第60話 偽札、出る
偽札は、思ったより早く出た。
早すぎる。
命札を作った翌日である。
こちらが「誰の命かを確かめろ」と言い出した途端、影は「では、確かめるための札を偽ればよい」と考えたらしい。
腹立たしい。
だが、当然でもあった。
道を作れば影も通る。
札を作れば偽札も出る。
そう分かっていたのに、実際に出るとやはり腹が立つ。
最初に偽札を見つけたのは、おたえだった。
台所である。
朝の支度が始まる少し前、若い下男が油壺を二つ出すように言ってきた。
「若様の御命にて、火番へ急ぎ油を回せとのことにございます」
下男はそう言い、黒線入りの札を差し出した。
名を預かった命なら、黒線札。
形だけ見れば合っている。
だが、おたえは受け取ってすぐに眉を寄せた。
「命は誰からですか」
「若様からと」
「若様から、どなたへ」
「火番へ」
「火番の誰へ」
「それは……急ぎで」
「急ぎの時ほど、油の行き先ははっきりさせるものです」
おたえは札を裏返した。
小さな二本線はある。
けれど、線が浅い。
焼き印ではなく、熱した釘か何かで引いたものだ。
さらに、紐の結びが逆だった。
台所の女は、紐の結びにうるさい。
結びが違えば、包みの主が違う。
俺などなら見落としたかもしれない。
だが、おたえは見落とさなかった。
「これは、どこで預かりました」
おたえが聞くと、下男の顔色が変わった。
「私は、ただ門のところで」
「誰から」
「知らぬ男で」
「知らぬ男から若様の御命を預かるのですか」
下男は黙った。
おたえは油壺を出さず、札だけを布に包ませた。
そして、下男を逃がさず、飯を食わせた。
後で聞いて笑いそうになった。
いや、笑いごとではない。
だが、おたえらしい。
腹が空いたまま問い詰めれば、人は余計な嘘をつく。
飯を食わせて、落ち着かせてから聞く。
台所の詮議である。
下男は、門の外で見知らぬ男から札を預かっただけだった。
銭も少し渡されている。
油壺を受け取ったら、城の裏手にある古い物置へ運べ、と。
火番ではない。
古い物置。
そこには、乾いた藁と古い木材が置かれている。
火をつけるには、ちょうどよすぎる場所だった。
「若様」
長秀が札を持ってきた時、俺は思わず言った。
「早いな」
「はい」
「早すぎる」
「向こうも、かなり急いでいます」
長秀は偽札を机に置いた。
俺、信勝、帰蝶、柴田、佐久間が覗き込む。
見た目は、思ったよりよくできていた。
黒線札。
名を預かる命の札。
裏には二本線。
紐もついている。
だが、長秀が本物と並べると違いが分かる。
木の色が違う。
切り欠きの角が甘い。
焼き印が浅い。
紐の結びが逆。
「よく似せている」
俺が言うと、長秀は頷いた。
「本物を見た者が作っています」
部屋の空気が少し沈んだ。
本物を見た者。
それはつまり、札を扱う場所のどこかから形が漏れたということだ。
兵か。
台所か。
針仕事の家か。
商人か。
馬借か。
火番か。
疑い始めれば、全部疑える。
全部疑えば、全部止まる。
それが相手の狙いでもある。
「札をやめるか」
柴田が低く言った。
「いや」
俺はすぐ答えた。
「偽札が出たから札をやめれば、偽札を出した者の勝ちだ」
「では」
「札を疑う作法を足す」
信勝が偽札を見つめていた。
「札も、名と同じですね」
「どういうことだ」
「本物があるから、偽物が出る。名も同じです。兄上の名、私の名、柴田殿の名。使えるから騙られる」
「だから捨てるわけにはいかぬ」
「はい」
信勝は顔を上げた。
「命は誰からだ、の次は、何を守る命か、ですね」
「お前、昨日も言っていたな」
「はい。今日の油も、火番のためと言いながら、本当は火をつけるためだった。なら、誰の命かだけでなく、何を守る命かを聞かなければ」
よい。
実によい。
俺は長秀を見た。
もう書いている。
早い。
「使う」
俺が言うと、信勝は少しだけ笑った。
「はい」
すぐに、城内へ新しい言葉を回した。
――命は誰からだ。何を守る命だ。
この二つを並べる。
油を出せと言われたなら、誰の命かだけでなく、何の火を守るためかを聞く。
