第55話 佐橋勘解由の静かな屋敷
佐橋勘解由の屋敷は、静かだった。
静かすぎるほどだった。
人の出入りがないわけではない。
薪を運ぶ下男。
水を汲む女。
門の前を掃く老人。
裏口から出る小さな使い。
そういうものはある。
だが、声が少ない。
笑い声もない。
子供の足音もない。
怒鳴り声すらない。
屋敷というより、古い箱のようだった。
その箱の中に、佐橋勘解由という老人がいる。
林美作守の古い周辺にいた男。
表に立つ重臣ではない。
だが、文を運ぶ者、使いを出す者、人の不満を拾う者の後ろにいた男。
左内が「怨みを聞いていただけ」と言った男。
聞いていただけ。
その言葉ほど怪しいものはない。
聞くというのは、ただ耳を貸すだけではない。
聞く者のところへ人は集まる。
集まれば、火種も集まる。
そして、火種を集める者は、いつか自分が火を持っていないと錯覚する。
自分は火をつけていない。
ただ、火種を預かっていただけだ。
そう言う。
だが、火種を乾いた藁の上へ置けば、それはもう火をつけたのと同じだ。
「若様」
長秀が帳面を閉じた。
「左内の供述から見る限り、佐橋勘解由は直接命じていない形を取っています」
「命じていない?」
「はい。『こうすべきだ』とは言わない。『そういう声もある』と言う。『誰かが動くかもしれぬ』と言う。『止める理由はない』と言う」
「便利な言い方だな」
「はい」
俺は思わず笑った。
笑ったが、面白いわけではない。
佐橋は、清洲の奥に近い連中のやり方をよく知っている。
御奥の心。
誰それ様のお気持ち。
名は出さない。
命じない。
だが、聞いた者が勝手に動いた形にする。
責は下へ落ちる。
上は言う。
私は、ただ聞いただけだ。
俺は佐橋の屋敷の絵図を見た。
大きな屋敷ではない。
だが、妙に出入り口が多い。
表門。
裏口。
菜園へ続く小門。
古い井戸へ出る細い道。
隣家の塀沿いにある抜け道のような隙間。
年寄りの隠居屋敷にしては、逃げ道が多すぎる。
「踏み込むか」
柴田が言った。
最近、この問いは何度も聞いた。
そして、何度も待たせた。
だが今回は、少し違う。
左内は捕らえた。
権蔵も熱田に置いている。
作兵衛は三河側へ戻った。
真野主水は河尻が押さえた。
佐橋を放置すれば、火種の置き場が残る。
「踏み込まない」
俺が言うと、柴田はさすがに眉を動かした。
「まだでございますか」
「まだだ」
「若君」
「今回は、屋敷へこちらから行くのではない。佐橋を出させる」
長秀が顔を上げた。
「どうやって」
「困りごとの道を使う」
信勝が、静かに息を吸った。
「佐橋に、困りごとを届ける?」
「違う」
俺は首を振った。
「佐橋が聞いていた怨みを、こちらでも聞き始めた。左内も捕らえた。権蔵も火前で責を置かれた。真野も足止めされた。そうなれば、佐橋のところへ集まる声は減る」
「佐橋殿は、声を失う」
信勝が言った。
「ああ」
「なら、自分から確かめに出る」
「そうだ」
帰蝶が静かに頷いた。
「ただ屋敷へ閉じこもるだけの方ではなさそうですね」
「左内の言葉から見るに、な」
俺は地図に指を置いた。
「佐橋は、自分で火をつける男ではない。火種のありかを知っている男だ。なら、火種がこちらへ移り始めたら、それを見に来る」
「どこへ」
佐久間が聞く。
「針仕事の家か、清洲の茶屋か、河尻の周辺か、あるいは信勝の名を慕う旧臣筋か」
信勝が少し顔を伏せた。
だが、もう怯えてはいない。
「私が餌になりますか」
「その言い方はよせ」
「でも、佐橋殿が私の名を使うなら、私の言葉に反応するでしょう」
信勝はまっすぐ俺を見た。
「私から、もう一度文を出します」
「何と」
「困りごとは、兄上と私の双方へ届けよ、と。けれど、今度はもう一文加えます」
「聞こう」
信勝は少し考えた。
「『私の名を思ってくださるなら、私を隠れた火種にしないでください』」
部屋が静かになった。
よい。
よいが、痛い。
信勝は、自分がどう使われていたかをよく分かっている。
「使う」
俺は言った。
「ただし、広くではない。佐橋の耳に届くように、旧臣筋と針仕事の家を通す」
「はい」
信勝は頷いた。
「私の名を、火の前へ出すのですね」
「ああ」
「影の中ではなく」
「そうだ」
