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第62話 薬売りの値段

 薬の値段は、米の値段より人を黙らせることがある。


 弥平の母が病だと聞いた時、最初に思ったのはそれだった。


 米なら、まだ人は声を上げる。


 飯が足りぬ。


 粥が薄い。


 子が腹を空かせている。


 そういう声は、恥を伴いながらも外へ出る。


 だが、病は違う。


 家の中へ隠れる。


 弱った親。


 熱を出した子。


 咳が止まらぬ妻。


 薬を買えぬ夫。


 それは、外へ出しにくい。


 出せば家の弱みになる。


 婚姻に響く。


 奉公に響く。


 役目に響く。


 だから、人は黙る。


 黙って、薬売りへ銭を払う。


 銭が足りなければ、借りる。


 借りれば、言うことを聞く。


 そして、薬売りは道を持っている。


 村から村へ。


 城下から寺へ。


 寺から宿へ。


 三河から尾張へ。


 薬箱の中には、薬だけが入っているとは限らない。


 文も入る。


 小さな札も入る。


 煙を出す粉も入る。


 人の弱みも入る。


 俺は、ようやくそこを見始めた。


「弥平」


 偽札職人だった若い男を、もう一度呼んだ。


 弥平は、前より少し顔色がましになっていた。


 本物の命札を作る仕事を与えたせいか、手は動いている。


 だが、目の下に疲れは残っている。


 母の病のことがあるからだろう。


「母の具合は」


 俺が聞くと、弥平は驚いた顔をした。


 自分の罪ではなく、母の病を先に問われるとは思っていなかったのかもしれない。


「咳が、まだ」


「熱は」


「上がったり下がったりにございます」


「薬は何を使っている」


「三河筋の薬売りから買った粉薬を」


「名は」


「玄斎と名乗っておりました」


 玄斎。


 初めて聞く名ではない。


 境の蔵。


 熱田の煙粉。


 作兵衛。


 薬草。


 そのどこかで、薬売りの影は何度も出ていた。


 だが、名は曖昧だった。


 ようやく一つ、形を持った。


「いくらで買った」


 弥平は言いにくそうにした。


 俺は待った。


 急かすと嘘になる。


「一包で、米三升ほどの値に」


 長秀の筆が止まった。


 おたえが眉をひそめた。


「高すぎます」


 おたえが先に言った。


「その薬は、何日分ですか」


「二日ほど、と」


「二日で米三升」


 おたえの声が低くなった。


 台所の者は、米の重さを体で知っている。


 俺より怒り方が具体的だ。


「効いたのか」


 俺が聞くと、弥平は目を伏せた。


「少し楽になるようで……ですが、切れるとまた」


「買い続けさせる薬か」


 帰蝶が静かに言った。


 部屋が冷えた。


 弥平は慌てた。


「いえ、悪い薬ではないと思います。母も、飲むと眠れると」


「悪い薬とは限りません」


 帰蝶は言った。


「けれど、薬と値のつけ方は別です」


 そうだ。


 薬が効くことと、値が正しいことは別だ。


 効くから高く売れる。


 高いから借りる。


 借りたから言うことを聞く。


 それが道になる。


「玄斎は、薬代の代わりに何を求めた」


 俺が聞くと、弥平は肩を震わせた。


 やはり、あった。


「最初は、何も。ただ、あとで……手先が器用なら、木札を作る仕事があると」


「偽札か」


「荷札だと、言われました」


「思おうとした、だったな」


 弥平は小さく頷いた。


「はい」


 俺は長秀を見た。


「薬の値段を見る」


「はい」


「台所、針仕事の家、兵の家、道普請、清洲の商人、熱田の火番。薬を買っている家を拾え。名を出す必要はない。まずは値と薬売りの名だ」


「承知しました」


 長秀の返事は早い。


 だが、今回はおたえが口を挟んだ。


「若様」


「何だ」


「薬の話は、簡単には出てきません」


「分かっている」


「いいえ、たぶん分かっておられません」


 おたえは遠慮なく言った。


 柴田なら眉を動かすところだが、俺は黙って聞いた。


「家の病は、家の恥と見る者もおります。特に長く咳をする病、弱った親、子の熱、女の病。男の前では言いません」


「では」


「台所と針仕事の家から聞きます。それから、薬草を買う量を見ます。直接、誰が病かとは聞きません」


