第54話 怨みまで組み直せるか
滝川左内は、縄をかけられても背を丸めなかった。
それが、まず気に入らなかった。
悪人は悪人らしく怯えていればいい。
小者は小者らしく言い訳を並べればいい。
だが、左内は違った。
捕らえられた男の顔ではない。
逃げ損ねた男の顔でもない。
ようやく自分の出番が来た、とでも言いたげな顔をしていた。
それが、ひどく腹立たしい。
左内が那古野へ連れてこられたのは、昼過ぎだった。
夜通し見張られ、朝を待って移された。
途中で騒ぎを起こさせないためだ。
清洲の者が捕らえたのではなく、那古野の者が捕らえた。
だが、その道を清洲の河尻が塞いだ。
この形が大事だった。
那古野が清洲の奥へ踏み込んだのではない。
清洲が自分の奥へ通じる道を守った。
そのうえで、逃げた左内を尾張の道で捕らえた。
面倒な筋だ。
だが、この面倒を怠ると、後で何倍にもなって戻ってくる。
政秀が生きていれば、たぶん鼻を鳴らしただろう。
若、ようやく少しは筋を見られるようになりましたな、と。
うるさい。
死んだ爺にまで小言を言われている気がする。
評定の間には、信勝、長秀、佐久間、柴田、恒興、帰蝶がいた。
河尻からも使者が来ている。
清洲の顔として、左内の言葉を聞く必要があった。
ただし、これは公開の詮議ではない。
今ここで大勢に見せれば、左内は言葉を芝居にする。
それは避けたかった。
左内は、座らせると静かに頭を下げた。
「若君。ご無沙汰にございます」
まるで、旧知の客が挨拶するような声だった。
「久しぶりに会いたいとは思わなかった」
「私も、できれば違う形でお目にかかりとうございました」
「どんな形だ」
「尾張が、もう少し割れた後で」
柴田の眉が動いた。
だが、俺は手で制した。
左内は、こちらを怒らせようとしている。
怒れば、話が荒れる。
荒れれば、左内は逃げ道を得る。
言葉の逃げ道だ。
「お前は文に書いたな」
俺は、左内の文を広げた。
「道を見、火を見、飯を見、布を見、ついに人を見るに至った。ならば問う。信長は、怨みまで組み直せると本気で思うか」
左内は薄く笑った。
「はい」
「答えを聞きたいか」
「ぜひ」
「思っていない」
場が静まった。
信勝がこちらを見る。
左内の笑みも、一瞬止まった。
俺は続けた。
「怨みは、組み直せるものではない。道のように掘り返せぬ。橋のように板を替えられぬ。布のように縫い目を揃えられぬ」
「では、若君は負けを認められるので?」
「違う」
俺は左内を見た。
「組み直せぬから、見ないという話ではない。組み直せぬものだから、どこにあるかを見なければならぬ」
左内の目が、少しだけ細くなった。
「見るだけで、何が変わります」
「火種を外へ渡す者は分かる」
「外へ渡すほどの怨みを、なぜ生んだのです」
左内の声に、初めて熱が混じった。
「稲生で敗れた者は、命を取られなかった。ありがたく思え、とおっしゃるのでしょうな」
「言わぬ」
「けれど、役は外された。面目は失われた。家の女たちは米を薄くし、子は負け犬の家と笑われた。信勝様へ心を寄せた者は、信長様の前で黙らねばならなくなった」
信勝の顔が強張った。
左内は、そこを見た。
見た上で続ける。
「若君は、命を取らねば十分と思われた。だが、命だけ残されて、面目を奪われ、暮らしを削られた者は、何を食って生きるのです」
「それに飯を届けたのが、お前たちか」
「飯が届くなら、人は耳を傾けます」
「誰の飯だ」
左内は黙った。
「作兵衛か。岡崎か。今川か」
「飯に名は書いてございません」
「だからこそ危うい」
俺は言った。
「名のない飯は、後で名を要求する」
