第64話 傷薬が告げる戦
傷薬は、戦より先に動く。
そのことを、俺はその日、はっきり知った。
槍が動く前に、米が動く。
馬が動く前に、飼葉が動く。
陣が立つ前に、塩と味噌が動く。
そして、人が斬られる前に、傷薬が動く。
考えてみれば当たり前だ。
戦をする者は、勝つことだけを考えるわけではない。
負けた時。
退く時。
矢を受けた時。
馬から落ちた時。
槍の柄で骨を打った時。
傷を縛る布、血を止める草、膿を防ぐ薬、熱を下げる煎じ薬。
それらがなければ、戦場から戻った兵は、城へ帰る前に死ぬ。
だから、傷薬は動く。
兵より先に。
軍旗より先に。
そして、噂より静かに。
「止血草の値上がりは、ひと月前から」
長秀が帳面を広げた。
薬草の帳面。
とうとうそんなものまでできてしまった。
最初の頃の俺が見たら、たぶん笑う。
うつけが薬草の値を見て戦を読むなど、誰が思う。
だが、今の俺は笑えない。
帳面の線は、笑えないほどはっきりしていた。
「同じ頃から、三河方面への飼葉の流れが増えています。塩と味噌も、境の蔵を経由して動き始めた時期と近い」
「傷薬だけでは偶然と言えた」
俺は言った。
「だが、飼葉と塩が重なるなら、偶然ではない」
「はい」
長秀の筆が止まる。
「しかも、値が上がっているのは咳止めではありません。止血草、膿を防ぐ草、打ち身に使う膏薬の材料です」
柴田が腕を組んだ。
「戦支度ですな」
「ああ」
「どの程度の」
「そこが問題だ」
傷薬が動くからといって、すぐ大軍とは限らない。
小競り合い。
境目の城への圧力。
尾張内の火種と合わせた揺さぶり。
あるいは、もっと大きな今川方の備え。
どれもあり得る。
だが、ひとつ言える。
向こうは、ただ見ているだけではなくなりつつある。
岡崎は見ている。
今川は動く準備をしている。
その間にいる三河の者たちは、傷薬を買っている。
それが、今の線だった。
「若様」
つね婆が、薬草の束を手に言った。
「止血草は、急に増やせるものではございません」
「山へ行けば取れるのではないのか」
「取れます。けれど、時期があります。干し方があります。よい草と弱い草があります。急に欲しいと言われても、山は人に合わせて生えてくれませぬ」
もっともだ。
山は評定に出ない。
命札も読まない。
「では、今から集めて間に合うか」
「軽い傷薬なら。けれど、深い傷に使うものは、数が限られます」
「尾張でどれくらいある」
「数えねば分かりませぬ」
つねは平然と言った。
長秀が、当然のように筆を取る。
また帳面が増える顔だ。
「薬草の在庫を調べます」
「調べろ。ただし、町の薬を全部取り上げるな」
「分かっています」
「本当にか」
「……努力します」
不安だ。
長秀は、数字を見ると集めたくなる癖がある。
薬草を全部城へ集めれば安心に見える。
だが、それをやると町の病人が困る。
戦の備えのために、戦の前から人を弱らせては意味がない。
「長秀」
「はい」
「必要なのは、奪うことではない。どこに何があるかを知ることだ」
「承知しました」
つねが横で頷いた。
「薬は、動かさなくてもある場所が分かっていれば役に立ちます。無理に集めると、湿気で駄目にする者も出ますからね」
「薬にも置き場があるか」
「あります。米と同じです」
米と同じ。
薬草も、米も、名も、火も、結局は置き場が大事なのだ。
置き場を誤れば腐る。
あるいは、影に使われる。
昼前、熱田から使いが来た。
油屋宗次からの報せだ。
熱田でも、傷薬の買いが増えている。
ただし、買っているのは尾張の者だけではない。
三河筋の商人が、熱田で船便を探っているという。
傷薬や布を湊から動かすつもりかもしれない。
「湊か」
俺は地図を見た。
陸の道ばかり見ていた。
だが、熱田は湊だ。
船で薬や布を動かせば、道普請の目を避けられる。
宗次が気づいたのは、油屋だからだ。
油も船で動く。
壺の数や船の積み方に、いつもと違うものがあれば分かる。
