第74話 最後には逃がさない
名は最後でいい。
だが、最後には逃がさない。
この二つは、似ているようでまるで違う。
最初に名を聞かないのは、困っている者を守るためだ。
病を抱えた家。
怪我を隠したい者。
薬代に困った者。
子を抱えた母。
そういう者に、最初から名を差し出せと言えば、たぶん二度と来なくなる。
そして、来なくなった者は、別の道へ行く。
高い薬を売る者のところへ。
名のない文を持たせる者のところへ。
弱みを買う者のところへ。
だから、名は最後でいい。
だが、影を使った者の名まで最後まで聞かないという意味ではない。
母子に眠り草と煙草を混ぜた包みを持たせた者。
薬代を出すふりをして、見立て場の様子を探らせた者。
子供の手に危うい薬包を握らせた者。
そういう者の名は、最後には聞く。
必ず聞く。
逃がさない。
「若様」
翌朝、仁助が来た。
昨日の母子の道を追わせていた。
仁助の顔は、いつもより少し険しい。
「足跡を追いました」
「言え」
「母子に薬包を持たせた男は、三河道へ真っすぐ戻っていません。途中で古い炭焼き小屋へ寄っています」
「炭焼き小屋」
「はい。今は使われていない場所です。そこに、草履の跡が三つ」
「三人か」
「一人は例の男。もう一人は馬を引いた者。最後の一人は、たぶん武家奉公人です」
「なぜ分かる」
「足の運びが違います。荷運びではない。けれど、武士ほど踏み込まない。小者か下働きの類ですね」
仁助は、地面の絵を木板に描いて見せた。
草履の大きさ。
向き。
止まった場所。
馬の蹄。
俺には半分ほどしか分からない。
だが、仁助には道が読めている。
「そこから?」
「馬の者は東へ。薬包を持たせた男は北へ。小者らしき者は、清洲側へ少し回ってから消えています」
「散ったか」
「はい。追わせましたが、無理に詰めると逃げられるので、今は見ています」
「よい」
追って捕らえるのは簡単ではない。
いや、簡単ではないというより、やろうと思えば兵を出せる。
だが、兵を出せば道が騒ぐ。
騒げば、見立て場へ来る者が怯える。
半九郎はそれを狙っている。
母子を使った男一人を怒って捕らえれば、見立て場は詮議場になる。
だから、怒るな。
見る。
最後には逃がさない。
だが、最後までは追い方を間違えない。
「炭焼き小屋には何かあったか」
長秀が聞く。
仁助は小さな布包みを出した。
「これが落ちていました」
中身は、細い赤紐だった。
小荷札に使う紐に似ているが、少し質が違う。
長秀が手に取る。
「これは熱田の札場の紐ではありません」
「大浜屋でもない」
同席していた藤助が言った。
昨夜から那古野に残っていた。
大浜屋の名を守るためというより、大浜屋の傷を広げないためだろう。
「駿河屋か」
俺が聞くと、藤助は首を横に振る。
「駿河屋の紐は、もっと細く締めます。これは……」
藤助は少し考えた。
「朝比奈筋の荷で見たことがあります」
場が静かになった。
朝比奈。
また、その名が出る。
信勝が赤紐を見つめた。
「朝比奈の名を本当に預かった者か、朝比奈の名を見せたい者か」
「ああ」
どちらかだ。
どちらにしても、この紐はわざと落とされた可能性がある。
こちらに朝比奈の名を見せるため。
あるいは、半九郎の上を朝比奈に見せるため。
名を重ねて責を消す。
昨日出た言葉が、また胸に残った。
「この紐だけで朝比奈へ怒鳴り込むわけにはいかぬ」
佐久間が言った。
「当然だ」
俺は頷いた。
「だが、半九郎の道には朝比奈の名が置かれている。それは確かだ」
「名が置かれている、ですか」
信勝が言う。
「命じたとは限らない。でも、置かれている」
「そうだ」
「では、その名を誰が置いたのかを見なければなりません」
その通りだった。
半九郎本人か。
半九郎の手の者か。
駿河屋宗右衛門か。
井上半九郎のさらに上にいる者か。
