第71話 半歩で止まる武者
犬千代が半歩で止まった。
ただ、それだけのことだった。
だが、俺には妙に大きく見えた。
あの犬千代である。
槍を持てば前へ出る。
敵を見れば前へ出る。
褒めれば前へ出る。
叱っても、たぶん前へ出る。
そういう若武者が、境の見立て場で偽僧が逃げようとした時、半歩だけ出て、止まった。
止まれる武者。
信勝がそう呼んだ時、犬千代はやたら嬉しそうな顔をした。
単純だと思う。
だが、単純な言葉ほど、人を変えることがある。
役を与えられた者は、その役に近づこうとする。
乱暴者と呼ばれれば乱暴になる。
うつけと呼ばれれば、うつけの顔をかぶる。
なら、止まれる武者と呼ばれた犬千代は、本当に止まれるようになるのかもしれない。
少なくとも、昨日は止まった。
半歩だけだが。
「若様!」
翌朝、犬千代は境の見立て場へ行く前から妙に張り切っていた。
張り切る方向を間違えれば面倒なので、俺は先に釘を刺した。
「犬千代」
「はい!」
「今日は走るな」
「承知!」
「叫ぶな」
「承知」
「勝手に捕まえるな」
「承知……」
最後だけ少し声が落ちた。
「不満か」
「いえ。ただ、敵が逃げた時に何もしないのは、武者として」
「何もしないのではない。止まって見る」
「見る」
「どこへ逃げるか。誰が合図するか。誰が驚かないか。そこを見る」
犬千代は、少し眉を寄せた。
分かろうとしている顔だ。
「逃げる者を追うより、逃げた先を見る」
「そうだ」
「では、私は何を守れば」
よい問いだった。
このところ何度も繰り返してきた言葉が、犬千代の口から出た。
何を守るか。
「見立て場そのものだ」
俺は言った。
「病人や怪我人が逃げ惑わないこと。つねや玄斎の薬箱が荒らされないこと。信勝が前へ出すぎないこと」
「兄上」
横にいた信勝が少し困った顔をした。
「事実だ」
「私も止まります」
「なら、犬千代と競え」
犬千代の目が輝いた。
「信勝様と、止まる競いでございますか!」
「競うな」
信勝が即座に言った。
「止まることを競うと、たぶん変な方向へ行きます」
「信勝様、難しいです」
「私も今そう思いました」
思わず笑いそうになった。
朝から締まらない。
だが、こういう会話がある方がいい。
境の見立て場は、ただでさえ重い。
病、傷、薬、影。
人の弱さばかりが集まる場所だ。
笑いが少しもなければ、こちらの心が先に腐る。
見立て場へ着くと、昨日より整っていた。
つね婆が勝手に動かしたのだろう。
咳の者が休む場所には風除けの布が張られていた。
傷の者を見る場所には湯を沸かす小さな火。
薬待ちの者は、別の木陰。
粥を炊く場所には、おたえの女中が二人。
玄斎は薬箱を広げ、つねに小言を言われながら薬包を分けていた。
「玄斎」
俺が声をかけると、男は顔を上げた。
「若君様。今日も私は、正しく見張られております」
「よいことだ」
「少しは信用も欲しいものです」
「働け」
「はい」
玄斎は肩をすくめたが、手は止めなかった。
こいつもまた、置き場を得た者の一人だ。
信用はまだ遠い。
だが、役はある。
朝一番に来たのは、近くの村の女だった。
子供の腕に湿疹が出たという。
これは半九郎の影ではなかった。
たぶん、本当に困って来た者だ。
つねが子供の腕を見て、薬草を少し煎じるように言う。
女は何度も礼を言った。
「銭が、すぐには」
「畑の大根が採れたら、少し持っておいで」
つねが言った。
「薬代は大根でよろしいのですか」
「今日の薬はそれでいい。玄斎の粉なら米三升だがね」
「婆様」
玄斎が苦い顔をする。
女が小さく笑った。
見立て場に笑いが落ちる。
悪くない。
次に来たのは、怪我人二人を連れた男たちだった。
三河から来た荷運びだという。
足を痛めた者と、肩を打った者。
傷は本物。
荷も普通。
ただ、連れてきた男の一人が、妙に周りを見すぎていた。
犬千代が気づいた。
前へ出ようとして、止まった。
半歩。
本当に半歩だけ出て、止まった。
俺は見ていた。
信勝も見ていた。
犬千代は、こちらを見ずに小さく言った。
「右を見る」
奥にいた兵が返す。
「左を見る」
もう一人が続ける。
「荷を見る」
信勝が静かに言う。
「人を見る」
男の顔がこわばった。
見られていることに気づいたのだ。
だが、逃げなかった。
つねが怪我人を見る間、玄斎が荷を確かめる。
荷には怪しいものはない。
だが、連れてきた男の草履が新しすぎた。
荷運びなら、草履はもっと汚れる。
仁助の者がそっと近づき、足元を見た。
「この方、荷運びではありませんね」
男は笑って誤魔化そうとした。
「いや、今日はたまたま」
犬千代が拳を握る。
