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第61話 何を守る命か

 命は、形だけでは足りない。


 札を作った。


 黒線の札。


 朱の札。


 札の裏には小さな二本線。


 右を見る。


 左を見る。


 一人の目ではなく、二つの目で見るという意味を込めた。


 だが、偽札は出た。


 あっさり出た。


 台所へ油を出せという偽札。


 馬屋へ飼葉を動かせという偽札。


 針仕事の家へ仕事を止めろという偽札。


 熱田や清洲にも偽札は出た。


 札があるだけでは防げない。


 木の形は真似される。


 紐の結びも、焼き印も、見本があれば似せられる。


 なら、形の奥を見るしかない。


 その命は、何を守る命か。


 米か。


 火か。


 人か。


 名か。


 道か。


 それとも、誰かの嘘か。


 この問いを置く。


 言うのは簡単だ。


 だが、実際に人へ染み込ませるのは難しい。


 なぜなら、人は「命令」という言葉に弱いからだ。


 若様の命。


 信勝様の命。


 柴田様の命。


 帰蝶様のお考え。


 清洲の奥の御意向。


 そう言われると、人は考える前に動きかける。


 動かなければ叱られるかもしれない。


 疑えば無礼になるかもしれない。


 自分だけが遅れるかもしれない。


 その怖さが、影の入り口になる。


 だから、考える余地を与える。


 何を守る命か。


 この問いは、命に逆らうためではない。


 命を正しく通すためだ。


 朝、弥平を呼んだ。


 偽札を作らされた若い職人である。


 母の薬代に困り、三河筋の薬売りから薬を買い、その薬代の穴を埋めるように偽札作りへ使われた男だ。


 悪い。


 だが、悪人というだけでは片づかない。


 困りごとを影に食われた男でもある。


 弥平は、那古野の小部屋で縮こまっていた。


 長秀が横にいる。


 机の上には、本物の命札と偽札が並んでいる。


「弥平」


「はい」


「偽札を作る時、何を見た」


「形でございます」


「形だけか」


「はい。木の大きさ、角の切り方、線、紐、裏の印……」


「何のための札かは聞かなかった」


 弥平は唇を噛んだ。


「聞きませんでした」


「聞こうとは思ったか」


「思いました」


「なぜ聞かなかった」


「聞けば、仕事がなくなると思いました」


 素直な答えだった。


 人は、困ると見ないふりをする。


 甚六もそうだった。


 八重もそうだった。


 弥平も同じだ。


 見ないふりをした場所に、影は入る。


「では、お前に本物の札作りをさせる」


 弥平は頭を下げた。


「ありがたく」


「ただし、形だけ作るな」


 俺は札を一つ手に取った。


「この札は、何を守るものだ」


 弥平は戸惑った。


「命を、でございましょうか」


「違う」


 長秀が静かに言った。


「命の出所と目的を守る札です」


 弥平は長秀を見た。


「出所と、目的」


「はい。誰が出したのか。何を守るために出したのか。その二つがなければ、札はただの木片です」


 帳面様、よいことを言う。


 本人には言わない。


 調子に乗るかもしれない。


「弥平」


「はい」


「偽物を作りにくい札を考えるだけでは足りない。偽物を持った者が、目的を答えられなくなるようにする」


「目的を……」


「たとえば、油を出せという命なら、何の火を守るのか。台所か、熱田か、荷場か、火番か。飼葉を動かすなら、どの馬を守るのか。布の仕事を止めるなら、誰を何から守るのか」


