第68話 駿河の男
駿河の男は、最初から姿を見せていた。
そう気づいた時、俺は少し嫌な気分になった。
影というものは、見えないから影なのではない。
見えているのに、誰もそれを影だと思わないから影なのだ。
商人。
薬売り。
旅僧。
古布を扱う者。
小瓶を預ける者。
宿で酒を飲む者。
茶屋で噂を拾う者。
そういう顔をして、目の前を何度も通る。
こちらは別の火を見ている。
飯を見ている。
布を見ている。
札を見ている。
その隙に、そいつは涼しい顔で道を変える。
駿河の男も、そういう者だった。
「名は、駿河屋宗右衛門」
長秀が帳面を開いて言った。
この名は前にも出た。
仙七が同じ宿に泊まっていた男。
境の蔵の荷にちらついた名。
作兵衛の道と、薬売り玄斎の道の間に何度か出てきた名。
だが、決定的ではなかった。
いつも少し遠い。
直接の命令ではない。
直接の荷主でもない。
誰かの宿にいた。
誰かと話していた。
誰かの荷の近くにいた。
それだけだ。
だが、彦十の下男・弥七が言った「彦十様の部屋にいた男」の特徴が、ようやくその名に重なった。
「右頬に薄い傷。香を焚く癖があり、袖に白檀の匂い。駿河訛りを隠そうとするが、語尾に残る。薬にも小荷にも詳しい。宿では駿河屋宗右衛門と名乗っていた」
長秀は淡々と読み上げる。
「宗右衛門は、熱田の湊にも入っています。清洲の茶屋にも。境の蔵に近い宿にも。仙七、玄斎、彦十、それぞれと接触した可能性があります」
「可能性ばかりだな」
俺が言うと、長秀は頷いた。
「はい。そこが厄介です」
可能性だけで捕らえれば、こちらの方が乱暴になる。
乱暴になれば、駿河の男は被害者の顔をする。
尾張は商人を疑い、駿河筋の者を縛る、と。
そういう噂になれば、熱田の商いは萎む。
薬も布も小瓶も、別の道へ逃げる。
逃げた先で、もっと見えなくなる。
「宗右衛門は今どこだ」
「熱田に近い宿です。ただ、今朝から姿を見せておりません」
「逃げたか」
「まだ宿に荷はあります」
荷を残している。
つまり、完全には逃げていない。
あるいは、荷を餌にしている。
「荷は」
「香木、油紙、乾いた薬草、茶道具。それから、空の文箱が二つ」
「文箱が空?」
「はい」
空の文箱。
嫌な響きだ。
文を出した後なのか。
これから文を入れるつもりなのか。
あるいは、空の文箱そのものが何かの合図なのか。
最近の俺は、空の箱まで疑うようになった。
面倒な男になったものだ。
だが、面倒を嫌がっていたら、火番は眠らされていた。
「捕らえるか」
柴田が言った。
いつもの問いだ。
だが、今回は柴田の声にも少し迷いがあった。
宗右衛門は兵ではない。
商人の顔をした駿河の男だ。
扱いを間違えれば、熱田の小荷札も薬の相場も全部が「商いへの圧迫」と言われる。
「まだだ」
俺は言った。
「呼ぶ」
「また呼びますか」
柴田が少し呆れたように言う。
「呼ぶ。逃げれば逃げた道が見える。来れば言葉が取れる」
帰蝶が静かに頷いた。
「名目は必要ですね」
「何がいい」
「香木です」
帰蝶はすぐ答えた。
「白檀の匂いがあるなら、香木を扱っているのでしょう。寺社や奥向きに出入りする口実にもなります。熱田で火と香を分ける話として呼べます」
なるほど。
火と香。
祈りの火。
香の煙。
熱田では、どちらも軽く扱えない。
火を曇らせようとした者が、香の道を使っているなら、そこを見るのは自然だ。
「実円も呼ぶ」
俺は言った。
「香と火の話なら、僧の目が要る」
「油屋宗次も」
信勝が加えた。
「香の煙と火の煙は違う、と言える人が必要です」
「よい」
信勝は、最近こちらが言う前に次の目を出す。
頼もしい。
そして、少しだけ悔しい。
熱田へ、宗右衛門を呼び出す文を出した。
