第73話 名は最後でいい
名は最後でいい。
そう決めた途端、今度は別の難しさが見えてきた。
人は、名を聞かれないと安心する。
だが、名を聞かれないなら嘘もつきやすい。
名を伏せたまま薬を受け取り、荷を預け、道を通り、別の場所で違う顔をすることもできる。
なら、名を聞けばいいのか。
違う。
最初から名を聞けば、困っている者が来なくなる。
病の家。
怪我を隠したい兵。
薬代で苦しむ者。
三河から来た逃げるような親子。
そういう者は、名を聞かれた瞬間に口を閉じる。
名は重い。
重いから守れる。
重いから人を縛る。
重いから、影に使われる。
だから、最後でいい。
ただし、最後まで見なくていい、という意味ではない。
「若様」
長秀が朝から仮名帳を抱えて来た。
顔が少し寝不足だ。
「寝たか」
「目は閉じました」
「最近そればかりだな」
「若様が帳面を増やされるので」
「お前が増やしているのではないのか」
「半分は」
長秀まで、もう隠さない。
いいことなのか悪いことなのか分からない。
仮名帳には、昨日の見立て場へ来た者が並んでいた。
三河老人一。
咳の父娘。
足傷の荷運び二。
偽僧一。
湿疹の子。
薬草包みの女。
名はない。
だが、薬、荷、来た道、同伴者、怪しい点は書いてある。
「これで足りるか」
俺が聞くと、長秀は首を横に振った。
「足りません。ですが、書きすぎても駄目です」
「お前がそれを言うと、重いな」
「私も苦しんでおります」
少し本気らしい。
帳面に残す者にとって、書かないという判断は難しいのだろう。
「名を聞かずに追うには、どうする」
「印を複数にします」
「印?」
「人そのものではなく、道と荷と薬で結びます。たとえば、咳の父娘は三河東道から来た。持っていた薬草は村の婆から買ったもの。荷に文なし。これで、同じ道から同じ薬草を持つ者が続けば見えます」
「人ではなく、流れを見る」
「はい」
なるほど。
名がなくても、流れは見える。
荷の種類。
薬の種類。
来た道。
同行者。
持っていた銭の出どころ。
それらが重なれば、名がなくても影の道が浮く。
「ただし、危うい者は名を聞きます」
長秀は言った。
「荷に影があった時、文があった時、嘘があった時、同じ道で何度も出る時。その時は、最後ではなく途中で名を聞く必要があります」
「線引きだな」
「はい」
「面倒だな」
「はい」
即答だった。
まったく、どこまで行っても面倒だ。
だが、面倒でない政など、たぶん人を見ていない政なのだろう。
朝餉の場で、その話を信勝と帰蝶にもした。
帰蝶は粥の椀を置きながら、静かに言った。
「名を最後にするなら、最初に見るものをはっきりさせるべきですね」
「最初に見るもの?」
「はい。顔色、荷、同伴者、急ぎ方、言葉の乱れ。女の荷なら女が見る。薬なら薬を見る者。道なら仁助殿の者。見立て場に立つ者が、それぞれ最初に何を見るかを決めるのです」
信勝が頷く。
「名を聞かない代わりに、見落とさない」
「そうです」
「では、私は言葉を見ます」
信勝は自然に言った。
「その人が、何を怖がっているか。名を聞かれることなのか、荷を見られることなのか、病を知られることなのか。それによって、影か本物の困りごとかが変わります」
帰蝶が微笑む。
「信勝様らしい目ですね」
信勝は少し照れた。
「兄上は?」
「俺は……」
言いかけて、少し詰まった。
俺は何を見るのか。
火か。
道か。
人か。
いや、全部を見ようとして、よく見落とす。
「俺は、怒りすぎないように見る」
そう言うと、帰蝶と信勝が同時に頷いた。
「そこは否定しないのか」
「大事ですので」
帰蝶が当然のように言った。
信勝も静かに続ける。
「兄上が怒ると、場が詮議になります」
「分かっている」
「だから、怒る前に私たちを見てください」
俺は箸を止めた。
「右を見る、左を見る、か」
「はい」
俺を止めるための右と左。
それは、少し情けないようで、ありがたいことでもあった。
見立て場へ向かうと、昨日の噂の影響はまだ残っていた。
木札の前で立ち止まり、読む者がいる。
読めない者へは、おたえの女中が声に出して説明する。
「ここは名を集める場所ではありません。まず荷と薬を見ます。名は最後でよいです」
その一言だけで、少し顔が緩む者がいる。
一方で、荷を抱え直す者もいる。
荷を見られるのが嫌な者だ。
そこを、仁助の者がさりげなく見ている。
犬千代は奥にいる。
今日は表情が少し柔らかい。
昨日、信勝に顔を指導された成果らしい。
ただ、柔らかくしようとしすぎて、妙に真剣な仏像のような顔になっている。
