第77話 古い馬小屋の夜
古い馬小屋というものは、夜になると妙な匂いを持つ。
馬がいないのに、馬の匂いが残っている。
乾いた藁。
古い糞の染み。
湿った木。
錆びた金具。
人が隠れるには向いている。
なぜなら、そこには最初から何かが残っているからだ。
新しい足跡も、古い足跡に紛れる。
人の匂いも、馬の匂いに紛れる。
火を焚かずとも、誰かがいた気配を誤魔化せる。
嘉助がそこを選んだのは、たぶん偶然ではない。
清洲外れの古い馬小屋。
かつて馬借が使っていたが、道が変わってから半ば捨てられた場所だという。
村から近すぎず、城から遠すぎない。
熱田へも、三河道へも、清洲の内へも逃げられる。
まことに腹立たしいほど、よい隠れ場所だった。
「若様」
仁助は、地面に指で簡単な絵を描いた。
「馬小屋は、表口が一つ、裏へ抜ける板戸が一つ。あと、屋根裏へ上がる梯子があります」
「屋根裏?」
「はい。藁を置いていた場所です。人一人なら隠れられます」
「嘉助はそこか」
「まだ断定はできません。ただ、夜になると中へ入る者が二人。出る者が一人。数が合いません」
「つまり、一人残っている」
「はい」
長秀が帳面を開いた。
「出入りが確認された者は、小指の曲がった男、庄八、薬箱の小僧へ箱を渡した男と思われる者。それから、顔を布で隠した小柄な男です」
「小柄な男?」
「嘉助かもしれません」
信勝が静かに言った。
「あるいは、嘉助をそう見せたい別人かもしれません」
「そうだ」
俺は頷いた。
ここまで来ると、目に見えるものほど疑わしい。
嘉助が焦っている。
それは確かだ。
だが、焦っている者が自分で出るとは限らない。
焦っているように見せて、別の者を動かすこともある。
「捕らえるか」
柴田が低く言った。
今日の問いは、いつもより重かった。
清洲外れに、嘉助らしき者がいる。
半九郎の名の下で動く実務役。
吉次を嘘つきにしようとし、小僧を使い、庄八を回収した男。
捕らえたい。
今すぐ踏み込みたい。
俺の腹も、そう言っている。
だが、腹で政をすれば、半九郎の思う壺だ。
「まだだ」
俺は言った。
柴田は頷いたが、腕の筋が固くなっている。
「理由をお聞きしても」
「嘉助が本当にいるか、まだ足りぬ。いるとしても、誰が嘉助を切りに来るかを見る」
「切りに?」
信勝が聞いた。
「ああ。嘉助が焦っているなら、半九郎の側も焦っている。嘉助が口を滑らせれば、半九郎へ届く。なら、嘉助を逃がすか、黙らせるか、どちらかだ」
帰蝶が静かに言った。
「嘉助を捕らえに行く者と、嘉助を消しに行く者。どちらが先に来るか」
「そういうことだ」
長秀が眉を寄せる。
「吉次と小僧の守りは」
「厚くする。ただし、見せるな」
仁助が頷いた。
「小屋の方も、兵ではなく道の者で見ます」
「犬千代は」
信勝がちらりとこちらを見る。
「連れていかない」
俺が言うと、犬千代は即座に不満顔になった。
「若様!」
「馬小屋にお前を置いたら、馬より目立つ」
「馬より!?」
「褒めていない」
「承知しておりますが、少し納得が」
「犬千代」
信勝が穏やかに呼んだ。
「はい、信勝様」
「今夜は、吉次と小僧を守る役が要ります」
犬千代の顔が変わった。
「守る役」
「はい。嘉助側が焦っているなら、馬小屋だけでなく、吉次たちへも手が伸びるかもしれません。止まれる武者が必要です」
「止まれる武者……!」
また効いた。
犬千代は背筋を伸ばした。
「承知しました。吉次と小僧の方は、私が守ります」
「前へ出すぎずに」
「もちろんです」
少し不安だ。
だが、今の犬千代なら任せてもよいかもしれない。
いや、任せることで、そういう武者にするしかない。
夜を待った。
日が落ちてからの時間は長い。
那古野の灯火が一つずつ落とされ、城下の声が静まっていく。
人は夜になると、妙に本音を出す。
