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第75話 半九郎の名が揺れる

名は、強い。


 名を出せば、人は動く。


 織田の名。


 信勝の名。


 柴田の名。


 大浜屋の名。


 朝比奈の名。


 井上半九郎の名。


 けれど、強い名ほど、揺れ始めると脆い。


 名が強いのは、皆がその名を信じているからだ。


 この名なら通る。


 この名なら断れない。


 この名なら責を取ってくれる。


 そう思うから、人はその名で動く。


 なら逆に、その名で動いた時に責が戻ってくると分かれば、人は急に足を止める。


 井上半九郎の名で薬を渡す。


 井上半九郎の名で小荷を運ぶ。


 井上半九郎の名で病人を使う。


 それに対して、こちらは三つの道へ言葉を返した。


 ――半九郎の名で悪い薬を混ぜる者がいる。薬売りの名も傷つく。


 ――半九郎の名で小荷を汚す者がいる。名を預かる商いが危うくなる。


 ――半九郎の名で病人を使う者がいる。境の道が荒れる。


 朝になると、さっそく返りがあった。


 最初に来たのは、玄斎だった。


 あの薬売りが、いつになく早く那古野へ顔を出した。


 薬箱を抱えたまま、少し疲れた顔をしている。


「若君様」


「何だ」


「薬売りの道が、少し騒いでおります」


「半九郎の名か」


「はい」


 玄斎は苦笑した。


「今までは、半九郎様の名を出せば、薬草も小瓶も少し通りやすかった。ですが、昨日からは違います。『半九郎の名で悪い薬を混ぜる者がいる』と流れたせいで、薬売り同士が互いの薬箱を見始めました」


「よいことではないか」


「薬売りにとっては、面倒なことです」


「人の弱みを食うよりましだ」


「それを言われると、反論しにくい」


 玄斎は肩をすくめた。


「それで?」


「半九郎様の手の者を名乗る男が、咳止めの粉を十包ほど買おうとしました。ですが、売り手が『どこの咳を守る薬か』と聞いた」


 信勝が顔を上げた。


「答えられなかったのですね」


「はい。男は怒ったそうです。『半九郎様の名を疑うのか』と」


「売り手は何と」


 玄斎が、少しだけ笑った。


「『疑っているのは名ではない。薬の使い道だ』と」


 よい。


 かなりよい。


「誰が言った」


「昔の私の知り合いです。性格は悪いが、薬を見る目はあります」


「お前の知り合いなら、性格は悪いだろうな」


「若君様、少しずつ私への扱いが雑になっております」


「信頼の表れだ」


「それは、あまり嬉しくない信頼でございます」


 玄斎はぼやいたが、悪い顔ではなかった。


 薬売りの道で、半九郎の名が止められた。


 これは小さい。


 だが、小さくない。


 次に来たのは、藤助だった。


 大浜屋の手代である。


 藤助は礼をした後、すぐ本題に入った。


「若君様。大浜屋の内でも、半九郎の名が少し揺れております」


「彦十か」


「彦十殿は、表向き黙っております。熱田で小荷札を書かされておりますので、あまり大きく動けませぬ」


「不満は?」


「もちろんあります」


「だろうな」


 藤助は続けた。


「ですが、彦十殿の周りにいた者たちが困り始めております。これまで『半九郎様の筋』とだけ言えば通った荷に、今は『半九郎様ご本人か、半九郎様の名を使う者か』と聞かれるようになりました」