「犬千代」
「はい」
「顔が変だ」
「変!?」
信勝が慌てて言う。
「兄上、言い方」
「いや、変だろう」
「守る顔に近づいています。少し力が入りすぎているだけです」
「信勝様……!」
犬千代が感動している。
面倒だ。
だが、場の空気は少し緩んだ。
朝最初に来たのは、三河から来たという若い母親だった。
背中に幼い子を負い、腕に包みを抱えている。
顔には疲れがある。
だが、目は強い。
「薬を」
女はそう言った。
つねが前へ出る。
「誰の薬だい」
「この子に」
「症状は」
「夜に咳が出ます。熱はあまり」
「包みを見せて」
女はためらった。
抱えた包みを強く握る。
信勝が静かに言った。
「名は聞きません。薬を見るだけです」
女は、ようやく包みを開いた。
中には薬草と、小さな布袋。
薬草は普通だった。
だが、布袋の中に、銭が多すぎた。
つねが目を細める。
「この薬にしては、銭が多いね」
女は顔を伏せた。
「薬代を、助けてもらいました」
「誰に」
俺が聞くと、女は肩を震わせた。
まずい。
急ぎすぎた。
信勝がこちらを見た。
怒る前ではなく、聞く前に止められた。
俺は一歩引いた。
信勝が女へ向き直る。
「名は最後でいいです。まず、どう助けてもらったのかだけ聞かせてください」
女は、少しずつ話した。
三河の宿で、薬代に困っていたところ、見知らぬ男が銭をくれた。
かわりに、尾張の見立て場で薬を買い、帰りに宿へ寄れと言われた。
荷や文は預かっていないと言う。
実際、包みには文も怪しい粉もなかった。
ただ、帰りに宿へ寄れ。
それだけ。
だが、それが怖い。
見立て場で何を言われたか、誰がいたか、薬をもらえたか。
帰りに聞き出すつもりだろう。
「その宿はどこですか」
信勝が聞く。
女は答えた。
名は出さない。
道だけ聞く。
長秀の手代が仮名帳に記す。
三河宿、薬代援助、帰路聞き取りの疑い。
「薬は出す」
俺は言った。
女が驚いた顔を上げる。
「よろしいのですか」
「子の咳は本物だ。だが、帰りはその宿へ戻るな。仁助の者が別の道を教える」
女は泣きそうな顔で頭を下げた。
名は聞かなかった。
だが、道は見た。
これが今日の形だ。
次に来たのは、荷を持たぬ男だった。
手ぶら。
服も粗末。
足は汚れている。
見た目だけなら、ただの困窮者だ。
「粥をいただけると聞いた」
男は言った。
おたえの女中が、すぐに粥を出しかける。
だが、つねが止めた。
「腹が減っている顔じゃないね」
男がぎくりとする。
「腹は減っています」
「腹が減っている者は、粥の匂いを先に見る。あんたは人の顔を見ている」
すごい。
つねは、病だけではなく、人の腹まで見るのか。
男は逃げようとした。
犬千代が半歩出る。
止まる。
仁助の者が後ろへ回る。
男は押さえられた。
懐から、小さな紙が出た。
そこには、見立て場に立つ者の配置を書こうとした跡があった。
まだ途中だ。
表の兵二。
奥の武者一。
薬婆。
若君。
信勝。
薬売り。
途中で止まっている。
「薬婆」
つねが紙を見て鼻を鳴らした。
「私のことかい」
「強そうな名だな」
俺が言うと、つねは睨んだ。
「若様、笑いごとではありません」
「すまん」
男は、半九郎の手の者ではないと言い張った。
だが、半九郎の名を出すと、目が動く。
もう慣れてきた。
慣れたくないが。
「名前は」
長秀の手代が聞きかけた。
俺は止めた。
「まだいい」
男が意外そうな顔をする。
「お前の名より、誰のために配置を見たかが先だ」
男は黙る。
「井上半九郎か。半九郎の名を使う者か。朝比奈の名か」
朝比奈の名で、また反応した。
小さい。
だが、ある。
信勝が言った。
「この人は、名を言わないことで自分を守っているのではなく、上の名を守っています」
「そうだな」
名は最後でいい。
だが、守ろうとしている名は見る。
男は奥へ連れていかれた。
名はまだ聞かない。
ただ、誰の名を守っているかを見る。
昼、見立て場には小さな列ができた。
名を聞かれないと分かったことで、昨日より来る者は増えた。
その分、影も混じる。
名を聞かないことは、影にも都合がよい。
だが、荷を見る。
薬を見る。
道を見る。
言葉を見る。
それぞれの役が動く。
おたえの女中は、包みの結びを見た。
つねは薬草を見た。
玄斎は薬売りの匂いを見た。
仁助の者は足元と来た道を見る。
信勝は言葉を見る。
犬千代は場を見る。
俺は……怒りを見た。
自分の腹の底で熱くなるものを、何度か飲み込んだ。
午後、かなり危うい場面があった。
