表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
63/86

第60話 偽札、出る

偽札は、思ったより早く出た。


 早すぎる。


 命札を作った翌日である。


 こちらが「誰の命かを確かめろ」と言い出した途端、影は「では、確かめるための札を偽ればよい」と考えたらしい。


 腹立たしい。


 だが、当然でもあった。


 道を作れば影も通る。


 札を作れば偽札も出る。


 そう分かっていたのに、実際に出るとやはり腹が立つ。


 最初に偽札を見つけたのは、おたえだった。


 台所である。


 朝の支度が始まる少し前、若い下男が油壺を二つ出すように言ってきた。


「若様の御命にて、火番へ急ぎ油を回せとのことにございます」


 下男はそう言い、黒線入りの札を差し出した。


 名を預かった命なら、黒線札。


 形だけ見れば合っている。


 だが、おたえは受け取ってすぐに眉を寄せた。


「命は誰からですか」


「若様からと」


「若様から、どなたへ」


「火番へ」


「火番の誰へ」


「それは……急ぎで」


「急ぎの時ほど、油の行き先ははっきりさせるものです」


 おたえは札を裏返した。


 小さな二本線はある。


 けれど、線が浅い。


 焼き印ではなく、熱した釘か何かで引いたものだ。


 さらに、紐の結びが逆だった。


 台所の女は、紐の結びにうるさい。


 結びが違えば、包みの主が違う。


 俺などなら見落としたかもしれない。


 だが、おたえは見落とさなかった。


「これは、どこで預かりました」


 おたえが聞くと、下男の顔色が変わった。


「私は、ただ門のところで」


「誰から」


「知らぬ男で」


「知らぬ男から若様の御命を預かるのですか」


 下男は黙った。


 おたえは油壺を出さず、札だけを布に包ませた。


 そして、下男を逃がさず、飯を食わせた。


 後で聞いて笑いそうになった。


 いや、笑いごとではない。


 だが、おたえらしい。


 腹が空いたまま問い詰めれば、人は余計な嘘をつく。


 飯を食わせて、落ち着かせてから聞く。


 台所の詮議である。


 下男は、門の外で見知らぬ男から札を預かっただけだった。


 銭も少し渡されている。


 油壺を受け取ったら、城の裏手にある古い物置へ運べ、と。


 火番ではない。


 古い物置。


 そこには、乾いた藁と古い木材が置かれている。


 火をつけるには、ちょうどよすぎる場所だった。


「若様」


 長秀が札を持ってきた時、俺は思わず言った。


「早いな」


「はい」


「早すぎる」


「向こうも、かなり急いでいます」


 長秀は偽札を机に置いた。


 俺、信勝、帰蝶、柴田、佐久間が覗き込む。


 見た目は、思ったよりよくできていた。


 黒線札。


 名を預かる命の札。


 裏には二本線。


 紐もついている。


 だが、長秀が本物と並べると違いが分かる。


 木の色が違う。


 切り欠きの角が甘い。


 焼き印が浅い。


 紐の結びが逆。


「よく似せている」


 俺が言うと、長秀は頷いた。


「本物を見た者が作っています」


 部屋の空気が少し沈んだ。


 本物を見た者。


 それはつまり、札を扱う場所のどこかから形が漏れたということだ。


 兵か。


 台所か。


 針仕事の家か。


 商人か。


 馬借か。


 火番か。


 疑い始めれば、全部疑える。


 全部疑えば、全部止まる。


 それが相手の狙いでもある。


「札をやめるか」


 柴田が低く言った。


「いや」


 俺はすぐ答えた。


「偽札が出たから札をやめれば、偽札を出した者の勝ちだ」


「では」


「札を疑う作法を足す」


 信勝が偽札を見つめていた。


「札も、名と同じですね」


「どういうことだ」


「本物があるから、偽物が出る。名も同じです。兄上の名、私の名、柴田殿の名。使えるから騙られる」


「だから捨てるわけにはいかぬ」


「はい」


 信勝は顔を上げた。


「命は誰からだ、の次は、何を守る命か、ですね」


「お前、昨日も言っていたな」


「はい。今日の油も、火番のためと言いながら、本当は火をつけるためだった。なら、誰の命かだけでなく、何を守る命かを聞かなければ」


 よい。


 実によい。


 俺は長秀を見た。


 もう書いている。


 早い。


「使う」


 俺が言うと、信勝は少しだけ笑った。


「はい」


 すぐに、城内へ新しい言葉を回した。


 ――命は誰からだ。何を守る命だ。


 この二つを並べる。