 信勝が静かに言った。


「名の持ち主と、名を使う者を分け始めたのですね」


「はい」


 藤助は頷いた。


「これは商人には効きます。誰の名で責を取るのかが曖昧な荷は、商いの途中で止まる」


「大浜屋はどうする」


「大浜屋の預かり札がない荷は、熱田では通しません。岡崎筋へも、そう伝えました」


「藤右衛門は何と」


 藤助は、少し間を置いた。


「主は、まだ表へは出ませぬ。ただ、『藤助の筋で熱田を整えよ』と」


「彦十ではなく」


「はい」


 大浜屋の中で、少し力が動いた。


 藤助が熱田筋を握り始めている。


 彦十は駿河筋を見すぎて足を取られた。


 大浜屋の主、藤右衛門はそれを見ている。


 まだ顔は出さない。


 だが、札の向こうで判断している。


「藤助」


「はい」


「半九郎の名が揺れれば、大浜屋の荷も揺れる」


「承知しております」


「利を失うかもしれぬぞ」


「利は、道があってのものです」


 藤助は静かに言った。


「熱田の道を失う方が、大浜屋には痛い」


 よし。


 大浜屋の名は、少なくとも今は熱田を捨てない。


 それだけ分かれば十分だ。


 三つ目に来たのは仁助だった。


 こちらは、少し楽しそうな顔をしていた。


「若様、道の者も面白いことになってます」


「面白がるな」


「すいやせん。でも、道は正直です」


「言え」


「半九郎様の名で人を動かそうとする者が、昨日から二度止められました」


「誰に」


「馬借と宿の下働きに」


「なぜ止まった」


「『半九郎様の名で動いたら、あとで若君側から半九郎様へ責が戻るらしい』と聞いたからです」


 責が戻る。


 この言葉が効いている。


 半九郎の名で動くことは、もう安全な隠れ蓑ではない。


 名を使えば、その名へ責が戻る。


 そう思わせるだけで、道の者は慎重になる。


「半九郎の手の者は?」


「怒ったそうです。『尾張のうつけに怯えるのか』と」


「それで」


「馬借が返したそうです。『怯えているのではない。荷の戻り先を聞いている』と」


 俺は思わず笑った。


 よい。


 実によい。


 荷の戻り先。


 責の戻り先。


 商人や馬借には、こういう言葉が効く。


 信勝が隣で少し笑う。


「尾張の言葉が、道の言葉に変わっていますね」


「ああ」


「それは強いです」


「強いが、広がれば曲がる」


「はい。だから見続ける」


 その通りだ。


 言葉が広がれば、必ず曲がる。


 だが、広がらなければ届かない。


 また線引きだ。


 その頃、三河の宿で井上半九郎は、三つの報告を受けていた。


 半九郎は、いつものように静かな顔で聞いていたという。


 薬売りが、薬の使い道を聞き始めた。


 大浜屋が、半九郎の名だけでは熱田の小荷を通さなくなった。


 馬借が、荷の戻り先を聞き始めた。


 報告を終えた男は、不安げに言った。


「半九郎様、このままでは名が使いにくくなります」


 半九郎は笑った。


「名は、使いやすい時ほど危うい」


「ですが」


「尾張の三郎は、名の使い方を覚えましたな」


 その声には、少し感心が混じっていたらしい。


 報告した男は、戸惑った。


「褒めておられるので?」


「敵を褒めることと、敵を許すことは違う」


 半九郎は、机の上に置いた木片を見た。


 そこには「半」と焼かれている。


 昨日、こちらが見つけたものと同じだ。


 どうやら、半九郎は同じ合図を複数使っていた。


「尾張は、こちらの名へ責を戻してきた。なら、こちらは別の名へ流せばよい」


「朝比奈様の名を?」


 男が聞くと、半九郎は首を横に振った。


「それはまだ早い。朝比奈の名は重い。重い名は、乱用すれば潰れる」


「では」


「半九郎の名を揺らされたなら、半九郎本人が揺れているように見せればいい」


「どういうことですか」


 半九郎は、薄く笑った。


「私は知らぬ。私の名を誰かが使っている。そういう顔をする」


「実際、そういう荷もございますが」


「だから使える」


 男は黙った。


「尾張は、名の持ち主と名を使う者を分け始めた。なら、こちらも分ける。井上半九郎本人は、病人を使うような無体は知らぬ。悪い薬も知らぬ。そう言えば、尾張はどうする」


「半九郎様を責めにくくなります」


「そうだ。だが、名は残る。半九郎の名は揺れるが、消えない。揺れる名ほど、人は追いたくなる」


