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第56話 岡崎は見ている

 岡崎は、見ている。


 佐橋勘解由を清洲へ戻し、河尻の目の下で困りごとを整理させると決めた翌日、その言葉がやけに重くなった。


 左内は言った。


 岡崎は見ている、と。


 佐橋も言った。


 岡崎という名は、今川そのものではない、と。


 今川の影は、尾張の火種を探している。


 それは分かる。


 尾張が割れれば、今川は入りやすい。


 清洲と那古野。


 俺と信勝。


 柴田と家中。


 熱田の火。


 針仕事の家。


 困りごとの道。


 どこかに裂け目があれば、そこへ手を入れる。


 大きな家のやり方としては当然だ。


 だが、岡崎は違う。


 岡崎は、今川の手の内にありながら、三河の名を抱えている。


 松平という名を、簡単に今川と同じものとして扱うことはできない。


 それは、こちらで信勝の名をただの反乱の火種として扱えないのと似ている。


 似ているからこそ、厄介だった。


「若様」


 長秀が地図を広げた。


 もう何度広げたか分からない地図だ。


 尾張の道は、ずいぶん線だらけになった。


 清洲、那古野、熱田、守山、境の蔵、針仕事の家、佐橋の屋敷、熱田の火前。


 そして、その東に岡崎の点。


 最初は小さく書いた点だった。


 今は、消そうとしても目に入る。


「作兵衛の足取りが戻りました」


「言え」


「三河へ戻った後、境近くの宿で一泊。その後、岡崎へ向かっています。ただし、城へ直接入ったかは不明です」


「誰に会った」


「岡崎近辺の商い筋。名は大浜屋藤右衛門。塩と薬草、それから馬具も扱う者です」


「また薬草か」


「はい」


 薬草、飼葉、塩、古布、火の粉。


 どれも小さい。


 だが、小さいものほどよく動く。


「藤右衛門は今川の者か」


「商人です」


 長秀は少し間を置いた。


「ただし、今川方にも松平方にも顔を持つ商人かと」


「便利な男だな」


「便利な者ほど、道の真ん中に立てます」


 長秀も言うようになった。


 道の真ん中。


 隙間。


 火種。


 最近、俺たちはそういうものばかり見ている。


「作兵衛は、何を伝えた」


「そこまでは。ただ、作兵衛が持ち帰ったはずの荷は少なく、代わりに文を持っていた可能性があります」


「文の中身は」


「分かりません」


「分からないことばかりだな」


「はい」


 長秀は素直に頷いた。


 だが、そこで止まらないのが今の長秀だった。


「ただ、岡崎側には、少なくとも四つの報が届いているはずです」


「四つ?」


「一つ、境の蔵が見られたこと。二つ、権蔵が捕らえられ、熱田に置かれたこと。三つ、左内が捕らえられたこと。四つ、佐橋勘解由が清洲で河尻殿の目の下に入ったこと」


「つまり」


「岡崎から見れば、尾張の内側へ入れた道が、次々見られている」


 信勝が静かに言った。


「そして、兄上がただ斬って終わらせていないことも伝わりますね」


「ああ」


 それが問題だった。


 斬る主なら、分かりやすい。


 恐れればいい。


 恨めばいい。


 隙を探せばいい。


 だが、俺は権蔵を熱田の火番の下働きにし、左内から怨みを聞き、佐橋に困りごとを整理させた。


 外から見れば、どう見える。


 甘いと見るか。


 面倒な相手と見るか。


 あるいは、気味が悪いと見るか。


「岡崎は、どう読むでしょう」


 信勝が問うた。


「分からぬ」


 俺は正直に言った。


「ただ、俺なら嫌だ」


「嫌?」


「尾張は割れていると思って覗いたら、割れ目を縫い直す者がいた。しかも、斬って蓋をするのではなく、道を残して目を置いてくる。面倒だろう」


 帰蝶が横で小さく頷いた。


「かなり」


「お前に言われると、少し安心する」


「安心なさる場面でしょうか」


「違うな」


 安心するには早い。


 岡崎が見ているということは、こちらも見られているということだ。


 こちらの弱さも、強さも、迷いも。


 信勝が俺の横にいること。


 柴田が兵をまとめ直していること。


 清洲が完全には閉じていないこと。


 困りごとの道が、まだ細く危ういこと。


 全部だ。


 その頃、三河では、作兵衛が岡崎近くの小さな寺に入っていた。


 これは後で、仁助の道の者からもたらされた話である。


 寺は大きくない。


 今川の旗が立つような場所でもない。


 だが、旅僧が泊まり、商人が足を休め、松平に近い者が人目を避けて話すにはちょうどよい場所だった。


 作兵衛を待っていたのは、大浜屋藤右衛門だった。


 四十を越えた商人で、顔に笑みを貼りつけた男だという。


 その奥に、もう一人いた。


 若い武士。


 名は、石川与七郎。


 岡崎の松平家に近い家の若者だと、後に分かった。


 与七郎は、作兵衛の報告を黙って聞いた。


 境の蔵が見られたこと。


 道普請で蔵へ近づかれたこと。


 権蔵が捕らえられ、熱田で火番の下働きになったこと。


 左内が捕らえられたこと。


 佐橋が清洲で押さえられたこと。


 そして、信勝が自分の名を「隠れた火種にするな」と言ったこと。


 話し終えると、藤右衛門は低く唸った。


「尾張のうつけ殿は、ずいぶん細かいところを見る」


 与七郎は首を横に振った。


「うつけと呼ぶのは、もう危うい」


「ほう」


「うつけなら、権蔵を斬って終わりにする。あるいは、左内を吊るして終わりにする。佐橋のような年寄りは、清洲への見せしめに使う」


「では、今の信長殿は?」


 与七郎は少し考えた。


「怨みを、道として見ている」


 藤右衛門は笑った。


「それはまた、妙な見方ですな」


「妙だから厄介だ」


 作兵衛は、そこで初めて口を開いた。


「若い松平様へ、これは上げますか」


 与七郎の目が鋭くなった。


「軽々しく名を出すな」


「失礼を」


「殿は、今川の内におられる。だが、三河を見ておられぬわけではない」


 藤右衛門が、声を落とした。


「では、どうお伝えを?」


 与七郎は、しばらく黙った。


 そして言った。


「尾張は、まだ割れている。だが、割れ目を自分で見始めている。信勝様の名は、簡単には使えなくなった。熱田の火も曇らなかった。清洲の奥はまだ揺れるが、河尻が目を開けている」


