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第76話 嘉助、焦る

 嘉助という名が出た翌朝、道が少し乱れた。


 乱れた、と言っても、兵が走ったわけではない。


 火が上がったわけでもない。


 誰かが城門を叩いたわけでもない。


 だが、薬売りがいつもの宿を替えた。


 大浜屋の下働きが、熱田の小荷札を書く場へ顔を出さなかった。


 三河道の馬借が、半九郎の名を出した荷を一つ断った。


 そして、境の見立て場へ、昨日まで来ていた男が来なくなった。


 そういう小さな乱れが、いくつも起きた。


 小さい。


 だが、小さいからこそ道に出る。


 大きな変化は、誰かが隠そうとする。


 小さな変化は、隠す前に漏れる。


「嘉助が焦っていますね」


 信勝が言った。


 朝の評定の場である。


 長秀が帳面を広げ、仁助が道の報せを並べ、玄斎が薬売り筋の変化を話した後だった。


「なぜそう思う」


 俺が聞くと、信勝は少し考えた。


「吉次がこちらへ来たことが、嘉助の耳に入ったはずです。吉次は下の者です。下の者が一人こちらへ出たなら、次も出るかもしれない。そう思えば、嘉助は下を締めるか、切るか、急いで手柄を立てるしかありません」


「お前、ずいぶん嫌な読みをするようになったな」


「兄上のそばにいるので」


「俺のせいか」


「半分は」


 帰蝶が静かに茶を置いた。


「残り半分は、信勝様ご自身が見てこられたものですね」


 信勝は少しだけ目を伏せた。


 信勝も、自分の名を使われた。


 自分の周りにいた者たちが、どのように不安を抱え、どのように担がれ、どのように切られそうになるかを見てきた。


 だから、嘉助の焦りも見えるのだろう。


「嘉助は、半九郎から切られるのを恐れている」


 長秀が言った。


「同時に、下の者が逃げるのも恐れています。なら、次に考えられる動きは三つです」


「言え」


「一つ、吉次を消す。二つ、吉次を嘘つきにする。三つ、吉次より大きな騒ぎを起こして、こちらの目を逸らす」


 柴田の顔が険しくなった。


「吉次を守る必要がありますな」


「ああ」


 吉次。


 半九郎の名で動いていた下働き。


 切られることを恐れ、見立て場へ出てきた若い男。


 罪はある。


 だが、あいつは道だ。


 そして、人でもある。


 ここを間違えてはならない。


「吉次はどこに置いている」


「那古野の外れの小屋です」


 長秀が答える。


「表向きは病み上がりの者として。見張りは仁助の者が二人。兵は見せていません」


「よい」


 柴田が少し不満そうにした。


「兵で守った方が確かでは」


「兵で守れば、吉次が重要だと触れて回るようなものだ」


「承知しております」


 分かってはいる。


 だが、武の者としてはもどかしいのだろう。


 俺も、少し同じ気持ちだった。


 守るなら兵を置きたい。


 捕らえるなら縄をかけたい。


 だが、それをすれば道が歪む。


 吉次は、まだ細い糸だ。


 太い縄で縛れば切れる。


「嘉助へ、こちらから触れるか」


 佐久間が聞いた。


「まだだ」


 俺は首を横に振った。


「焦っているなら、動かせる」


「動かせる?」


「嘉助の方から動かざるを得ないようにする」


 帰蝶が頷いた。


「吉次の名を伏せたまま、『半九郎の名で動いた者が、嘉助という名を口にした』と道へ戻すのですね」


「そうだ」


「吉次を守りつつ、嘉助だけを揺らす」


 信勝が言う。


「嘉助は、自分の名がどこまで出たか分からず焦る」


「ああ」


 名を出すのは最後でいい。


 だが、使う名は選ぶ。


 吉次の名は守る。


 嘉助の名は揺らす。


 半九郎の名へは責を戻す。


 朝のうちに、言葉を三つに分けて流した。


 薬売り筋へ。


 ――半九郎の名で動いた者が、嘉助という名を口にした。悪い薬の出所を知る者らしい。


 商人筋へ。