 油を出せと言われたなら、誰の命かだけでなく、何の火を守るためかを聞く。


 荷を動かせと言われたなら、誰の命かだけでなく、何を濡らさず、何を守るためかを聞く。


 兵を動かせと言われたなら、誰の命かだけでなく、どの道を守るためかを聞く。


 問いを増やしすぎれば動きは遅くなる。


 だが、偽札に油を渡すよりはましだ。


 昼前、二枚目の偽札が見つかった。


 今度は馬屋だった。


 飼葉を境の道へ移せ、という命だった。


 札は朱。


 場所を動かす命。


 しかし、札の裏の二本線が本物より少し離れていた。


 馬屋の若い者が気づいた。


「馬は食った分しか走らぬ」と言った、あの若者である。


 彼はこう聞き返したらしい。


「どの馬を守る飼葉ですか」


 相手は答えられなかった。


 逃げた。


 馬屋の若者は追わず、飼葉を守った。


 よい。


 かなりよい。


 追うより守る。


 それができた。


 三枚目は、針仕事の家に近い場所で出た。


 「帰蝶様の御命で、那古野からの仕事を一日止めよ」という札だった。


 黒線。


 帰蝶の名を預かった形である。


 おまきは札を見て、すぐには受け取らなかった。


「何を守るための命ですか」


 相手は「女たちを守るため」と答えた。


 おまきはさらに聞いた。


「何から守るのですか」


 相手は黙った。


 そこで志乃が、子を抱いたまま言ったという。


「帰蝶様なら、仕事を止める理由を隠しません」


 強い。


 あの志乃が、そう言った。


 札を持ってきた男は逃げた。


 追わなかった。


 仕事は止まらなかった。


 報告を聞いた帰蝶は、少しだけ目を伏せた。


「志乃さんが」


「ああ」


「強くなりましたね」


「お前が戸を開けたからだ」


「信長様が、仕事を出し続けたからでもあります」


「半分ずつか」


「はい」


 帰蝶は静かに頷いた。


 偽札は、三枚で終わらなかった。


 夕方までに、合計五枚。


 台所、馬屋、針仕事の家、熱田の荷場、清洲の商人筋。


 場所はばらばら。


 だが、狙いは同じだった。


 こちらが作った入口を疑わせること。


 札の信用を落とすこと。


 名をまた曇らせること。


 そして、城と町の動きを少しずつ止めること。


「若君」


 佐久間が静かに言った。


「これは、左内や佐橋の残り火だけではありませんな」


「ああ」


「組織立っております」


「岡崎か、今川か」


「あるいは、作兵衛の道を使った者たちかと」


 佐久間の言い方は慎重だ。


 だが、ほぼ同じことを言っている。


 外の影が、こちらの新しい仕組みに合わせて動いている。


 早い。


 相手はよく見ている。


 岡崎は見ている。


 今川も見ている。


 そして、見たものをすぐ使ってくる。


「偽札の木は」


 俺が聞くと、長秀が答えた。


「同じ材です。柳に近い軽い木。清洲の外れで手に入りやすい」


「作った場所は」


「まだ。ただ、焼き印の癖が同じです。同じ手で作られたか、同じ道具を使っています」


「道具か」


 おたえが札を見て言った。


「台所の焼き串ではありませんね」


「分かるのか」


「焼き串なら、もっと焦げが太くなります。これは、細い鉄具です。馬具か、針仕事の道具を熱したものかもしれません」


 帰蝶が札を手に取った。


「針では細すぎます。たぶん、飾り金具を打つ細い鉄棒です」


「誰が持つ」


「馬具師、小間物師、古道具屋」


「また小商いか」


 久右衛門を呼んだ。


 清洲と那古野の小商いの中に、柳の木札と細い鉄具を扱う者がいるか。


 調べさせる。


 仁助には、札を持ち込んだ者たちの足取りを見させる。


 恒興には、逃げた者を追わせる。


 柴田には、兵を動かしすぎないよう止める。


 兵を出して町を押さえれば、札への不安はさらに広がる。


 ここで大きく動いたら負けだ。


「若様」


 柴田が不満そうに言った。


「また兵を止める役でございますか」


「そうだ」


「最近、それが増えましたな」


「お前が止められる男だからだ」


 柴田は少し黙った。


「……褒めておられますか」


「かなり」


「ならば、承知しました」


 単純ではない。


 だが、たまに素直だ。


 夜に入る前、六枚目の偽札が見つかった。


 これが一番厄介だった。


 届けられた先は、信勝の文を扱う入口の一つ。


 旧臣筋の家だ。


 内容は、「信勝様の御命により、困りごとの届出をしばらく止めよ」というものだった。


 黒線札。


