第57話 外を見る兵
兵は、放っておくと内側を見る。
隣の家。
隣の組。
昨日まで敵だった男。
自分より先に褒められた若者。
昔、自分の父を笑った家の者。
負けた側、勝った側。
許された者、許したつもりの者。
そういうものを見る。
それは、悪いことばかりではない。
兵は近くの気配に敏くなければ生き残れない。
隣で槍を持つ男が信用できるかどうか。
後ろから押してくる足音が味方のものかどうか。
そういうものを見ずに戦場へ出れば、真っ先に死ぬ。
だが、内側ばかり見ている兵は腐る。
昨日の恨みを数え、飯の量を比べ、誰がどちらについたかをいつまでも口にする。
そうなると、外から敵が来る前に、内で崩れる。
だから、外を見せる必要があった。
今川。
三河。
岡崎。
まだ槍を交えてはいない。
だが、こちらを見ている。
こちらが割れているか。
信勝を使えるか。
柴田の兵が本当にまとまっているか。
熱田の火が守られているか。
清洲が那古野に飲まれていないか。
全部見ている。
なら、こちらも兵に外を見せる。
内輪の傷を、外敵への備えへ変える。
それが今日の仕事だった。
「若君」
柴田勝家は、訓練場の端で腕を組んでいた。
朝の空気は乾いている。
兵たちの吐く息が白くなるほどではないが、汗をかけばすぐ冷える。
こういう日は、気が緩むと体を痛める。
柴田はそれを嫌う。
「今日は、少し荒くやります」
「どれくらいだ」
「怪我人が出ぬ程度に」
「お前の『程度』は信用しにくい」
「犬千代ほどではございませぬ」
少し離れたところで、犬千代がくしゃみをした。
自分の話をされていると気づいたのか、こちらを見た。
目が輝いている。
出番を待つ犬そのものだ。
「犬千代は抑えろ」
「承知しております」
「本当にか」
「半分は」
柴田までこの言い方をするようになった。
尾張が変な方向に縫い直されている気がする。
だが、悪くない。
たぶん。
訓練場には、稲生で俺側についた兵も、信勝側に寄った兵もいる。
柴田の旧臣筋もいる。
佐久間の下から出た者もいる。
若い者も、年配の者もいる。
その顔ぶれを、最初はあえて混ぜた。
混ぜると、兵は不満を持つ。
自分と同じ家の者の隣へ行きたがる。
昔から知っている者と組みたがる。
だが、それでは稲生の傷がそのまま残る。
柴田は、そこを力で押した。
俺は、そこへ飯と困りごとの道を足した。
同じ鍋を食わせる。
鍋の後で不満を聞く。
役を失った家の話を拾う。
兵の家の女たちの困りごとも、帰蝶やおたえを通して少しずつ届く。
それでも、完全には消えない。
消えないものを無理に消えたと言うと、後で爆ぜる。
だから今日は、外を見る。
「始めろ」
俺が言うと、柴田は短く頷いた。
法螺は鳴らさない。
まだ戦場ではない。
だが、兵たちの動きは戦場へ寄せる。
柴田は、まず荷車を出させた。
槍ではなく、荷車だ。
兵たちが少しざわつく。
荷車には米俵ではなく、空の俵と木箱が積まれている。
重さは本物に近い。
さらに飼葉の束、水桶、予備の槍柄、縄。
つまり、戦う前に運ばねばならぬものだ。
「今日は敵を斬る稽古ではない!」
柴田の声が訓練場へ響いた。
「敵の前へ立つまでに、米を運び、水を運び、馬を生かし、槍の柄を折らぬ稽古だ!」
兵たちの顔が少し変わった。
地味だ。
槍を振る方が、若い兵には分かりやすい。
だが、外を見る兵には、これが要る。
今川が大きな軍を動かす時、最初に動くのは兵だけではない。
米。
塩。
味噌。
飼葉。
薬草。
馬具。
荷縄。
熱田や台所や境の蔵で見てきたものと同じだ。
こちらの兵にも、それを体で分からせる。
「一組、荷を守れ。二組、道を開け。三組、襲う側に回れ」
柴田が指示を飛ばす。
兵たちは動いた。
最初はぎこちない。
荷車を守る者は、荷のそばに固まりすぎる。
道を開ける者は、前へ出すぎる。
襲う側は、嬉しそうに突っ込む。
柴田が怒鳴った。
「荷を守るとは、荷に抱きつくことではない! 道を見ろ! 横を見ろ! 敵は正面からだけ来ると思うな!」
犬千代が襲う側にいる。
やはり速い。
若い兵を連れて、荷車の横へ回り込もうとする。
守る側の兵が慌てた。
その一人は、稲生の時に信勝側へ寄っていた男だった。
隣で支えたのは、俺側の若い兵だ。
二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
迷いがあった。
その迷いの間に、犬千代が入る。
「遅い!」
犬千代の木槍が、荷車の脇を叩いた。
柴田が怒鳴る。
「今のは荷を取られたと思え!」
兵たちが悔しそうな顔をする。