 ――嘉助という者が、半九郎の名で小荷を動かしているらしい。名を預かる商いは、嘉助の荷を確かめよ。


 道の者へ。


 ――嘉助の名が出た。病人を使った道に関わるらしい。嘉助の名で急がせる者は、戻り先を聞け。


 同じ名でも、相手によって意味を変える。


 嘉助は薬売りには悪い薬の出所。


 商人には小荷の危うさ。


 道の者には病人を使った道。


 これで、嘉助の周りが狭まる。


 昼前、見立て場へ向かった。


 今日は、昨日より人が多い。


 名を聞かれないという評判は、少し効いている。


 だが、人が増えれば影も増える。


 つね婆は朝から忙しい。


 玄斎は薬包を分けながら、ぶつぶつ言っていた。


「薬売りとしては、ここまで見られると商売になりませぬ」


「なら、悪い薬を売るな」


「まっとうな薬売りも迷惑しております」


「まっとうになれ」


「努力はしております」


 つねが横から言った。


「努力だけじゃ薬にはならないよ」


「婆様は本当に手厳しい」


 こういう会話があるせいか、見立て場に来る者は少し笑う。


 笑いながら、薬を見せる。


 悪くない。


 犬千代は今日も奥にいる。


 止まれる武者の顔をしている。


 昨日よりは変ではない。


「犬千代」


「はい」


「今日はいい顔だ」


 そう言うと、犬千代はぱっと明るくなった。


「守る顔でございますか」


「たぶん」


「たぶん!?」


 信勝が笑いをこらえながら言う。


「かなり守る顔です」


「信勝様!」


 犬千代は感動した。


 単純ではない。


 扱い方が少し分かってきただけだ。


 昼過ぎ、嘉助の焦りが見立て場へ届いた。


 来たのは、薬売りの小僧だった。


 年は十五か十六ほど。


 背負った薬箱が体に合っていない。


 明らかに急に持たされたものだった。


「薬を売りに」


 小僧は言った。


 声が震えている。


 つねが薬箱を見た。


「この箱、お前のじゃないね」


 小僧の肩が跳ねた。


「いえ、その」


 玄斎が箱の留め具を見る。


「嘉助の筋で使っていた箱です」


 小僧の顔が青くなった。


「嘉助を知っているのか」


 俺が聞くと、小僧は首を激しく振った。


「知りません!」


 速すぎる否定だ。


 信勝が前へ出る。


「知らないなら、誰から箱を預かりましたか」


「道で、男に」


「名は」


「……嘉助様の使いだと」


「それは、嘉助を知っているということではありません。嘉助の名を出した男を知っている、ということです」


 信勝は、いつもこういう細い言い換えが上手い。


 小僧の顔が少し緩んだ。


 自分が嘘をついたと責められるのではなく、知っている範囲を分けられたからだ。


「箱の中を見ます」


 つねが言った。


 小僧は抵抗しなかった。


 箱の中には、咳止め、熱冷まし、傷薬。


 そして、一番下に布袋。


 布袋の中には、薬ではなく銭と小さな紙が入っていた。


 紙には、こうあった。


 ――吉次は嘘つき。嘉助を知らぬ。見立て場へ触れよ。


「早いな」


 俺は呟いた。


 嘉助は、吉次を嘘つきにする手を打った。


 長秀の読みの二つ目だ。


 吉次を消すのではなく、まず嘘つきにする。


 見立て場で、吉次の証言を揺らそうとしている。


「小僧」


 俺は言った。


「お前は、この紙を知っていたか」


 小僧は泣きそうになった。


「知りません。本当に、薬箱を運べば銭をくれると」


「銭が欲しかったか」


「母が」


 また母だ。


 薬代か、飯か。


 影はいつも同じ場所に入る。


「母がどうした」


 信勝が聞く。


「奉公先を出されて、弟たちが食えなくて」


 つねが小さく息を吐いた。


 玄斎も目を逸らした。


 小僧は使われただけだ。


 だが、薬箱には悪い紙が入っている。


 この小僧を怒鳴れば、見立て場の評判が傷つく。


 見逃せば、嘉助の言葉が通る。


 線引きだ。


 また、線引き。


「薬は見る。悪いものは抜く。小僧は飯を食わせてから話を聞く」


