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第69話 井上半九郎

井上半九郎。


 名が出た。


 名が出ると、人は少し安心する。


 影に輪郭がついた気になるからだ。


 だが、実際には逆だった。


 名が出た途端、その名が本物なのか、預かった名なのか、騙った名なのかを見なければならなくなる。


 駿河屋宗右衛門は言った。


 井上半九郎。


 今川に仕える者の、また下にいる者。


 朝比奈の名を使う者。


 これが厄介だった。


 朝比奈。


 今川家中の重い名だ。


 重い名は、それだけで人を動かす。


 だが、重い名ほど、周囲の者が勝手に使いたがる。


 本人が命じたのか。


 誰かが名を預かったのか。


 ただ騙ったのか。


 それを見誤れば、こちらは大きな敵を見誤る。


「若様」


 長秀が、また地図と帳面を並べた。


 最近、評定の机は戦場より混んでいる。


 地図。


 薬草帳。


 小荷札の控え。


 命札の見本。


 熱田の湊の荷書き。


 大浜屋の小荷筋。


 駿河屋宗右衛門の供述。


 左内の供述。


 佐橋の聞き取り。


 そして、岡崎の点。


「井上半九郎について、分かっていることは少ないです」


「少ないな」


「はい。ただ、名前の出方が妙です」


「どう妙だ」


「宗右衛門は、半九郎を『朝比奈の名を使う者』と言いました。『朝比奈の家臣』とも『朝比奈殿の命を受けた者』とも言っておりません」


「名を預かったかどうかを濁した」


「はい」


 信勝が静かに言った。


「つまり、半九郎は朝比奈の名で動いているけれど、その名が本当に上から与えられたものかは分からない」


「ああ」


「それでも、周りは動いてしまう」


「重い名だからな」


 俺は、机の上の黒線札を指で叩いた。


 名を預かる札。


 尾張では、ようやく名を勝手に使わせない仕組みを作り始めた。


 だが、駿河や三河には別の名の流れがある。


 朝比奈の名。


 今川の名。


 岡崎の松平の名。


 それぞれが、人を動かす。


「半九郎を捕らえるか」


 柴田が言った。


 今日も当然のように言う。


 もう、この問いは評定の鐘のようなものだ。


「まだだ」


 俺が答えると、柴田は腕を組んだ。


「まだ名だけですからな」


「そうだ」


「名だけで動けば、朝比奈を敵に回した形にもなりかねませぬ」


「それもある」


 佐久間が頷いた。


「井上半九郎という男を押さえる前に、半九郎が本当にどの名を預かっているのかを見る必要があります」


「どう見る」


 帰蝶が静かに口を開いた。


「名を返してみてはいかがでしょう」


「名を返す?」


「はい。こちらから、朝比奈の名を使わず、井上半九郎の名だけで問いを返すのです。『井上半九郎なる者が、朝比奈の名を使い、尾張の小荷へ触れている。これは本人の名か、誰の名か』と」


