表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
73/86

第70話 境の見立て場

境に場所を作るというのは、思ったより難しかった。


 道の真ん中に立てば邪魔になる。


 村に近すぎれば、村が不安になる。


 城に近すぎれば、もう中へ入れたのと同じになる。


 遠すぎれば、本当に困っている者が辿り着けない。


 病人や怪我人を見捨てず、けれど影をそのまま通さない。


 言葉にすれば、いかにも立派だ。


 だが実際には、井戸の水が足りるか、雨を避ける屋根があるか、薬草を干す場所があるか、兵が立ちすぎて怖く見えないか、粥を炊く火をどこに置くか、そういう話になる。


 国を組み直すとは、結局こういうことなのだろう。


 大きな理屈より先に、病人に飲ませる水の桶をどこへ置くかを決めねばならない。


「若様、ここだと風が抜けます」


 つね婆が、境近くの空き地で言った。


「病人には悪いか」


「風を避ける布を張ればよろしい。ただ、匂いがこもる場所は駄目です。熱のある者、咳のある者、傷の膿む者、全部同じ小屋へ入れるのはよくない」


「分けるのか」


「分けます。咳は咳。傷は傷。薬待ちは薬待ち。あと、ただ飯を食いたいだけの者も別」


 最後の言い方が容赦ない。


 だが、必要だ。


 困っている者と、困っているふりをする者は混ざる。


 混ざるから見立て場が要る。


 つねは、杖で地面を突きながら場所を分けた。


「こちらが傷。血を見る者が通る場所です。あちらが咳。風下にします。井戸の近くは水汲み。火は少し離す。粥はおたえさんの者に任せる。薬箱は私と玄斎が見る」


 玄斎は、つねの後ろで薬箱を抱えていた。


 以前より少しおとなしい。


 ただし、目は相変わらず油断ならない。


「私は薬売りであって、見張られ役ではございません」


「今は両方だ」


 俺が言うと、玄斎は肩をすくめた。


「若君様は、人を二つ三つの役にされる」


「一つの役だけで済む人間は少ない」


「それは、確かに」


 玄斎は苦笑した。


 この男も、少しずつ自分の場所を覚え始めている。


 信用とは違う。


 使い道が見えてきた、というだけだ。


 見立て場には、兵を少なく置いた。


 少なく、しかし見えるところと見えないところに分ける。


 表に立つのは二人だけ。


 槍を突き立てるのではなく、道案内のように立たせる。


 裏には柴田の者を置く。


 犬千代もいる。


 ただし、前へ出るなと言ってある。


 それを何度も言った。


「犬千代」


「はい!」


「前へ出るな」


「承知!」


「叫ぶな」


「承知」


「見立て場は戦場ではない」


「しかし、敵が来れば」


「その時は俺が言う」


「はい」


 犬千代は真面目に頷いた。


 真面目だからこそ怖い。


 勢いで飛び出すのではなく、正しいと思って飛び出すからだ。


 信勝が横から言った。


「犬千代殿は、見える場所にいると敵も味方も身構えます。今日は、奥で“止まれる武者”としていてください」


「止まれる武者……」


 犬千代の顔が輝いた。


「それは、なかなか良い役でございますな」


 信勝、うまい。


 俺が同じことを言えば、留守番に聞こえる。


 信勝が言うと、役になる。


 こういうところは、完全に負けている。


 いや、勝ち負けではない。


 たぶん。


 見立て場の入口には、木札を立てた。


 字は短い。


 ――怪我、病、薬の困りごとは、ここで聞く。名を伏せてよい。ただし、荷と文は見せること。


 長秀が最初に書いた案はもっと長かった。


 長すぎたので削った。


 削られた長秀は不満そうだったが、つね婆が「病人は長い文など読まない」と言って黙らせた。


 強い。


 かなり強い。


 朝から人が来た。


 最初は、尾張の農夫だった。


 足に切り傷がある。


 たいした傷ではないが、泥が入り、赤く腫れ始めていた。


 つねが見て、すぐおたえの者に湯を用意させる。


「これは早く洗えば済む傷だね。放っておけば熱が出る」


 農夫は恐縮して何度も頭を下げた。


「銭が」


「今日は見立てだ。薬代はあとで畑仕事で返せるようにする」


 つねが言うと、農夫は驚いた。


 ただではない。


 だが、いきなり高値を取られるわけでもない。