左内の眉が、ほんの少し動いた。
当たった。
食い物はただではない。
銭もただではない。
外の影が届ける飯には、必ず後で代価がつく。
それが、文か。
噂か。
内応か。
火か。
まだ分からない。
だが、ただの慈悲ではない。
「滝川左内」
信勝が、静かに口を開いた。
左内の視線が、俺から信勝へ移る。
「あなたは、私の名を使いました」
「信勝様をお慕いする者が多かったのは、事実にございます」
「事実です」
信勝は逃げなかった。
「だからこそ、私の名を使ったのでしょう」
「信勝様のお心を――」
「私の心を知っているふりをしないでください」
柔らかい声だった。
だが、場に刃が通った。
左内が黙る。
信勝は続けた。
「私は、自分を慕った者たちの困りごとを見落としていました。その責はあります。けれど、その困りごとを外の影へ渡すことは、私を立てることではありません」
「外の影、ですか」
「はい」
信勝は左内をまっすぐ見た。
「あなたは、私を孤立させようとしました。兄上から切り離し、私の名を、私自身の手から奪おうとした」
左内の顔から、少しだけ余裕が消えた。
それは、俺の言葉より効いたようだった。
当然かもしれない。
左内が利用した名の本人が、そこにいるのだから。
「信勝様」
左内は、声を少し低くした。
「あなたは、それでよろしいのですか。兄君の横に立つと言いながら、結局は兄君の言葉の内に閉じ込められる。あなた様を慕った者は、それを見て何を思うでしょう」
「私を兄上から切り離して担ぐ者こそ、私を閉じ込めます」
信勝は即座に返した。
「私は、もう誰かの逃げ道になるつもりはありません」
部屋が静かになった。
左内は、初めて信勝から目を逸らした。
俺は内心で少し驚いていた。
信勝は、ここまで言えるようになったのか。
稲生の痛みは消えていない。
だが、その痛みを言葉に変えた。
強い。
そして、少し眩しい。
「左内」
俺は話を戻した。
「佐橋勘解由はどこまで関わっている」
「佐橋様は、怨みを聞いていただけです」
「嘘だな」
「なぜそう思われる」
「聞いているだけの者は、火を熱田へ向けない。布を針仕事の家へ向けない。清洲の奥へ文を差し込まない」
左内は黙った。
「真野主水へ渡した文は何だ」
「清洲の奥へ、那古野の危うさを伝えるものです」
「危うさ?」
「困りごとの名で家々を探り、信勝様の名を封じ、清洲の古い者を帳面に載せていく。そう見える者もおります」
「見えるようにしたのは、お前だ」
「火がなければ、煙は立ちませぬ」
「煙の粉を熱田へ入れようとした男が言うか」
左内の口元が一瞬引きつった。
実円がいれば、もっと静かに刺しただろう。
俺はそこまで器用ではない。
「作兵衛は何者だ」
長秀が問う。
左内は、長秀を見た。
「帳面様にまで名が知られているとは、作兵衛も出世でございますな」
「冗談は要りません」
長秀の声は冷たかった。
「三河側の荷渡し役。岡崎に近い商い筋。あなたは彼と境の蔵で会っています」
「会いました」
「誰の命で」
「商いです」
「また商いですか」
長秀は帳面を閉じた。
その音が、思ったより強く響いた。
「商いという言葉は、何でも隠せる袋ではありません」
左内が少し目を見開いた。
長秀がここまで強く言うのは珍しい。
「布も、火も、飯も、薬草も、塩も、すべて商いと言えば済むと思っておられる。ですが、その商いで誰の名が曇り、誰の家が怯え、誰の火が疑われたか。そこを見ずに商いとは言わせません」
帳面様が怒っている。
静かに。
かなり。
俺は少しだけ嬉しくなった。
いや、今は嬉しがる場面ではない。
「作兵衛は、岡崎の誰につながる」
俺が重ねる。