 弥平は、札をじっと見た。


「札に、それを書くのでございますか」


「全部は書けない」


 長秀が答えた。


「書きすぎれば遅くなりますし、偽物も真似します」


「では」


「札に余白を作る」


 長秀は新しい木札を出した。


 端に小さな切り欠き。


 裏には二本線。


 表には、上に命の種類。


 下に小さな空白。


「この空白に、火、米、馬、人、名、道など、守るものを一字で入れます」


 俺は少し驚いた。


「もう作っていたのか」


「夜のうちに」


「寝たか」


「目は閉じました」


「だからそれは寝たとは言わぬ」


 弥平は、恐る恐る札を手に取った。


「この空白なら、すぐ入れられます。焼きではなく墨で」


「墨なら偽れる」


 俺が言うと、弥平は首を横に振った。


「偽れます。けれど、墨は運ぶ途中で滲みます。古い墨か新しい墨かも見えます。あとから急いで書いたものは、木の目への入り方が違います」


 長秀の目が光った。


「なるほど」


「お前、札を見る目はあるな」


 俺が言うと、弥平は恐縮したように頭を下げた。


「偽札を作った目でございます」


「その目を本物へ使え」


「はい」


 こうして、命札には「守るもの」を一字で入れる案が加わった。


 火。


 米。


 馬。


 人。


 名。


 道。


 布。


 薬。


 増やしすぎるなと俺は釘を刺した。


 長秀は残念そうだった。


 やはり増やす気だった。


 午前のうちに、台所で新しい札の稽古をした。


 おたえは、札を一枚持って女中たちへ見せる。


「これは火の札です。油を出す時には、どこの火か聞きなさい」


「台所の火ですか、熱田の火ですか」


 若い女中が言う。


「そうです。もう一つ」


 おたえは別の札を見せる。


「これは米の札です。米を出せと言われたら、誰の飯か聞きなさい」


「誰の飯?」


「兵の飯か、病人の粥か、客の膳か、道普請の者たちの握り飯か。米は同じでも、守るものが違います」


 女中たちは真剣に聞いていた。


 台所は、もうただ飯を作る場所ではない。


 火と米と油と噂を守る場所になっている。


 おたえが若い女中に言った。


「急ぎと言われても、聞くのです。急ぎの者ほど、守るものを知っているはずです」


 その言葉は、そのまま使える。


 長秀が聞いたら書くだろう。


 たぶん、もう誰かが伝えている。


 次に、兵の稽古。


 柴田は新しい札を見るなり、少しだけ顔をしかめた。


「また札が増えましたか」


「増えたのではない。字が増えた」


「同じでは」


「違う」


 俺が言い切ると、柴田は少し笑った。


「承知しました。では、兵に叩き込みます」


 叩き込む。


 本当に叩き込む勢いだった。


 訓練場で、偽命役が走る。


「若様の命! 馬を右道へ移せ!」


 札には黒線と「馬」の字。


 兵が問う。


「どの馬を守る!」


 偽命役が答える。


「全部だ!」


「怪しい!」


 兵たちが笑う。


 柴田が怒鳴る。


「笑うな! 全部と言う命ほど怪しめ! 守るものを言えぬ命は、守る気がない!」


 これもよい。


 守るものを言えぬ命は、守る気がない。


 長秀が遠くで書いている。


 もちろんだ。


 次は本物の命役が来る。


「柴田様の命! 馬二頭を左の木陰へ移せ! 汗が冷えて足を痛める!」


 札には「馬」。


 兵が聞く。


「どの馬!」


「黒毛と栗毛!」


「何を守る!」


「足だ!」


「通せ!」


 兵たちが馬役の木札を動かす。


 妙な稽古だ。


 だが、効く。


 目的が具体なら、命は通る。


 曖昧なら止まる。


 これを体で覚える。


 犬千代は、今日も偽命役を楽しそうにやっていた。


「信勝様の命! 荷を捨てて敵を追え!」


 兵が問う。


「何を守る!」


「名誉だ!」


「怪しい!」


 兵たちが即答した。


 犬千代が本気で悔しそうにする。


「名誉は大事だろう!」


 柴田が怒鳴った。


「荷を捨てた名誉など飢えて死ぬ! 飯を守れ!」


 兵たちがどっと笑った。


 信勝まで笑っていた。


「私の名で、荷を捨てる命は出しません」


 信勝が言うと、犬千代は頭をかいた。


「では、次からはもっと信勝様らしい偽命を考えます」


「考えなくてよい」


 また笑いが起きた。


 笑いながら、兵は覚える。


 これは悪くない。


 昼、針仕事の家から報せが来た。


 新しい札を見せたところ、おまきがすぐに使い方を変えたという。


 針仕事の家では、「布」の札と「名」の札を特に見ることになった。


 布の仕事を止める命なら、どの布を守るのか。


 名を預かる命なら、誰の名を何から守るのか。


 志乃が言ったらしい。


「子を守ると言われた時は、一人で決めません」


 帰蝶はそれを聞いて、少し目を細めた。


「よいですね」


「ああ」


「揺れることを恥にしないのが大事です」


「揺れたら、右を見る、左を見る」


「はい」


 言葉がつながっていく。


 兵の合図が、針仕事の家で子を抱く母の言葉になる。


 不思議だ。


 だが、国とはそういうものなのかもしれない。


 同じ言葉が、場所によって形を変える。


 午後、熱田から権蔵の報告が来た。