 返し方がある。


 それが大事だった。


 困りごとの道は施しだけでは続かない。


 施しだけにすれば、受ける者が傷つくこともある。


 仕事や返し方を用意する。


 そこまでが道だ。


 次に来たのは、三河から来たという親子だった。


 父親が咳をしている。


 娘は十二、三ほど。


 小さな包みを持っていた。


 つねが父親を見る間、信勝が娘に声をかけた。


「その包みは薬ですか」


 娘は警戒したように抱きしめた。


「母が持たせてくれました」


「見せてもらえますか。取り上げるためではありません。中に余計なものが入っていないか見るためです」


 娘は迷った。


 信勝は急かさない。


 やがて、娘は包みを差し出した。


 中には乾いた薬草と、銭が少し。


 文はない。


 白紙もない。


 札もない。


 つねが薬草を見る。


「これは悪くない。誰から買った?」


「村の婆さまです」


「なら、大事にしなさい。玄斎の粉よりよほど素直な薬だよ」


 玄斎が横で小さく咳払いをした。


「比較に私を出さなくても」


「出すよ。分かりやすいからね」


 娘が少し笑った。


 その笑いで、場の空気が少し緩んだ。


 父親には水と薄い粥を出した。


 尾張の内へ入れるかどうかは、すぐには決めない。


 ひとまず見立て場で休ませる。


 仁助の者が、親子の来た道を確認する。


 怪しい荷がないか。


 誰かにつけられていないか。


 助ける。


 だが、見ないまま通さない。


 この線を、今日一日で何度も引いた。


 昼前、問題の者が来た。


 若い僧だった。


 旅の姿で、足を引きずる男を連れている。


 男は額に汗を浮かべ、苦しそうにしていた。


 僧は丁寧に頭を下げた。


「三河より参りました。こちらで傷病の見立てをしていただけると聞き」


 聞くのが早い。


 昨日作ったばかりだ。


 噂は早い。


 影も早い。


 つねが男を見る。


 足の傷は本物だった。


 だが、傷の割に痛がり方が妙だった。


 玄斎が鼻を近づける。


「眠り草の匂いがします」


 僧の顔が、ほんの少し動いた。


 信勝が僧を見た。


「この方には、何か飲ませましたか」


「痛み止めを少し」


「誰から」


「道中の薬売りから」


「名は」


「存じませぬ」


 また、知らない。


 つねが傷を見る。


「痛み止めにしては強い。足の傷より、眠り草でふらついている」


 男は、ほとんど意識がぼんやりしていた。


 これでは、何を持たされても分からない。


 僧の荷を見せてもらう。


 最初は素直に見せた。


 衣、経、薬包、木椀。


 だが、木椀の底が二重だった。


 おたえの女中が気づいた。


 台所の者は、器の重さに敏い。


 底を外すと、中から小さな紙が出た。


 文字は短い。


 ――見立て場、受け入れよし。兵少なし。信勝同席。


 場が凍った。


 僧は逃げようとした。


 だが、表の兵が動くより早く、奥から犬千代が半歩出た。


 半歩だけ。


 前へ出るなと言われていたから、半歩で止まった。


 だが、その半歩だけで僧の足が止まった。


 仁助の者が後ろから押さえる。


 犬千代は、俺を見た。


「半歩です」


「よく止まった」


「はい!」


 褒めるところなのか分からないが、今日は褒める。


 止まったことが大事だ。


 僧は本物の僧ではなかった。


 頭は剃っているが、手に数珠の癖がない。


 経も読めない。


 男を傷病人として連れ、見立て場の様子を探っていたのだ。


 傷を負った男は、事情をあまり知らないようだった。


 眠り草でぼんやりさせられ、連れてこられた。


 ひどい手だ。


 病人だけでなく、怪我人そのものを道具にしている。


 信勝の顔がはっきり怒っていた。


「兄上」


「ああ」


「これは、許せません」


「分かっている」


「怪我人を盾にするだけでなく、荷物のように使っている」


「だからこそ、見立て場が要る」


 俺は僧もどきを見た。


「誰の命だ」


 男は黙る。


「井上半九郎か」


 目が動いた。


「半九郎本人か。手の者か」


 黙る。


「朝比奈の名か」


 今度は、ほんの少し顎が動いた。