左内の詮議から、信勝はさらに変わった。
自分の名を怖がるだけではない。
自分の名を、どこへ置くか考えるようになった。
それは強さだ。
ただ、強さはいつも危うさを連れている。
強くなった信勝を、また誰かが利用しようとするかもしれない。
俺も気をつけねばならない。
その日のうちに、信勝の文は静かに流された。
針仕事の家。
台所。
旧臣筋のいくつか。
兵の鍋の後。
大きな触れではない。
だが、必要な耳へ届くように。
――私の名を思ってくださるなら、私を隠れた火種にしないでください。
その一文は、思ったより早く清洲へ染みた。
おまきは、針仕事の家でその文を読み上げた。
志乃は黙って聞いたという。
姑に責められている若い妻も、子を抱いた女も、役を失った家の娘も、針を持つ手を止めた。
信勝様がそうおっしゃるなら。
誰かが、小さくそう言ったらしい。
その声が、佐橋の屋敷へ届かないはずがない。
届いた。
翌日の午後、佐橋勘解由の屋敷に動きがあった。
老人自身は出なかった。
代わりに、屋敷から年配の女が一人出た。
下女ではない。
身なりは地味だが、背筋が伸びている。
屋敷の奥を任されている女だろう。
名は、おふさ。
帰蝶の者が見た。
おふさは、針仕事の家へ向かった。
佐橋は自分では出ない。
奥の女を使った。
やはり、女の道を分かっている。
「帰蝶」
「はい」
「これはお前の場だ」
「分かっています」
帰蝶は静かに答えた。
俺は、また待つことになった。
待つことばかり上手くなっている気がする。
いや、上手くはなっていない。
我慢する回数が増えただけだ。
針仕事の家で、おふさはおまきと会った。
ここからは帰蝶の者が見た話と、後でおまきから聞いた話が混ざる。
おふさは、丁寧に挨拶した。
「佐橋の家より参りました」
その一言で、部屋の空気は冷えた。
おまきは針を置き、静かに頭を下げた。
「ご用件は」
「このところ、こちらに那古野のお仕事が増えていると聞きました」
「ありがたいことに」
「それは本当に、仕事なのでしょうか」
おまきは目を細めた。
「どういう意味でございますか」
「困りごとを聞く代わりに、仕事を与える。そう聞くと、弱みを買われているようにも聞こえます」
嫌な切り口だ。
正面から脅さない。
疑いを置く。
おまきは、すぐには答えなかった。
志乃が奥にいた。
子を抱いている。
その顔が固くなった。
おふさは続けた。
「佐橋様は、皆様を案じておいでです。信勝様を思う心まで、那古野の仕事に縛られてはならぬ、と」
そこへ、帰蝶が入った。
偶然ではない。
呼ばれていた。
いや、正確には、帰蝶の者が合図を送り、帰蝶が近くで待っていた。
俺が後で聞いた時、帰蝶は「たまたま近くに」と言ったが、信じていない。
「佐橋様は、よく案じてくださいますね」
帰蝶の声は穏やかだった。
おふさが驚いたように振り向く。
「帰蝶様」
「おふさ殿、と申しましたか」
「はい」
「佐橋様は、こちらの家々の困りごとを案じておられるのですか」
「もちろんでございます」
「では、どの家の何を案じておられますか」
おふさは、一瞬止まった。
帰蝶は続ける。
「米のことですか。役を外された夫のことですか。縁談のことですか。子が肩身の狭い思いをしていることですか。針仕事の値が安すぎることですか。それとも、信勝様の名を隠れた火種にすることですか」
静かに刺した。
おふさは口を閉じた。
針仕事の家の女たちが、息を潜める。
「案じるという言葉は、広すぎます」
帰蝶は言った。
「広すぎる言葉は、人を包むようでいて、時に中身を隠します」
「佐橋様は、そのような」
「では、佐橋様にお伝えください」
帰蝶は一歩も引かない。
「案じてくださるなら、具体をください。どの家の、何が、どう困っているのか。名を伏せても構いません。こちらも名を守ります。けれど、案じるという言葉だけで、女たちの手を止めることはできません」
おふさの顔が、少し硬くなった。
「那古野の仕事が、本当に皆を救うと?」
「救うなどと大きなことは言いません」
帰蝶は即答した。
「仕事は、仕事です。銭は、銭です。困りごとは、困りごとです。それらを混ぜすぎないようにしています」
「混ぜない?」