荷を動かせと言われたなら、誰の命かだけでなく、何を濡らさず、何を守るためかを聞く。
兵を動かせと言われたなら、誰の命かだけでなく、どの道を守るためかを聞く。
問いを増やしすぎれば動きは遅くなる。
だが、偽札に油を渡すよりはましだ。
昼前、二枚目の偽札が見つかった。
今度は馬屋だった。
飼葉を境の道へ移せ、という命だった。
札は朱。
場所を動かす命。
しかし、札の裏の二本線が本物より少し離れていた。
馬屋の若い者が気づいた。
「馬は食った分しか走らぬ」と言った、あの若者である。
彼はこう聞き返したらしい。
「どの馬を守る飼葉ですか」
相手は答えられなかった。
逃げた。
馬屋の若者は追わず、飼葉を守った。
よい。
かなりよい。
追うより守る。
それができた。
三枚目は、針仕事の家に近い場所で出た。
「帰蝶様の御命で、那古野からの仕事を一日止めよ」という札だった。
黒線。
帰蝶の名を預かった形である。
おまきは札を見て、すぐには受け取らなかった。
「何を守るための命ですか」
相手は「女たちを守るため」と答えた。
おまきはさらに聞いた。
「何から守るのですか」
相手は黙った。
そこで志乃が、子を抱いたまま言ったという。
「帰蝶様なら、仕事を止める理由を隠しません」
強い。
あの志乃が、そう言った。
札を持ってきた男は逃げた。
追わなかった。
仕事は止まらなかった。
報告を聞いた帰蝶は、少しだけ目を伏せた。
「志乃さんが」
「ああ」
「強くなりましたね」
「お前が戸を開けたからだ」
「信長様が、仕事を出し続けたからでもあります」
「半分ずつか」
「はい」
帰蝶は静かに頷いた。
偽札は、三枚で終わらなかった。
夕方までに、合計五枚。
台所、馬屋、針仕事の家、熱田の荷場、清洲の商人筋。
場所はばらばら。
だが、狙いは同じだった。
こちらが作った入口を疑わせること。
札の信用を落とすこと。
名をまた曇らせること。
そして、城と町の動きを少しずつ止めること。
「若君」
佐久間が静かに言った。
「これは、左内や佐橋の残り火だけではありませんな」
「ああ」
「組織立っております」
「岡崎か、今川か」
「あるいは、作兵衛の道を使った者たちかと」
佐久間の言い方は慎重だ。
だが、ほぼ同じことを言っている。
外の影が、こちらの新しい仕組みに合わせて動いている。
早い。
相手はよく見ている。
岡崎は見ている。
今川も見ている。
そして、見たものをすぐ使ってくる。
「偽札の木は」
俺が聞くと、長秀が答えた。
「同じ材です。柳に近い軽い木。清洲の外れで手に入りやすい」
「作った場所は」
「まだ。ただ、焼き印の癖が同じです。同じ手で作られたか、同じ道具を使っています」
「道具か」
おたえが札を見て言った。
「台所の焼き串ではありませんね」
「分かるのか」
「焼き串なら、もっと焦げが太くなります。これは、細い鉄具です。馬具か、針仕事の道具を熱したものかもしれません」
帰蝶が札を手に取った。
「針では細すぎます。たぶん、飾り金具を打つ細い鉄棒です」
「誰が持つ」
「馬具師、小間物師、古道具屋」
「また小商いか」
久右衛門を呼んだ。
清洲と那古野の小商いの中に、柳の木札と細い鉄具を扱う者がいるか。
調べさせる。
仁助には、札を持ち込んだ者たちの足取りを見させる。
恒興には、逃げた者を追わせる。
柴田には、兵を動かしすぎないよう止める。
兵を出して町を押さえれば、札への不安はさらに広がる。
ここで大きく動いたら負けだ。
「若様」
柴田が不満そうに言った。
「また兵を止める役でございますか」
「そうだ」
「最近、それが増えましたな」
「お前が止められる男だからだ」
柴田は少し黙った。
「……褒めておられますか」
「かなり」
「ならば、承知しました」
単純ではない。
だが、たまに素直だ。
夜に入る前、六枚目の偽札が見つかった。
これが一番厄介だった。
届けられた先は、信勝の文を扱う入口の一つ。
旧臣筋の家だ。
内容は、「信勝様の御命により、困りごとの届出をしばらく止めよ」というものだった。