 嫌な男だ。


 自分の名が揺れることすら、道具にするつもりだ。


 その報告がこちらへ来たのは、夕方だった。


 仁助の者が、宿の外で半九郎の手の者の会話を拾った。


 全部ではない。


 だが、「半九郎本人は知らぬ顔をする」「名を使う者と分ける」「尾張は追いたくなる」という断片は届いた。


 俺は、それを聞いて、しばらく黙った。


「兄上」


 信勝が言う。


「半九郎は、自分の名が揺れることも利用するつもりですね」


「ああ」


「では、名が揺れたからといって、すぐ本人へ飛びついてはいけない」


「そうだ」


 半九郎は、こちらが責を戻したことに対して、今度は「自分も名を使われた被害者かもしれない」という顔を作ろうとしている。


 それをされると、捕らえにくくなる。


 だが、逆に言えば、半九郎は自分の名を守る必要に迫られている。


 そこは変わらない。


「どうしますか」


 長秀が聞いた。


「半九郎本人を責める文は出さない」


「では」


「半九郎の名を使った者がいるなら、半九郎本人が名を守るために知らせよ、と返す」


 信勝が頷いた。


「逃げ道を塞ぐのではなく、責の道を作るのですね」


「そうだ」


 帰蝶が静かに言った。


「知らぬと言うなら、知る努力をしていただく」


「それだ」


 俺は頷いた。


「半九郎が知らぬ顔をするなら、知らぬことを許さない。名を使われたなら、誰が使ったか調べろと」


「それは、半九郎の内側を揺らしますね」


 長秀が言った。


「半九郎の手の者は、自分たちが切られるかもしれないと不安になります」


「そういうことだ」


 半九郎本人をすぐ捕まえようとすれば、遠い。


 だが、半九郎の周りを揺らすことはできる。


 名を使っていた者たちは、半九郎に守られていると思っていた。


 ところが、半九郎が「自分の名を使った者は知らせよ」と言わざるを得なくなれば、手の者たちは怖くなる。


 守られるのか。


 切られるのか。


 そこに疑いが生まれる。


「少し、左内に似ていますね」


 信勝が言った。


「隙間に立つ者は、上の名に守られていると思って動く。けれど、その名が自分を切るかもしれないと分かると、揺れる」


「ああ」


 まさにそれだ。


 名を借りて動く者は、名に守られている。


 だが、名に切られることもある。


 その怖さを戻す。


 見立て場では、この日も人が来た。


 噂はまだある。


 だが、少し変わった。


 ――名は聞かれない。


 ――ただし、荷は見られる。


 ――悪い薬は通らない。


 ――犬千代様は怒鳴らない。


 最後の噂は、少し笑った。


 犬千代は聞いて、複雑な顔をしていた。


「若様。私は怒鳴らない男と思われているのでしょうか」


「いいことだ」


「そうでしょうか」


「少なくとも見立て場では」


 信勝が微笑む。


「止まれる武者として、名が広がっています」


「名が!」


 犬千代が嬉しそうにした。


 俺は釘を刺した。


「その名を守れ」


「はい!」


 名は、人を縛る。


 だが、よい縛り方もある。


 犬千代は、止まれる武者という名に縛られ始めている。


 悪くない。


 昼頃、半九郎の名を巡る揺れが、見立て場にも現れた。


 一人の若い男が来た。


 荷はない。


 病人でもない。


 ただ、見立て場の入口でしばらく迷い、やがて信勝の前へ進み出た。


「信勝様」


「はい」


「名は、最後でよいと聞きました」


「はい」


「では、先に言います。私は、半九郎様の名で動いていた者です」


 場が静まった。


 犬千代が半歩出る。


 止まる。


 若い男は、両手を上げた。


「逃げません。私は、切られるのが怖くなりました」


 俺は男を見た。


「誰に」


「半九郎様にです」


 来た。


 揺れが、ここまで届いた。


「話せ」


 男は、仮名帳には「若男一」と記された。


 本名はまだ聞かない。


 彼は、半九郎本人に直接仕えているわけではない。


 半九郎の手の者の、さらに下。


 薬包を運んだり、白紙を渡したり、宿の様子を見たりする役だった。


「半九郎様は、私たちを知りません」


 男は言った。


「でも、半九郎様の名で動けと言われました」


「誰に」


「井上様の側にいる、嘉助という男に」