 信勝の名。


 しかも、札の出来がこれまでよりよかった。


 裏の二本線も近い。


 紐の結びもほぼ合っている。


 だが、受け取った家の女は、こう聞いた。


「何を守る命ですか」


 相手は答えた。


「信勝様の御名を守るため」


 女は、さらに聞いた。


「信勝様は、ご自分の名を隠れた火種にするなとおっしゃいました。困りごとを止めることが、どうして御名を守ることになりますか」


 相手は答えられなかった。


 逃げた。


 この報告を聞いた信勝は、しばらく黙っていた。


 自分の名で偽札が出た。


 だが、自分の言葉で防がれた。


 その二つが同時に来た顔だった。


「兄上」


「何だ」


「言葉を置いておいて、よかったです」


「ああ」


「でも、私の名はまだ使われます」


「使われる」


「なら、私は何度でも言います」


「そうしろ」


 信勝は頷いた。


 疲れているが、折れていない。


 むしろ、少しずつ強くなっている。


 その強さを、俺は頼もしく思う。


 同時に、怖くも思う。


 信勝の名は、ますます重くなる。


 だからこそ、横に立つ。


 影の中ではなく、火の前に。


 夜、偽札を並べた。


 六枚。


 どれも似ている。


 だが、少しずつ違う。


 作った者は、こちらの札を見ている。


 だが、こちらの考えまでは完全には見えていない。


 だから、「誰からか」は似せられる。


 だが、「何を守るか」で詰まる。


 そこが穴だ。


「偽札を作った者は、札の形は見ている」


 長秀が言った。


「しかし、札の使い方はまだ追いついていません」


「そこを突く」


「はい」


「偽札を追う札を作るなよ」


「……考えてはいました」


「やめろ」


 部屋に少し笑いが起きた。


 こういう時の笑いは必要だ。


 偽札が六枚も出れば、人は疑心暗鬼になる。


 笑いがないと、全部が硬くなる。


 硬くなれば、影が割りやすくなる。


「明日から、札改めをする」


 俺は言った。


 長秀が顔を上げる。


「一斉に?」


「いや。入口ごとに」


「兵、台所、針仕事、商人、馬借、熱田」


「そうだ。ただし、取り締まりではない」


「では」


「稽古だ」


 柴田が少し笑った。


「また稽古ですか」


「札も稽古が要る」


「兵には向いております」


「町にもだ」


 困りごとの道、火番、針仕事の家、商人、小商い。


 それぞれで、偽札を見せる。


 どこが違うかを教える。


 だが、それ以上に「何を守る命か」を聞くことを教える。


 札の形だけを覚えれば、また偽られる。


 目的を問う習慣を置く。


 翌朝、まず台所で札改めをした。


 おたえが偽札と本物を並べる。


 女中たちは真剣に見る。


「線だけ見ては駄目」


 おたえが言った。


「紐を見なさい。木の端を見なさい。けれど、一番大事なのは、何を守る命かを聞くことです」


 若い女中が聞いた。


「もし相手が怒ったら?」


「怒る者ほど怪しい」


 おたえは即答した。


「本当に急ぐ者は、怒る暇があるなら理由を言います」


 強い。


 台所の者は、実に強い。


 次に針仕事の家。


 帰蝶が自ら行った。


 おまきと志乃、他の女たちへ偽札を見せる。


 志乃は六枚目の札をじっと見た。


「似ていますね」


「はい」


 帰蝶は頷いた。


「だから、形だけではなく、言葉を見るのです」


「何を守る命か」


「そうです」


 志乃は子を抱き直し、小さく言った。


「子を守るためと言われたら、私は揺れます」


「揺れてよいのです」


 帰蝶は言った。


「揺れた時に、一人で決めないでください。おまきさんへ、台所へ、私へ。右を見る、左を見る、です」


 志乃は、少し笑った。


「針仕事でも、右を見る、左を見る、ですね」


「はい」


 言葉が広がっていく。


 兵の声が、針仕事の家へ届く。


 針仕事の言葉が、台所へ戻る。


 尾張の中に、同じ合図が少しずつ通っていく。


 昼には熱田でも札改めが行われた。


 権蔵も見ていた。


 火番の源太が、偽札を権蔵の前へ置いた。


「どう見る」


 権蔵は札を手に取り、しばらく見た。


「焼きが浅い」


「ほかは」


「紐が新しすぎる」


「ほかは」


 権蔵は少し黙った。


「何を守る命か、分からない」


 源太は頷いた。


「火を守る命なら、火の名がある。壺か、炭か、油か、火番か。それを言えない命は、火の前に通さない」


 権蔵は、静かに頭を下げた。


 この男も、少し変わり始めている。


