第72話 名を集める場所ではない
境の見立て場に、妙な噂が立ち始めた。
――あそこへ行くと、名を控えられる。
――病の家が、那古野の帳面に載る。
――三河から来た者は、あとで詮議される。
――信勝様の名で安心させて、実は弱みを集めている。
噂というものは、嫌なところだけ形が早い。
こちらが一日かけて説明したことは、次の日には半分しか残らない。
けれど、誰かが小声で落とした疑いは、夜のうちに三倍に膨らむ。
火より厄介だ。
火は燃えれば見える。
噂は、燃えているうちは見えない。
灰になってから、ようやくあちこち焦げていたことに気づく。
「若様」
長秀が朝から渋い顔で言った。
「見立て場についての噂が、清洲と熱田の間にも流れています」
「早いな」
「はい」
「半九郎か」
「おそらく。ただし、直接の名は出ていません」
長秀は帳面を開いた。
「噂の筋は三つ。一つ、三河から来た者が名を集められている。二つ、尾張の者も病を知られる。三つ、信勝様の名が弱み集めに使われている」
信勝の顔が少し硬くなった。
自分の名が安心として届き始めたと思ったところに、またこれだ。
影は本当に嫌なところを突く。
「兄上」
信勝が言った。
「私が、見立て場で改めて言います」
「言うだけで足りるか」
「足りません」
即答だった。
「でも、言わなければ、もっと足りません」
強くなった。
最近の信勝は、怖さを分かったうえで前へ出ようとする。
だからこそ、止めるところは止めなければならない。
「言葉だけではなく、形も要る」
帰蝶が静かに言った。
「名を集める場所ではない、と言うなら、本当に名を集めない形にしなければなりません」
「名を書かない?」
長秀が反応した。
帳面様の顔に、少し抵抗が出た。
お前、本当に帳面が好きだな。
「全部を書かないのは危険です」
長秀は言った。
「どの薬を渡したか、どの荷を預かったか、どの道から来たか。何も残さなければ、後で追えません」
「全部書けば、名を集める場所と言われる」
俺が言うと、長秀は黙った。
そこが難しい。
見立て場は、助けるための場所だ。
同時に、影を見つける場所でもある。
だから何も見ないわけにはいかない。
だが、見すぎれば人が来なくなる。
人が来なくなれば、本物の病人や怪我人が倒れる。
そして、影は別の道を使う。
「名ではなく、印か」
信勝が呟いた。
「印?」
「はい。たとえば、今日来た人を一番、二番、三番とする。名は本人が望む時だけ。薬や荷の記録は、その番号で残す。危うい者だけ、別に詳しく見る」
長秀が顔を上げた。
「仮名帳ですね」
「仮名帳?」
「本名ではなく、仮の名や番号で記す帳面です。荷や薬とは結びますが、本人の名は入口役だけが必要な時に聞く」
帰蝶が頷いた。
「よいと思います。病を晒さず、必要な記録は残せます」
「ただし」
俺は言った。
「仮名帳そのものが影に渡れば危うい」
「帳面は見立て場に置かず、日ごとに那古野へ戻します」
長秀はすぐ答えた。
「写しは?」
「必要最小限に」
「お前がそれを言うとは」
「私も成長しております」
真顔で言うな。
少し笑いそうになったが、今は大事な話だ。
「では、こうする」
俺は決めた。
「見立て場は、名を集める場所ではない。薬、荷、道、困りごとを見る場所だ。名は、本人が望む時か、影の疑いが強い時だけ聞く。記録は仮名帳にする」
信勝が頷いた。
「それを、私からも言います」
「ああ」
「でも、兄上も言ってください」
「俺もか」
「はい。兄上が言わないと、『信勝様だけが優しいことを言って、実は那古野が名を集めている』と言われます」
痛いところを突く。
本当に、最近の弟は遠慮がなくなってきた。
「分かった」
俺は答えた。
「俺も言う」