 帰蝶も頷いた。


「薬を買った家ではなく、薬が高くなって困っている家、と聞く方がよいでしょう」


「病ではなく、値か」


「はい。値の話なら、少しは口にしやすいです」


 なるほど。


 病を聞くのではなく、薬の値を聞く。


 そうすれば、家の恥としてではなく、暮らしの困りごととして出せる。


「薬売りの値段」


 俺は呟いた。


「そこから見る」


 その日のうちに、薬の値を拾う道が動き始めた。


 台所では、おたえが女中たちへ言った。


「咳の家を探るのではありません。薬の値を聞くのです。『最近、粉薬が高いですね』と。世間話でよいのです」


 針仕事の家では、帰蝶が同じことを柔らかく言った。


「病を無理に話す必要はありません。ただ、薬の値で困っている家があれば、名を伏せて知らせてください」


 兵の鍋では、柴田がもっと乱暴に言った。


「薬代で首が回らぬ者は、黙っているな。薬代で偽札を作られては困る」


 言い方。


 もう少し何とかならないのか。


 だが、兵には届いたらしい。


 馬借の仁助は、道の上で薬売りの噂を拾った。


「三河筋の玄斎って薬売り、最近あちこちで高く売ってますね」


「どんな薬だ」


「咳止め、傷薬、熱冷まし。あと、よく眠れる粉」


「眠れる粉?」


「ええ。疲れた女房や年寄りに売ってるとか」


 帰蝶の顔が冷えた。


 おたえも眉をひそめた。


 眠れる粉。


 使いようによっては薬だ。


 だが、量を誤れば危うい。


 それを困った家へ高く売る。


 悪い匂いがする。


 いや、匂いどころではない。


「玄斎を捕らえるか」


 柴田が言った。


 いつもの問いだ。


 だが、今回はすぐには答えなかった。


 薬売りを捕らえれば、薬を買っている家が困る。


 偽物だとしても、今それを頼りにしている者がいる。


 玄斎が消えた途端、薬が止まり、病人が悪くなるかもしれない。


 それを考えると、簡単に縄をかけられない。


 これも、相手の盾だ。


 病人を盾にしている。


 腹が立つ。


「まだ捕らえぬ」


 俺は言った。


 柴田は、今回も予想していたように頷いた。


「では、薬を調べますか」


「ああ」


「誰が?」


 その問いに、おたえが静かに答えた。


「私が見ます。あと、薬草に詳しい者を呼びます」


「心当たりがあるのか」


「城下に、昔から煎じ薬を扱う老婆がおります。医師ではありませんが、薬草の良し悪しは分かります」


 老婆の名は、つね。


 城下の外れで、薬草を干して売る女だった。


 医師ではない。


 だが、村の女たちや年寄りは、軽い咳や腹痛ならつねのところへ行く。


 俺は、その存在を知らなかった。


 おたえは知っていた。


 帰蝶も、すでに名を聞いていたらしい。


 また俺の知らない尾張だ。


 つねは夕方、城へ呼ばれた。


 小柄な老婆だった。


 背は曲がっている。


 だが、目が鋭い。


 俺を見てもあまり怯えない。


「若様が、薬の匂いをご覧になりたいと?」


「見るのはお前だ」


「では、鼻と舌を少し貸しましょう」


 たいした度胸だ。


 おたえが、玄斎の薬の残りを小皿に出した。


 弥平が持っていたものだ。


 つねは匂いを嗅ぎ、指先にほんの少し取り、舌に触れさせた。


 周囲がぎょっとした。


「毒ではないのか」


 俺が言うと、つねは平然と答えた。


「毒なら、もっと高うございます」


「そういう問題か」


「そういう問題です」


 つねは粉を見つめた。


「咳を鎮める草は入っております。眠くなる草も少し。悪い薬ではない。ただし、薄めていますね」


「薄める?」


「効く草を少しにして、香りの強い草でごまかしている。これなら飲むと楽になった気はするでしょう。でも、根を治す力は弱い。買い続けることになります」


 帰蝶の言った通りだった。


 買い続けさせる薬。


「値は」


 つねが鼻で笑った。


「米三升? 盗人の値です」


 弥平が顔を伏せた。


 おたえが、そっと弥平の方へ布を置いた。


 責めるための場ではない。


 見るための場だ。


「同じものを作れるか」


 俺が聞くと、つねは眉を上げた。


「同じようなものなら。ただ、同じものを作っても意味はありません。薄い薬ですから」


「もっとましなものは」