黒線札。
信勝の名。
しかも、札の出来がこれまでよりよかった。
裏の二本線も近い。
紐の結びもほぼ合っている。
だが、受け取った家の女は、こう聞いた。
「何を守る命ですか」
相手は答えた。
「信勝様の御名を守るため」
女は、さらに聞いた。
「信勝様は、ご自分の名を隠れた火種にするなとおっしゃいました。困りごとを止めることが、どうして御名を守ることになりますか」
相手は答えられなかった。
逃げた。
この報告を聞いた信勝は、しばらく黙っていた。
自分の名で偽札が出た。
だが、自分の言葉で防がれた。
その二つが同時に来た顔だった。
「兄上」
「何だ」
「言葉を置いておいて、よかったです」
「ああ」
「でも、私の名はまだ使われます」
「使われる」
「なら、私は何度でも言います」
「そうしろ」
信勝は頷いた。
疲れているが、折れていない。
むしろ、少しずつ強くなっている。
その強さを、俺は頼もしく思う。
同時に、怖くも思う。
信勝の名は、ますます重くなる。
だからこそ、横に立つ。
影の中ではなく、火の前に。
夜、偽札を並べた。
六枚。
どれも似ている。
だが、少しずつ違う。
作った者は、こちらの札を見ている。
だが、こちらの考えまでは完全には見えていない。
だから、「誰からか」は似せられる。
だが、「何を守るか」で詰まる。
そこが穴だ。
「偽札を作った者は、札の形は見ている」
長秀が言った。
「しかし、札の使い方はまだ追いついていません」
「そこを突く」
「はい」
「偽札を追う札を作るなよ」
「……考えてはいました」
「やめろ」
部屋に少し笑いが起きた。
こういう時の笑いは必要だ。
偽札が六枚も出れば、人は疑心暗鬼になる。
笑いがないと、全部が硬くなる。
硬くなれば、影が割りやすくなる。
「明日から、札改めをする」
俺は言った。
長秀が顔を上げる。
「一斉に?」
「いや。入口ごとに」
「兵、台所、針仕事、商人、馬借、熱田」
「そうだ。ただし、取り締まりではない」
「では」
「稽古だ」
柴田が少し笑った。
「また稽古ですか」
「札も稽古が要る」
「兵には向いております」
「町にもだ」
困りごとの道、火番、針仕事の家、商人、小商い。
それぞれで、偽札を見せる。
どこが違うかを教える。
だが、それ以上に「何を守る命か」を聞くことを教える。
札の形だけを覚えれば、また偽られる。
目的を問う習慣を置く。
翌朝、まず台所で札改めをした。
おたえが偽札と本物を並べる。
女中たちは真剣に見る。
「線だけ見ては駄目」
おたえが言った。
「紐を見なさい。木の端を見なさい。けれど、一番大事なのは、何を守る命かを聞くことです」
若い女中が聞いた。
「もし相手が怒ったら?」
「怒る者ほど怪しい」
おたえは即答した。
「本当に急ぐ者は、怒る暇があるなら理由を言います」
強い。
台所の者は、実に強い。
次に針仕事の家。
帰蝶が自ら行った。
おまきと志乃、他の女たちへ偽札を見せる。
志乃は六枚目の札をじっと見た。
「似ていますね」
「はい」
帰蝶は頷いた。
「だから、形だけではなく、言葉を見るのです」
「何を守る命か」
「そうです」
志乃は子を抱き直し、小さく言った。
「子を守るためと言われたら、私は揺れます」
「揺れてよいのです」
帰蝶は言った。
「揺れた時に、一人で決めないでください。おまきさんへ、台所へ、私へ。右を見る、左を見る、です」
志乃は、少し笑った。
「針仕事でも、右を見る、左を見る、ですね」
「はい」
言葉が広がっていく。
兵の声が、針仕事の家へ届く。
針仕事の言葉が、台所へ戻る。
尾張の中に、同じ合図が少しずつ通っていく。
昼には熱田でも札改めが行われた。
権蔵も見ていた。
火番の源太が、偽札を権蔵の前へ置いた。
「どう見る」
権蔵は札を手に取り、しばらく見た。
「焼きが浅い」
「ほかは」
「紐が新しすぎる」
「ほかは」
権蔵は少し黙った。
「何を守る命か、分からない」
源太は頷いた。
「火を守る命なら、火の名がある。壺か、炭か、油か、火番か。それを言えない命は、火の前に通さない」