小さな少年が来た。
十にも満たない。
手に薬包を持っている。
「母ちゃんに薬を」
少年はそれだけ言った。
つねが聞く。
「母ちゃんはどこにいる」
「道の向こう」
「連れて来られるかい」
「動けない」
少年の手は震えていた。
これは本物だと、誰もが思った。
だが、玄斎が薬包を見て顔を変えた。
「これは薬ではありません」
「何だ」
「眠り草と、煙を強くする草が混ざっている」
少年は意味が分からない顔をした。
「母ちゃんが、これを持って行けって」
「誰からもらった」
信勝が聞く。
「知らないおじさん。母ちゃんに薬をくれた。これを見立て場に持っていけば、もっと薬をくれるって」
子供を使った。
俺の腹が熱くなる。
かなり熱くなる。
前へ出そうになった。
その瞬間、帰蝶がいないことを思った。
右を見る。
信勝がいた。
信勝は少年の前に膝をついていた。
左を見る。
つねがいた。
つねは薬包を取り上げず、別の布に包んでいる。
俺は、息を吐いた。
怒るのは後でいい。
今は母親を助ける方が先だ。
「仁助」
俺は低く呼んだ。
「この子の母親を探せ。犬千代」
「はい」
「前へ出るな。だが、仁助の者が戻る道を守れ」
「承知」
犬千代は動いた。
走らない。
歩幅を抑えて、道の脇へ立つ。
止まれる武者。
本当に少しずつ形になっている。
少年は泣き始めた。
信勝が背中をさする。
「大丈夫です。あなたが悪いのではありません」
「母ちゃん、死なない?」
「見に行きます。嘘は言いません。だから、ここで少し水を飲んで待ってください」
信勝の言葉は、優しいだけではない。
嘘を言わない。
そこがいい。
しばらくして、仁助の者が母親を見つけた。
道端で座り込んでいた。
熱と咳。
意識はある。
知らない男から薬をもらい、子供に薬包を持たせた。
本人は、その薬包が危ういものだと知らない。
男はもういない。
だが、近くの草に足跡が残っていた。
仁助の者が追う。
捕まるかは分からない。
だが、道は残る。
少年の母は見立て場へ運ばれた。
つねが診る。
玄斎が薬を分ける。
おたえの女中が粥を用意する。
少年は母の手を握っている。
俺は、その光景を少し離れて見ていた。
怒りがまだ残っている。
子供に眠り草と煙草の包みを持たせた者。
母親の病を使った者。
名はまだない。
だが、半九郎の道だ。
あるいは、半九郎の名を使う者の道だ。
名は最後でいい。
だが、最後には必ず聞く。
その名を。
夕暮れ、見立て場を閉じる頃、少年の母は少し落ち着いていた。
まだ熱はある。
だが、すぐ命に関わるほどではないと、つねが言った。
少年は何度も礼を言った。
名は聞かなかった。
ただ、仮名帳には「少年母子」と書いた。
持たされた薬包。
煙草。
眠り草。
男の足跡。
三河道。
それで十分ではない。
だが、今は十分に近い。
那古野へ戻る道で、信勝が言った。
「兄上、今日は怒らずに止まりましたね」
「怒っていた」
「はい。顔に出ていました」
「また顔か」
「でも、前へ出ませんでした」
「お前とつねを見た」
信勝は少し笑った。
「右を見る、左を見る、ですね」
「ああ」
「私も、少年に大丈夫と言い切りそうになりました」
「言わなかったな」
「嘘になるかもしれないので」
「よかった」
「はい」
お互い、少しずつ止まっている。
犬千代だけではない。
俺も。
信勝も。
見立て場が、人を変えている。
夜、帰蝶に少年母子の話をすると、彼女はしばらく黙っていた。
「子供を使うのは、許せませんね」
「ああ」
「でも、そこで怒れば、子供はもっと怯えます」
「分かっている」
「止まれて、よかったです」
その言葉は、犬千代にかけるもののようでもあり、俺にかけるもののようでもあった。
俺は少し苦く笑った。
「俺も止まれる武者か」
「信長様は、止まれる主を目指してください」
「難しいな」
「かなり」
帰蝶が微笑んだ。
その夜、仮名帳に新しい印が加わった。
名は最後でいい。
だが、最後まで聞かないわけではない。
名を伏せたい者には仮名を。
荷と薬には目を。
道には印を。
言葉には耳を。
子供や病人を使う者には、必ず追う線を。
半九郎は、こちらの甘さを試している。
だが、こちらが甘いだけではないことも、少しずつ見せる。
助ける。
見る。
怒りを止める。
そして、最後に名を聞く。
その順番を間違えない。
今日の見立て場で、俺はそれを学んだ。
国を組み直すとは、名を集めることではない。
名を守る順番を決めることだ。
名は最後でいい。
だが、最後には逃がさない。