「咳の種類によります。熱があるのか、痰があるのか、胸が痛むのか、夜だけ出るのか。全部同じ粉で済ませる方が乱暴です」


 なるほど。


 玄斎は、病ではなく不安へ薬を売っている。


 何の咳かを見ない。


 とにかく粉を売る。


 眠れる。


 楽になる。


 高い。


 続ける。


 そして、借りる。


「薬も、何を守るかを見なければならぬな」


 信勝が言った。


「熱を下げるのか、咳を鎮めるのか、眠らせるのか、痛みを止めるのか」


「そうでございます」


 つねが信勝を見る。


「若君様より、こちらの若様の方が薬向きのことをおっしゃいますな」


 信勝が少し目を丸くした。


 俺は笑いそうになった。


「俺は薬向きではないらしい」


「兄上」


「事実だ」


 つねは悪びれない。


 こういう者は貴重だ。


「つね」


「はい」


「玄斎の薬を調べる。必要なら、お前の薬も使う。ただし、薬売りを潰して薬が止まる家を出したくない」


「なら、値を下げる道を作ることです」


「どうやって」


「薬草をまとめて買う。城下で干す。軽い薬はつねのような者に任せる。重い病は医師へ。薬売りが『これしかない』と言えないようにする」


 老婆に政を教えられている。


 だが、正しい。


「長秀」


「はい」


「薬草の道を見る」


「また道が増えました」


「増えたな」


「帳面も増えます」


「出世だ」


「今回は本当に増やさねばなりません」


 長秀は真剣だった。


 薬草帳。


 名前を聞いただけで頭が痛くなる。


 だが必要だ。


 米、塩、味噌、飼葉、布、札、火。


 そこへ薬が加わる。


 戦の前触れは、薬の値にも出る。


 病人の弱みを握る者は、兵糧を握る者と同じくらい危うい。


 翌日から、薬の値を拾う作業が始まった。


 結果は、想像よりひどかった。


 玄斎の薬は、清洲、那古野、熱田の周辺で値がばらばらだった。


 同じ粉薬が、場所によって倍近く違う。


 困っている家ほど高く買わされている。


 特に、稲生後に役を失った家、針仕事で食いつないでいる家、病人を抱える兵の家で値が高い。


 つまり、玄斎は相手を選んで値をつけていた。


 弱い家ほど高く売る。


 そして、払えなければ小さな仕事を渡す。


 荷を運ぶ。


 文を預かる。


 札を作る。


 祠へ包みを置く。


 影の道そのものだった。


「許し難いですな」


 柴田が低く言った。


「斬りますか」


「まだだ」


「言うと思いました」


「薬を止めずに玄斎を止める」


「どうやって」


「薬の値を見せる」


 長秀が顔を上げた。


「公に?」


「全部ではない。だが、入口役に値を知らせる。玄斎がどこでいくら取っているか。高すぎる値を出した時、『その薬は他ではこの値だ』と言えるようにする」


 久右衛門が頷いた。


「相場を出すのですな」


「そうだ」


「商いには効きます。値が見えれば、吹っかけにくくなる」


「薬に相場か」


 柴田が少し妙な顔をした。


「命に値をつけるようで嫌だな」


 俺が言うと、つねが遠慮なく言った。


「値が見えない方が、命を食われます」


 その通りだ。


 見えない値ほど怖い。


 薬の値を見えるようにする。


 ただし、強く押さえすぎれば薬売りが逃げる。


 必要な薬まで入らなくなる。


 ここも線引きだ。


「薬の相場を作る」


 俺は言った。


「軽い薬からだ。咳止め、熱冷まし、傷薬、眠れる粉。値と中身を見る」


「眠れる粉は?」


 帰蝶が聞いた。


「扱いを重くする」


 つねが頷いた。


「それがよろしい。あれは薬にも毒にもなります」


「誰でも売れるものではなくする」


「はい」


 こうして、薬の道にも札が入ることになった。


 また札だ。


 だが、命札とは違う。


 薬札。


 薬の種類と値、売った者、買った者ではなく、売った場所を記す。


 買った者の名は基本的に伏せる。


 病を晒さないためだ。


 ただし、高すぎる値や怪しい薬は入口役へ届く。


 名ではなく、値と薬を見る。


 薬の困りごとの道だ。


 その夕方、玄斎が動いた。


 仁助の者が見つけた。


 玄斎は、清洲外れの宿で薬箱をまとめ、三河へ戻ろうとしていた。


 早い。


 こちらが値を拾い始めたことに気づいたのだ。


