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第63話 値が見える薬

値が見える薬を作る。


 言葉にすると、商いの話に聞こえる。


 だが、実際には、命の話だった。


 薬は米とは違う。


 米なら、量を見れば足りるか足りないか分かる。


 塩なら、樽を数えれば動きが見える。


 飼葉なら、馬の数と合わせれば不自然さが分かる。


 だが、薬はそうはいかない。


 同じ咳止めでも、中身が違う。


 同じ熱冷ましでも、効く病と効かぬ病がある。


 同じ眠れる粉でも、量を誤れば薬ではなく毒になる。


 それなのに、薬売りは言える。


 これは効きます。


 これしかありません。


 早く飲ませないと手遅れになります。


 そう言われた家の者は、値切れない。


 値切れば、病人の命を値切ったように思えてしまうからだ。


 そこへ影が入る。


 薬の値を吊り上げる。


 払えない家に、小さな仕事を渡す。


 偽札を作らせる。


 文を運ばせる。


 祠へ包みを置かせる。


 病を持つ家の沈黙を、火種へ変える。


 俺は、玄斎の薬箱を見ながら思った。


 これは、兵糧の話と同じだ。


 飯を押さえれば兵が動く。


 薬を押さえれば家が動く。


 そして、家が動けば、噂も、文も、怨みも動く。


「若様」


 つね婆が、玄斎の薬を前にして言った。


「まず決めるべきは、薬の名ではございません」


「名ではない?」


「はい。何に使う薬か、です」


 どこかで聞いたような言葉だった。


 命札と同じだ。


 何を守る命か。


 薬も同じ。


 何を守る薬か。


「咳を止めるのか。熱を下げるのか。傷を塞ぐのか。眠らせるのか。痛みを散らすのか。そこを混ぜるから、薬売りが好きな値をつけるのです」


 玄斎は横で面白くなさそうな顔をしていた。


 縄はかかっていない。


 逃げられないよう見張りはいる。


 だが、薬箱は開かせている。


 この男を斬れば簡単だ。


 だが、薬は止められない。


 だから、玄斎には薬を売らせる。


 ただし、値を見せて。


 中身を見せて。


 文を運ばせずに。


「玄斎」


 俺は言った。


「この咳止めは、何を守る薬だ」


 玄斎は、一瞬だけ不満そうに唇を歪めた。


「咳を鎮める薬でございます」


「それだけか」


「夜に眠れるようにも」


 つねが鼻で笑った。


「だから高く売れる。咳止めと言いながら、眠れる粉も混ぜる。飲んだ者は楽になったと思う。だが、咳の根は残る」


「婆様は、ずいぶん手厳しい」


「薬は人の腹に入る。手厳しく見て当たり前だよ」


 玄斎は黙った。


 つねは薬を小皿に分けた。


「咳止め。熱冷まし。傷薬。眠り薬。まず、この四つを分けます」


「四つだけで足りるか」


 長秀が聞く。


「最初は足ります。多く分けすぎると、誰も分からなくなる」


 つねは、ちらりと長秀を見た。


「帳面にする方は、増やしたがるのでしょうが」


 長秀が少しだけ目を逸らした。


 図星らしい。


「値は?」


 俺が聞くと、つねは指を折った。


「薬草そのものの値。干す手間。煎じる手間。運ぶ手間。あとは、薬売りが食う分」


「それは認めるのか」


「当たり前です。薬売りも飯を食います。そこを認めねば、薬売りは隠れて高く売るだけです」


 玄斎が、少し意外そうにつねを見た。


 自分を完全に否定されると思っていたのかもしれない。


 つねは続けた。


「問題は、飯を食う分と、人の弱みを食う分を混ぜることです」


 部屋が静かになった。


 よい言葉だった。


 薬売りも飯を食う。


 だが、人の弱みを食わせるわけにはいかない。


「長秀」


「はい」


「書け」


「もう書いています」


 早い。


 さすが帳面様だ。


 その日のうちに、薬の値を見せるための小さな場が作られた。


 大げさな市ではない。


 那古野の城下にある、古い長屋の一角。


 普段は薬草や乾物を扱う者が使う場所だ。


 そこに、つね、玄斎、おたえの選んだ女中、長秀の手代、そして町の者を少しずつ入れる。


 名前は出さない。


 病の名も出さない。


 ただ、薬の種類と値を見る。


 咳止めはこの値。


 熱冷ましはこの値。


 傷薬はこの値。


 眠れる粉は扱いを重くする。


 売る者は中身を言う。


 買う者は「何を守る薬か」を聞く。


 最初に来たのは、子を抱いた女だった。


 年は二十を少し越えたくらい。


 顔に疲れがある。


 子は眠っているが、頬が赤い。


 熱があるのだろう。


 女は玄斎を見て、少し肩を強張らせた。


 玄斎から薬を買ったことがあるのかもしれない。


 つねが前へ出た。