「厄介ですな」


「厄介だ」


 与七郎は、寺の外を見た。


「それでも、尾張は完全ではない」


「どこが」


「困りごとを聞く道は、作ったばかりだ。聞く者が増えれば、必ず漏れる。漏れれば、また疑いが生まれる」


「そこを突く?」


「今は突かない」


 作兵衛が少し驚いた顔をした。


「なぜ」


「尾張がどう直すか、もう少し見る」


 岡崎は、見ていた。


 それは、攻めるためだけではない。


 学ぶためでもあるのかもしれない。


 そう報告を受けた時、俺はしばらく黙った。


 岡崎の若い目。


 松平に近い者。


 今川の内にありながら、三河を捨てていない者。


 そいつらは、尾張の割れ目を利用するだけではなく、尾張がどう割れ目を扱うかを見ている。


 それは、こちらが岡崎を敵とも味方とも決めきれない理由にもなる。


「兄上」


 信勝が言った。


「岡崎は、ただ敵として見ているわけではないのですね」


「たぶんな」


「では、こちらもただ敵としては見ない」


「ああ」


「でも、油断はできない」


「もちろんだ」


 帰蝶が茶を置いた。


「松平の名は、人質の名です」


「分かっている」


「人質の名は、周囲を見る目が鋭くなります。自分で動けない分、他家の揺れに敏くなる」


 帰蝶の言葉は重い。


 美濃の娘だからか。


 いや、帰蝶自身も、尾張へ来た女だ。


 見られる側であり、見る側でもあった。


「岡崎が見ているなら、見せるものを選ぶ必要があります」


 長秀が言った。


「見せるものと隠すものか」


「はい」


 それは、清洲の時から何度もやってきた。


 全部隠せば、相手は影で探る。


 全部見せれば、こちらの腹が丸見えになる。


 だから、見せるものを選ぶ。


「何を見せる」


 佐久間が問う。


「信勝が俺の横にいること」


 俺は言った。


 信勝が少し顔を上げる。


「火と困りごとの道が、まだ細いが続いていること。清洲を那古野が飲み込んだのではなく、清洲にも目があること。熱田の火は守られたこと」


「柴田殿の兵は?」


「少し見せる」


 柴田が腕を組んだ。


「外へ向けた訓練として?」


「ああ。内輪揉めの兵ではなく、外に備える兵として」


「承知しました」


 柴田は少し嬉しそうだった。


 兵を外へ向ける。


 これは大事だ。


 稲生の傷を、いつまでも内側へ向けておくわけにはいかない。


 外に今川がいる。


 三河がいる。


 岡崎が見ている。


 その事実は、尾張の兵にとっても必要な重みになる。


「兄上」


 信勝が言った。


「私も、見せるものに入るのですね」


「嫌か」


「いいえ」


 信勝は静かに首を横に振った。


「ただ、見せるなら、私自身の言葉で立ちたいと思います」


「何を言う」


「尾張の困りごとは、尾張で聞く。外へ渡さない。けれど、外を見る目は閉じない」


 またよいことを言う。


 俺は頷いた。


「使う」


「はい」


 信勝は、もう驚かない。


 自分の言葉が使われることにも、その責にも、少しずつ慣れてきている。


 午後、俺は柴田の訓練場へ出た。


 信勝も同行した。


 犬千代は、ようやく自分の出番だとばかりに張り切っていた。


 今回は止めない。


 槍を持たせる。


 ただし、喧嘩ではなく訓練だ。


 柴田は兵を二組に分け、片方を尾張内の旧敵味方で混ぜ、もう片方を外敵に見立てた。


 これも意味がある。


 昨日までの敵を、今日の隣に置く。


 そして、目の前には外の敵を置く。


 兵は最初、少し戸惑った。


 だが、柴田が怒鳴った。


「昨日の味方敵を数えるな! 今日隣で飯を食った者を見ろ!」


 乱暴だが、効く。


 犬千代が槍を構え、若い兵たちを前へ押し出す。


 恒興が後ろから全体を見る。


 俺は、少し離れて見ていた。


 信勝も隣にいた。


「どうだ」


 俺が聞くと、信勝は兵を見たまま答えた。


「まだ、ぎこちないです」


「だろうな」


「でも、前より同じ方向を見ています」


「外を見せると、内の傷は薄まるか」