昼なら言わないことを言う。
昼なら動かない道を動く。
嘉助も、半九郎の手の者も、夜を使う。
なら、こちらも夜を見る。
ただし、火を大きくしすぎない。
目立つ灯は、影を逃がす。
清洲外れの古い馬小屋へは、俺自身は行かなかった。
行きたい気持ちはあった。
だが、俺が行けば周囲が固くなる。
兵が増える。
道が騒ぐ。
今夜見るべきものが、見えなくなる。
だから、仁助と恒興の者に任せた。
俺は那古野で、信勝、長秀、帰蝶、柴田と報せを待つ。
待つのは嫌いだ。
だが、最近は待つことばかりしている。
「兄上」
信勝が小さく言った。
「落ち着きませんね」
「お前もか」
「はい」
「俺は、今すぐ馬小屋へ行きたい」
「顔に出ています」
「また顔か」
帰蝶が茶を置いた。
「今夜は、顔に出しても構いません。ここには、見立て場の病人はいませんから」
「それは慰めか」
「半分は」
「もう半分は?」
「本当に顔に出ています」
柴田が咳払いをした。
笑いをこらえたのかもしれない。
この場で笑われるとは思わなかった。
少しだけ、肩の力が抜けた。
夜半前、最初の報せが来た。
仁助の者だった。
「馬小屋へ庄八が入りました」
「一人か」
「はい。荷なし。かなり急いだ様子です」
「嘉助は?」
「中にいると思われます。声が二つ」
「会話は」
「まだ拾えません」
報せの者はすぐ戻った。
また待つ。
しばらくして、二度目の報せ。
「小指の曲がった男が来ました。庄八と揉めています」
「揉めている?」
「はい。声が少し漏れました。『吉次が喋った』『小僧も危うい』『嘉助殿が決めろ』と」
嘉助殿。
馬小屋に嘉助がいる。
かなり濃い。
だが、まだ踏み込まない。
「続けて見ろ」
俺は言った。
柴田の眉がぴくりと動く。
だが、何も言わない。
彼も耐えている。
三度目の報せは、少し遅かった。
待つ時間が長いと、悪い想像ばかり浮かぶ。
吉次は無事か。
小僧は守れているか。
犬千代は飛び出していないか。
馬小屋で嘉助が逃げていないか。
半九郎の手の者が、逆にこちらの目を見ていないか。
火のそばで待つと、思考まで燃える。
「信長様」
帰蝶が言った。
「息が浅くなっています」
「そうか」
「はい」
「お前は、よく見るな」
「見ていますので」
その一言で、また少し落ち着いた。
右を見る、左を見る。
俺にも見る者がいる。
三度目の報せが来た。
今度の者は、少し息が乱れていた。
「若様。馬小屋へ新しい者が来ました」
「誰だ」
「旅僧姿です。ただ、僧ではありません。足運びが武家の者です」
「朝比奈の名か」
「まだ。ただ、中へ入る前にこう言いました。『半九郎様は嘉助殿を案じている』と」
場が静まった。
半九郎の使いか。
嘉助を逃がしに来たのか。
それとも、口を封じに来たのか。
「中の様子は」
「声が荒れています。嘉助と思われる者が、『俺は半九郎様のために動いた』と。旅僧姿の男が、『ならば半九郎様の名を汚すな』と」
「名を汚すな」
信勝が呟いた。
「危ないですね」
「ああ」
名を汚すな。
これは、忠告にも聞こえる。
だが、口封じの言葉にも聞こえる。
半九郎の名を守るために、嘉助を消す。
そういう道が見える。
「踏み込むか」
柴田が低く言った。
今度は、俺も迷った。
このまま見ていれば、嘉助が斬られるかもしれない。
踏み込めば、半九郎の使いも押さえられるかもしれない。
だが、早すぎれば、嘉助の口から半九郎へ届く言葉が取れない。
遅すぎれば、嘉助が死ぬ。
線引き。
本当に、何度目だ。
「仁助に伝えろ」
俺は報せの者へ言った。
「刃が抜かれたら踏み込め。それまでは聞け」
「はっ」
報せの者が走った。
柴田は目を閉じた。
武人にとって、刃が抜かれるまで待つのは苦しいだろう。
俺も苦しい。
だが、今夜は言葉を取る夜だ。