「逃がすか」


 柴田が聞いた。


 今回は、少し違う。


「逃がさない」


 俺は言った。


「ただし、薬箱ごと押さえる。薬を散らすな」


 玄斎は、境の道で止められた。


 止めたのは兵ではない。


 仁助と久右衛門の手代、そしてつねの弟子にあたる薬草売りだった。


 玄斎は最初、怒鳴った。


「薬売りを止めるとは、人の命を止めることだぞ!」


 うまい言い方だ。


 だが、つねの弟子が言い返した。


「薄い薬を米三升で売る方が、人の命を食う」


 玄斎は黙った。


 薬箱を開けさせると、粉薬、傷薬、薬草の束、そして小さな文がいくつも出てきた。


 文の一つには、こうあった。


 ――薬代に困る家は、火種になりやすし。値を下げず、仕事を与えよ。


 誰の文か、名はない。


 だが、左内の筆ではない。


 佐橋のものでもない。


 作兵衛の道か。


 岡崎か。


 今川か。


 まだ分からない。


 だが、はっきりした。


 薬の値も、火種を育てる道として使われていた。


 玄斎は那古野へ連れてこられた。


 小柄な男だった。


 目が細い。


 愛想笑いを浮かべているが、口元に嫌な強さがある。


「若君様。薬売りを縄にかければ、困るのは病人でございます」


 最初の言葉がそれだった。


 俺は、その顔を見て言った。


「病人を盾にするな」


 玄斎の笑みが、少しだけ固まった。


「盾など」


「お前の薬箱には、薬と文が入っていた。値を上げ、払えぬ家へ仕事を渡し、火種にしろと」


「私は商いを」


「商いという袋は、もう飽きた」


 玄斎は黙った。


「薬は必要だ。だから、お前をすぐ斬るわけにはいかぬ。だが、お前の値は見えるようにする」


「それでは商いが」


「困るか」


「薬草はただでは手に入りませぬ」


「分かっている。だから正しい値を見ろと言っている」


 つねが横で鼻を鳴らした。


「正しい値なら、私も文句は言わぬよ。薄い粉を米三升で売るから叩かれるんだ」


 玄斎は、つねを嫌そうに見た。


「婆様には、旅の薬の苦労は分かりますまい」


「分かるさ。私は足が弱る前、山を歩いて草を摘んでいた。お前よりずっと昔からね」


 つね、強い。


 かなり強い。


 玄斎は押されている。


「玄斎」


 俺は言った。


「お前は、しばらく那古野で薬を売る」


 皆が少し驚いた。


 玄斎もだ。


「ただし、つねとおたえの目の下だ。値を見せ、中身を見せ、文を運ぶな。逃げれば縄。薄い薬を高く売れば、薬箱ごと没収だ」


「私に、那古野で?」


「そうだ。薬を止めるわけにはいかぬ。だが、値を隠すことも許さぬ」


 玄斎は、しばらく俺を見ていた。


 やがて、薄く笑った。


「若君様は、商いまで組み直されるおつもりで」


「違う」


「では?」


「薬の値で人の弱みを食う道を、変えるだけだ」


 玄斎は黙った。


 また、面倒な者を抱えることになった。


 権蔵。


 左内。


 佐橋。


 弥平。


 玄斎。


 斬っていない者が増えていく。


 危うい。


 だが、斬れば道が見えなくなる者たちでもある。


 全員を信じるわけではない。


 見張る。


 働かせる。


 値を見せる。


 責を置く。


 夜、弥平に玄斎の薬の話を伝えた。


 弥平は、しばらく黙っていた。


「母は」


「つねに見せる。薬も替える」


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い。お前は本物の札を作れ」


「はい」


 弥平は深く頭を下げた。


 その背を見ながら、俺は思った。


 薬の値段は、ただの銭ではない。


 人の弱さの値段だ。


 病を抱えた家が、どれだけ黙るか。


 どれだけ借りるか。


 どれだけ見ないふりをするか。


 そこへ影は入る。


 なら、薬の値も見なければならない。


 米も、火も、布も、札も、薬も。


 本当に面倒だ。


 だが、国とは、その面倒の集まりなのだろう。


 俺は地図の端に、新しく「薬」と書いた。


 その下に小さく添えた。


 値が見えぬものは、人を黙らせる。


 見えるようにする。


 それが、次の仕事だった。

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