あるいは、朝比奈の名を勝手に使う別の者か。
名は最後でいい。
だが、名の置き方は最初から見る。
午前の見立て場には、昨日の噂が少し変わって届いていた。
――名は聞かれないらしい。
――でも、荷は見られる。
――病は晒されない。
――怪しい文は取られる。
噂はまだ半信半疑だ。
だが、少しだけこちらに寄っている。
見立て場には、昨日助けた少年母子の話も広がっていた。
名は出ていない。
ただ、「子供に危ない薬包を持たせた男がいた」「母親は助かった」「薬は見てもらえた」という形で広がっている。
これは悪くない。
名を出さず、出来事だけが出る。
困った者を助け、使った者を見る。
そういう評判になればいい。
だが、半九郎側も黙っていない。
昼前、見立て場に一人の男が来た。
身なりは薬草売り。
手には小さな薬箱。
顔に愛想笑い。
玄斎が見た瞬間、少し目を細めた。
「知り合いか」
俺が聞くと、玄斎は低く答えた。
「薬売りの顔ではあります。ただ、箱が新しすぎる」
男は言った。
「薬を売りに参りました。見立て場では薬が足りぬと聞きまして」
つねが鼻を鳴らした。
「誰から聞いた」
「道中で」
「便利な道中だね」
薬箱を開けさせる。
薬草は入っている。
ただし、質は悪い。
匂いを強くしてごまかしたものだ。
玄斎が薬包を一つ取り、指で揉む。
「これは薄い」
つねも見る。
「薄いどころか、古い草を混ぜている。こんなものを見立て場で売られたら、こっちの名が傷つくよ」
男は笑顔を崩さない。
「お安くいたします」
「安い薬が悪いとは言わない」
つねが言った。
「だが、悪い薬を安く売っても薬にはならない」
男の目が一瞬動いた。
信勝が静かに聞く。
「あなたは、何を守る薬としてこれを売るのですか」
「病人を」
「どんな病を」
「咳や熱を」
「咳と熱は同じではありません」
信勝が言うと、男は言葉に詰まった。
玄斎が小さく笑った。
「信勝様に薬の初歩を突かれるとは、薬売りとして恥ですな」
「黙れ」
男が思わず言った。
その瞬間、化けの皮が少し剥がれた。
薬売りとして来た男が、玄斎へ怒鳴る。
薬売り同士ならあり得るが、客の前では普通やらない。
余裕がない。
「誰に頼まれた」
俺が聞いた。
男は黙る。
「薬を売りに来たのではないな」
信勝が言った。
「見立て場に悪い薬を混ぜて、ここの信用を落とすためですね」
男の顔が変わった。
当たりだ。
悪い薬を売る。
それを見立て場の薬だと噂させる。
あるいは、見立て場で買った者が悪くなれば、「尾張の見立ては危ない」と言える。
半九郎は、本当に次々と嫌な手を考える。
「名は最後でいい」
俺は言った。
男が少し意外そうに顔を上げる。
「だが、薬の中身は今見る」
つねと玄斎に薬をすべて見させた。
結果は悪い。
効かないだけならまだしも、眠り草の粉が少し混じっているものもあった。
弱った者に飲ませれば、かえって危うい。
男は押さえられた。
名は、まだ聞かない。
まず薬の出どころを見る。
薬包の結び。
草の混ぜ方。
箱の作り。
玄斎が言った。
「これは三河の東ではなく、駿河寄りの混ぜ方です」
「分かるのか」
「分かります。香りの強い草で古さをごまかす。私も昔、見たことがあります」
「やったことは?」
「若君様」
「あるのか」
「……少し」
つねが玄斎の頭を軽く叩いた。
「だから分かるんだよ」
「痛いです」
「軽くした」
この二人のやり取りも、見立て場の空気を少し柔らかくしている。
だが、内容は重い。
悪い薬で見立て場の名を傷つける。
これも、名を使う手だ。
午後、炭焼き小屋の件で動きがあった。
仁助の者が、小者らしき足跡を追って、清洲寄りの茶屋へたどり着いた。
その茶屋には、昨日の赤紐と同じ紐で結んだ小さな包みが二つ残されていた。
中身は、白紙。
そして、小さな木片。