左内は答えない。
「今川か」
「三河の者は、皆が今川そのものではございません」
「それは分かっている」
「ならば、岡崎の名を軽々しく今川と重ねぬことです」
この言葉は、妙だった。
左内は、今川の影とつながっている。
だが、岡崎の名を今川と同じに扱うことには抵抗がある。
つまり、左内の後ろには今川だけでなく、松平に近い者の意識もあるのか。
いや、左内自身がそれを利用しているだけかもしれない。
まだ分からない。
「お前は、岡崎に何を望む」
俺は聞いた。
左内は、初めて少し笑った。
「若君は、面白い聞き方をなさる」
「答えろ」
「尾張が割れれば、岡崎も動きやすくなります」
「今川ではなく?」
「今川が動けば、岡崎も動かざるを得ませぬ」
「松平の名を使うな」
左内が少し黙った。
「その言葉、信勝様にもおっしゃいましたかな」
「俺の弟の名も、松平の名も、お前が火種にするための薪ではない」
左内の顔が、初めてはっきり変わった。
怒りか。
悔しさか。
それとも、図星を刺された顔か。
「若君は、名を大事にされるようになりましたな」
「最近な」
「昔は、うつけと呼ばれた名を面白がっておられた」
「面白がっていたわけではない」
「では、何を?」
左内は身を乗り出した。
「人の名を壊してきた者が、今さら名を守ると?」
部屋の空気が凍った。
これは、ただの挑発ではない。
俺の古傷を突きに来た。
うつけ。
父の葬儀での振る舞い。
家中の不信。
信勝を担がせる余地を生んだ俺自身の過去。
左内は、それを言っている。
腹の底が熱くなった。
だが、怒鳴らなかった。
ここで怒鳴れば、左内の勝ちだ。
「そうだな」
俺は言った。
左内が少し意外そうな顔をした。
「俺は、名を壊したことがある。自分の名も、父上の名も、家中の信も、粗末に扱ったことがある」
「兄上」
信勝が小さく言った。
俺は構わず続けた。
「だから、今見ている。壊したことがない者より、壊した者の方が、壊れる音を知っていることもある」
左内は黙った。
「俺が完全な主だと言うつもりはない。怨みまで組み直せるとも言わない。だが、俺が壊したものを、外の影に売る者を許すつもりもない」
言いながら、自分で胸が少し重くなった。
これは、左内だけへ向けた言葉ではない。
俺自身へ向けた言葉でもあった。
うつけの名に隠れていた頃の俺。
父上の前で素直になれなかった俺。
信勝の周りが火種になるまで気づかなかった俺。
そこから目を逸らせない。
「左内」
俺は低く言った。
「お前の怨みは何だ」
左内は、初めて答えに詰まった。
「私の?」
「ああ。他人の困りごとを使い、他人の怨みを火種にし、信勝の名を使い、清洲の奥を動かし、岡崎の名まで匂わせた。では、お前自身の怨みは何だ」
「私は、ただ」
「ただの使い走りではない」
左内は唇を結んだ。
「答えろ。お前は何を恨んでいる」
長い沈黙だった。
外で鳥が鳴いた。
誰も口を挟まない。
やがて、左内は小さく笑った。
今までの薄笑いとは違う。
乾いた笑いだった。
「私は、何者にもなれなかったことを恨んでおります」
思わぬ答えだった。
「林美作守様の近くにおりました。けれど、重臣ではない。信勝様の周りにも出入りしました。けれど、直臣ではない。清洲の奥の者とも話しました。けれど、奥の人間ではない。今川の者ともつながりました。けれど、今川の者でもない」
左内の声が、少しずつ低くなる。
「どこにも立てぬ者は、火のそばにいるしかないのです。火が大きくなれば、影にも形ができますから」
俺は黙って聞いた。
左内は、自分の怨みを初めて見せた。
出世できなかった恨み。
どこにも属しきれなかった恨み。