「宗次は何と言っている」
長秀が文を読む。
「『薬草と布は軽く、船底の隙間へ入る。油壺ほど目立たぬ。湊の小荷にも目を置くべし』と」
「嫌なところを見る」
俺は言った。
「だが、正しい」
熱田の火を曇らせようとした影は、今度は湊を使うかもしれない。
油、薬草、布。
火と傷と噂。
これらが船で動けば、見えにくい。
「熱田に小荷札を入れる」
俺は言った。
長秀が顔を上げる。
「小包札の湊版ですか」
「ああ。大荷ではなく、小荷だ。薬草、布、油、火薬に近いもの、松脂。そういうものだけでも見る」
つねが口を挟む。
「薬草は、名前を間違えると困ります」
「どうする」
「束に草の名を書かせる。分からぬなら、薬草売りに見せる。名前なしの薬草束は、怪しいものとして扱う」
「玄斎」
俺は薬売りを見る。
玄斎はこの場にも呼ばれていた。
見張られながらだが、薬の道を見るにはこいつの目も要る。
「湊の薬草を見分けられるか」
「見分けられます」
「嘘をつくなよ」
「この場で嘘をつくほど、私は愚かではございませぬ」
「この場でなくてもつくな」
玄斎は薄く笑った。
まだ信用はできない。
だが、役はある。
「つねと玄斎、二人で見る」
俺は言った。
「一人に任せない。右を見る、左を見る、だ」
信勝が少し笑った。
「薬草でも」
「ああ」
この合言葉は便利だ。
便利だからこそ、使いすぎに気をつけねばならない。
だが、今回は合う。
つね一人なら、町の薬草は分かる。
玄斎一人なら、旅の薬売りの道は分かる。
二人で見れば、片方の穴が見える。
昼過ぎ、柴田が兵の報告をした。
外を見る訓練の成果が少し出ている。
荷車、飼葉、水、偽命。
兵はまだ未熟だが、「何を守るか」を問う声が出ている。
「なら、次は傷だ」
俺は言った。
柴田が眉を上げる。
「傷?」
「ああ。戦場で傷を受けた兵を運ぶ稽古をする」
「それは……あまりやっておりませぬな」
「だからやる」
戦場では、倒れた兵が出る。
誰を運ぶか。
どこへ運ぶか。
傷薬を誰が持つか。
荷を捨てるか。
追撃するか。
そういう判断が必要になる。
普段、兵は斬る稽古をしたがる。
だが、斬られた後の稽古は少ない。
傷薬の値が上がっているなら、こちらも傷を見る必要がある。
「犬千代を怪我人役にするか」
柴田が言った。
俺は少し考えた。
「たぶん暴れる」
「でしょうな」
「では、怪我人を運ぶ側だ」
「それも暴れそうです」
「なら、重い怪我人役をやらせろ」
柴田が笑った。
「それなら役に立ちます」
訓練場で、傷の稽古が始まった。
木槍で打たれた者が倒れる。
もちろん本当には怪我をさせない。
だが、足をやられた想定、腕をやられた想定、腹を打たれた想定を分ける。
兵たちは最初、戸惑った。
倒れた味方をどう運ぶか。
槍を持ったままでは運べない。
荷を誰に預けるか。
傷薬はどこにあるか。
水は誰が持つか。
柴田が怒鳴る。
「倒れた者を見捨てるな! だが、全員で集まるな! 敵は待ってくれぬ!」
犬千代が怪我人役になった。
重い。
本当に重い。
二人がかりで運ぼうとしても、なかなか動かない。
犬千代は真剣に倒れているつもりらしいが、時々口を出す。
「今の持ち方では、腰が痛いぞ」
「怪我人は喋るな!」
柴田が怒鳴る。
兵たちは笑う。
しかし、笑いながらも持ち方を直す。
つねが横で見ていた。
「足を怪我した者を、そんなに揺らすんじゃないよ。骨がずれる」
兵が慌てる。
おたえが布を持ってきて、止血の巻き方を見せる。
「強く巻けばいいわけではありません。血を止める場所と、手足を殺す場所は違います」
兵たちは真剣に聞いた。
普段なら女の話を軽く見る者もいたかもしれない。
だが、今は違う。
傷の稽古で、布を巻く手は命に直結する。
おたえの言葉は、槍よりも具体的だった。
信勝は、怪我人役のそばにしゃがみ、兵へ問う。
「何を守る」
兵は少し考えた。
「命を」
「命だけ?」
「……足を。次に歩けるように」