木片には、焼きで一文字だけ入っていた。
半。
半九郎の半か。
半分の半か。
合図か。
挑発か。
長秀が木片を見て言った。
「わざと見せています」
「だろうな」
「半九郎本人は、自分の名を出しても届かない位置にいると思っている」
「なら、届かせる」
俺は言った。
「どうやって」
信勝が聞く。
「半九郎の名を、半九郎本人へ戻す」
「道へ?」
「ああ」
昨日まで、こちらは半九郎の名を聞いていた。
今日は、半九郎の名を戻す。
――井上半九郎の名で、病人と薬を使う者がいる。本人が知らぬなら名を守れ。知っているなら、次はこちらが名を聞く。
この言葉を、三つの道へ流す。
薬売りの道。
大浜屋の道。
岡崎の商い筋。
直接の文ではない。
口で渡す。
聞いた者が、聞かせたい相手へ運ぶようにする。
「これは挑発ですね」
信勝が言った。
「そうだ」
「半九郎が出てきますか」
「出てこないかもしれぬ。だが、半九郎の周りが動く」
「名を守るために」
「ああ」
名を使う者は、名を汚されることを嫌う。
半九郎が本当に自分の名で動いているなら、こちらの言葉に反応する。
もし別の者が半九郎の名を使っているなら、半九郎本人か周囲が動く。
どちらにしても、道が揺れる。
夕方、見立て場に昨日の少年が来た。
母親は少し良くなったらしい。
少年は小さな大根を抱えていた。
「つね婆ちゃんに」
つねは驚いた顔をした。
「まだ早いよ」
「母ちゃんが、薬代には足りないけどって」
つねは、少し目を細めた。
「そうかい。じゃあ受け取るよ」
少年は、俺の方にも頭を下げた。
「母ちゃんが、ありがとうって」
俺は何と言えばいいか分からなかった。
信勝が代わりにしゃがんだ。
「お母さんには、無理をしないよう伝えてください」
「はい」
「それと、知らない人から包みを持たされたら?」
「持たない」
「もし困ったら?」
「ここに来る」
「よく覚えました」
少年は少し笑った。
その笑顔を見て、俺の中の怒りが少し別の形になった。
この子に危うい薬包を持たせた者の名は、最後には聞く。
必ず聞く。
だが、その前に、この子がまたここへ来られる場所を守らねばならない。
それが順番だ。
夜、那古野へ戻ると、半九郎への言葉を三つの道へ流した報告が来た。
玄斎の薬売り筋。
藤助の大浜屋筋。
仁助の道筋。
それぞれが別の言い方で運ぶ。
薬売りにはこう。
――半九郎の名で悪い薬を混ぜる者がいる。薬売りの名も傷つく。
商人にはこう。
――半九郎の名で小荷を汚す者がいる。名を預かる商いが危うくなる。
道の者にはこう。
――半九郎の名で病人を使う者がいる。境の道が荒れる。
同じ名でも、届ける相手によって言葉を変える。
これも学んだことだ。
信勝が言った。
「兄上、これは相手の道へ困りごとを返すのですね」
「そうだ」
「半九郎の名が、半九郎自身の困りごとになる」
「ああ」
名前を使うなら、その名に責を戻す。
これまで、こちらはそれをされてきた。
信勝の名。
俺の名。
帰蝶の名。
大浜屋の名。
今度は、半九郎の名へ責を戻す。
「最後には逃がさない」
信勝が小さく言った。
俺は頷いた。
「名は最後でいい。だが、最後には逃がさない」
帰蝶が、それを聞いて静かに微笑んだ。
「よい言葉ですね」
「使うなよ」
「もう信勝様が使われました」
「そうだった」
少し笑った。
だが、地図の上では笑えない。
半九郎の名へ、三つの線が戻っていく。
薬売り。
商人。
道の者。
その先で、誰が動くか。
半九郎本人か。
半九郎の名を使う者か。
朝比奈の名を預かった者か。
あるいは、駿河のもっと奥か。
まだ分からない。
だが、今日初めて、こちらはただ受けるだけではなく、相手の名へ問いを返した。
名を集めるのではない。
名に責を返す。
最後には逃がさない。
明日、道が動く。
そんな気がした。