その日の見立て場は、最初から空気が硬かった。
噂が回っているのだろう。
来る者は昨日より少ない。
来ても、名を聞かれるのではないかと警戒している。
近くの村の者も、少し遠巻きに見ていた。
つね婆は、不機嫌そうに薬草を並べている。
玄斎は、それを見て小声で言った。
「噂は薬よりよく効きますな」
「悪い薬だ」
俺が言うと、玄斎は肩をすくめた。
「しかも、ただで広がります」
「厄介だな」
「かなり」
お前まで言うのか。
俺は少しだけ睨んだが、玄斎は平然としていた。
人は悪い方向にも馴染む。
見立て場の入口に、新しい木札を立てた。
長い文ではない。
――ここは名を集める場所ではない。怪我、病、薬、荷、道を見る場所である。名を伏せてよい。影の疑いがある時だけ、詳しく聞く。
長秀はまだ少し長くしたがった。
つねに「病人は読まない」とまた言われて削った。
昼前、信勝が見立て場の中央へ立った。
病人や怪我人、村の者、薬を求める者。
それから、明らかに様子を見に来た者も混じっている。
犬千代は奥にいる。
今日は半歩で止まる役だ。
いや、一歩で守る役か。
本人は妙に真剣な顔をしている。
「皆さんに、お伝えします」
信勝の声は柔らかく、よく通った。
「この見立て場は、名を集める場所ではありません。病や怪我を、家の恥にする場所でもありません。薬の値や荷の中身や道を見て、困っている人を助け、影が紛れないようにする場所です」
ざわめきが少し収まる。
「名は、伏せて構いません。必要な時は、仮の名で記します。ですが、荷や文を隠して通ることはできません。そこに影が入るからです」
信勝は一度、周囲を見た。
「私の名を使って、『ここは弱みを集めている』と言う者がいるなら、私の前で言ってください。私はここにいます。兄上もいます」
そこで、俺が前へ出た。
俺が出ると、空気が少し変わる。
やはり、信勝とは違う。
俺は人を安心させる顔ではないらしい。
自覚はある。
「信勝の言った通りだ」
俺は言った。
「ここは、名を集める場所ではない。だが、何も見ない場所でもない」
何人かが顔を上げた。
「病人を助けるふりをして文を入れる者がいる。怪我人を連れて、兵の数を見る者がいる。薬の値で家を縛る者がいる。そういう者を通せば、本当に困っている者が疑われる」
俺は、少し声を落とした。
「だから見る。名ではなく、荷を見る。薬を見る。道を見る。言葉を見る。怪しい時は聞く。だが、病を恥として晒すためではない」
短く言うつもりだった。
だが、口にしながら、これは俺自身にも言っているのだと気づいた。
疑いすぎるな。
見落とすな。
その二つの間で、何度も迷う。
「疑われたくない者ほど、見せられるものを見せてくれ」
俺は言った。
「荷を。薬を。文を。道を。名は、最後でいい」
場が静かになった。
最後でいい。
その言葉が、少し効いたようだった。
名を最初に聞かれるのではない。
最後でいい。
これで完全に不安が消えるわけではない。
だが、入口は少し開いた。
最初に来たのは、昨日から遠巻きに見ていた村の女だった。
腕に包みを抱えている。
「名は……」
女は言いかけた。
つねが遮った。
「いらないよ。まず包みを見せな」
女は少し驚いた顔をして、包みを開いた。
中には、咳止めの薬草があった。
つねが見て、頷く。
「これは悪くない。誰か咳かい」
女は迷ったが、名前は言わずに答えた。
「家の者が」
「それでいい。熱は?」
「少し」
「なら、これにこの草を足しなさい。眠り薬はいらない」
女はほっとした顔をした。
名を聞かれない。
それだけで、肩の力が抜ける。
その様子を、周囲が見ていた。
見立て場は、こういう小さな実例でしか信用されない。
