第52話 熱田の火前で
火の前に立たせる。
それは、思ったより重いことだった。
権蔵を熱田へ連れていくと決めた時、俺は最初、ただの詮議の続きだと思っていた。
庄助の古着屋へ連れていく。
祠へ連れていく。
飯尾家へ連れていく。
井戸端へ連れていく。
自分が影として使った道を、明るいところでもう一度歩かせる。
それと同じだ、と。
だが、熱田の火は違った。
そこには祈りがある。
商いがある。
荷を運ぶ者の暮らしがある。
清洲から来た実円のように、火の扱いを見て学ぼうとする者がいる。
そして、こちらがようやく整え始めた「火の名」と「責の置き場」がある。
そこへ権蔵を立たせる。
これは、権蔵を責めるだけでは済まない。
火そのものを、また皆の目の前に置くことになる。
「若様」
長秀が出立前に言った。
「熱田では、言葉を間違えると火が騒ぎになります」
「分かっている」
「火を曇らせようとした者を責めるのは当然です。ですが、権蔵を責める声が大きすぎると、熱田の火が危うかったという印象だけが残ります」
「火は無事だった。そのことを先に置く」
「はい」
信勝が、横で静かに頷いた。
「火が守られたことを、まず言うべきだと思います」
「ああ」
「そのうえで、火を曇らせようとした影を問う」
「お前の文が効いた」
俺が言うと、信勝は少し目を伏せた。
「間に合って、よかったです」
「今日も言葉が要る」
「はい」
信勝は、もう逃げなかった。
怖がってはいる。
けれど、逃げない。
そこが大きい。
「私も、熱田へ?」
「行く」
信勝は少しだけ驚いた顔をした。
「よろしいのですか」
「お前の文で火が守られた。なら、お前も火の前に立て」
「私の名を、火の前へ」
「ああ。影の中ではなくな」
信勝は、しばらく黙った。
やがて、小さく頷いた。
「分かりました」
柴田は置いた。
兵を強く見せたくない。
犬千代も置いた。
本人はまた不満そうだったが、今回はさすがに納得させた。
「熱田の火前で槍を振るう場面はない」
「振りません」
「振りそうに見える」
「……顔ですか」
「顔だ」
犬千代は肩を落とした。
「では、鍬なら」
「鍬もいらぬ」
「私の役が」
「ある。那古野で兵を見ろ。外の影が濃くなっている。火前へ行く者がいるなら、留守を守る者もいる」
犬千代は、それでようやく背筋を伸ばした。
「承知しました」
若い者には、留守番ではなく守る役だと言わねばならない時がある。
それも、最近覚えたことだ。
熱田へは、俺、信勝、長秀、恒興、仁助、そして権蔵。
権蔵は縛られているが、縄は目立たせない。
見せしめの行列にはしない。
ただし、逃げられないようにする。
権蔵は道中、あまり喋らなかった。
昨日、庄助や八重や井戸端の女たちの前に立たされたことが効いているのだろう。
いつもの薄笑いが減っていた。
改心したとは思わない。
ただ、自分が歩いた道の先に人の顔があったことを、少し見た。
それだけで十分ではない。
だが、ゼロではない。
「権蔵」
道中、俺は馬上から声をかけた。
「はい」
「熱田では、何を見ると思う」
「火でございましょう」
「違う」
権蔵がこちらを見る。
「火を守った者を見る」
権蔵は黙った。
「お前は火を曇らせようとした。だが、火は守られた。誰が守ったのか、それを見ろ」
「私を責めるためではなく?」
「それもある」
「半分は?」
権蔵が、こちらの言い回しを真似た。
腹が立つ。
だが、俺は怒らなかった。
「もう半分は、守る者を知るためだ」
権蔵は、それ以上何も言わなかった。
熱田へ着いたのは昼前だった。
無理のない行程だ。
馬を急がせすぎない。
こちらが慌てているように見せてはいけない。
熱田の町は、いつも通りに見えた。
荷が動く。
商人が声をかける。
社へ向かう者がいる。
馬借が文句を言う。
子供が走る。
火の騒ぎがあった翌日にしては、落ち着いている。
それだけで、千秋右近と宗次と実円がうまく抑えたのだと分かった。
社前で、千秋右近が迎えた。
油屋宗次もいる。
実円は少し後ろに控えていた。
「若君、信勝様」
