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第58話 右を見る、左を見る

右を見る。


 左を見る。


 たったそれだけの声が、思ったより早く兵の中へ広がった。


 最初は訓練場の中だけだった。


 稲生の時に違う側へ立った二人の兵が、荷車を守る稽古で声をかけ合った。


 右を見る。


 左を見る。


 それだけで、犬千代の回り込みが少し遅れた。


 槍の腕が急に上がったわけではない。


 過去のわだかまりが消えたわけでもない。


 ただ、一瞬の迷いが声に変わった。


 それだけだ。


 だが、その「それだけ」が大きい。


 人は、黙っている時ほど勝手に疑う。


 隣の男が何を考えているのか。


 自分を恨んでいるのか。


 昔のことをまだ覚えているのか。


 いざという時、背中を任せてよいのか。


 黙っていると、疑いは勝手に育つ。


 声を出すと、少しだけ形が変わる。


 右を見る。


 左を見る。


 そう言えば、少なくともその瞬間、互いが何をするか分かる。


 それは、信じるというほど大げさなものではない。


 だが、疑いを少し遅らせることはできる。


 戦場では、その少しが命を分ける。


「若君」


 柴田が、訓練場の端で言った。


「兵が勝手に使い始めました」


「右を見る、左を見る、か」


「はい」


 兵たちは、荷車を囲む稽古だけでなく、飯の時にも使い始めていた。


 味噌汁の桶を運ぶ者が、


「右を見る」


 と言えば、隣の者が、


「左を見る」


 と返す。


 それで、後ろから犬千代が余計な握り飯を取ろうとして見つかる。


「犬千代」


 俺が呼ぶと、あいつは握り飯を片手に固まった。


「いえ、これは余りが出ると見越して」


「まだ配り終わっていない」


「はい」


「戻せ」


「はい……」


 兵たちが笑った。


 笑いが起きる。


 悪くない。


 稽古場の笑いは、油断につながることもあるが、息を通すこともある。


 今は、後者だった。


 昨日まで互いに固かった兵たちが、犬千代の食い意地を笑う。


 笑った後に、同じ桶から味噌汁を受け取る。


 それだけで、少し場が緩む。


「犬千代殿は、役に立っておりますな」


 長秀が帳面を抱えながら言った。


「本人が聞いたら喜ぶぞ」


「喜ぶでしょうか」


「いや、怒るかもしれぬ」


「どちらでも、記録には残します」


「何でも残すな」


 長秀は真顔だった。


 最近、何を冗談として言っているのか分かりづらい。


 昼過ぎ、訓練は別の形に移った。


 今日は荷車だけではない。


 小さな木札を使う。


 木札には、それぞれ「米」「水」「飼葉」「薬」「替え槍」「火」と書かれている。


 長秀の案だ。


 最初、柴田は「兵に札遊びをさせるのか」と顔をしかめたが、やってみると案外効いた。


 兵たちを三組に分ける。


 一組は荷を守る。


 一組は敵に回る。


 一組は、混乱した村人や馬借の役をする。


 荷の中でどれを優先して守るか。


 水が奪われたらどうするか。


 飼葉を捨ててでも米を守るか。


 火種を持つ者が逃げたら追うか。


 そんな稽古だ。


「面倒くせえな」


 若い兵が小声で言った。


 すぐ柴田が振り向いた。


「戦は面倒だ!」


 兵の背筋が伸びる。


「面倒を嫌う者から死ぬ! 米も水も飼葉も勝手には歩かぬ! 槍だけ持って戦場へ行きたいなら、腹が減って倒れた後で好きなだけ夢の中で槍を振れ!」


 乱暴だが、兵には届く。


 俺が同じことを言えば、説教に聞こえる。


 柴田が言えば、腹に落ちる。


 言葉には、持ち主がある。


 それを最近、何度も思う。


 信勝の言葉は、名の痛みを知る者へ届く。


 帰蝶の言葉は、戸を閉めかけた女たちへ届く。


 柴田の言葉は、兵の腹へ届く。


 長秀の帳面は、人が忘れた頃に効く。


 俺の言葉は、どこへ届くのか。


 まだ、よく分からない。


 分からないまま、使っている。


「若様」


 信勝が隣へ来た。


 今日は訓練を見るだけではなく、兵の飯の後で話を聞く役も担う。


「右を見る、左を見る、という声は、兵以外にも使えそうですね」


「どこで」


「困りごとの道です」


 俺は信勝を見た。


「一人が一方向だけ見ると、見落とします。針仕事の家は女たちの困りごとを見る。台所は食べ物を見る。兵は組を見る。商人は値を見る。馬借は道を見る。右を見る者と左を見る者がいるから、影が回り込みにくくなる」