名目は、香木と火の扱いについての確認。
熱田の社前で使う香、寺に納める香、荷場の火に近づけてよい香木、松脂や油紙と一緒に置いてはならぬもの。
そういう話だ。
商いの詮議ではない。
だが、火と煙を扱う者として、来てもらう。
宗右衛門は、昼過ぎに来た。
逃げなかった。
この時点で、ただの小物ではない。
逃げれば疑われる。
来れば危うい。
その危うさを承知で来る男だ。
宗右衛門は、四十前後に見えた。
身なりは控えめだが、布は良い。
白檀の匂いは、確かにした。
強すぎない。
むしろ、身についた匂いのようだった。
右頬に、薄い傷。
笑うと、そこが少し引きつる。
「織田三郎様。信勝様」
宗右衛門は深く頭を下げた。
「駿河屋宗右衛門にございます。香木と薬種を少々扱っております」
「少々にしては、道が広い」
俺が言うと、宗右衛門は顔を上げ、柔らかく笑った。
「道が広くなければ、香も薬も届きませぬ」
「道が広ければ、煙も粉も届く」
「煙は、風次第でございます」
うまい。
嫌な男だ。
座敷には、俺、信勝、長秀、宗次、実円、つね、玄斎、藤助がいた。
彦十は呼ばない。
今は熱田の小荷札を書かせている。
宗右衛門と彦十を同じ場に出すのは、まだ早い。
藤助は大浜屋の表の顔として置く。
宗右衛門がどう反応するかを見るためだ。
「宗右衛門殿」
実円が最初に口を開いた。
「香は、祈りに使います。けれど、煙は人の心を騒がせることもあります」
「おっしゃる通りで」
「熱田では先日、火を曇らせようとした者がありました」
「噂に聞きました。恐ろしいことです」
「香と火の煙を混ぜる者がいれば、さらに恐ろしい」
宗右衛門は、静かに頭を下げた。
「そのような者がいれば、香木商としても許し難いことにございます」
「では、香木の小荷にも札をつけることに異存はありませんね」
実円はさらりと言った。
宗右衛門の目が、ほんの少しだけ動いた。
実円、やる。
若い僧は、火の前で鍛えられたのかもしれない。
「札、でございますか」
「はい。火の近くへ置く香、寺社へ納める香、商い用の香。それぞれ、何を守る香かを示していただく」
信勝が続けた。
「香も、何を守るものかが分かれば、疑いすぎずに済みます」
宗右衛門は信勝を見た。
「信勝様は、ずいぶん札にお詳しい」
「私の名も、札なしで使われましたので」
静かに返した。
宗右衛門の笑みが、一瞬だけ薄くなった。
「それは、難儀なことでございました」
「はい。ですので、名のない煙も、名のない香も、少し怖いのです」
信勝の言葉は柔らかい。
だが、逃がさない。
宗右衛門は、やや間を置いて頷いた。
「香木の小荷札、承知いたしました」
「早いな」
俺が言うと、宗右衛門は笑った。
「正しい香を疑われては、商いになりませぬ」
「では、眠り粉は」
俺は紙を置いた。
火番を眠らせる粉の話だ。
宗右衛門は紙を見た。
顔は崩れない。
「薬種商の中には、眠りを誘う草を扱う者もおります」
「お前も扱うか」
「扱います」
「火番を眠らせる量も?」
「それは薬ではございません」
玄斎と同じ答えだ。
薬を知る者は、そこを分ける。
「なら、誰が薬ではない量を動かした」
「存じませぬ」
「大浜屋彦十は、駿河筋の使いが急ぎすぎたのだろうと言った」
宗右衛門は、初めて少し目を細めた。
「彦十殿は、口が軽くなられた」
「知っているのか」
「商いで何度か」
「何の商いだ」
「薬草、小瓶、油紙など」
「火番を眠らせる粉ではなく?」
「違います」
「熱田の小荷を夜に動かす話は」
「存じませぬ」
淡々と否定する。
嘘をついているのか。
半分本当なのか。
まだ読みにくい。
つねが、そこで香木の包みを手に取った。
宗右衛門が持参したものだ。