「はい。施しに見せた仕事は、女を傷つけます。怨みに見せた困りごとは、外の影に食われます。信勝様への思いに見せた火種は、信勝様を孤立させます」
おふさは、何も言わなかった。
帰蝶は、最後に信勝の文を出した。
おまきが預かっていた写しだ。
――私の名を思ってくださるなら、私を隠れた火種にしないでください。
「これは、信勝様ご自身のお言葉です」
帰蝶は言った。
「佐橋様が本当に信勝様を案じるなら、この言葉にも耳を傾けていただきたい」
おふさは文を見つめた。
その表情からは、何を考えているか読みにくかった。
だが、少なくとも揺れていた。
「……承りました」
おふさは頭を下げ、針仕事の家を出た。
尾けた者によれば、おふさは真っすぐ佐橋の屋敷へ戻った。
途中で茶屋へも、空き屋敷へも寄らない。
つまり、報告は佐橋へ直接入る。
「佐橋はどう出る」
俺が聞くと、帰蝶は少し考えた。
「怒るか、笑うか、黙るか」
「全部嫌だな」
「はい」
「お前はどう見る」
「怒るようなら、まだ扱いやすいです。笑うなら、何か別の手を考えています。黙るなら……」
「なら?」
「自分で出てくるかもしれません」
その夜、佐橋の屋敷はさらに静かになった。
出入りが減った。
灯りも少ない。
だが、完全に閉じたわけではない。
夜半、屋敷の裏口から小さな文が出た。
運んだのは、おふさではない。
若い下男だった。
行き先は清洲の奥ではなく、河尻左衛門尉の屋敷だった。
これには、俺も少し驚いた。
「河尻へ?」
長秀が文の動きを報告する。
「はい。佐橋から河尻殿へ、面会の申し入れです」
「自分から?」
「そうです」
帰蝶が静かに言った。
「黙った後、自分で出てくる方を選んだのですね」
「なぜ河尻だ」
信勝が聞いた。
佐久間が答える。
「清洲の内で筋を通すためでしょう。那古野へ直接来れば、佐橋殿は清洲を飛ばしたことになります。清洲の奥へ行けば、奥を利用した形になる。河尻殿なら、清洲の表の筋です」
「つまり、佐橋はまだ筋を捨てていない」
俺が言った。
「あるいは、筋を使って身を守ろうとしている」
長秀が言う。
「どちらもだろうな」
翌朝、河尻から文が来た。
佐橋勘解由が、河尻同席のもとで若君へ申し開きをしたいと望んでいる。
場所は清洲ではなく、那古野でもなく、清洲と那古野の間にある小寺。
かつて道普請の者たちが休んだ場所に近い。
中立のようで、実際には道の上だ。
「道の上で話すか」
俺は文を見て言った。
「よい場所ですね」
信勝が言った。
「なぜ」
「清洲でも那古野でもない。けれど、どちらにもつながる。佐橋殿のような方には、逃げ場にもなり、向き合う場にもなる」
よく見ている。
左内の詮議以降、信勝は人の立つ場所をよく見るようになった。
「行く」
俺は言った。
柴田がすぐ口を開いた。
「護衛は」
「少なく」
「危険です」
「分かっている」
「佐橋が罠を」
「張るかもしれぬ。だから、目は置く。だが兵を見せすぎるな」
恒興、長秀、佐久間。
信勝はどうするか。
俺が考える前に、信勝が言った。
「私も参ります」
「危険だ」
「私の名が使われています。佐橋殿が私の名を本当に案じていたのか、それとも火種として見ていたのか、私も聞くべきです」
俺は弟を見た。
止めたい。
だが、止める理由が弱い。
むしろ、信勝がいなければ、佐橋はまた信勝の名を陰で扱うかもしれない。
「来い」
「はい」
「ただし、前へ出すぎるな」
「分かっています」
帰蝶は留守にする。
針仕事の家と台所の道を守るためだ。
だが、彼女は出立前に俺へ一言だけ言った。
「佐橋殿は、左内殿とは違います」
「分かっている」
「左内殿は隙間に立つ者でした。佐橋殿は、隙間を眺めてきた者です」
「余計に厄介だな」
「はい」
小寺へ向かう道は、よく晴れていた。
冬に向かう前の、少し乾いた風が吹く。
道普請の跡が残っている。
溝は浅いが、水は逃げている。
橋板も直っている。
弥三郎や岩室が働いた道だ。
あの頃は、道を直せば尾張が少し整うと思っていた。
今は、道だけでは足りないと知っている。
それでも、道は必要だ。
人の怨みは道に落ちない。
だが、人が向き合う場所へ行くには道がいる。
小寺に着くと、河尻が先にいた。
そして、その少し奥に、佐橋勘解由が座っていた。