「熱かい」


 女は小さく頷く。


「咳は?」


「少し」


「汗は出る?」


「夜に」


「水は飲む?」


「飲みます」


 つねは子の額に触れ、喉を見る。


 医者ではないと言っていたが、手つきは慣れている。


「これは眠らせる粉はいらない。熱を下げる草を薄く煎じる。水を飲ませる。咳止めは少しでいい」


 女は戸惑った。


「玄斎様の薬では、眠れる粉も」


 玄斎が少し気まずそうに目を逸らした。


 つねが言う。


「眠れる粉を入れれば、子は静かになる。でも、静かになることと、良くなることは違う」


 女の顔が変わった。


 その違いを、誰も教えてくれなかったのだろう。


 つねは値を言った。


 玄斎が売っていたものの、三分の一ほどだった。


 女は驚いた。


「これで、よろしいのですか」


「薬はただではないよ。でも、米三升もいらない」


 女は、深く頭を下げた。


 玄斎は黙っている。


 その横顔を、俺は少し離れたところから見ていた。


 この場に俺が前へ出ると、薬の場ではなく政の場になる。


 だから、俺は見ているだけだ。


 だが、見ている。


 それは玄斎にも伝わっているはずだった。


 次に来たのは、兵の妻だった。


 夫が訓練で足を痛めたという。


 傷薬が欲しいと言った。


 玄斎は、今度はつねより先に薬を出した。


「これは、傷口に塗るものです。痛みも少し引きます」


 つねが薬を見て、頷く。


「これは悪くない」


 玄斎の顔に、ほんの少し安堵が浮かんだ。


「値は」


 つねが聞く。


 玄斎は迷った。


 以前なら高く言っただろう。


 だが、今はつねと俺の目がある。


「米半升ほど」


「高い」


 つねが即座に言った。


 玄斎は顔をしかめる。


「傷薬の草は値が上がっております」


「どれが?」


「止血草と、膿を防ぐ草です」


 つねの目が細くなった。


「止血草が上がっている?」


「はい。三河筋で買いが増えております」


 俺は顔を上げた。


 長秀も筆を止めた。


 止血草。


 傷薬。


 三河筋で買いが増えている。


 それは、ただの町の薬ではない。


 兵が動く前触れだ。


 怪我人が出ることを見越して、止血草を買う。


 馬の飼葉。


 塩。


 味噌。


 薬草。


 線がまたつながる。


「玄斎」


 俺は初めて前へ出た。


 町の者が慌てて頭を下げる。


 俺は手で制した。


「止血草は、いつから上がった」


「ひと月ほど前から」


「誰が買っている」


「薬問屋でございます。私はその先までは」


「三河筋と言ったな」


「はい」


「岡崎か」


 玄斎は黙った。


 その沈黙だけで十分だった。


「今川か」


「薬草は、城も寺も買います」


「答えになっていない」


 玄斎は額に汗を浮かべた。


「岡崎の問屋が、駿河筋へも流していると聞きました」


 岡崎から駿河筋。


 つまり、岡崎を経由して今川方へ。


 あるいは、今川方から岡崎へ。


 どちらにしても、傷薬が動いている。


「長秀」


「はい」


「薬草の値の動きを、塩と飼葉の帳面に重ねろ」


「承知しました」


「おたえ」


「はい」


「台所の薬草の減り方も見ろ」


「見ております」


 さすがだ。


「仁助へ伝えろ。薬草の荷を追う。特に止血草と眠れる粉に使う草だ」


「はい」


 玄斎は、黙ってこちらを見ていた。


 自分の値の話から、軍の前触れを読まれるとは思っていなかったのだろう。


 甘い。


 こちらはもう、米だけを見ているわけではない。


 火も見る。


 布も見る。


 札も見る。


 そして薬も見る。


 薬の値は、戦の匂いを運ぶ。


 その日の薬の場は、途中から少し空気が変わった。


 町の者に不安を広げすぎないよう、俺はすぐ下がった。


 つねが場を戻す。


「値の話に戻すよ」


 この婆、強い。


 玄斎も、今度は値を誤魔化しにくくなった。


 傷薬は少し高い。


 だが、高い理由を言わせる。


 止血草が上がっているから。


 なら、その草をどこから仕入れるか。


 別の草で代えられるか。


 つねが一つずつ見る。


 薬の値が、少しずつ言葉になる。


 それだけで、人は少し落ち着く。


 高いと言われるだけなら怖い。


 なぜ高いかを聞ければ、まだ考えられる。


 夕方、弥平の母もつねに見せた。


 咳は長引いているが、玄斎の粉を飲み続けるより、別の煎じ薬と温め方がよいという。


 弥平は泣きそうな顔で頭を下げた。


「私は、何も知らずに」


「知らないのは罪ではないよ」


 つねが言った。


「でも、知らないまま銭だけ出し続けると、食われる」


 弥平は頷いた。


「はい」