柴田は続けた。
「お前らは、隣の男が昔どちらについたかを見た。その間に、外の敵が荷を取った。戦場でそれをやれば、飯がなくなる。飯がなければ、どちらについたかを言い争う前に死ぬ!」
乱暴だ。
だが、届く。
兵たちの顔が変わった。
恥をかかされたからではない。
自分たちの迷いが、具体的に何を失わせるかを見たからだ。
荷。
飯。
水。
馬。
命。
外を見るとは、そういうことだった。
信勝は俺の隣で黙って見ていた。
「どう見る」
俺が聞くと、信勝は少し考えた。
「柴田殿は、兵の困りごとを戦の形で見せています」
「うまいか」
「かなり」
「お前まで」
「便利ですので」
信勝は少し笑った。
そして、すぐ真顔に戻る。
「でも、あの二人は後で話を聞いた方がよいかもしれません」
「どの二人だ」
「先ほど迷った者たちです。片方は兄上側、片方は私側だったのでしょう」
「よく分かったな」
「顔で」
「また顔か」
「はい」
本当に、尾張中が顔を見るようになっている。
だが、信勝の見立ては正しい。
訓練で迷いが出た者は、後で話を聞く。
責めるためではない。
何に迷ったのかを見るためだ。
困りごとの道は、兵の中にも通っている。
次の稽古は、もっと地味だった。
道のぬかるみを想定し、荷車が止まる。
その間に、襲う側が遠巻きに圧をかける。
守る側は、敵を追い払うか、荷を動かすか、道を直すかを選ばねばならない。
多くの兵は、敵へ向かいたがった。
犬千代も向かいたがった。
柴田が怒鳴った。
「敵を追って荷を捨てるな! 敵はお前の首ではなく、米を狙っている!」
これも大事だ。
戦は、目の前の敵を斬るだけではない。
米を守る。
道を守る。
火を守る。
名を守る。
兵にも、それを覚えさせる。
長秀が横で帳面を取っている。
兵の動きまで記録している。
「何を書いている」
俺が聞くと、長秀は目を上げずに答えた。
「どの組が荷を捨てて敵へ向かいやすいか、どの組が道を直す判断をしたか、どの組が指示待ちになったかです」
「そこまで書くか」
「外を見る兵を作るなら、癖を知らねばなりません」
「帳面様、兵にも進出か」
「すでにしております」
たしかに。
もうとっくにしていた。
おたえの台所帳、久右衛門の商い、仁助の道、帰蝶の針仕事、柴田の兵。
長秀の帳面は、それらをつなぐ糸になっている。
昼前、兵たちはへばり始めた。
そこで柴田は、訓練を止めずに飯を出させた。
立ったまま食う飯。
温かくはない。
握り飯と味噌を溶いた薄い汁。
戦場に近い飯だ。
「うまくないな」
俺が言うと、柴田は当然のように答えた。
「戦場の飯は、うまく食うためのものではございませぬ」
「帰蝶が聞いたら怒るぞ」
「でしょうな」
信勝は握り飯を見て言った。
「でも、飯があるだけで兵の顔が変わります」
「ああ」
飯は戦だ。
台所の話ではない。
兵の腹の話だ。
兵が外を見るには、まず腹がいる。
腹が減れば、隣の男の過去より、自分の飯の少なさを恨む。
飯があれば、少し話せる。
柴田は、飯を食わせながら兵の間を歩いた。
「今日隣にいた男と食え」
それだけ言った。
自分の組だけで固まるな。
昔の仲間だけで食うな。
今日、荷を守った相手と食え。
兵たちは戸惑いながらも、少しずつ混ざった。
先ほど迷った二人も、同じ木の下で握り飯を食っている。
会話は少ない。
だが、逃げてはいない。
それでいい。
俺は信勝に目で合図した。
信勝は頷き、その二人の方へ歩いた。
俺も少し離れてついていく。
兵たちは慌てて立とうとした。
「座ったままでよい」
信勝が言った。
柔らかいが、逆らいにくい声だった。
「先ほど、迷いましたね」
二人は顔を強張らせた。
片方が頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「責めているのではありません」
信勝は腰を下ろした。
俺も少し離れて立つ。
信勝は続けた。
「何に迷いましたか」
二人は互いを見た。
しばらくして、俺側だった若い兵が言った。
「この男が、稲生の時に向こう側だったと知っておりました」
もう一人が唇を噛んだ。
「私は、逆に、この男が私を信用していないのではと」
「だから、一瞬止まった」
信勝が言うと、二人は頷いた。
「その一瞬で、犬千代殿に荷を取られた」
「はい」
「では、次はどうしますか」
二人はまた黙った。
答えを押しつけることもできる。
だが、信勝は待った。
やがて、信勝側だった兵が言った。
「先に声をかけます。右を見る、と」
もう一人が言った。
「私は、左を見る、と返します」
「それでよいと思います」