「薄まることもあると思います。でも、消えるわけではありません」


「ああ」


 信勝は俺を見た。


「消えないから、飯や困りごとの道も要る」


「そうだ」


「兵も同じですね」


「同じだ」


 訓練の最後、柴田が兵を集めた。


 俺が前へ出た。


 信勝も横に立つ。


 兵たちの視線が集まる。


 以前なら、信勝が俺の横に立つだけで、違う意味に取る者がいた。


 今も、完全には消えていない。


 だが、今日の信勝は影ではない。


 火の前へ出した名だ。


「尾張は、まだ一つではない」


 俺は言った。


 兵たちが静かに聞く。


「だが、割れたまま外を迎えれば食われる。昨日の敵味方を忘れろとは言わぬ。忘れられるものでもない。だが、今日の隣を見ろ。飯を食った者を見ろ。鍋を囲んだ者を見ろ」


 柴田の言葉を使った。


 兵に届く言葉は、柴田のものの方がいい。


「困りごとがあるなら言え。恥ではない。だが、その困りごとを外の影へ渡すな。尾張のことは、まず尾張で聞く」


 信勝が一歩前へ出た。


「私からも」


 兵たちの目が、信勝へ向く。


「私の名を覚えてくださる方もいるでしょう。その心を、私は軽く見ません。けれど、私の名を、尾張を割るために使わないでください。私は兄上の横で、尾張の困りごとを聞きます。外を見る目は閉じません。けれど、尾張の火種を外へ渡すことはしません」


 兵の中に、静かなざわめきが広がった。


 悪いざわめきではない。


 信勝の言葉は、兵にも届いた。


 柔らかいが、芯がある。


 俺だけでは届かない場所へ届く。


 それを見て、少し悔しく、かなり心強かった。


 この場は、当然ながら外の目にも見られている。


 完全に隠していない。


 むしろ、見られてよい。


 岡崎へ届くだろう。


 今川へも届くかもしれない。


 尾張はまだ割れている。


 だが、割れ目を見ている。


 兄弟は並んでいる。


 柴田は兵を外へ向けている。


 困りごとは、外へ渡さず内で聞くと言い始めている。


 そう見せる。


 強がりではない。


 全部が本物ではないが、全部が嘘でもない。


 半分の真を積み上げる。


 それが今の尾張だ。


 その夜、岡崎からの噂がまた入った。


 与七郎という若い武士が、藤右衛門にこう言ったらしい。


 ――尾張のうつけは、うつけでは済まぬ。あれは、割れた器の割れ目を見ている。


 割れた器。


 嫌な言い方だ。


 だが、悪くない。


 割れた器でも、水を入れられるようにするには、割れ目を見なければならない。


 見ずに水を注げば、漏れるだけだ。


「若様」


 長秀が言った。


「岡崎は、こちらを侮らなくなっています」


「それはよいことか」


「半分は」


「もう半分は?」


「警戒も強くなります」


「だろうな」


 信勝が静かに言った。


「でも、侮られるよりよいと思います」


「そうだな」


 帰蝶が茶を置きながら言った。


「岡崎が見ているなら、こちらも見続けるだけです」


「ずっと見るのか」


「はい」


「疲れるな」


「食べれば少しは持ちます」


「そこで飯に戻るか」


「大事ですので」


 俺は笑った。


 岡崎は見ている。


 今川も見ている。


 清洲も、熱田も、針仕事の家も、台所も、兵たちも見ている。


 見られることは、怖い。


 だが、影の中で名を使われるよりはいい。


 火の前へ出す。


 道の上へ置く。


 飯の場で語る。


 布の継ぎ目に残す。


 そうやって見える場所を増やす。


 それが、今の俺にできることだった。


 俺は地図の岡崎の点を、また少し濃くした。


 敵とは書かない。


 味方とも書かない。


 ただ、見ている、とだけ心の中で添える。


 岡崎は見ている。


 なら、こちらも見ている。


 その視線が、いつか槍の先でぶつかるのか、別の道で交わるのか。


 まだ分からない。


 だが、分からないからこそ、目を逸らさない。

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