また半歩出る。
止まる。
偉い。
かなり偉い。
「誰に頼まれて来た」
俺が聞くと、男は口を閉じた。
「怪我人を連れてきたことは責めぬ。だが、お前は何を見に来た」
男は黙る。
信勝が一歩だけ近づいた。
「見立て場が怖いですか」
男は意外そうな顔をした。
「怖い?」
「はい。ここで何を見ているか。どこまで見られるか。それを知りたくて来たのではありませんか」
男の目が揺れた。
信勝の言葉は、時々まっすぐ相手の真ん中へ入る。
「誰に聞いて来たのです」
「……半九郎様の手の者に」
出た。
また、井上半九郎。
「何を見ろと言われた」
俺が聞く。
「兵の数。薬を出す者。信勝様が本当におられるか。あと……」
「あと?」
「犬千代様が、本当に止まれるか」
場が一瞬、妙な空気になった。
犬千代が目を見開く。
「私ですか!?」
男はびくりとした。
「はい。前田犬千代という若武者は、挑発すれば必ず出ると」
犬千代の顔が赤くなった。
怒りだ。
恥でもある。
そして、たぶん少し悔しい。
半九郎は、犬千代の性質まで見ている。
いや、半九郎本人かは分からない。
だが、向こうの目は、見立て場にいる者の性質を測り始めている。
俺だけではない。
信勝だけではない。
犬千代まで見ている。
腹立たしいが、同時に当然だ。
人を使うなら、人を見る。
相手もそれをやっている。
「犬千代」
俺は呼んだ。
「はい」
声が硬い。
「今、何を守る」
犬千代は、ぐっと息を吸った。
少し間があった。
それから言った。
「見立て場を守ります。怪我人を騒がせません。信勝様の横を守ります。逃げる先を見ます」
「よし」
犬千代の肩から、少しだけ力が抜けた。
男は、もう逃げる気をなくしていた。
というより、逃げても捕まると分かったのだろう。
犬千代が飛び出さなかったことで、逆に場が崩れなかった。
それが大きい。
もし犬千代が怒って飛び出していれば、怪我人は倒れ、村人は怯え、半九郎の手の者は「尾張の見立て場は武者が荒らす」と言えた。
犬千代が止まったことで、その道は消えた。
「この男を奥へ」
俺は言った。
「縄は見せるな。怪我人の前で騒ぐな」
仁助の者が静かに男を連れていく。
犬千代はそれを見送った。
拳はまだ握られている。
だが、足は動かなかった。
「犬千代殿」
信勝が声をかけた。
「はい」
「見事でした」
犬千代の顔が、今度は別の意味で赤くなった。
「い、いえ。私は、半歩出ました」
「半歩で止まりました」
「はい」
「半歩で止まれるなら、一歩出る時も選べます」
犬千代は、しばらく黙った。
それから深く頭を下げた。
「覚えます」
その声は、いつもの勢いだけの声ではなかった。
午後、見立て場にはさらに人が来た。
半九郎の名が直接出た者はいなかったが、妙な質問をする者が増えた。
「ここでは三河の者も見てくれるのか」
「銭がなければどうするのか」
「信勝様がいる時だけ助けるのか」
「兵に見張られるのか」
問いの形をした探りだ。
だが、本当に不安で聞いている者もいる。
一つずつ答える。
つねが病の話をし、玄斎が薬の値を説明し、信勝が名の話をし、俺が境の筋を話す。
犬千代は、後ろに立っている。
いつもより静かだ。
静かな犬千代というのは、少し不気味でもある。
だが、悪くない。
夕方、ひとつ大きな騒ぎが起きた。
若い男が、急に大声を上げたのだ。
「尾張は三河の病人を見張っている! 助けるふりをして、名を集めている!」
声が大きい。
わざとだ。
周囲の病人や村人がざわつく。
男はさらに叫ぼうとした。
「信勝様の名を出して――」
その瞬間、犬千代が動いた。
俺は止めようとした。
だが、犬千代は殴りかからなかった。
男の前へ、半歩ではなく一歩出た。
ただし、槍を向けない。
拳も振らない。
ただ、男と病人たちの間に立った。
「大声を出すな」
低い声だった。
いつもの犬千代より、ずっと低い。
「ここには傷の者と病の者がいる。怒鳴るなら、外で怒鳴れ」
男は一瞬ひるんだ。
だが、すぐ言い返した。
「武者が脅すのか!」
「脅していない。声を下げろと言っている」
「それが脅しだ!」
犬千代の肩が動いた。
怒りが来た。
だが、止まった。
犬千代は、ゆっくり息を吐いた。
「なら、俺も声を下げる。お前も下げろ」
場が静まった。
そのやり取りは、奇妙だった。
荒武者が、怒鳴る相手に「俺も声を下げる」と言ったのだ。
病人たちのざわめきが少し収まる。
信勝が前へ出た。
犬千代の横に並ぶ。
「名を集めるためではありません」
信勝の声は通った。