「なるほどな」


「兄上が大きく見るなら、私は横を見ます」


 さらりと言った。


 だが、重い言葉だった。


「横?」


「兄上の前に立つ者は多いです。敵も、家臣も、商人も、寺社も。けれど、横にいる者、少し外れた者、声を上げにくい者は、見落とされやすい」


「お前がそこを見るのか」


「見たいと思います」


 信勝は静かに言った。


「私自身が、かつて兄上の横ではなく、別の場所へ置かれようとしたから」


 自分の痛みを、役に変えようとしている。


 それは強さだ。


 同時に、危うい。


 痛みを役にしすぎると、人は休めなくなる。


「無理はするな」


 俺が言うと、信勝は少し笑った。


「兄上に言われると、不思議です」


「何だ」


「帰蝶様と同じことをおっしゃいました」


「そうか」


 それは、少し嬉しいような、悔しいような。


 午後の稽古で、さっそく「右を見る、左を見る」が試された。


 敵役の犬千代が、今度は正面から突っ込まず、村人役の兵たちに紛れた。


 木箱を抱えたふりをして、荷車の脇へ近づく。


 犬千代は目立つ。


 目立つのだが、兵たちは混乱した村人役にも気を取られていた。


 そこで、昨日の二人のうち一人が声を出した。


「右を見る!」


 もう一人がすぐ返す。


「左を見る!」


 さらに後ろの兵が続けた。


「荷を見る!」


 別の兵が叫ぶ。


「人を見る!」


 声が増えた。


 まだ揃ってはいない。


 だが、悪くない。


 犬千代の動きが一瞬止まった。


 見られている、と気づいたのだろう。


 その隙に、荷車の後ろへいた兵が木槍を出した。


 犬千代は避けたが、荷車へ触れられなかった。


 柴田が大声で笑った。


「よし! 犬千代を止めたなら上出来だ!」


「止められておりません!」


 犬千代が叫ぶ。


「触れられなかったなら同じだ!」


「次は触れます!」


「触れさせるな、馬鹿者ども!」


 兵たちが笑い、すぐ構え直した。


 笑いながら構え直せる。


 これも変化だった。


 最初の頃なら、笑った後に気が抜けていた。


 今は、笑いを挟んでまた構える。


 よい。


 かなりよい。


 長秀の帳面に、今日も新しい項目が増えた。


 声のかけ合い。


 見落とした方向。


 荷を守った者。


 村人役に惑わされた者。


 犬千代に突破された回数。


「そこまで書くのか」


 俺が覗くと、長秀は真面目に頷いた。


「犬千代殿は、敵役として便利です」


「本人に言うな」


「言ったら喜ぶかもしれません」


「たぶん怒る」


 信勝が横から言った。


「犬千代殿は、敵役ではなく試練役と言えば喜ぶのでは」


「それだ」


 俺は頷いた。


「長秀、犬千代は試練役と書け」


「承知しました」


 遠くで犬千代が、なぜか得意げにしていた。


 聞こえたのかもしれない。


 夕方前、訓練場の外から報せが来た。


 熱田からだ。


 権蔵についての報告である。


 権蔵は火番の下働きとして水を運び、灰を片づけ、札を運んでいる。


 初日は不満を漏らしていたが、二日目から口数が減った。


 火番の源太に叱られたらしい。


 理由は、灰を粗末に扱ったからだ。


 源太はこう言ったという。


 ――火を守る者は、火が消えた後の灰も見る。灰を粗末にする者に、火の前へ立つ資格はない。


 俺はそれを聞いて、少し黙った。


 火が消えた後の灰も見る。


 よい言葉だ。


 実円が言いそうだと思ったが、火番の源太の言葉だった。


 火を守る者には、火を守る者の言葉がある。


 長秀は当然のように書いた。


「若様」


 信勝が言った。


「灰を見ることは、怨みを見ることに似ていますね」


「どういうことだ」


「火が燃えている時だけでなく、消えた後に何が残ったかを見る。稲生の後に残ったものを見ることと似ています」


 また、よい。


 本当に、よくなった。


「使う」


 俺が言うと、信勝は笑った。


「はい」


 その時、訓練場の端にいた三河筋の商人が、少し顔を動かした。


 今日もいた。


 昨日とは別の男だ。


 完全には隠れていない。


 荷を運ぶついでに見ている、という顔をしている。


 こちらも見られていることを承知している。


 なら、少し見せる。


 俺は柴田へ目を向けた。


 柴田はすぐ察した。


「最後に、外敵役を変える!」


 柴田の声が響く。


「今度は敵が荷を狙うのではない。噂を狙う!」


 兵たちが少し戸惑った。


 噂を狙う?