次に来た男は、荷を見せるのを嫌がった。
「名を聞かないなら、荷も見なくていいだろう」
いかにも試すような言い方だった。
俺が口を開く前に、犬千代が奥から低く言った。
「荷は見る」
男が振り向く。
犬千代は前に出ない。
ただ、立っている。
「ここは名を集める場所ではない。だが、荷を隠す場所でもない」
おお。
犬千代が、いいことを言った。
本人も少し驚いている顔だ。
信勝が小さく笑った。
「その通りです」
男は舌打ちしそうな顔をしたが、荷を開いた。
中には古布。
そして、小さな木箱。
木箱には薬と書いてある。
玄斎が見る。
「これは薬ではない」
「何だ」
「香を強くする粉です。火に近づけると煙が出ます」
まただ。
男は逃げようとした。
犬千代が半歩出る。
止まる。
仁助の者が横から押さえる。
もう役割ができてきた。
犬千代は場を守る。
捕まえるのは道の者。
病人は騒がせない。
これが形になってきている。
「誰に頼まれた」
俺が聞くと、男は黙る。
信勝が静かに言った。
「名は最後でいいと言いました。でも、荷に影が入っていたなら、最後ではありません」
男の顔が揺れた。
「井上半九郎か」
俺が言うと、男は首を横に振った。
「違う」
「では誰だ」
「……半九郎様の名を使う者」
またそれだ。
半九郎本人ではない。
半九郎の名を使う者。
名の層が増えていく。
朝比奈の名を使う半九郎。
半九郎の名を使う誰か。
名が重なるほど、責が薄くなる。
それが狙いか。
「名を重ねて責を消すな」
俺は思わず言った。
長秀の手代が、すぐ書いた。
また言葉が増える。
だが、これは必要だ。
名を重ねて責を消す。
影のやり方そのものだ。
昼過ぎ、見立て場には少し人が戻ってきた。
名を聞かれないと分かったからか、薬草を持ってくる者が増えた。
中には本当にただの薬相談もある。
つねは忙しそうだ。
玄斎も手を動かしている。
おたえの女中は粥を分けている。
犬千代は奥で腕を組み、前へ出すぎないよう耐えている。
その顔があまりに真剣で、子供に少し怖がられた。
信勝が近づいて、小声で言った。
「犬千代殿、少しだけ顔を柔らかく」
「顔、ですか」
「はい。守っている顔と、斬りに行く顔が同じです」
「難しいです」
「口を少し閉じるだけで違います」
「閉じています」
「歯を食いしばっています」
犬千代は、慌てて口元を緩めた。
今度は妙な顔になった。
信勝が笑いをこらえている。
俺も少しこらえた。
子供は、今度は笑った。
犬千代は少し傷ついた顔をしたが、場の空気は緩んだ。
これはこれで役に立った。
午後遅く、三河から来たという老人が現れた。
足取りはしっかりしている。
病人ではない。
だが、薬を求めているという。
「誰の薬だ」
つねが聞く。
「孫に」
「症状は」
「熱と、咳」
「孫はどこにいる」
「三河に」
つねが目を細めた。
「見ずに薬は出せないね」
「では、せめて熱冷ましを」
玄斎が老人の持っていた銭袋を見る。
不自然に重い。
老人にしては、銭がありすぎる。
仁助の者がそっと近づく。
銭袋の中には、銭のほかに小さな紙片があった。
紙片には、こう書かれていた。
――名を聞かぬと触れた。次は荷を見せずに通る者を増やせ。
場の空気が一気に張った。
老人は、本物の老人だった。
だが、使われていた。
孫の薬を買う銭を渡され、ついでに紙片を持たされたのだろう。
本人は中身を知らない。
これが一番厄介だ。
罪の薄い者を使う。
困っている者を使う。
疑えば、こちらが悪者になる。
疑わなければ、影が通る。
信勝が、老人の前にしゃがんだ。
「この紙を持たせた人は、誰ですか」
老人は震えていた。
「知らんのです。ただ、薬代を少し助けるから、ここで薬を買えと」