刃より前に、名を取る。
その頃、古い馬小屋の中では、嘉助が震えていた。
後に聞いた話と、仁助の者が拾った声を合わせると、だいたいこうだった。
嘉助は小柄な男だった。
髭は薄く、目だけがぎらついている。
商人ではない。
武士でもない。
だが、武士の名を借り、商人の道を使う者の顔をしていた。
庄八は、怯えながら言った。
「吉次が那古野へ出ました。小僧も失敗しました。見立て場では、嘉助様の名が」
「黙れ」
嘉助は低く言った。
「俺の名はまだ出ていない。出たのは、半九郎様の名だ」
小指の曲がった男が言う。
「いいえ。もう嘉助様の名も流れております。薬売りも、大浜屋も、馬借も、嘉助という名を聞いております」
「誰が流した」
「尾張です」
「吉次か」
「おそらく」
嘉助は歯を食いしばった。
「吉次を先に始末しておくべきだった」
その言葉に、外で聞いていた仁助の者が息を潜めたという。
やはり、吉次を消す気はあった。
そこへ、旅僧姿の男が入った。
名はまだ分からない。
だが、声は落ち着いていた。
「嘉助殿」
「……半九郎様は」
「案じておられる」
「私は、半九郎様のために」
「ならば、半九郎様の名を汚すな」
静かな声だった。
怖いほど静かだったという。
「尾張に、名を返されている。薬売りにも、商人にも、馬借にも。嘉助殿、あなたは少し急ぎすぎた」
「急がねば、尾張が道を塞ぐ!」
「塞がれたのは、あなたが道を荒らしたからだ」
「私は、半九郎様の命で」
「命?」
旅僧姿の男が、少し笑ったらしい。
「命札はあるのか」
尾張の言葉を使っている。
嘉助は黙った。
「半九郎様は、あなたに何と命じた」
「尾張の困りごとの道を試せと」
「病人を使えとは?」
「それは……必要と判断しました」
「悪い薬を混ぜろとは?」
「見立て場の名を落とすために」
「火番を眠らせる粉は?」
「それは、彦十の筋が」
「嘉助殿」
旅僧姿の男の声が低くなった。
「半九郎様は、知らぬと言える」
嘉助は、そこで初めて自分の立場を悟ったのだろう。
「私を、切るおつもりか」
「切るなどと物騒な」
「では、私はどうすれば」
「しばらく消えることです」
「どこへ」
「駿河へ」
「駿河へ戻れば、私は」
「半九郎様の名は守られる」
その瞬間、嘉助が叫んだ。
「ふざけるな! 俺がどれだけ道を作ったと思っている! 薬売り、宿、馬借、大浜屋の下、彦十、庄八、吉次、全部俺がつないだ! 半九郎様は見ていただけだ!」
出た。
半九郎は見ていた。
嘉助がつないだ。
必要な言葉だった。
外で聞いていた仁助の者が、ここで合図を送った。
だが、中ではさらに動きがあった。
旅僧姿の男が、袖から小刀を抜いた。
刃が出た。
その瞬間、仁助たちが踏み込んだ。
表口から二人。
裏戸から一人。
屋根裏へ回った者が一人。
中で小刀が振られ、庄八が悲鳴を上げた。
嘉助は後ろへ下がり、藁の山に足を取られた。
旅僧姿の男は逃げようとしたが、裏戸から入った者に押さえられる。
小指の曲がった男は屋根裏へ逃げようとして、上にいた仁助の者に蹴り落とされた。
大きな騒ぎにはならなかった。
兵を出さなかったからだ。
闇の中で、道の者が動いた。
それで十分だった。
那古野に四度目の報せが来た時、俺は立ち上がった。
「嘉助は」
「生きています。軽い傷です」
「旅僧姿の男は」
「押さえました」
「言葉は取れたか」
「嘉助が叫びました。『半九郎様は見ていただけだ』と」
場の空気が変わった。
信勝が小さく息を吐く。
長秀は筆を止めた。
柴田の拳が緩む。
帰蝶は静かに目を伏せた。
ようやく、半九郎の位置が少し見えた。
命じたかどうかはまだ不明だ。
だが、見ていた。
嘉助が道をつなぐのを、半九郎は見ていた。
見ていただけ。
佐橋と同じ言葉だ。
だが、もうその言葉の軽さは許さない。