「これはよい白檀だね」
「恐れ入ります」
「でも、薬草の匂いが移っている」
宗右衛門の顔が少し変わった。
つねは包みを開いた。
「香木と薬草を同じ箱に入れるのは、あまり感心しない」
「旅荷では、どうしても」
「どの薬草だい」
宗右衛門は答えなかった。
つねが匂いを嗅ぐ。
「眠り草ではない。止血草でもない。これは……煙を強くする草だね」
座敷の空気が冷えた。
宗次が低く言った。
「火を曇らせる粉に使うものか」
玄斎が横から見る。
「少量なら香に混ぜることもあります。ですが、量が多ければ煙が濃くなります」
「宗右衛門」
俺は言った。
「香木の箱に、煙を強くする草の匂いがある。なぜだ」
宗右衛門は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり答えた。
「駿河では、香を強く焚く場もございます」
「熱田では?」
「熱田では、火の近くに置くには向きませぬ」
「知っているのに持ち込んだか」
「売る先を選ぶつもりでした」
「誰へ」
宗右衛門は、少しだけ笑った。
「まだ決まっておりませぬ」
出た。
まだ決まっていない。
小荷で何度も聞いた言葉だ。
売り先が決まっていない。
だが、荷は熱田に入っている。
誰かが受け取りに来る。
名はない。
それが影になる。
「決まっていない荷は、熱田では預かる」
宗次が言った。
「宗右衛門殿、香木は通します。だが、煙を強くする草は預かります」
「それは、商いに差し支えます」
「火に差し支えます」
宗次の声は硬かった。
油屋として、火に関わるものは譲れない。
よい。
宗右衛門は、宗次を見た。
「油屋殿は、ずいぶん織田に近づかれた」
「火に近いだけです」
宗次は即座に返した。
「火を曇らせる荷があれば、織田であれ駿河であれ止めます」
宗右衛門は、それ以上言わなかった。
この場で宗次を敵に回すのは不利だと判断したのだろう。
「宗右衛門」
信勝が口を開いた。
「あなたは、何を守る商いをしていますか」
またこの問いだ。
彦十にも刺さった問い。
宗右衛門は、信勝をじっと見た。
「道を守る商いにございます」
「道?」
「はい。香も薬も、道がなければ届きませぬ。駿河から三河へ、三河から尾張へ。尾張からまた別の地へ。道があるから、人は必要なものを得ます」
「その道で、火番を眠らせる粉も届く」
「道は、通るものを選びませぬ」
「人は選べます」
信勝が返した。
宗右衛門は黙った。
「道が選ばないなら、道を持つ人が選ばなければなりません。私たちは、今それを学んでいます」
信勝の言葉に、宗右衛門はしばらく返せなかった。
俺は、その横顔を見た。
この男は、ただの今川の手先ではない。
道を持つ男だ。
道を持つことに誇りもある。
だが、その誇りを理由に、通るものへの責を薄めてきた。
商いだから。
道だから。
荷だから。
その言葉で、火も薬も文も通してきた。
「道を持つなら、責も持て」
俺は言った。
「熱田の小荷、香木、薬草、小瓶。駿河屋の名で通すなら、お前の名を札に置け」
「私の名を?」
「そうだ。名を置けぬ荷は通さぬ」
宗右衛門の顔から、薄い笑みが消えた。
「若君様は、商人に武士のような名乗りを求められる」
「違う。商人の名を、商人自身に守らせる」
「それは、重い」
「道を持つ者の名は軽くない」
沈黙が落ちた。
宗右衛門は、ゆっくり頭を下げた。
「……駿河屋の荷には、駿河屋の名を置きましょう」
「ただし」
俺は続けた。
「眠り粉、煙草、火に関わる草、小瓶、文箱は、熱田では中身を見る」
「承知しました」
「そして、駿河筋の男が大浜屋の名や彦十の部屋を使った件を調べる」
「それは、私の」
「お前の道にいる男だ」
宗右衛門は黙った。