千秋右近は深く頭を下げた。
「此度は、お騒がせいたしました」
「騒いだのは影だ。熱田ではない」
俺が言うと、右近の顔が少し緩んだ。
「ありがたきお言葉」
信勝が一歩前へ出た。
「火を守っていただき、ありがとうございました」
右近は、信勝へも頭を下げた。
「信勝様のお文が、火番たちの迷いを少なくしました」
「私の言葉だけではありません」
信勝は静かに言った。
「火番、宗次殿、実円殿、千秋殿。皆が火を疑わず、火の周りを見たから守られたのです」
よい。
最初からよい。
信勝は、場の火を落ち着かせる言葉を持っている。
俺にはできない柔らかさだ。
そして、柔らかいだけではない。
責の向きも間違えない。
宗次が権蔵を見た。
「この男が、権蔵ですか」
「ああ」
俺は言った。
「火へ直接粉を入れたわけではない。だが、その道を作った男だ」
権蔵は下を向いている。
宗次は近づき、権蔵をじっと見た。
「お前さんのせいで、うちの手代が荷縄を投げる羽目になった」
最初にそれか。
少し笑いそうになったが、宗次の目は笑っていなかった。
「熱田の火が曇れば、油屋の名も曇る。社の名も曇る。馬借も商人も、互いを疑う。お前さんは、それを分かっていたのか」
権蔵は答えない。
宗次は続けた。
「いや、分かっていたのだろうな。分かっていなければ、そんなところへ粉を置かせぬ」
権蔵の肩が少し動いた。
宗次は、そこで引いた。
責めすぎない。
商人らしい引き際だ。
次に、実円が前へ出た。
若い僧は、権蔵を責めるより先に、火の方を見た。
社の灯明は静かに燃えている。
「権蔵殿」
実円は、あえて殿をつけた。
権蔵が少し戸惑った顔をした。
「火は、そこにあります」
「……はい」
「あなたが曇らせようとした火です」
実円の声は静かだった。
「けれど、火そのものは怒っておりません。怒っているのは、火を守る者たちです」
妙な言い方だった。
だが、耳に残る。
「火を守る者たちに謝りなさい。火にではなく」
権蔵は、初めて顔を上げた。
「火にではなく?」
「火を神仏の名で扱う時、人は時々、火そのものへすべてを押しつけます。けれど、火を守っているのは人です。油を出す者、札を確かめる者、火番をする者、消えぬように見ている者。あなたが踏んだのは、その人たちの役目です」
実円。
こいつ、若いのに本当によく見る。
信勝が少しだけ感心した顔をしている。
俺も同じだ。
権蔵は言葉を失っていた。
熱田の火前に、関係者が集まった。
大げさな場にはしない。
だが、火番、油屋の手代、馬借、実円、千秋右近、宗次。
それぞれがいる。
そこへ権蔵を立たせた。
俺は、まず言った。
「火は守られた」
皆がこちらを見る。
「この場で最初に言うべきは、それだ。熱田の火は消えていない。曇ってもいない。守った者たちがいたからだ」
火番たちの顔が少し変わった。
責められるために集められたのではない。
守ったことを認められた。
その空気が生まれる。
「権蔵」
俺は男を見た。
「お前は、その火の周りへ影を入れた。粉を置く者を使い、外で騒ぐ者を使い、熱田の火を疑わせようとした」
権蔵は黙っている。
「だが、お前が見ろと言われたのは、火そのものではない。守った者だ」
俺は火番を見た。
「火番の名は」
一人が背筋を伸ばした。
「源太にございます」
「源太。何をした」
「信勝様のお文に従い、壺の札と口紐を確かめ、炭小屋の者を見ました」
「それで包みを見つけた」
「はい」
「宗次の手代」
若い手代が一歩出た。
「名は」
「弥吉にございます」
「何をした」
「逃げ道へ回り、荷縄を投げました」
「馬借」
仁助が、熱田の馬借に目を向けた。
大柄な男が頭をかいた。
「三郎太です。足を引っかけました」
「よし」
俺は頷いた。
「実円」
「はい」
「お前は何をした」
「火を疑わず、火を曇らせようとした者を問えと言いました」
「ああ」
俺は権蔵へ向き直った。
「聞いたか。火を守った者には名がある。役がある。責がある。お前は、それを曇らせようとした」
権蔵の口元が震えた。
「私は……頼まれただけで」
「誰に」