「嘉助を連れてこい」
俺は言った。
「旅僧姿の男も。庄八、小指の男もだ」
「吉次と小僧は?」
「守れ。今夜は特に」
「はっ」
犬千代が吉次たちのところにいる。
半歩で止まる武者。
今夜は、その役が本当に要る。
明け方近く、嘉助が那古野へ運ばれてきた。
小柄な男だった。
右腕に浅い傷。
顔は青いが、目にはまだ意地がある。
旅僧姿の男は別室へ。
庄八と小指の男も分ける。
一緒にすれば口裏を合わせる。
まずは嘉助だ。
俺は、嘉助の前に座った。
信勝も隣に座る。
長秀、柴田、佐久間もいる。
帰蝶は少し後ろ。
嘉助は俺を見て、乾いた笑いを漏らした。
「うつけ殿が、ずいぶん細かい網を張られる」
「細かい網にかかった気分はどうだ」
「悪いですな」
「だろうな」
嘉助は黙った。
「半九郎は見ていただけか」
俺が聞くと、嘉助の顔が歪んだ。
「……私は、そう言いましたか」
「言った」
「なら、聞かれたのでしょう」
「聞いた」
嘉助は下を向いた。
「半九郎様は、命じていない」
「またそれか」
「本当です。あの方は、命じない。『尾張は困りごとの道を作ったらしい』『見てみたいものだ』『薬の値を見ているらしい』『見立て場というものは、どこまで人を入れるのか』。そう言うだけです」
佐橋と同じだ。
左内とも似ている。
命じない。
だが、動かす。
言葉を置き、周りが動く。
動いた者が責を取る。
上は言う。
私は、見ていただけだ。
「お前は、それで動いた」
「動かねば、別の者が動く。手柄も道も奪われる」
「病人を使ってか」
信勝の声は静かだった。
嘉助は、信勝を見た。
「きれいごとだけでは、道は取れませぬ」
「病人や子供を使う道なら、取らない方がよい」
「信勝様は、お優しい」
「違います」
信勝の声が、少し強くなった。
「病人や子供を使う道は、あとで必ず腐ります。腐った道は、商いも兵も通れなくなる。だから止めるのです」
嘉助は言い返せなかった。
信勝の言葉は、優しいだけではない。
実務になってきている。
「嘉助」
俺は言った。
「お前の罪は消えぬ」
「でしょうな」
「だが、お前は半九郎の道を知っている」
「話せと?」
「話せば、責の置き場は変わる」
嘉助は笑った。
「最近、その言葉が流行っているようで」
「便利だからな」
「私を生かして、半九郎様へ届く道にするおつもりか」
「そうだ」
隠さない。
嘉助は少し驚いた顔をした。
「正直ですな」
「嘘をついても、お前は信じないだろう」
「ええ」
「なら、話が早い」
嘉助は、しばらく黙った。
外は少しずつ白み始めている。
長い夜だった。
古い馬小屋の夜は終わった。
だが、ここからが本当の詮議だ。
「半九郎様は、岡崎を見ております」
やがて、嘉助が言った。
「駿河ではなく?」
「駿河の者です。ですが、岡崎を見ている。岡崎が尾張をどう見るか、尾張が岡崎をどう見るか。それを知りたがっている」
「今川のためか」
「今川のためでもあり、半九郎様自身のためでもある」
「朝比奈の名は」
嘉助は、唇を結んだ。
「朝比奈様ご本人からではありません」
場が静まる。
「誰だ」
「朝比奈家中の末の者です。名はまだ」
「まだ?」
「言えば、私は本当に消されます」
「言わなければ?」
「半九郎様へ届かない」
嘉助は、苦く笑った。
「なるほど。最後には逃がさないとは、こういうことですか」
「そうだ」
俺は嘉助を見た。
「名は最後でいい。だが、最後には聞く」
嘉助は目を閉じた。
そして、ゆっくり言った。
「朝比奈の名を使った者は、笠井久蔵」
新しい名だった。
笠井久蔵。
朝比奈家中の末の者。
半九郎へ名を貸し、半九郎が嘉助を動かした。
ようやく、名の階段がさらに上へつながった。
俺は、長秀の筆の音を聞いた。
小さな音だ。
だが、その音は確かに戦の前触れを書き留めていた。