老人だった。
細い。
だが、目は濁っていない。
静かな屋敷にいた男らしく、動きに無駄がない。
立ち上がり、ゆっくり頭を下げた。
「織田三郎様。信勝様」
声は、思ったより澄んでいた。
「佐橋勘解由にございます」
俺は座った。
信勝も隣に座る。
河尻が間に入る形だ。
「左内は捕らえた」
俺は最初に言った。
「承知しております」
「権蔵も熱田で責を置いた」
「そのように」
「作兵衛は三河へ戻った」
佐橋の目が、わずかに動いた。
「そこまでご存じで」
「お前がどこまで知っているかを聞きに来た」
佐橋は、静かに息を吐いた。
「私は、聞いていただけにございます」
「その言葉は聞き飽きた」
「でしょうな」
佐橋はあっさり認めた。
「ですが、まずはそこから申し上げねばなりませぬ。私は、命じてはおりません」
「命じずに動かすことはできる」
「できます」
佐橋は否定しなかった。
河尻の眉が少し動く。
信勝も、静かに佐橋を見ている。
「では、聞こう」
俺は言った。
「お前は、何を聞いていた」
佐橋は、少し目を伏せた。
「稲生の後、家々の怨みを」
「誰の」
「信勝様を慕った者。林美作守様の周りにいた者。清洲の古い名が軽んじられると恐れた者。役を失った者。役を失った者の妻。子の縁談に困った家。那古野の帳面を恐れる者」
「それを今川へ売ったか」
「売ってはおりませぬ」
「作兵衛は?」
「作兵衛は、三河の商い筋です」
「岡崎か」
佐橋は黙った。
「またか」
俺が言うと、佐橋は静かに答えた。
「岡崎という名は、軽々しく扱えませぬ」
「お前もそう言うか」
「はい」
「なぜ」
「松平の名は、今川の内にありながら、今川そのものではないからです」
信勝が息を呑んだ。
左内も似たことを言った。
佐橋も同じことを言う。
つまり、そこには何かがある。
今川の命だけではない。
岡崎の周りで尾張を見ている目がある。
「岡崎は、尾張が割れることを望んでいるのか」
俺が聞くと、佐橋は少し首を傾けた。
「望んでいるというより、見ております」
「見て、どうする」
「割れれば、使う。まとまれば、恐れる。どこの家も同じでしょう」
「お前は、その目へ尾張の火種を見せた」
「見せました」
ようやく、佐橋は認めた。
「なぜ」
「尾張が急に縫い直されていくのが、恐ろしかったからです」
意外な言葉だった。
「恐ろしい?」
「はい」
佐橋は俺を見た。
「若君は、稲生の後に信勝様を殺さなかった。柴田殿も生かした。清洲の名もすぐには折らず、道を直し、火を分け、飯を囲み、女たちの困りごとまで聞き始めた」
「それが恐ろしいか」
「恐ろしいです」
佐橋の声は静かだった。
「斬るだけの主なら、怨む者は怨むだけで済みます。力だけの主なら、隙を見て倒せばよい。けれど、怨みの置き場を奪う主は厄介です」
俺は黙った。
「怨みの置き場を奪う?」
「はい。人は、怨むことで自分を保つことがあります。信長様は悪い、那古野は怖い、清洲は見捨てられた、信勝様こそ本当の望みだ。そう思えば、苦しい家も、面目を失った男も、まだ立っていられる」
佐橋は続けた。
「そこへ、仕事を出される。困りごとを聞かれる。信勝様ご自身が、私を火種にするなと言われる。すると、怨みの形が崩れる」
「崩れた方がよい」
「そう簡単ではありません。崩れた後に残るのは、自分の弱さです」
その言葉は、重かった。
信勝が目を伏せた。
俺も、少し胸が痛んだ。
怨みをほどけば、救われるとは限らない。
怨みが消えた後に、自分の失敗や弱さや情けなさが残ることもある。
それに耐えられない者は、また別の怨みを探す。
「だから、お前は怨みを残そうとしたのか」
「残そうとしたというより、急に奪われることを恐れました」
「そして外の影へ渡した」
「……そこは、私の誤りです」
佐橋は、初めて深く頭を下げた。
「今川を呼び込むつもりはありませんでした」
「だが、作兵衛を使った」
「尾張の外にも目を置きたかった。岡崎の反応を見たかった。今川そのものへ尾張を売るつもりは」
「火をつける者は、火の行き先を選べない」
俺が言うと、佐橋は黙った。
河尻が、そこで初めて口を開いた。
「佐橋殿。清洲の奥の名を使ったのは、明らかな越権でござる」
「承知しております」