 長秀が少し考えた。


「駿河へ直接問うのは危険です」


「直接ではなく、道へ返すのです」


 帰蝶は言った。


「宗右衛門、大浜屋、岡崎の商い筋。半九郎の名が出た道へ、同じ名を戻す。すると、誰が慌てるか見えます」


 なるほど。


 文を出すのではない。


 問いを道へ置く。


 井上半九郎という名を、こちらが見たことを知らせる。


 その時、半九郎本人が逃げるのか。


 宗右衛門が動くのか。


 大浜屋が引くのか。


 岡崎が反応するのか。


 駿河が別の名を出すのか。


 それを見る。


「よい」


 俺は言った。


「かなりか」


 帰蝶が少し笑った。


「かなりです」


 このやり取りも、もはや癖になっている。


 怖い。


 だが、悪くない。


 昼前、宗右衛門へ言葉を返した。


 文ではない。


 熱田の香木札の確認という名目で、宗次から口頭で伝えさせる。


 ――井上半九郎なる者が、朝比奈の名を使い、熱田の小荷へ影を落としている。駿河屋は、その名を預かった者か、ただ聞いた者か。


 大浜屋の藤助にも、別の形で同じ問いを渡す。


 ――大浜屋の名を守るため、井上半九郎の荷を受けたことがあるかを調べよ。岡崎の商い筋にも、同じ名が通っているか。


 玄斎にも伝える。


 ――薬売りの道で井上半九郎の名が出たら、薬ではなく名を見よ。


 つね婆は、それを聞いて鼻を鳴らした。


「名にも薬にも、効能書きが要りますな」


「効能書き?」


「その名を出すと、何が動くのか。誰が怯えるのか。誰が得をするのか。それを見れば、薬の中身みたいに分かります」


 また婆に教えられる。


 名の効能書き。


 妙な言葉だが、残る。


「長秀」


「はい」


「書くなと言っても書くな」


「もう少し早くおっしゃってください」


 遅かった。


 その頃、三河側では、井上半九郎が岡崎近くの宿にいた。


 これは後に仁助の道の者から聞いた話だ。


 半九郎は、目立つ男ではなかった。


 背は高くも低くもない。


 顔立ちも、特に強い印象はない。


 ただ、手入れされた爪と、よく磨かれた小刀を持っていたという。


 武士のようにも、商人のようにも見える。


 どちらにも見える者は、どちらでもない場所を歩ける。


 半九郎は、宿の奥で大浜屋藤右衛門の使いと会った。


 藤助ではない。


 彦十の周辺にいた男でもない。


 もっと古い手代だ。


 半九郎は、その男から熱田の話を聞いた。


 小荷札が始まった。


 眠り粉が押さえられた。


 彦十が熱田の小荷札を書かされている。


 宗右衛門が半九郎の名を出した。


 そこまで聞くと、半九郎は少しだけ笑った。


「宗右衛門殿は、道を守るのが早い」


 手代は顔を伏せた。


「では、熱田はしばらく難しいと」


「難しいでしょうな」


 半九郎は、机の上の小さな木札を指で転がした。


 赤い札だった。


 まだ未完成の偽札に似ている。


「尾張は、札を好み始めた。札を好む者は、札のないものを疑う。なら、次は札を持たぬものを使えばよい」


「札を持たぬもの?」


「人です」


 手代は黙った。


「荷には札がつく。薬には値がつく。火には火番がつく。では、道を歩く者には?」


 半九郎は、窓の外を見た。


「旅人、僧、傷を負った者、病の親を抱えた者。そういう者へ札を求めるのは、難しい」


 嫌な言葉だった。


 つまり、次は荷ではなく人を使う。


 傷ついた者。


 病を持つ者。


 困っている者。


 こちらが守ろうとしているものを、また道にするつもりだ。


 手代が問う。


「尾張へ入れますか」


「入れる必要はない。尾張が外を見るようになったなら、外に困りごとを置けばいい」


「外に?」


「三河から来た傷病人。薬を求める者。岡崎の名を出さず、今川の名も出さず、ただ困っている者として熱田や那古野へ近づける。尾張が受けるか、拒むかを見ます」


 手代は、少し青ざめた。


「拒めば?」


「尾張は困りごとの道を閉じた、と言える」


「受ければ?」


「中へ入れる」


 半九郎は、淡々と言った。


 この男は、火を直接つける男ではない。


 火の近くへ乾いた草を置く男だ。


 そして、草が燃えたら「火が燃えた」と言う。


 その報せが那古野へ入ったのは、翌日だった。


 仁助の者が、三河筋の宿で半九郎らしき男の話を聞いた。


 もちろん、全部を聞けたわけではない。


 だが、「札を持たぬものを使う」「傷病人」「尾張が受けるか拒むかを見る」という断片は届いた。


 俺は、その報せを聞いて、思わず舌打ちした。


「荷の次は人か」


 信勝の顔も険しくなる。


「困りごとの道を、外から試すつもりですね」


「ああ」


