第70話 境の見立て場
境に場所を作るというのは、思ったより難しかった。
道の真ん中に立てば邪魔になる。
村に近すぎれば、村が不安になる。
城に近すぎれば、もう中へ入れたのと同じになる。
遠すぎれば、本当に困っている者が辿り着けない。
病人や怪我人を見捨てず、けれど影をそのまま通さない。
言葉にすれば、いかにも立派だ。
だが実際には、井戸の水が足りるか、雨を避ける屋根があるか、薬草を干す場所があるか、兵が立ちすぎて怖く見えないか、粥を炊く火をどこに置くか、そういう話になる。
国を組み直すとは、結局こういうことなのだろう。
大きな理屈より先に、病人に飲ませる水の桶をどこへ置くかを決めねばならない。
「若様、ここだと風が抜けます」
つね婆が、境近くの空き地で言った。
「病人には悪いか」
「風を避ける布を張ればよろしい。ただ、匂いがこもる場所は駄目です。熱のある者、咳のある者、傷の膿む者、全部同じ小屋へ入れるのはよくない」
「分けるのか」
「分けます。咳は咳。傷は傷。薬待ちは薬待ち。あと、ただ飯を食いたいだけの者も別」
最後の言い方が容赦ない。
だが、必要だ。
困っている者と、困っているふりをする者は混ざる。
混ざるから見立て場が要る。
つねは、杖で地面を突きながら場所を分けた。
「こちらが傷。血を見る者が通る場所です。あちらが咳。風下にします。井戸の近くは水汲み。火は少し離す。粥はおたえさんの者に任せる。薬箱は私と玄斎が見る」
玄斎は、つねの後ろで薬箱を抱えていた。
以前より少しおとなしい。
ただし、目は相変わらず油断ならない。
「私は薬売りであって、見張られ役ではございません」
「今は両方だ」
俺が言うと、玄斎は肩をすくめた。
「若君様は、人を二つ三つの役にされる」
「一つの役だけで済む人間は少ない」
「それは、確かに」
玄斎は苦笑した。
この男も、少しずつ自分の場所を覚え始めている。
信用とは違う。
使い道が見えてきた、というだけだ。
見立て場には、兵を少なく置いた。
少なく、しかし見えるところと見えないところに分ける。
表に立つのは二人だけ。
槍を突き立てるのではなく、道案内のように立たせる。
裏には柴田の者を置く。
犬千代もいる。
ただし、前へ出るなと言ってある。
それを何度も言った。
「犬千代」
「はい!」
「前へ出るな」
「承知!」
「叫ぶな」
「承知」
「見立て場は戦場ではない」
「しかし、敵が来れば」
「その時は俺が言う」
「はい」
犬千代は真面目に頷いた。
真面目だからこそ怖い。
勢いで飛び出すのではなく、正しいと思って飛び出すからだ。
信勝が横から言った。
「犬千代殿は、見える場所にいると敵も味方も身構えます。今日は、奥で“止まれる武者”としていてください」
「止まれる武者……」
犬千代の顔が輝いた。
「それは、なかなか良い役でございますな」
信勝、うまい。
俺が同じことを言えば、留守番に聞こえる。
信勝が言うと、役になる。
こういうところは、完全に負けている。
いや、勝ち負けではない。
たぶん。
見立て場の入口には、木札を立てた。
字は短い。
――怪我、病、薬の困りごとは、ここで聞く。名を伏せてよい。ただし、荷と文は見せること。
長秀が最初に書いた案はもっと長かった。
長すぎたので削った。
削られた長秀は不満そうだったが、つね婆が「病人は長い文など読まない」と言って黙らせた。
強い。
かなり強い。
朝から人が来た。
最初は、尾張の農夫だった。
足に切り傷がある。
たいした傷ではないが、泥が入り、赤く腫れ始めていた。
つねが見て、すぐおたえの者に湯を用意させる。
「これは早く洗えば済む傷だね。放っておけば熱が出る」
農夫は恐縮して何度も頭を下げた。
「銭が」
「今日は見立てだ。薬代はあとで畑仕事で返せるようにする」