 俺は言った。


「名は?」


 長秀の手代が聞く。


「最後でいい」


 小僧は、そこで初めて泣いた。


 泣きながら座り込んだ。


 おたえの女中が粥を持ってきた。


 犬千代は奥で拳を握っていた。


 出なかった。


 よく止まった。


 しばらくして、小僧は少しずつ話した。


 嘉助本人には会っていない。


 嘉助の使いを名乗る男に、薬箱を渡された。


 見立て場で薬を売り、聞かれたら「吉次は嘘つきだ」と言えと言われた。


 言えば銭。


 言わなければ、母と弟たちへの米はない。


「嘉助の使いの男は?」


「頬に黒子がありました。右手の小指が曲がっていました」


 特徴が出た。


 仁助の者がすぐ動く。


 小指の曲がった男。


 薬箱を渡した者。


 嘉助のすぐ下か、そのまた下か。


 いずれにしても、糸だ。


 午後、もう一つ動きがあった。


 大浜屋の藤助から急ぎの使いが来た。


 彦十の周りにいた男が、熱田の小荷札場から消えたという。


 名は庄八。


 彦十の古い下働き。


 最近は嘉助の名を口にしていたらしい。


「彦十は?」


 俺が聞く。


「熱田におります。小荷札を書いております」


「庄八を逃がしたか」


 使いは首を振った。


「彦十殿は、『庄八は嘉助に呼ばれた』と申しております」


「嘉助が、彦十の周りを回収し始めたか」


 信勝が言った。


「吉次が出た。小僧も捕まった。庄八も口を滑らせる前に戻したいのでしょう」


「焦っているな」


「ああ」


 嘉助は、自分の下や周辺を急いで動かしている。


 小僧を使って吉次を嘘つきにする。


 庄八を回収する。


 薬売り筋に圧をかける。


 これらが同時に起きている。


 焦っている証拠だ。


「庄八の道を追え」


 俺は言った。


「ただし捕らえるな。嘉助へ近づくか見る」


 仁助の者が頷いた。


「分かってます。追いすぎず、見ます」


 夕方、見立て場に信じがたい客が来た。


 吉次だった。


 守っている小屋から勝手に出たわけではない。


 仁助の者に付き添われて来た。


 顔色は悪いが、目は決まっている。


「若君様」


「なぜ来た」


「小僧が、私を嘘つきと言わされそうになったと聞きました」


「誰から聞いた」


「仁助殿の者から」


 俺は仁助を見た。


 仁助は肩をすくめた。


「隠しても揺れるだけかと思いまして」


「勝手なことを」


「すいやせん」


 謝っていない。


 だが、判断は悪くない。


 吉次が後から知れば、自分が切られたと思うかもしれない。


 先に知らせた方がよいこともある。


「それで、何をしに来た」


 俺が聞くと、吉次は深く頭を下げた。


「私が、見立て場の前で言います。吉次は嘘をついていない、と」


「駄目だ」


 俺は即答した。


 吉次が顔を上げる。


「なぜですか」


「お前の名を広げることになる」


「でも」


「嘉助はそれを狙っているかもしれない。吉次という名が出れば、吉次を消しやすくなる。あるいは、吉次の家を探しやすくなる」


 吉次は唇を噛んだ。


「では、私は黙っているしか」


「違う」


 信勝が言った。


「吉次という名ではなく、『半九郎の名で動いた者』として、あなたの言葉を使います。名は伏せる。でも、嘘ではない」


 吉次は信勝を見る。


「私の言葉を」


「はい。あなたが見たこと、聞いたこと。ただし、あなたの名は最後でいい」


 吉次の目が揺れた。


「私は、名を言ったのに」


「だから守る必要があります」


 信勝は静かに言った。


「名を言った人ほど、軽く使ってはいけません」


 吉次は、深く頭を下げた。


 その後、見立て場の入口で、信勝が短く告げた。


「今日、吉次という名を嘘つきにしようとする紙が見つかりました。ですが、ここでは、名を軽く晒しません。半九郎の名で動かされた者が、嘉助という名を口にした。それは事実です。名を守るためにも、嘘を重ねる者を見ます」