名のそばにいたのに、名を持てなかった恨み。
それが、他人の怨みを集める男を作った。
小さい。
だが、小さいからこそ、どこにでもある。
「だから、尾張を割ろうとしたか」
「尾張が割れれば、隙間に立つ者にも役ができます」
「腐っているな」
「はい」
左内は、あっさり認めた。
「ですが、私一人が腐っているわけではございません。隙間でしか息ができぬ者は、尾張にまだおります」
「そこへ今川の飯が届く」
「届きます」
「作兵衛が運ぶ」
「はい」
「佐橋が聞く」
「聞きます」
「清洲の奥が揺れる」
「揺れます」
「岡崎は」
左内は、ここでまた黙った。
「岡崎は、まだ見ているだけか」
「……見ています」
十分だった。
岡崎は動いていない。
だが、見ている。
今川の影と、松平に近い目。
そのどちらか、あるいは両方が尾張を見ている。
「左内」
俺は言った。
「お前をすぐには斬らぬ」
柴田がわずかに動いた。
だが、黙っている。
「なぜでございますか」
左内が聞いた。
「お前の怨みを聞いたからだ」
「同情を?」
「するか、馬鹿者」
左内が、少しだけ本当に笑った。
「では」
「お前には、自分が集めた怨みを一つずつほどいてもらう」
左内の顔が消えた。
「ほどく?」
「ああ。誰に文を出したか。誰の困りごとを使ったか。誰の名を借りたか。どの道を使ったか。全部出せ」
「それを言えば、私は」
「言わなければ、ただの火付けだ」
俺は続けた。
「言えば、罪が消えるわけではない。だが、責の置き場は変わる」
左内は黙った。
帰蝶が静かに口を開いた。
「左内殿」
「何でしょう、帰蝶様」
「あなたは、隙間に立つ者だとおっしゃいました。なら、その隙間がどこにあるかは、よくご存じでしょう」
「……ええ」
「そこを塞ぐのではなく、光を入れるために使うこともできます」
帰蝶らしい言葉だった。
左内は、少しだけ困った顔をした。
初めて見る顔だ。
「美濃の姫君は、恐ろしいことをおっしゃる」
「褒め言葉として受け取ります」
こんな場でもそれを言うのか。
俺は少し笑いそうになった。
場の重さが、ほんの少しだけ緩んだ。
「左内」
俺は最後に言った。
「怨みまでは組み直せぬ。だが、怨みが外の影へ流れる道は変えられる。お前がその道を作ったなら、お前にほどかせる」
左内は、ゆっくり頭を下げた。
「……承知しました」
それが本心かどうかは分からない。
たぶん、半分は本心で、半分は生き延びるためだろう。
それでいい。
人は最初から全部本心では動かない。
半分でも、使えるものは使う。
詮議が終わった後、信勝が俺の隣へ来た。
「兄上」
「何だ」
「怨みまでは組み直せない。でも、道は変えられる」
「ああ」
「それが、今の答えですか」
「今はな」
信勝は頷いた。
「私も、そう思います」
俺は弟を見た。
「お前の怨みは」
言いかけて、止めた。
だが、信勝は逃げなかった。
「あります」
静かに言った。
「でも、それを兄上から切り離す道には置きません」
「そうか」
「はい」
短い言葉だった。
だが、重かった。
その夜、俺は地図の空き屋敷と境の蔵の間に、左内の名を書いた。
そして、その横に小さく書いた。
怨みは組み直せぬ。
だが、流れる道は変えられる。
これが答えになるかは分からない。
今川の影は消えていない。
岡崎は見ている。
佐橋もまだ残る。
清洲の奥も完全には閉じていない。
だが、左内を捕らえ、怨みの言葉を引き出した。
これは小さくない。
影は、ようやく人の顔を持った。
顔が見えたなら、次はその後ろを見る。
尾張を縫い直す仕事は、まだ終わらない。
むしろ、ここからが本番だ。