 柴田は続けた。


「村人役は、こう叫べ。『荷に毒がある』『隣の組が裏切った』『信勝様の名で別命が出た』。守る側は、荷を守りながら、声に飲まれるな!」


 兵たちの顔が変わった。


 これは、実戦に近い。


 槍ではなく、噂が飛ぶ。


 火の前でも、針仕事の家でも、困りごとの道でも、ずっと戦ってきた相手だ。


 柴田は兵にもそれをさせる。


 村人役が叫ぶ。


「荷に毒があるぞ!」


「左の組が逃げたぞ!」


「信勝様から別の命だ!」


 その瞬間、何人かの兵が揺れた。


 特に、信勝の名には反応が出た。


 まだ残っている。


 当然だ。


 信勝本人も、顔を引き締めた。


 そこで、昨日の兵が叫んだ。


「右を見る!」


 隣が返す。


「左を見る!」


 さらに別の兵が叫んだ。


「命は誰からだ!」


 これがよかった。


 信勝の名で別命が出た。


 なら、誰が持ってきた命か。


 名を預かったのか。


 それを問う。


 弥三郎の件から、兵の中にも少しずつ染みている。


 名を騙る者には、誰から預かったかを聞く。


 村人役の兵が一瞬詰まった。


 答えられない。


 守る側は、その隙に荷車を動かした。


 犬千代が横から突っ込むが、今度は二人が声を合わせた。


「荷を見る!」


「人を見る!」


 木槍が交差し、犬千代はまた止められた。


 柴田が大きく頷いた。


「今のはよい! 名を聞け! 声に飲まれるな! 誰が言ったかを聞け!」


 兵たちの顔に、何かが残った。


 稽古としては雑だ。


 まだまだ穴は多い。


 だが、声に飲まれないための筋が少し見えた。


 右を見る。


 左を見る。


 命は誰からだ。


 荷を見る。


 人を見る。


 これらは、戦場の掛け声であり、政の掛け声でもある。


 俺は思った。


 尾張は、少しずつ同じ言葉を持ち始めている。


 それは危うくもある。


 同じ言葉は盗まれる。


 曲げられる。


 だが、同じ言葉がなければ、混乱した時に互いを呼べない。


 だから、置く。


 見えるところに。


 火の前に。


 飯の場に。


 訓練場に。


 針仕事の家に。


 夕暮れ、訓練が終わった。


 兵たちは疲れ切っていた。


 犬千代だけは、まだ悔しそうに木槍を握っている。


「犬千代」


 俺が呼ぶと、すぐ走ってきた。


「はい!」


「今日はよい試練役だった」


 犬千代の顔が輝いた。


「試練役!」


「調子に乗るな。二度止められた」


「次は止められません」


「そうしろ。お前が強くなれば、兵も強くなる」


 犬千代は、今度は真剣に頭を下げた。


「承知しました」


 単純ではない。


 役を与えれば伸びる。


 役を誤れば暴れる。


 若い武者も、国と同じだ。


 縫い方を間違えると裂ける。


 訓練場の外にいた三河筋の商人は、夕方には姿を消していた。


 恒興があとを追いすぎない程度に見た。


 男は清洲方面へは行かず、熱田へ向かったらしい。


 そこから三河へ戻る道を取るのだろう。


 見たものは、岡崎へ届く。


 尾張の兵はまだぎこちない。


 だが、声を持ち始めた。


 信勝の名で動揺する者はいる。


 だが、命は誰からだと問う者も出た。


 柴田は兵を外へ向けている。


 信勝は兵の迷いへ言葉を置いている。


 信長は、飯と荷と噂を稽古にしている。


 そう伝わるだろう。


 伝わればいい。


 隠すべきものではない。


 夜、俺は信勝と帰蝶と膳を囲んだ。


 訓練の後の飯は、やけにうまかった。


 それを言うと、帰蝶が少しだけ満足そうにした。


「ようやく素直におっしゃいましたね」


「飯はうまい」


「はい」


「戦場の飯はまずいと柴田は言っていた」


「柴田殿には、後で温かい汁を出しましょう」


「怒っていないのか」


「兵にとっては正しい言葉です。ただ、城の台所としては少し悔しいので」


 帰蝶は真顔だった。


 台所にも矜持がある。


 忘れてはいけない。


 信勝は、飯を食べながら言った。


「今日の『命は誰からだ』という声、よかったですね」


「ああ」


「名を騙る者への返しになります」


「兵が自分で言ったのがよい」


「はい。兄上や私が言わせたのではなく」


「自分で出た言葉は強い」


 俺は味噌汁を飲んだ。


 温かい。


 訓練場の薄い汁とは違う。


 だが、どちらも飯だ。


 場によって飯の意味が変わる。


 言葉も同じだ。


 右を見る、左を見る。


 訓練場では声かけ。


 困りごとの道では役割。


 政では見落としを防ぐ合図。


 戦場では命を守る一言。


 たったそれだけの言葉が、尾張のあちこちへ伸びていく。


 影もそれを聞くだろう。


 盗もうとするだろう。


 曲げようとするだろう。


 それでも、使う。


 言葉は使わなければ育たない。


 育てば、守る者も増える。


 俺は膳の上の箸を置いた。


 帰蝶がすぐ見た。


「残されますか」


「いや、考えただけだ」


「食べながら考えてください」


「はい」


 信勝が笑った。


 俺も笑った。


 右を見る。


 左を見る。


 その声は、たぶん明日も訓練場で響く。


 そして、いつか本当の戦場でも響くかもしれない。


 その時、今日の飯と泥と笑いと失敗が、兵たちを少しでも生かすなら。


 地味な稽古にも意味がある。


 尾張はまだ弱い。


 けれど、弱さを見ている。


 右を見て、左を見る。


 一人では見えないものを、隣と見る。


 国を組み直すとは、案外そういうところから始まるのかもしれない。

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