「三河から来た病人や怪我人を、尾張がどう扱うか」


「受ければ中へ入る。拒めば冷たいと噂にする」


「嫌な手です」


「まったくだ」


 柴田は低く言った。


「敵地から来た者を入れるのは危ういです」


「そうだ」


「しかし、すべて追い返せば」


「噂になる」


「なら、どうします」


 俺は考えた。


 病人や怪我人を入れれば、間者が紛れる。


 薬を求める者を入れれば、薬の道がまた使われる。


 だが、拒めばこちらの困りごとの道が嘘になる。


 尾張の困りごとだけ聞くのか。


 外の困りごとは見捨てるのか。


 そう言われる。


 答えは簡単ではない。


「外の困りごとを、そのまま中へ入れない」


 俺は言った。


「では」


「境に見る場所を作る」


 長秀が顔を上げた。


「境の見立て場、ですか」


「名は後でいい。三河から来る傷病人、薬を求める者、困りごとを持つ者を、まず境で見る。那古野や熱田へ直接入れない」


 つねが頷いた。


「病を見る者が要ります」


「つね、行けるか」


「足は遅いですが、口は動きます」


「十分だ」


 玄斎にも目を向ける。


「お前も行く」


「私も?」


「三河筋の薬売りの顔を知っているだろう」


「知っています」


「逃げるなよ」


「逃げれば、薬箱が没収されますので」


 こいつも、少しずつ自分の置き場を分かってきた。


「柴田」


「はっ」


「兵は少なく。ただし、見えないところに置く」


「承知」


「犬千代は」


 言いかけて、少し考えた。


 目立つ。


 だが、今回は境の見立て場だ。


 もし荒事になった時、若い力は要る。


「犬千代も連れていく。ただし、前に出すな」


 柴田が少し笑った。


「難しい命ですな」


「分かっている」


 信勝が言った。


「私も行きます」


「危険だ」


「困りごとの道を試されているなら、私の名も関わります。私が行かず、兄上だけが境で見ると、また『信勝様は外された』と言われます」


 正しい。


 正しすぎて、止めにくい。


「来い」


「はい」


「ただし、本当に前へ出すぎるな」


「兄上もです」


「俺に言うか」


「はい」


 帰蝶が横で静かに頷いた。


「信勝様の方が正しいです」


「お前まで」


「かなり」


 負けた。


 境の見立て場は、急ごしらえだった。


 場所は、以前から道普請で見ていた境近くの小さな空き地。


 近くに井戸があり、雨を避ける古い小屋がある。


 村に近すぎず、道から離れすぎない。


 ここなら、来る者を見られる。


 同時に、那古野や熱田へ直接入れずに済む。


 つね、玄斎、おたえの女中、長秀の手代、仁助の者、柴田の兵少数。


 そして、俺と信勝。


 妙な一団だ。


 しかし、今の尾張が何を見ているかを、そのまま形にしたような一団でもあった。


 最初に来たのは、本当に傷を負った男だった。


 足を引きずっている。


 三河から来た百姓だという。


 荷運びの途中で足を痛め、薬が欲しいと言った。


 つねが見る。


「骨は折れていない。腫れているだけだね。冷やして、巻く」


 玄斎が薬草を見る。


「この男が持っていた薬は、悪くありません。ただ、値が高い」


「どこで買った」


 男は怯えたように言った。


「岡崎の外れで」


「誰から」


「名は……」


 そこで止まる。


 怖いのだろう。


 俺は言った。


「薬を買ったことを責めているのではない。高く買わされたなら、次に同じ者が来た時に見るためだ」


 男はしばらく迷い、小さく言った。


「半九郎様の手の者、と」


 来た。


 半九郎の名が、傷薬の値に乗っている。


 次に来たのは、病の母を連れた若い女だった。


 これも本物に見えた。


 母は咳をしている。


 つねが見る。


 玄斎も見る。


 薬は必要だ。


 だが、女の持っていた小さな包みに、文が入っていた。


 女は知らなかった。


 文には、何も書かれていない。


 白紙だ。


「白紙?」


 信勝が首を傾げた。


 長秀の手代が言う。


「合図かもしれません」


 玄斎が文を匂った。


「香が少し。白檀ではなく、安い香です」


「宗右衛門のものではないか」


「違います。もっと粗い」


 つねが文の端を見た。


「薬草の粉がついている。病人の荷に紛れさせたんだろう」


 白紙の文。


 それ自体に意味はない。


 だが、持って入った者がどこへ行くかで、意味が出る。


 例えば、熱田の宿へ白紙を持って行けば「道が開いた」という合図になる。


 病人の荷に入れる。


 見つかっても、知らなかったと言える。


 実際、この女は知らなかったのだろう。


 半九郎の手は、実に嫌なところへ入る。


