


 道から外す。


 それは、表の言葉だ。


 裏では、消える。


「やはり守りを厚くする必要があります」


 信勝が言った。


「吉次、小僧、庄八。嘉助の周りにいた者たちを」


「ああ」


「でも、全員を城へ入れれば、見立て場が詮議場に見える」


「だから、散らして守る」


 長秀が言った。


「病人として、薬の手伝いとして、馬借の下働きとして、それぞれ置く」


「犬千代だけでは足りぬな」


 俺が言うと、犬千代がその場にいたら怒っただろう。


 いなかったので助かった。


 柴田が低く言った。


「私の者を使います。目立たぬ者を」


「頼む」


「ただし、いざという時は兵を出します」


「ああ。その時は止めぬ」


 止まることと、動かないことは違う。


 今は止まる。


 だが、斬るべき時に斬れないのも違う。


 その線も、見なければならない。


 午後、嘉助に笠井久蔵の「嘉助は勝手に動いた」と流れるだろう話を伝えた。


 嘉助は笑った。


 笑ったが、目は乾いていた。


「予想通りです」


「怒らぬのか」


「怒る資格がありません。私も、下の者へ同じことをしてきました」


「そうか」


「ただ、思ったより早い」


 嘉助は顔を上げた。


「若君様。笠井久蔵は、自分が切られる前に、別の騒ぎを起こします」


「なぜ」


「嘉助を切っただけでは、尾張へ道を返せません。笠井は、自分の名が見られたことを嫌がる。なら、こちらの目を別へ向けさせる」


「どこを狙う」


 嘉助は少し考えた。


「見立て場です」


「またか」


「はい。ただし、今度は病人や薬ではなく、火か水」


「水?」


「井戸です。見立て場は井戸に頼っています。井戸が汚れたという噂が流れれば、病人も村人も近づかない」


 俺は息を止めた。


 見立て場の井戸。


 確かに、そこは弱い。


 つねが場所を分け、水を大事にしていた。


 だが、水に噂を流されれば、見立て場そのものが止まる。


 毒を入れなくてもいい。


 井戸が汚れたと噂を流すだけでいい。


「すぐ見立て場へ伝えろ」


 俺は言った。


「井戸を守れ。ただし、大騒ぎにするな」


「はい」


 長秀が立つ。


 信勝も立った。


「私も行きます」


「行くぞ」


 今回は止めなかった。


 見立て場の水は、見立て場そのものだ。


 信勝の言葉も要る。


 俺も行く。


 夜を待たない。


 笠井久蔵の名が出たその日に、見立て場の井戸を見に行く。


 今度は受けるだけではない。


 先に守る。


 見立て場へ着くと、つねが井戸のそばにいた。


 顔が険しい。


「若様、ちょうどよかった」


「何かあったか」


「水を汲みに来た女が、『この井戸は危ないと聞いた』と言ったんだよ」


 来た。


 早い。


 笠井の道は、もう動いている。


「水は」


 つねは桶を差し出した。


「匂いは変じゃない。色もない。ただ、噂はもう入っている」


 信勝が、すぐ周囲を見た。


「誰が言ったのですか」


 水汲みの女は怯えていた。


「道で、知らない男が。この井戸は三河の病人の水だから、飲むと病が移ると」


 病ではなく、水を狙った。


 予想通りだ。


 いや、嘉助の予想通りだ。


 俺は井戸を見た。


 水は静かだ。


 だが、噂が入れば水は濁ったも同じになる。


「つね」


「はい」


「この井戸の水を、皆の前で見ることはできるか」


「できます。飲めと言われれば飲みます」


「飲むな」


「なぜです」


「お前に何かあれば、余計に騒ぎになる」


 つねは不満そうだった。


 婆は強すぎる。


「では、私が見ます」


 信勝が言った。


「お前も飲むな」


「兄上」


「飲む以外で見せろ」


 信勝は少し考えた。


「では、井戸の水で粥を炊きます。最初に、私と兄上が同じ粥を食べる」


「それなら」


 つねが頷いた。


「水が危ないという噂には効くね」


「帰蝶がいたら、飯で解くと言うだろうな」


「おたえさんも言います」


 すぐに粥が炊かれた。


 見立て場にいた者たちが遠巻きに見る。


 噂はもう広がりかけている。


 井戸が危ない。


 三河の病が移る。


 水が汚れた。


 こういう噂は、火より早い。


 粥ができると、俺と信勝は並んで食った。


 熱い。


 味は薄い。


 だが、うまい。


 俺は大きめに一口食べ、周囲を見た。


「水は見た。粥も食った。病を隠すための場ではない。病を分けて見るための場だ。井戸は分けて使う。汚れたら止める。だが、噂だけでは止めない」


 信勝も続けた。


「怖いと思ったら言ってください。水を隠して使うことはしません。皆の前で見ます」


 つねが桶を掲げた。


「水は水だよ。病を運ぶこともある。だから器を分ける。手を洗う。咳の者は風下。そうやって使う。怖がるだけでは、水も薬も使えない」


 女たちが少しずつ近づいてきた。


 おたえの女中が、同じ粥を小椀によそって配る。


 最初に受け取ったのは、昨日の少年だった。


 母親が少し良くなったあの子だ。


 少年は粥を見て、俺を見た。


「食べてもいい?」


「ああ」


 少年は食べた。


 周囲の緊張が少し緩んだ。


 子供は強い。


 時々、大人よりずっと強い。


 この井戸の噂は、完全には消えないだろう。


 だが、最初の火は消した。


 いや、水だから、濁りを沈めたと言うべきか。


 夜、那古野へ戻ると、嘉助が待っていた。


 見張りの下でだが、報告は聞いていたらしい。


「井戸でしたか」


「ああ」


「笠井らしい」


「次は何だ」


 嘉助は少し疲れた顔で考えた。


「次は、見立て場の中の者を疑わせるでしょう」


「つねか、玄斎か、おたえの者か」


「はい。特に玄斎は狙いやすい」


 玄斎本人が聞いたら、嫌な顔をするだろう。


 だが、事実だ。


 元々怪しい薬売りだ。


 見立て場で薬を見ていること自体を疑わせるには、ちょうどいい。


「玄斎を守る必要があるな」


 信勝が言った。


「怪しい人を守るのは、難しいですね」


「本当にな」


 俺は苦く笑った。


 元は悪い薬で人を縛っていた薬売りを、今度は見立て場の信用のために守る。


 世の中は面倒だ。


 だが、玄斎を失えば薬売りの道を見る目を失う。


 そして、笠井はそこを突く。


 笠井久蔵の名は出た。


 同時に、笠井の手も動き出した。


 嘉助を切り、井戸を疑わせ、次は玄斎を狙うかもしれない。


 名が上へ行くほど、手は冷たくなる。


 俺は地図に「笠井久蔵」と書いた。


 その横に「井戸」と添える。


 名が出たからといって終わりではない。


 むしろ、名が出たことで、相手は見えない手を速めてきた。


 だが、こちらも見た。


 嘉助の言葉で先に井戸を守れた。


 責の置き場を変えた者が、今度は守る道にもなった。


 それが不思議だった。


 罪ある者でも、話せば次の火を防ぐことがある。


 だから、まだ斬らない。


 まだ聞く。


 最後には逃がさない。


 けれど、最後までは使う。


 その危うい線の上を、俺たちは歩いている。

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