権蔵は、静かに頭を下げた。
この男も、少し変わり始めている。
それが本物かどうかは、まだ分からない。
だが、火の前で言葉を覚えている。
それは使える。
夕方、偽札の出所が少し見えた。
仁助が、柳の木を削った屑を見つけた。
場所は清洲と熱田の間にある古道具屋の裏。
そこは、馬具の修理も請け負う小さな店だった。
店主は留守。
だが、奥に若い職人がいた。
名を弥平。
細い鉄棒を持っていた。
焼き印に使ったものと似ている。
弥平は最初、何も知らぬと言った。
だが、久右衛門の手代が偽札を見せると、顔色を変えた。
「作ったのか」
仁助が聞く。
弥平は震えながら言った。
「札を作れとは言われました。荷札だと」
「誰に」
「作兵衛様の使いだと名乗る男に」
作兵衛。
やはり出た。
「男の名は」
「分かりません。ただ、三河訛りでした」
「札の形はどう知った」
「見本を渡されました」
「本物か」
「たぶん」
弥平は、泣きそうな顔で続けた。
「私は、荷札だと。急ぎで、同じようなものを六つ作れと」
六つ。
数が合う。
「銭は」
「もらいました」
「困っていたのか」
弥平は黙った。
それが答えだった。
まただ。
困っている職人が使われた。
銭で。
急ぎの仕事で。
中身を見ないことにして。
影は同じところから入る。
見ないようにする場所。
困っている場所。
断る理由のない場所。
「弥平を連れてこい」
俺は報告を聞いて言った。
柴田が聞く。
「縄ですか」
「いや。まず話を聞く」
「また困りごとですか」
「そうだ」
「若君は、どこまでもそこへ戻りますな」
「そこから入られているからな」
夜、弥平は那古野へ来た。
若い。
二十そこそこ。
手は荒れている。
木と鉄を扱う手だ。
俺の前で震えていた。
「弥平」
「はい」
「偽札を作ったな」
「はい」
「荷札だと思ったか」
「……思おうとしました」
正直だった。
「本当は怪しいと思った」
「はい」
「なぜ断らなかった」
「母が病で、薬代が要りました」
薬。
また薬だ。
薬草、薬売り、薬代。
影は、人の病にも入る。
俺は頭が重くなった。
「その薬は誰から買った」
「三河筋の薬売りから」
線がつながる。
薬売りが薬を売る。
金が足りなくなる。
偽札作りの仕事を持ち込む。
そして、熱田の火を曇らせる粉にも薬草が使われる。
ひどく嫌な輪だ。
「弥平」
俺は言った。
「お前の罪は消えぬ」
「はい」
「だが、お前を斬っても偽札の道は消えぬ」
弥平は顔を上げた。
「お前には、本物の札を作る側へ入ってもらう」
長秀が少し驚いた顔をした。
柴田も眉を動かす。
「若君」
「偽を作った手だ。どこを真似るか知っている。その手で、偽が作りにくい札を考えさせる」
弥平は呆然としている。
「ただし、長秀の目の下だ。逃げれば縄。二度偽を作れば、その時は庇わぬ」
「……はい」
「母の薬代は、仕事として払う」
弥平の目が揺れた。
「施しではない。本物の札を作る仕事だ」
弥平は床に額をつけた。
泣いていた。
たぶん、怖さと安堵と恥が混ざっているのだろう。
左内、佐橋、権蔵、弥平。
皆、違う。
だが、どこかで似ている。
隙間に立ち、困り、見ないふりをし、影に使われた。
全員を許すわけではない。
だが、全員を斬れば、影は別の者を使うだけだ。
なら、使われた手をこちらへ戻す。
危うい。
だが、尾張を縫い直すとは、そういう危うさの上にあるのかもしれない。
その夜、俺は偽札六枚と、本物の札一枚を並べた。
偽物は、本物があるから生まれる。
だが、本物がなければ、命はもっと簡単に騙られる。
だから、本物を捨てない。
偽物が出たら、見分ける目を増やす。
右を見る。
左を見る。
命は誰からだ。
何を守る命だ。
その問いが、尾張の中をまた少し強くした。
同時に、影はまた別の道を探すだろう。
それでいい。
探すなら、こちらも見る。
どこまでも面倒だ。
だが、面倒を嫌って斬るだけなら、俺はうつけのままだった。
今は、少し違う。
たぶん。
いや、かなり。