「これからは、何を守る薬か聞きなさい」


 ここにも同じ言葉が来る。


 命にも。


 薬にも。


 何を守るのか。


 夜、薬草の帳面が届いた。


 長秀が、まるで合戦図のように広げる。


 止血草。


 膿を防ぐ草。


 眠れる粉に使う草。


 咳止め。


 熱冷まし。


 それぞれの値の変化。


 塩、味噌、飼葉の動きと重ねる。


 結果は、はっきりしていた。


 止血草と飼葉の値上がりが、同じ時期から始まっている。


 塩と味噌の三河方面への流れとも重なる。


「軍が動く前触れだな」


 柴田が低く言った。


「ああ」


「今川か」


「まだ断定はしない」


 俺は岡崎の点を見た。


「だが、三河のどこかで、大きな備えが進んでいる」


 信勝が言った。


「岡崎は、それを知っているのでしょうか」


「知っているか、知りつつ黙っているか、知りながら動けぬか」


「人質の名」


 帰蝶が静かに言った。


「ああ」


 松平の名は、今川の内にありながら今川そのものではない。


 その言葉が、また重くなる。


 薬草の値は、岡崎の苦しさも映しているのかもしれない。


 今川の軍が動くなら、三河も動かされる。


 岡崎の若い目は、それを見ている。


 尾張を見ている。


 自分たちの動かされ方も見ている。


 なら、こちらも見なければならない。


「若様」


 長秀が言った。


「薬の相場を出せば、玄斎のような者は動きにくくなります。しかし、薬草の買い占めが続けば、相場そのものが上がります」


「つまり」


「薬の値を下げるだけでは足りません。薬草の道を確保する必要があります」


 また道だ。


 薬草の道。


 山の村。


 干し場。


 薬売り。


 問屋。


 寺。


 三河。


 駿河。


 どこまで見ればいいのか。


 気が遠くなる。


 だが、見えるようになってしまった。


 見えてしまったものは、もう見なかったことにできない。


「薬草の道を、こちらでも作る」


 俺は言った。


「つねを中心に、城下と周辺の薬草売りを集める。玄斎も入れる。ただし、値と中身を見せる」


「商人たちは反発します」


 久右衛門が言った。


「分かっている」


「値を縛られると思うでしょう」


「値を縛るのではない。値の理由を見せる」


 信勝がすぐに言った。


「薬を値切るのではなく、命につけた嘘の値を削る」


 部屋が静まった。


 よい。


 とてもよい。


「使う」


 俺は即座に言った。


 信勝は、少しだけ照れた顔をした。


「はい」


 翌日、その言葉は薬の場へ置かれた。


 ――薬を値切るのではない。命につけた嘘の値を削る。


 つねが言うと、町の者は頷いた。


 玄斎が言うと、少し妙な顔をされた。


 当然だ。


 お前が言うな、という顔だった。


 だが、言わせる。


 玄斎にも、その言葉を口にさせる。


 自分が何をしていたか、何度も舌に乗せさせる。


 それも責の置き場だ。


 昼過ぎ、三河筋の商人が薬の場を見に来た。


 隠れていない。


 堂々と。


 見られていることを承知で来ている。


 俺は遠くからそれを見た。


 男は、つねの薬、玄斎の薬、値を書いた札を見て、静かに出て行った。


 岡崎へ届くだろう。


 尾張は薬の値まで見始めた。


 止血草の値上がりから、軍の前触れを読んでいる。


 そう届くだろう。


 届けばいい。


 見られることも、使う。


 夜、岡崎からの道に置いた目が、小さな噂を拾った。


 石川与七郎が、藤右衛門にこう言ったという。


 ――尾張は、薬の値から戦を読むようになった。次は、こちらの傷の値も見られるぞ。


 こちらの傷の値。


 嫌な言い方だ。


 だが、確かにそうだ。


 薬の値は、国の傷を映す。


 尾張の傷も、三河の傷も。


 今川の軍が動くなら、その傷薬の値に出る。


 岡崎の目は、それを知っている。


 こちらも知った。


 俺は地図の岡崎の点に、薬草の線を引いた。


 細い線だ。


 だが、確かにつながっている。


 薬の値を見えるようにしたことで、別のものまで見えてきた。


 病。


 弱み。


 借り。


 そして、戦。


 面倒だ。


 どこまでも面倒だ。


 だが、この面倒の中に、尾張を生かす道がある。


 俺は灯火のそばで、薬札を一枚手に取った。


 表には「傷」と書かれている。


 傷を守る薬。


 傷を塞ぐ薬。


 だが、国の傷は粉薬では塞がらない。


 値を見せ、道を見せ、誰がその傷を食おうとしているかを見る。


 そこから始めるしかない。

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