 権蔵は、新しい札を見て笑ったという。


「また増やしたのか」


 火番の源太にそう言ったらしい。


 源太は、即座に頭を叩いた。


「増えたんじゃない。火を守る字がついただけだ」


 権蔵は頭を押さえながら、札を見た。


 そこには「火」と墨で書かれている。


 権蔵はしばらく黙り、やがて言った。


「偽るなら、この字を後から変えますね」


 源太が目を細めた。


「どうやって」


「火を米にするのは難しい。けど、人を火に見せることはできるかもしれない。崩した字なら」


 それを聞いた実円が、すぐに言った。


「では、崩し字は使わず、誰でも読める字にしましょう」


 火番と元影と僧が、札の字について話し合っている。


 妙な光景だ。


 だが、これも悪くない。


 権蔵は、偽る側の目を持っている。


 その目を使えば、防げるものもある。


 もちろん、信用しすぎてはならない。


 だが、使える。


 夕方、問題が起きた。


 清洲で、本物の命が止められた。


 困りごとの道を通じて、急ぎで米を回す必要がある家があった。


 志乃の家ではない。


 別の旧臣筋の家だ。


 子が熱を出し、粥が必要になった。


 台所の入口役が「米」の札を持たせて使いを出した。


 だが、途中で受けた者が疑いすぎた。


 札は本物だった。


 米の字も正しい。


 目的も言えた。


 それでも、その者は「最近は偽札が多いから」と言って足止めした。


 粥は遅れた。


 子の命に関わるほどではなかったが、家の者は怒った。


 当然だ。


 疑いすぎれば、本物も止まる。


 これが怖い。


 俺は報告を聞き、しばらく黙った。


「若様」


 長秀が言った。


「これは、こちらの仕組みが固くなりすぎたためです」


「ああ」


「どうしますか」


「謝る」


 部屋が静かになった。


 信勝が顔を上げる。


「兄上が?」


「仕組みを作ったのは俺だ」


「でも、止めた者が」


「止めた者も悪い。だが、疑えと教えた俺たちも悪い」


 帰蝶が静かに頷いた。


「よいと思います」


「かなりか」


「かなり」


 俺は、その家へ米と薬を届けさせた。


 使者には、俺の言葉を持たせた。


 ――本物の困りごとを止めた。これは尾張の手落ちである。


 短い。


 言い訳はしない。


 そのうえで、足止めした者には罰ではなく稽古を課した。


 疑うことは必要だ。


 だが、目的が言えた本物まで止めるのは違う。


 見分ける目を育てる。


 叩いて終わりではない。


「若様」


 佐久間が慎重に言った。


「この話は広がります」


「広がればいい」


「よろしいので?」


「偽札を恐れて本物を止めた。それを認めて直した。そう広がればいい」


 長秀が頷いた。


「隠すよりよいと思います」


「失敗も見せるのか」


 柴田が言う。


「全部ではない。だが、今回の失敗は隠せば余計に疑われる」


 柴田は少し考え、頷いた。


「兵にも言います。疑いすぎて荷を止めれば、味方が飢える、と」


「頼む」


 信勝は、少しほっとした顔をしていた。


「兄上」


「何だ」


「謝れる主は、強いと思います」


「持ち上げるな」


「本気です」


「余計に困る」


 信勝は小さく笑った。


 だが、俺は少し居心地が悪かった。


 謝るのは、別に格好いいことではない。


 失敗したから謝る。


 ただ、それだけだ。


 だが、主が謝らない国では、下が嘘をつく。


 嘘が増えれば、影が喜ぶ。


 なら、謝るしかない時もある。


 夜、三河筋の商人からの噂が届いた。


 岡崎方面で、こんな話が出ているという。


 ――尾張では、命の札に何を守るかを書くようになったらしい。だが、疑いすぎて本物の粥まで止めたそうだ。


 恥だ。


 だが、続きがあった。


 ――その後、信長は米を届け、手落ちと認めたという。


 岡崎は、これをどう見るか。


 甘いと見るか。


 未熟と見るか。


 それとも、修正する相手と見るか。


 分からない。


 だが、見られていることは分かる。


 隠しても、どうせ見られる。


 なら、失敗も含めて整えるしかない。


 俺は、命札を一枚手に取った。


 表には「米」とある。


 米を守る命。


 だが、米だけではない。


 その先に、子の粥がある。


 兵の腹がある。


 道普請の握り飯がある。


 飯を囲む兄弟の噂がある。


 米は米であって、ただの米ではない。


 火も同じだ。


 布も、馬も、名も、人も、道も。


 命は誰からだ。


 何を守る命だ。


 この問いは、まだ未熟だ。


 人を迷わせることもある。


 だが、問いがなければ、偽札はもっと簡単に通る。


 問いがあるから、本物が止まる失敗も起きる。


 なら、そのたび直す。


 面倒だ。


 だが、面倒を嫌って斬るだけでは、影の方が速い。


 俺は札を置いた。


 右を見る。


 左を見る。


 一人で判断しない。


 疑いすぎたら、隣に聞く。


 急ぎなら、何を守るのかをはっきり言う。


 本物を止めたなら、謝って直す。


 それもまた、尾張を組み直す仕事だった。

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