「名を出せ」
長い沈黙だった。
宗右衛門は、やがて小さく息を吐いた。
「名は、井上半九郎」
初めて出る名だった。
「今川の者か」
「今川に仕える者の、また下にいる者です」
「誰の下だ」
「朝比奈の名を使う者、とだけ」
朝比奈。
今川家中の重い名だ。
だが「朝比奈の名を使う者」という言い方が嫌だった。
本人ではない。
その周辺。
名を預かったのか、騙っているのか。
また同じ話だ。
「半九郎はどこにいる」
「熱田には、もうおりませぬ」
「どこへ」
「おそらく、三河へ戻りました」
「岡崎か」
「岡崎を通るでしょう。ですが、岡崎の者とは限りませぬ」
岡崎を通るが、岡崎の者ではない。
駿河の影が岡崎を通る。
岡崎は見ている。
だが、どこまで止められるかは分からない。
また、その構図だ。
「宗右衛門」
俺は言った。
「お前は、半九郎を売ったな」
「自分の道を守っただけです」
「同じことだ」
「かもしれませぬ」
宗右衛門は、薄く笑った。
この男は危うい。
だが、今この場では、道を守るために半九郎の名を出した。
それで十分ではないが、一歩だ。
「駿河屋宗右衛門は、熱田で香と薬草の小荷札を書く」
俺は決めた。
「彦十と同じくか」
「同じくではない。彦十は罰として。宗右衛門は、名を置く者としてだ」
宗右衛門は頭を下げた。
「承知しました」
だが、その目は笑っていなかった。
この男は、自分が負けたとは思っていない。
道を少し曲げられただけだと思っている。
それでいい。
道を完全に奪うつもりはない。
曲がり方を見えるようにする。
それが目的だ。
夕方、宗右衛門が帰った後、座敷には白檀の匂いが残っていた。
信勝がぽつりと言った。
「よい香りなのに、少し怖いですね」
「ああ」
「香も、薬も、火も、人を落ち着かせるものなのに、使い方で影になります」
「だから、何を守るかを見る」
「はい」
実円が静かに合掌した。
「香は、祈りのために焚くものです。人を惑わすためではない。その線を、熱田でもはっきりさせます」
宗次が頷いた。
「香木の小荷札も、明日から入れます」
つねが言った。
「煙草の類は、薬草と分けるよ。混ぜればまた騒ぎになる」
玄斎も低く言った。
「眠り草と煙草は、薬売りの名で勝手に動かさせない方がよろしい」
「お前も見る」
俺が言うと、玄斎は苦笑した。
「また右を見る、左を見る、ですな」
「そうだ」
夜、那古野へ戻ると、長秀が新しい線を地図に引いた。
駿河屋宗右衛門。
井上半九郎。
朝比奈の名を使う者。
三河を通る駿河の影。
線は、ついに駿河の方へ伸びた。
岡崎は見ている。
駿河は動かす。
その言葉が、地図の上で形になり始めている。
「兄上」
信勝が言った。
「半九郎という男は、次に何をするでしょう」
「分からぬ」
「でも、熱田では動きにくくなった」
「ああ」
「なら、別の道へ行きますね」
「行くだろうな」
別の道。
清洲か。
守山か。
那古野の内か。
あるいは、三河から直接、別の境へ。
相手も道を持っている。
こちらも見なければならない。
「疲れましたね」
信勝が珍しく言った。
「ああ」
「でも、少し見えました」
「そうだな」
駿河の男は、ようやく名を出した。
宗右衛門。
そして、その向こうの井上半九郎。
朝比奈の名。
今川の影は、もう遠い噂ではない。
熱田の小荷、薬草、香木、眠り粉、札。
そういう小さなものを通して、尾張のすぐそばまで来ている。
戦はまだ始まっていない。
だが、戦の道具はもう動いている。
そして、その道具を動かす男たちの名も、少しずつ見え始めた。
俺は地図の端に「井上半九郎」と書いた。
その横に、小さく添えた。
駿河は、道を動かす。
なら、こちらは道を見る。