つねが言うと、農夫は驚いた。
ただではない。
だが、いきなり高値を取られるわけでもない。
返し方がある。
それが大事だった。
困りごとの道は施しだけでは続かない。
施しだけにすれば、受ける者が傷つくこともある。
仕事や返し方を用意する。
そこまでが道だ。
次に来たのは、三河から来たという親子だった。
父親が咳をしている。
娘は十二、三ほど。
小さな包みを持っていた。
つねが父親を見る間、信勝が娘に声をかけた。
「その包みは薬ですか」
娘は警戒したように抱きしめた。
「母が持たせてくれました」
「見せてもらえますか。取り上げるためではありません。中に余計なものが入っていないか見るためです」
娘は迷った。
信勝は急かさない。
やがて、娘は包みを差し出した。
中には乾いた薬草と、銭が少し。
文はない。
白紙もない。
札もない。
つねが薬草を見る。
「これは悪くない。誰から買った?」
「村の婆さまです」
「なら、大事にしなさい。玄斎の粉よりよほど素直な薬だよ」
玄斎が横で小さく咳払いをした。
「比較に私を出さなくても」
「出すよ。分かりやすいからね」
娘が少し笑った。
その笑いで、場の空気が少し緩んだ。
父親には水と薄い粥を出した。
尾張の内へ入れるかどうかは、すぐには決めない。
ひとまず見立て場で休ませる。
仁助の者が、親子の来た道を確認する。
怪しい荷がないか。
誰かにつけられていないか。
助ける。
だが、見ないまま通さない。
この線を、今日一日で何度も引いた。
昼前、問題の者が来た。
若い僧だった。
旅の姿で、足を引きずる男を連れている。
男は額に汗を浮かべ、苦しそうにしていた。
僧は丁寧に頭を下げた。
「三河より参りました。こちらで傷病の見立てをしていただけると聞き」
聞くのが早い。
昨日作ったばかりだ。
噂は早い。
影も早い。
つねが男を見る。
足の傷は本物だった。
だが、傷の割に痛がり方が妙だった。
玄斎が鼻を近づける。
「眠り草の匂いがします」
僧の顔が、ほんの少し動いた。
信勝が僧を見た。
「この方には、何か飲ませましたか」
「痛み止めを少し」
「誰から」
「道中の薬売りから」
「名は」
「存じませぬ」
また、知らない。
つねが傷を見る。
「痛み止めにしては強い。足の傷より、眠り草でふらついている」
男は、ほとんど意識がぼんやりしていた。
これでは、何を持たされても分からない。
僧の荷を見せてもらう。
最初は素直に見せた。
衣、経、薬包、木椀。
だが、木椀の底が二重だった。
おたえの女中が気づいた。
台所の者は、器の重さに敏い。
底を外すと、中から小さな紙が出た。
文字は短い。
――見立て場、受け入れよし。兵少なし。信勝同席。
場が凍った。
僧は逃げようとした。
だが、表の兵が動くより早く、奥から犬千代が半歩出た。
半歩だけ。
前へ出るなと言われていたから、半歩で止まった。
だが、その半歩だけで僧の足が止まった。
仁助の者が後ろから押さえる。
犬千代は、俺を見た。
「半歩です」
「よく止まった」
「はい!」
褒めるところなのか分からないが、今日は褒める。
止まったことが大事だ。
僧は本物の僧ではなかった。
頭は剃っているが、手に数珠の癖がない。
経も読めない。
男を傷病人として連れ、見立て場の様子を探っていたのだ。
傷を負った男は、事情をあまり知らないようだった。
眠り草でぼんやりさせられ、連れてこられた。
ひどい手だ。
病人だけでなく、怪我人そのものを道具にしている。
信勝の顔がはっきり怒っていた。
「兄上」
「ああ」
「これは、許せません」
「分かっている」
「怪我人を盾にするだけでなく、荷物のように使っている」
「だからこそ、見立て場が要る」
俺は僧もどきを見た。
「誰の命だ」
男は黙る。
「井上半九郎か」
目が動いた。
「半九郎本人か。手の者か」