「孫は本当に病なのですね」
「はい」
「なら、孫の薬は考えましょう。ただ、この紙は、あなたを使ったものです」
老人は目を潤ませた。
「わしは、悪いことを」
「困っていたのでしょう」
信勝は静かに言った。
「困っている人を使う者が悪いのです。でも、次からは、知らない紙は持たないでください」
老人は何度も頷いた。
つねが、症状だけを聞いて、軽い熱冷ましを少し渡した。
「本当は見てからがいい。だが、遠いなら、これを薄く。強くしすぎるな。水を飲ませな」
老人は頭を下げた。
名は聞かなかった。
ただ、三河のどの辺りかだけ聞いた。
長秀の仮名帳には「三河老人一」と記された。
数字と仮名。
その奥に人の顔がある。
忘れてはいけない。
夕方、見立て場を閉じる前に、俺は皆の前でもう一度言った。
「ここは、名を集める場所ではない」
人々がこちらを見る。
「だが、影を通す場所でもない。名は最後でいい。だが、荷と文は見せろ。困っているなら言え。困っている者を使う者がいれば、そいつの名を見つける」
その時、村の女が小さく言った。
「では、名を言わなくても、助けてもらえるのですね」
「ああ」
俺は答えた。
「ただし、嘘をつくな」
つねが横から言った。
「嘘をつくと薬が間違う。薬が間違うと、助かるものも助からない」
この一言は効いた。
病人にとって、俺の政の言葉より、つねの薬の言葉の方が重い。
それでいい。
見立て場は、そういう場所であるべきだ。
夜、那古野へ戻ると、長秀が仮名帳を広げた。
「初日より、人は増えました」
「噂は?」
「完全には消えていません。ですが、『名を聞かれなかった』という逆の噂も出始めています」
「よし」
「ただし、半九郎側もすぐに変えてきています。名を聞かないなら荷を見せない者を増やせ、と」
「ああ」
「次は、荷を見せる理由をもっと分かりやすくする必要があります」
「何を守る荷か」
信勝が言った。
「はい」
長秀が頷く。
「病を守る薬、火を曇らせる粉、名を運ぶ文。見た目は同じ包みでも、守るものが違います」
帰蝶が言った。
「見立て場では、包みを開けることに抵抗がある人もいるでしょう。特に女の荷や病の荷は」
「どうする」
「女の荷は、女が見る。薬は、つねさんと玄斎殿。文は、必要なら信勝様か長秀殿。役を分けることです」
また、右を見る、左を見るだ。
一人で全部見ない。
見てよい者が見る。
これも大事だった。
「犬千代は」
信勝が少し笑って言った。
「場を見る」
「顔も見る」
俺が足すと、信勝は頷いた。
「はい。犬千代殿は、場の顔を見る役です」
犬千代がいたら喜ぶだろう。
いや、また変な顔をするかもしれない。
その夜、俺は見立て場の木札の文をもう一度見た。
名を集める場所ではない。
だが、見ない場所でもない。
この線は細い。
今日守れても、明日は崩れるかもしれない。
半九郎は、こちらの言葉に合わせて次の手を打ってくる。
名を聞かないなら荷を隠せ。
荷を見るなら、荷を持たぬ者を使え。
文を見るなら、白紙にしろ。
白紙を見るなら、口で運べ。
きっと、そうやってくる。
それでも、こちらは言葉と形を足していくしかない。
名は最後でいい。
荷と文は見せろ。
困っているなら言え。
困っている者を使う者を見つける。
尾張の境に立てた小さな木札は、城門より頼りない。
だが、その頼りない札の前で、今日、何人かは安心して薬を受け取った。
何人かは荷を見せた。
何人かは影を落とした。
全部を見分けられたわけではない。
だが、見ようとした。
それが今の尾張だ。
完璧ではない。
むしろ穴だらけだ。
だが、穴を見ている。
名を集める場所ではない。
人を見捨てる場所でもない。
そこから始めるしかない。