 やはり、そこに反応する。


 朝比奈の名は効く。


 だが、誰が本当に預かっているのかはまだ見えない。


「長秀へ送る」


 俺は言った。


「丁寧に聞け。痛めつけすぎるな。こいつは下だ」


 柴田なら物足りない顔をしただろう。


 だが、ここに柴田はいない。


 犬千代はいたが、今は止まれる武者だ。


 止まった。


 偉い。


 午後、見立て場の評判を聞いて、村の者が二人様子を見に来た。


 近くの村人だ。


 不安なのだろう。


 境に怪我人や病人が集まれば、病が村へ入るのではないか。


 間者が村に紛れるのではないか。


 当然の不安だ。


 俺は村の年寄りと話した。


「村へ直接入れぬために、ここで見る」


「ですが、病が」


 年寄りは言いにくそうにした。


「咳の者は風下に置く。井戸は分ける。粥の器は洗う。つねが見る」


 つねは横で頷いた。


「村の者に病が出たら、先に私へ言いなさい。隠す方が広がる」


 年寄りは、つねの顔を見て少し安心したようだった。


 俺よりつねの方が効く。


 当然だ。


 村人は、若君より病を見てきた婆を信じる。


 それでいい。


 信勝が年寄りへ言った。


「村へ負担をかけるなら、こちらから米と薪を出します。ただ、井戸の水を分けていただく日があるかもしれません。その時は先に知らせます」


 年寄りは深く頭を下げた。


「信勝様がそうおっしゃるなら」


 また信勝の名だ。


 しかし、今度は火種ではなく、安心として届いている。


 同じ名でも、置き場で意味が変わる。


 夕方、見立て場の初日の記録をまとめた。


 傷人三。


 咳二。


 薬求め一。


 怪しい荷二。


 偽僧一。


 白紙一。


 半九郎の名が直接出たもの一。


 朝比奈の名に反応したもの一。


 数字にすると簡単だ。


 だが、その一つ一つに人の顔がある。


 足を切った農夫。


 咳の父を連れた娘。


 眠り草でぼんやりさせられた怪我人。


 偽僧。


 不安そうな村の年寄り。


 数字だけでは足りない。


 だが、数字がなければ見落とす。


 長秀がいれば、きっとそう言うだろう。


 那古野へ戻ると、長秀はすでに待っていた。


 報告を聞きながら、眉間に皺を寄せる。


「初日でこれですか」


「ああ」


「続ければ、もっと来ます」


「来るだろうな」


「見立て場が狙われます」


「分かっている」


「ですが、閉じれば半九郎の勝ちです」


「ああ」


 長秀は、帳面に新しい項目を書いた。


 境の見立て場。


 また帳面が増える。


 今回は誰も止めなかった。


 必要だからだ。


 夜、帰蝶に今日のことを話した。


 偽僧。


 眠り草でぼんやりさせられた怪我人。


 村の不安。


 信勝の言葉。


 犬千代が半歩で止まったこと。


 帰蝶は、その最後で少し笑った。


「犬千代殿、成長されましたね」


「ああ。半歩だけだが」


「半歩は大きいです」


「そうだな」


 半歩止まる。


 それも国を守る力になることがある。


 勢いだけでは、見立て場は守れない。


 俺自身も同じだ。


 怒りで踏み出す半歩を止める。


 それが今日、何度も必要だった。


 信勝は、黙って茶を飲んでいた。


 疲れている。


 だが、目は落ちていない。


「信勝」


「はい」


「明日も来るか」


「行きます」


 即答だった。


「無理はするな」


「兄上も」


「またそれか」


「はい」


 帰蝶が静かに頷く。


「お二人ともです」


 反論できない。


 境の見立て場は、始まったばかりだ。


 ここには、病も傷も薬も影も来る。


 助けたい者と、見抜かなければならない者が同じ道を通ってくる。


 半九郎は、そこを突いている。


 だが、こちらも見た。


 人に札はつけられない。


 けれど、人の持つ荷、薬、手、言葉、行き先は見られる。


 そして、怒りで踏み込みすぎないこともできる。


 半歩で止まる。


 右を見る。


 左を見る。


 何を守るのかを見る。


 境の見立て場は、ただの仮小屋ではない。


 尾張が外の困りごとと向き合うための、最初の目だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