「病や傷を見ないまま中へ入れれば、村も城も危うくなります。けれど、見ずに追い返せば、本当に困っている人が倒れます。だから、ここで見ます。名を伏せたい方は伏せてよい。ただし、荷と文は見せてください」
男は黙った。
信勝は続けた。
「私の名を使って不安を煽るなら、私の前で言ってください。私はここにいます」
強い。
見立て場全体が、その言葉を聞いた。
男は逃げようとした。
今度は犬千代が動かなかった。
仁助の者が追う。
男はすぐ捕まった。
捕まえる役と、場を守る役が分かれた。
これが大事だった。
犬千代が追えば、場は空く。
犬千代が残れば、病人たちは安心する。
今日の犬千代は、それを守った。
見立て場が落ち着いた後、犬千代は俺の前に来た。
「若様」
「何だ」
「私は、追いませんでした」
「ああ」
「追った方がよかったでしょうか」
「いや」
俺は首を横に振った。
「お前は、見立て場を守った」
犬千代の顔が、少しだけ緩んだ。
「では、止まれる武者として」
「今日は、一歩出て止まった武者だ」
「一歩」
「半歩より進んだな」
犬千代は、一瞬きょとんとして、それから笑った。
「はい!」
信勝も笑った。
「一歩出ても止まれるなら、立派です」
「信勝様!」
「ただし、次に二歩出るかどうかは考えてください」
「難しいです!」
「一緒に考えましょう」
また笑いが起きた。
病人の前で笑いすぎるのはどうかとも思うが、今日の笑いは必要だった。
見立て場は、恐ろしい場所ではない。
怒鳴り声だけの場所でもない。
見て、聞いて、時々笑える場所でなければ、人は困りごとを持って来られない。
夜、那古野へ戻る道で、犬千代は珍しく静かだった。
「どうした」
俺が聞くと、犬千代は少し考えて言った。
「若様。私は、敵を見れば前へ出るものと思っておりました」
「ああ」
「ですが、今日は前へ出ない方が守れるものがあると知りました」
「そうか」
「それは、少し難しいです」
「俺もだ」
犬千代は驚いた顔をした。
「若様も?」
「俺も、怒ると前へ出たくなる」
信勝が横から言った。
「兄上は顔に出ます」
「またか」
「はい」
犬千代が笑った。
「では、私が若様の顔を見ます」
「お前に見られるのか」
「右を見る、左を見る、でございます!」
威勢よく言った。
まあ、悪くない。
那古野へ戻ると、帰蝶が待っていた。
今日のことを話すと、彼女は犬千代のところで微笑んだ。
「半歩で止まり、一歩で守ったのですね」
「そうだ」
「よい題です」
「何の題だ」
「分かりません。でも、よい響きです」
帰蝶もたまに変なことを言う。
夜の評定で、長秀が報告をまとめた。
半九郎の手の者は、見立て場で犬千代を挑発し、兵の数と信勝の有無を見ようとしていた。
さらに、大声で不安を煽る者も入れていた。
狙いは二つ。
見立て場を「名を集める場所」と疑わせること。
そして、犬千代のような若武者を暴発させ、「尾張は病人の前で武を振るう」と噂にすること。
「半九郎は、人の性質を見ています」
長秀が言った。
「信勝様の名、犬千代殿の勢い、若様の怒り」
「俺もか」
「はい」
長秀は遠慮しなかった。
「若様が怒って前へ出れば、見立て場は詮議場になります」
「分かっている」
「ですので、若様にも止まれる役が必要です」
帰蝶が静かに言った。
「では、私が見ます」
「お前が?」
「はい。信長様が前へ出すぎる時は、私が止めます」
信勝が頷く。
「私も見ます」
犬千代が勢いよく言う。
「私も!」
「お前は自分を見ろ」
俺が言うと、場に笑いが起きた。
だが、これは冗談だけではない。
俺にも、右を見る者と左を見る者が要る。
一人で前を見ると、怒りで踏み出す。
それを止める者が要る。
うつけと呼ばれた頃、俺は止まることを知らなかった。
止まるくらいなら、壊した方が早いと思っていた。
だが今は、半歩で止まることの重さを知り始めている。
犬千代に教えられるとは思わなかった。
いや、犬千代だけではない。
信勝、帰蝶、つね、玄斎、長秀、柴田、宗次。
皆が、それぞれ違う場所で俺を止める。
それが、尾張を壊さずに組み直すために必要なのだろう。
俺は地図の境の見立て場に、小さく書いた。
半歩で止まる。
その横に、もう一つ書く。
一歩で守る。
犬千代が見たら喜びそうだ。
だから見せない。
いや、少しなら見せてもいいかもしれない。
半九郎は、こちらの人を見ている。
なら、こちらも人を変える。
暴れる若武者を、止まれる武者へ。
名を使われる弟を、名を置く弟へ。
薬を食う薬売りを、薬の値を見る者へ。
それができれば、影の道は少しずつ細くなる。
まだ戦は始まっていない。
だが、戦の前に人が変わり始めている。
それは、小さくない。