「よい」
信勝は頷いた。
「ただ生きればよいのではありません。戻った後も生きるために守る。傷薬は、そのためのものです」
俺はそれを聞いていた。
またよい。
信勝は、傷の後まで見る。
それは、稲生の後を見てきたからだろう。
命を取らなかっただけでは足りない。
戻った後の暮らしを見る。
傷も同じだ。
戦場から戻しただけでは足りない。
その後、歩けるか。
働けるか。
飯を食えるか。
そこまで見なければ、傷は怨みになる。
夕方まで訓練を続けた。
兵はへとへとになった。
犬千代も、さすがに少し疲れていた。
「怪我人役は、思ったより疲れます」
「黙って倒れているだけだろう」
「運ばれ方が下手だと、全身が痛いのです」
「なら、よい稽古になったな」
犬千代は真面目に頷いた。
「はい。次から、私は怪我人をもっと丁寧に運びます」
単純ではない。
経験すれば変わる。
犬千代のような男ほど、体で覚える。
夜、薬草と兵の帳面を重ねた。
止血草の値上がり。
飼葉の増加。
塩と味噌の流れ。
境の蔵。
熱田の小荷。
岡崎の商人。
そして、今川方の動き。
線は、まだ完全ではない。
だが、戦の匂いは濃くなっている。
「若様」
佐久間が慎重に言った。
「これだけの線が揃えば、尾張側も備えを表に出すべきでは」
「出す」
「どこまで」
「兵を整える。だが、こちらから戦を始める形にはしない。熱田、清洲、那古野の荷と火を守る備えとして出す」
「外向きの守り」
「そうだ」
柴田が頷いた。
「兵には、外を見る稽古を続けます。傷の稽古も」
「犬千代を使え」
「はい。試練役兼、怪我人役として」
「本人が何と言うかな」
「たぶん喜びます」
たしかに。
信勝が言った。
「私は、困りごとの道へも伝えます。薬代で困っている家は、外へ借りる前に知らせよ、と」
「借りるなと言い切るな」
「はい。借りざるを得ない家もありますから」
「そうだ」
「では、『薬代で外の仕事を受ける前に、右を見て左を見てください』と」
帰蝶が頷いた。
「針仕事の家にも届きます」
おたえも言う。
「台所にも」
つねが鼻を鳴らした。
「薬草売りにも言っておきます。高く売るなとは言いません。嘘の値をつけるな、と」
玄斎は黙っていた。
俺は見た。
「お前も言え」
「私が?」
「お前が言うから意味がある」
玄斎は、少し嫌そうに笑った。
「嫌な役でございますな」
「責の置き場だ」
「便利な言葉です」
「そうだ」
玄斎は、しばらく黙った後、低く言った。
「薬売りは飯を食う。だが、人の弱みは食うな。そう言えばよろしいので?」
「言えるではないか」
「つね婆様の言葉を借りました」
つねが鼻で笑った。
「借り賃は高いよ」
場に小さな笑いが起きた。
薬の話は重い。
病の話は暗い。
だが、笑いが少しあれば、人はそこへ近づける。
夜半、岡崎からの道でまた噂が拾われた。
石川与七郎が、藤右衛門へこう言ったらしい。
――尾張は、傷薬の値上がりに気づいた。次は飼葉だけでは誤魔化せぬ。
誤魔化せぬ。
つまり、向こうも分かっている。
こちらが戦の前触れを読み始めたことを。
その上で、どう動くか。
隠すか。
別の道を使うか。
あえて見せるか。
どれもあり得る。
俺は地図を見た。
岡崎の点。
三河の道。
熱田の湊。
境の蔵。
清洲。
那古野。
線が増えすぎて、もはや美しくない。
だが、戦は美しい線だけで来るわけではない。
泥と飯と薬と布と噂が絡まって、ある日突然、槍になる。
その前に、こちらは見なければならない。
傷薬が告げている。
戦が近い、と。
まだ、いつとは言えない。
どこからとも言い切れない。
だが、近い。
俺は灯火の前で、傷薬の札を置いた。
守るものは、傷。
いや、傷だけではない。
傷を負った後の兵の暮らし。
家の飯。
子の未来。
そして、戦を始める前に見える小さな値の動き。
傷薬は、戦の前に口を開いている。
それを聞けるかどうか。
尾張は、そこまで来た。