 それが本物かどうかは、まだ分からない。


 だが、火の前で言葉を覚えている。


 それは使える。


 夕方、偽札の出所が少し見えた。


 仁助が、柳の木を削った屑を見つけた。


 場所は清洲と熱田の間にある古道具屋の裏。


 そこは、馬具の修理も請け負う小さな店だった。


 店主は留守。


 だが、奥に若い職人がいた。


 名を弥平。


 細い鉄棒を持っていた。


 焼き印に使ったものと似ている。


 弥平は最初、何も知らぬと言った。


 だが、久右衛門の手代が偽札を見せると、顔色を変えた。


「作ったのか」


 仁助が聞く。


 弥平は震えながら言った。


「札を作れとは言われました。荷札だと」


「誰に」


「作兵衛様の使いだと名乗る男に」


 作兵衛。


 やはり出た。


「男の名は」


「分かりません。ただ、三河訛りでした」


「札の形はどう知った」


「見本を渡されました」


「本物か」


「たぶん」


 弥平は、泣きそうな顔で続けた。


「私は、荷札だと。急ぎで、同じようなものを六つ作れと」


 六つ。


 数が合う。


「銭は」


「もらいました」


「困っていたのか」


 弥平は黙った。


 それが答えだった。


 まただ。


 困っている職人が使われた。


 銭で。


 急ぎの仕事で。


 中身を見ないことにして。


 影は同じところから入る。


 見ないようにする場所。


 困っている場所。


 断る理由のない場所。


「弥平を連れてこい」


 俺は報告を聞いて言った。


 柴田が聞く。


「縄ですか」


「いや。まず話を聞く」


「また困りごとですか」


「そうだ」


「若君は、どこまでもそこへ戻りますな」


「そこから入られているからな」


 夜、弥平は那古野へ来た。


 若い。


 二十そこそこ。


 手は荒れている。


 木と鉄を扱う手だ。


 俺の前で震えていた。


「弥平」


「はい」


「偽札を作ったな」


「はい」


「荷札だと思ったか」


「……思おうとしました」


 正直だった。


「本当は怪しいと思った」


「はい」


「なぜ断らなかった」


「母が病で、薬代が要りました」


 薬。


 また薬だ。


 薬草、薬売り、薬代。


 影は、人の病にも入る。


 俺は頭が重くなった。


「その薬は誰から買った」


「三河筋の薬売りから」


 線がつながる。


 薬売りが薬を売る。


 金が足りなくなる。


 偽札作りの仕事を持ち込む。


 そして、熱田の火を曇らせる粉にも薬草が使われる。


 ひどく嫌な輪だ。


「弥平」


 俺は言った。


「お前の罪は消えぬ」


「はい」


「だが、お前を斬っても偽札の道は消えぬ」


 弥平は顔を上げた。


「お前には、本物の札を作る側へ入ってもらう」


 長秀が少し驚いた顔をした。


 柴田も眉を動かす。


「若君」


「偽を作った手だ。どこを真似るか知っている。その手で、偽が作りにくい札を考えさせる」


 弥平は呆然としている。


「ただし、長秀の目の下だ。逃げれば縄。二度偽を作れば、その時は庇わぬ」


「……はい」


「母の薬代は、仕事として払う」


 弥平の目が揺れた。


「施しではない。本物の札を作る仕事だ」


 弥平は床に額をつけた。


 泣いていた。


 たぶん、怖さと安堵と恥が混ざっているのだろう。


 左内、佐橋、権蔵、弥平。


 皆、違う。


 だが、どこかで似ている。


 隙間に立ち、困り、見ないふりをし、影に使われた。


 全員を許すわけではない。


 だが、全員を斬れば、影は別の者を使うだけだ。


 なら、使われた手をこちらへ戻す。


 危うい。


 だが、尾張を縫い直すとは、そういう危うさの上にあるのかもしれない。


 その夜、俺は偽札六枚と、本物の札一枚を並べた。


 偽物は、本物があるから生まれる。


 だが、本物がなければ、命はもっと簡単に騙られる。


 だから、本物を捨てない。


 偽物が出たら、見分ける目を増やす。


 右を見る。


 左を見る。


 命は誰からだ。


 何を守る命だ。


 その問いが、尾張の中をまた少し強くした。


 同時に、影はまた別の道を探すだろう。


 それでいい。


 探すなら、こちらも見る。


 どこまでも面倒だ。


 だが、面倒を嫌って斬るだけなら、俺はうつけのままだった。


 今は、少し違う。


 たぶん。


 いや、かなり。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