信勝は頷いた。
「昔のことを忘れろとは言いません。けれど、戦場で一瞬迷うなら、その前に声を決めておく。困りごとも同じです。黙っていると、影が入ります」
二人は深く頭を下げた。
俺は、その様子を見ていた。
信勝は、本当に役を得た。
兵を怒鳴るのは柴田の役だ。
俺は大きな方向を置く。
信勝は、その間にある迷いへ言葉を置ける。
これは大きい。
そして、外の目にも見せてよい。
午後の訓練では、二人はうまく動いた。
完璧ではない。
だが、声が出た。
「右を見る」
「左を見る」
それだけだ。
それだけで、犬千代の回り込みが少し遅れた。
犬千代は悔しそうだった。
だが、柴田は笑った。
「今のはよい!」
兵たちの空気が少し変わった。
小さな成功だ。
小さいが、こういうものを積むしかない。
外を見る兵は、一日でできない。
夕方、訓練を終えた後、柴田が俺のところへ来た。
「若君」
「どうだった」
「まだまだです」
「だろうな」
「ですが、今日の稽古は効きました。兵は、外の敵に荷を取られることを嫌がります」
「隣を疑うよりか」
「はい。隣を疑って荷を取られる方が恥だと分かれば、少し変わります」
柴田は、珍しく満足そうだった。
「それと、信勝様のお言葉が兵に効いております」
「そうか」
「兵の迷いを聞く役として、信勝様は強い」
「お前が言うなら、確かだな」
柴田は少し頭を下げた。
「ただし、信勝様を兵の不満の受け皿にしすぎてはなりませぬ」
「分かっている」
「また担ぐ者が出ます」
「ああ」
柴田は武骨だが、そこは見えている。
信勝の名は、強くなればなるほど危うい。
だから、必ず俺と並べる。
信勝一人ではなく、兄弟で聞く。
その形を崩してはいけない。
訓練場の外に、見慣れない商人が一人いた。
完全な不審者ではない。
荷を届けに来た顔だ。
だが、目が兵を見ていた。
恒興がすでに気づいている。
「岡崎か」
俺が小声で聞くと、恒興は首をわずかに傾けた。
「三河筋ではあるかと」
「見せたか」
「見せました」
「追いすぎるな」
「はい」
外の目は、今日の訓練を見るだろう。
見ればいい。
尾張の兵はまだ完全ではない。
だが、外を見る稽古を始めた。
兄弟が並び、柴田が兵をまとめ、荷と飯を守る訓練をしている。
それが岡崎へ届けばよい。
ただし、数までは見せない。
兵糧の場所も見せない。
見せるものと隠すもの。
また、それだ。
夜、三河へ戻る道で、その商人は小さな宿へ入った。
後で入った報せによれば、男はそこで同じ三河筋の者へこう言ったらしい。
――尾張の兵は、まだぎこちない。だが、内ではなく外を見せられ始めている。柴田は折れていない。信勝は消えていない。信長は、兵に飯と荷を見せている。
岡崎へ届くだろう。
その言葉は。
そして岡崎は、また見る。
見るなら見ればいい。
こちらも見る。
その夜、俺は帰蝶と膳を囲んだ。
信勝も呼んだ。
訓練の後で疲れていたが、帰蝶は容赦なく食わせた。
「今日は兵もよく食べましたか」
帰蝶が聞いた。
「ああ」
「では、信長様も」
「なぜそうなる」
「兵に飯を説いた方が、飯を残してはいけません」
反論できなかった。
信勝が笑いをこらえている。
「お前も食え」
「はい」
信勝は素直に食った。
飯を食いながら、今日の二人の兵の話をした。
右を見る。
左を見る。
それだけの声が、犬千代の回り込みを止めたこと。
柴田が褒めたこと。
兵たちが少し変わったこと。
帰蝶は静かに聞いた。
「よいですね」
「かなりか」
「かなり」
最近、この言葉を聞くと少し安心する。
よくない癖だ。
だが、悪くもない。
「外を見る兵は、今日少し増えた」
俺は言った。
「でも、まだ内の傷は残る」
信勝が続けた。
「ああ」
「なら、また飯を食わせ、困りごとを聞き、外を見せる」
「そういうことだ」
地味だ。
あまりにも地味だ。
だが、兵とはそういうものなのだろう。
大きな合戦の前に、飯を食い、荷を運び、隣へ声をかける。
それができない軍は、派手な旗を立てても崩れる。
俺は、そういう軍にはしたくない。
岡崎が見ているなら、見せてやる。
尾張はまだ弱い。
だが、弱さを見ている。
割れ目を見ている。
飯と荷を見ている。
外を見る兵を作り始めている。
これが、今の尾張だ。
完成した国ではない。
けれど、組み直す途中の国だ。
うつけと呼ばれた俺が、天下を壊したかったわけではない。
まず、目の前の尾張を組み直す。
兵の目の向きから。
飯の握り方から。
隣へかける一言から。
それくらい小さいところからしか、国は変わらないのかもしれない。