 新しい名が出た。


 嘉助。


「半九郎本人ではなく、嘉助」


「はい」


「嘉助は朝比奈の名を出したか」


 男は頷いた。


「『朝比奈様の筋である』と」


「誰の朝比奈だ」


「そこまでは」


 やはり、そこから先は見えない。


 だが、半九郎の名のすぐ下に嘉助が見えた。


 名の階段が一段降りた。


 長秀の手代が、懸命に書いている。


「なぜ来た」


 信勝が聞いた。


 男は唇を噛んだ。


「半九郎様の名で悪い薬を混ぜた者がいると聞きました。半九郎様が怒っているとも聞きました。嘉助殿は、『下の者の勝手だと言えば済む』と」


「つまり、お前たちが切られる」


 男は震えた。


「はい」


 名に守られていた者が、名に切られる。


 その怖さが、男をこちらへ押した。


「兄上」


 信勝が俺を見る。


「この人は、名を最後にするべきではないかもしれません」


「ああ」


 ここからは違う。


 本人が、自分の名を出してでも守りたいものがある。


「名を聞く」


 俺は言った。


「嫌なら仮名でもいい。だが、お前を守る道を作るには、こちらも戻る場所が要る」


 男は少し迷い、名を言った。


「吉次と申します」


 長秀の手代が仮名帳に追記する。


 若男一、吉次。


 名が最後に来た。


 順番は守った。


「吉次」


 俺は言った。


「お前の罪は消えぬ」


「はい」


「だが、話せば責の置き場は変わる。嘉助の道を話せ」


 吉次は深く頭を下げた。


「はい」


 その日、吉次から聞いた話で、半九郎の名の下にいる者たちの姿が少し見えた。


 嘉助。


 薬包を用意する男。


 白紙を渡す宿の女。


 朝比奈の名を匂わせる小者。


 井上半九郎本人は、直接命を下さない。


 だが、嘉助たちは半九郎の名で動く。


 失敗すれば、下の者の勝手にする。


 うまくいけば、半九郎の手柄にも、朝比奈筋の働きにもできる。


 責を上へ届かせず、名だけ下へ流す。


 それが、半九郎の道だった。


 夜、那古野で吉次の話を整理した。


 長秀の帳面には、新しい線が増えた。


 井上半九郎。


 嘉助。


 薬包の男。


 宿の女。


 偽僧。


 母子へ薬包を持たせた者。


 悪い薬を売ろうとした薬売り。


 線はまだ不完全だ。


 だが、半九郎の名の下が見え始めている。


「若様」


 長秀が言った。


「半九郎の名は揺れています。ですが、揺れたことで下の者がこちらへ出てきました」


「揺らしてよかったな」


「はい。ただし、半九郎も次に手を変えます」


「来るだろうな」


 信勝が静かに言った。


「半九郎は、嘉助を切るでしょうか」


「分からぬ」


「切れば、嘉助も揺れる」


「ああ」


「切らなければ、半九郎本人の責が濃くなる」


「どちらにしても、こちらは嘉助へ届く道を作る」


 帰蝶が頷いた。


「吉次を使いすぎないように」


「分かっている」


「怯えて出てきた者を、すぐ囮にすれば、見立て場の信頼が傷つきます」


「そうだ」


 吉次は道だ。


 だが、人でもある。


 道としてだけ使えば、また影と同じになる。


 そこを間違えない。


 このあたりが、本当に難しい。


「信長様」


 帰蝶が言った。


「半九郎の名を揺らした次は、嘉助の名を焦らせることになるでしょう」


「嘉助を?」


「はい。半九郎に切られる前に、嘉助が何をするかを見るのです」


 信勝が続けた。


「嘉助は、自分が切られないために動く。あるいは、半九郎へ忠義を見せるために強い手を打つ」


「どちらもあり得る」


 俺は地図を見た。


 嘉助の名を、半九郎の下に書く。


 まだ薄い線だ。


 だが、確かに出た。


「次は嘉助だ」


 俺は言った。


 半九郎の名は揺れた。


 だが、半九郎本人はまだ遠い。


 その下の嘉助が動く。


 名を守るためか。


 名に切られないためか。


 どちらにしても、道は動く。


 こちらは、吉次を守りながら、その道を見る。


 名を揺らせば、人が出る。


 人が出れば、次の名が出る。


 最後には逃がさない。


 半九郎へ届くまで、まだ少しかかる。


 だが、確実に近づいている。

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