 吉次の名は出さなかった。


 しかし、吉次が嘘つきではないことは伝えた。


 小僧も、少し離れたところで聞いていた。


 泣き腫らした目で、何度も頷いていた。


 犬千代は奥で、また守る顔をしていた。


 今度は、変ではなかった。


 夜に近づく頃、仁助の者が戻った。


 庄八の足取りを追っていた。


「若様」


「どうだった」


「庄八は嘉助へは直接行きませんでした。途中で、小指の曲がった男と会いました」


「小僧に薬箱を渡した男か」


「たぶん同じです」


「その男は」


「清洲外れの古い馬小屋へ入りました。そこに、もう一人います」


「誰だ」


「まだ名は。ですが、半九郎の手の者たちが『嘉助殿』と呼んでいるようです」


 来た。


 嘉助。


 ようやく、その居場所が見えた。


 清洲外れの古い馬小屋。


 半九郎本人ではない。


 だが、嘉助がいる。


 嘉助は焦り、下を集め、吉次を嘘つきにしようとし、小僧を使い、庄八を戻し、小指の曲がった男を動かした。


 線が集まった。


「捕らえるか」


 柴田がいれば、必ずそう言っただろう。


 だが、ここに柴田はいなかった。


 代わりに信勝が俺を見た。


「兄上」


「何だ」


「捕らえる前に、誰が嘉助へ来るか見ますか」


「そうだ」


 俺は頷いた。


「焦っている嘉助は、まだ動く。今捕らえれば、嘉助止まりだ」


「半九郎へ届かない」


「ああ」


「でも、遅れれば吉次や小僧が危ない」


「だから、守りを厚くする。ただし見せすぎない」


 仁助に命じた。


 嘉助の馬小屋を見ろ。


 入る者、出る者を見る。


 捕らえるのはまだだ。


 吉次と小僧の周りを固める。


 ただし、兵ではなく道の者で。


 見立て場は、明日も開ける。


 嘉助に、まだこちらが焦っていないと見せる。


 焦っているのは嘉助だ。


 こちらが焦れば、同じになる。


 那古野へ戻ったのは夜だった。


 帰蝶に話すと、彼女は少し眉を寄せた。


「嘉助が見えましたか」


「ああ」


「ですが、焦っている者は、思い切った手を打ちます」


「分かっている」


「見立て場か、吉次か、小僧か、あるいは嘉助自身の口封じか」


「口封じ?」


「嘉助が、半九郎に切られる前に、誰かを切るかもしれません」


 あり得る。


 吉次。


 小僧。


 庄八。


 小指の曲がった男。


 使った者を消せば、線は切れる。


「明日は、危ういな」


 俺は言った。


「はい」


 信勝が静かに続けた。


「でも、嘉助が焦っているなら、こちらが焦らないことが一番大事です」


「お前が言うか」


「兄上が焦りそうな顔をしているので」


「また顔か」


「はい」


 帰蝶も頷いた。


「顔に出ています」


 どうやら俺の顔は、俺より正直らしい。


 夜、地図の清洲外れに印をつけた。


 古い馬小屋。


 嘉助。


 小指の曲がった男。


 庄八。


 吉次。


 小僧。


 線が、一気に近づいた。


 半九郎はまだ遠い。


 だが、半九郎の名の下で動いていた嘉助が、焦り始めた。


 焦る者は、失敗する。


 だが、焦る者は同時に、思い切ったこともする。


 明日は、そのどちらが出るか。


 見なければならない。


 最後には逃がさない。


 だが、その最後までの道を、急ぎすぎてはいけない。


 俺は灯火を見つめた。


 火は、急に大きくすると消えることがある。


 人の名も、たぶん同じだ。


 焦って掴めば、灰になる。


 だから、火の加減を見る。


 名の揺れを見る。


 嘉助の焦りを見る。


 明日が、勝負になる。

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