「真野主水へ文を渡したのも」
「私です」
「守護家の奥を、火種の隠れ蓑にするおつもりか」
「……そのつもりは、なかった」
「つもりがなくとも、そうなります」
河尻の声は冷たい。
清洲の内の話として、これは許せないのだろう。
よい。
那古野ではなく、清洲が怒るべきところだ。
信勝が静かに言った。
「佐橋殿」
「はい」
「あなたは、私を案じてくださったのですか」
佐橋は、信勝を見た。
その目には、初めて少し人間らしい揺れがあった。
「案じておりました」
「では、なぜ私へ直接言わなかったのです」
「言える立場ではございません」
「だから、私の名を陰で使ったのですか」
「……はい」
信勝は、目を閉じた。
「それは、私を案じたのではありません。私を動かしやすい名として見たのです」
佐橋は何も言わなかった。
「私は、もう陰の名にはなりません」
信勝は言った。
「私を案じてくださるなら、私の前で言ってください。兄上の前でも」
「信勝様」
「それができない言葉は、私のための言葉ではありません」
佐橋は、深く頭を下げた。
「……恐れ入りました」
その言葉に、嘘はなさそうだった。
少なくとも、今この瞬間は。
問題は処分だった。
佐橋を斬るか。
隠居屋敷へ閉じるか。
清洲へ引き渡すか。
那古野で詮議を続けるか。
俺は少し考えた。
そして言った。
「佐橋勘解由」
「はい」
「お前は清洲へ戻る」
皆が少し動いた。
「ただし、河尻の目の下だ。奥への取次からは外れる。真野主水も同じだ」
河尻が頷いた。
「清洲で預かります」
「そして、佐橋」
「はい」
「お前には、怨みを聞いていた家々を、今度は名を出して整理してもらう」
佐橋が顔を上げた。
「私が、でございますか」
「ああ。誰が何を怨んでいたのかではない。どの家が何に困っていたのかをだ」
左内と同じではない。
佐橋には、怨みの形を困りごとへ戻す仕事をさせる。
清洲の内で。
河尻の目の下で。
信勝と俺へ届く道につなぐ。
「これは罰だ」
俺は言った。
「だが、役でもある。逃げれば終わりだ。外の影へまた渡せば、その時は清洲も那古野も庇わぬ」
佐橋は、長く頭を下げた。
「承知しました」
信じきるわけではない。
だが、佐橋を斬れば、佐橋が聞いていた怨みはまた別の影へ流れる。
ならば、佐橋自身にその怨みを困りごとの道へ戻させる。
危うい。
だが、今はこれが最も尾張を縫い直す形に近い。
帰り道、信勝はあまり喋らなかった。
那古野へ近づく頃、ようやく口を開いた。
「兄上」
「何だ」
「怨みをほどくと、自分の弱さが残る。佐橋殿の言葉は、少し分かります」
「ああ」
「私も、兄上を怨んでいた方が楽だった時がありました」
俺は何も言えなかった。
信勝は続けた。
「でも、今はそれだけではありません」
「そうか」
「はい」
「俺も、お前をただ危うい名として見ていた方が楽だったかもしれぬ」
信勝が俺を見た。
「今は?」
「面倒な弟だ」
信勝は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「それは、よい意味ですか」
「半分は」
「もう半分は?」
「本当に面倒だ」
信勝は、少しむくれた顔をした。
その顔が、妙に年相応に見えた。
悪くない。
那古野へ戻ると、帰蝶が待っていた。
「佐橋殿は」
「清洲へ戻す。河尻の目の下で、困りごとを整理させる」
「よいと思います」
「かなりか」
「かなり」
それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
夜、俺は地図の佐橋屋敷に引いた赤い線を消さなかった。
ただ、その横に新しい線を引いた。
清洲、河尻、困りごとの道。
佐橋は、まだ危うい。
だが、完全な敵として斬るには惜しい。
というより、斬って終わるほど単純な火種ではない。
怨みを聞いていた男には、困りごとを聞き直させる。
それが、今日の答えだ。
尾張はまだ一つではない。
縫い目は増える一方だ。
だが、裂けた布の端を少しずつ拾っている。
佐橋勘解由の静かな屋敷から出てきた怨みも、これで少しは道を変えるだろうか。
分からない。
けれど、分からないからこそ見続ける。
道を。
火を。
飯を。
布を。
そして、人を。