黙る。
「朝比奈の名か」
今度は、ほんの少し顎が動いた。
やはり、そこに反応する。
朝比奈の名は効く。
だが、誰が本当に預かっているのかはまだ見えない。
「長秀へ送る」
俺は言った。
「丁寧に聞け。痛めつけすぎるな。こいつは下だ」
柴田なら物足りない顔をしただろう。
だが、ここに柴田はいない。
犬千代はいたが、今は止まれる武者だ。
止まった。
偉い。
午後、見立て場の評判を聞いて、村の者が二人様子を見に来た。
近くの村人だ。
不安なのだろう。
境に怪我人や病人が集まれば、病が村へ入るのではないか。
間者が村に紛れるのではないか。
当然の不安だ。
俺は村の年寄りと話した。
「村へ直接入れぬために、ここで見る」
「ですが、病が」
年寄りは言いにくそうにした。
「咳の者は風下に置く。井戸は分ける。粥の器は洗う。つねが見る」
つねは横で頷いた。
「村の者に病が出たら、先に私へ言いなさい。隠す方が広がる」
年寄りは、つねの顔を見て少し安心したようだった。
俺よりつねの方が効く。
当然だ。
村人は、若君より病を見てきた婆を信じる。
それでいい。
信勝が年寄りへ言った。
「村へ負担をかけるなら、こちらから米と薪を出します。ただ、井戸の水を分けていただく日があるかもしれません。その時は先に知らせます」
年寄りは深く頭を下げた。
「信勝様がそうおっしゃるなら」
また信勝の名だ。
しかし、今度は火種ではなく、安心として届いている。
同じ名でも、置き場で意味が変わる。
夕方、見立て場の初日の記録をまとめた。
傷人三。
咳二。
薬求め一。
怪しい荷二。
偽僧一。
白紙一。
半九郎の名が直接出たもの一。
朝比奈の名に反応したもの一。
数字にすると簡単だ。
だが、その一つ一つに人の顔がある。
足を切った農夫。
咳の父を連れた娘。
眠り草でぼんやりさせられた怪我人。
偽僧。
不安そうな村の年寄り。
数字だけでは足りない。
だが、数字がなければ見落とす。
長秀がいれば、きっとそう言うだろう。
那古野へ戻ると、長秀はすでに待っていた。
報告を聞きながら、眉間に皺を寄せる。
「初日でこれですか」
「ああ」
「続ければ、もっと来ます」
「来るだろうな」
「見立て場が狙われます」
「分かっている」
「ですが、閉じれば半九郎の勝ちです」
「ああ」
長秀は、帳面に新しい項目を書いた。
境の見立て場。
また帳面が増える。
今回は誰も止めなかった。
必要だからだ。
夜、帰蝶に今日のことを話した。
偽僧。
眠り草でぼんやりさせられた怪我人。
村の不安。
信勝の言葉。
犬千代が半歩で止まったこと。
帰蝶は、その最後で少し笑った。
「犬千代殿、成長されましたね」
「ああ。半歩だけだが」
「半歩は大きいです」
「そうだな」
半歩止まる。
それも国を守る力になることがある。
勢いだけでは、見立て場は守れない。
俺自身も同じだ。
怒りで踏み出す半歩を止める。
それが今日、何度も必要だった。
信勝は、黙って茶を飲んでいた。
疲れている。
だが、目は落ちていない。
「信勝」
「はい」
「明日も来るか」
「行きます」
即答だった。
「無理はするな」
「兄上も」
「またそれか」
「はい」
帰蝶が静かに頷く。
「お二人ともです」
反論できない。
境の見立て場は、始まったばかりだ。
ここには、病も傷も薬も影も来る。
助けたい者と、見抜かなければならない者が同じ道を通ってくる。
半九郎は、そこを突いている。
だが、こちらも見た。
人に札はつけられない。
けれど、人の持つ荷、薬、手、言葉、行き先は見られる。
そして、怒りで踏み込みすぎないこともできる。
半歩で止まる。
右を見る。
左を見る。
何を守るのかを見る。
境の見立て場は、ただの仮小屋ではない。
尾張が外の困りごとと向き合うための、最初の目だった。