「病人と怪我人を使うな」


 信勝が、珍しく怒りを滲ませた声で言った。


「兄上、これは」


「ああ」


 半九郎は、困りごとの道を試している。


 こちらが本物を助けるかどうか。


 その中に偽物や合図を混ぜる。


 疑いすぎれば本物が傷つく。


 受けすぎれば影が入る。


 また同じ線引きだ。


「見立て場を作っておいてよかった」


 長秀の手代が言った。


「なければ、この白紙は熱田まで入っていました」


 その日の午後までに、境の見立て場には七組が来た。


 本物の傷病人が四組。


 薬を求める者が一組。


 怪しい荷を持つ者が二組。


 そのうち一人は、最初から間者だった。


 病人の弟を名乗っていたが、手が武士のものだった。


 鍬を握る手ではない。


 槍や刀を扱う手だ。


 柴田がすぐ気づいた。


「この手で百姓は無理がある」


 男は逃げようとした。


 犬千代が飛び出しかけた。


 俺は止める前に、信勝が言った。


「前へ出すぎない」


 犬千代が、ぴたりと止まった。


 偉い。


 かなり偉い。


 その隙に、仁助の者が荷縄を投げ、男を押さえた。


 犬千代は悔しそうだったが、俺が言った。


「よく止まった」


 すると、すぐ顔が明るくなった。


「はい!」


 単純ではない。


 役を守ったのだ。


 捕らえた男は、井上半九郎の名を知っていた。


 だが、直接会ったことはないと言った。


 半九郎の手の者から、「尾張の見立て場で様子を見ろ」と命じられたらしい。


 見立て場を作ったことすら、もう向こうに伝わっていた。


 早い。


 だが、早いということは、近くに目がいる。


「この辺りにも、半九郎の目があるな」


 俺が言うと、仁助が頷いた。


「いますね。道の端で、誰が来るか見ている者が」


「探せ。ただし、騒ぐな」


「分かってます」


 夕方、見立て場を畳む頃には、俺はかなり疲れていた。


 怪我人を見る。


 病人を見る。


 薬を見る。


 荷を見る。


 文を見る。


 手を見る。


 そして、疑いすぎないようにする。


 戦う前から、戦より疲れる。


 だが、この疲れを避けると、後で本当に血が流れる。


 信勝も疲れていた。


 それでも、最後の病人へ粥を出すよう手配していた。


「信勝」


「はい」


「よく見たな」


「兄上も」


「俺は何度か怒りそうになった」


「顔に出ていました」


「また顔か」


「はい」


 少し笑った。


 笑わなければ、やっていられない。


 那古野へ戻ると、帰蝶が待っていた。


「どうでしたか」


「半九郎は、人を使い始めている」


「荷の次は、人」


「ああ」


「見立て場は続けるべきですね」


「続ける」


「ただし、そこも狙われます」


「分かっている」


 境の見立て場。


 また新しい道ができた。


 道ができれば、影も通る。


 だが、道がなければ、本物の傷病人も困る。


 なら、続けるしかない。


 夜、長秀がまとめた報告を読んだ。


 井上半九郎の名は、三つの場所に出ている。


 薬代。


 傷病人。


 間者への命。


 ただし、どれも「本人から直接」ではない。


 半九郎の手の者。


 半九郎様の名。


 半九郎の周り。


 まだ本人は遠い。


 だが、輪郭は濃くなった。


「兄上」


 信勝が地図を見ながら言った。


「半九郎は、札を持たぬ人を使うと言いました。でも、今日分かったのは、人にも見るべきものがあるということですね」


「手、薬、荷、言葉、行き先」


「はい」


「人に札はつけられない。だが、人の道は見られる」


 信勝は頷いた。


「困りごとの道は、守るためにも、疑うためにも必要なのですね」


「そうだ」


 難しい。


 だが、そういうことだ。


 困りごとの道は、甘さではない。


 外の影を見るための目でもある。


 半九郎は、それを試してきた。


 なら、こちらは答える。


 拒まない。


 ただし、見ないまま入れない。


 助ける。


 ただし、影を通さない。


 言葉にすると無茶だ。


 だが、その無茶をやるしかない。


 俺は地図の境に、新しい印をつけた。


 見立て場。


 その横に、井上半九郎の名を置く。


 半九郎は、まだ手の届かないところにいる。


 だが、こちらの道を試した。


 なら、次はこちらが半九郎の道を試す番だ。


 駿河は道を動かす。


 岡崎は見ている。


 尾張は、見立てる。


 戦はまだ始まっていない。


 だが、もう人の歩き方に戦が出ている。

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