「……左内様に」
場が静まった。
左内の名が、初めてこの場で出た。
長秀の筆が動く。
「左内が命じたか」
「粉を運ぶ道を作れ、と。熱田の火に不安が出れば、清洲も那古野もまた疑い合う、と」
「誰の考えだ」
「それは」
「佐橋か」
権蔵は目を伏せた。
沈黙。
それが答えだった。
「作兵衛は」
「三河から、荷と人をつないだだけです」
「岡崎か」
権蔵は、今度は答えなかった。
だが、肩が動いた。
岡崎。
また点が濃くなる。
信勝が静かに言った。
「権蔵」
権蔵は顔を上げた。
信勝を見る目には、少し怯えがあった。
自分が名を利用した相手が、目の前にいる。
「私の名も使いましたね」
「……私は、文を書いたわけでは」
「運ぶ道を作った」
信勝の声は柔らかい。
だが、逃げ場はない。
「私の名を覚えてくださる家々へ、火は消えていない、飯は届く、と伝えた。そうでしょう」
権蔵は黙る。
「私の名は、女や子を脅すためのものではありません。熱田の火を曇らせるためのものでもありません。もし、私の名を使った者がいるなら、その者は私を立てたのではない。私の名を傷つけたのです」
熱田の火前に、その言葉が落ちた。
信勝の名は、影の中ではなく火の前に置かれた。
見える場所に。
聞こえる場所に。
これが必要だった。
権蔵は、初めて膝をついた。
完全に折れたわけではない。
だが、立っていられなくなった。
「申し訳……ございませぬ」
誰へ謝ったのか。
俺へか。
信勝へか。
火番へか。
熱田へか。
あるいは、自分が使った道の人々へか。
まだ分からない。
だが、謝罪の形は出た。
実円が静かに言った。
「謝罪は、言葉だけでは足りません」
「ああ」
俺は頷いた。
「権蔵。お前は、しばらく熱田で火番の下働きをしろ」
場がざわついた。
権蔵も顔を上げた。
「火番、でございますか」
「火に触れろとは言わぬ。水を運び、灰を片づけ、札を運び、火番がどれだけ手間をかけて火を守るか見ろ」
千秋右近が俺を見る。
「若君、それは」
「熱田が嫌なら別の処分にする」
右近は少し考えた。
宗次も黙っている。
実円が先に言った。
「よいと思います。火を曇らせようとした者が、火を守る手間を見る。これは、責の置き場になります」
右近は頷いた。
「では、熱田で預かります。ただし、逃げれば那古野へ引き渡します」
「それでいい」
権蔵は、力なく頭を下げた。
この処分を甘いと言う者もいるだろう。
だが、斬るにはまだ早い。
権蔵は左内と佐橋へつながる道だ。
熱田に置くことで、逃げるか、誰かが取り戻しに来るか、口がさらに開くかを見る。
そして何より、火を守る手間を見せる。
責を置く。
それが今の俺のやり方だ。
熱田の火前での場が終わった後、宗次が俺へ近づいた。
「若君、権蔵を預けるのは危ういですよ」
「分かっている」
「逃げるかもしれません」
「見張れ」
「人手が要ります」
「出す」
「火番たちに反発も出ます」
「出るだろうな」
「面倒ですね」
「面倒だ」
宗次は少し笑った。
「でも、斬るより後に残るかもしれません」
「そう思ったからやる」
「なら、油屋としても協力します」
「頼む」
その後、実円とも話した。
「若君」
「何だ」
「火は守られました。ですが、火を守った者たちが疲れれば、次はそこを突かれます」
「火番の困りごとか」
「はい。火番も人です。寝不足にもなります。手当も必要です。名だけで働かせれば、いずれ不満が溜まります」
まったく。
困りごとはどこにでもある。
しかし、実円の指摘は正しい。
火番は責を負う。
なら、手当も要る。
責だけ押しつければ、そこがまた影の入口になる。
「長秀」
「はい」
「火番の手当も見る」
「また帳面が」
「増える」
「承知しました」
長秀は諦めたように書いていた。
帰り道、信勝は少し黙っていた。
熱田を出て、道が落ち着いたところで、俺は聞いた。
「どうした」
「自分の名を火の前に置くのは、思ったより怖いですね」
「ああ」
「でも、影の中で使われるより、ずっとよい」
「そうだ」
「兄上」
「何だ」
「私は、今日、少しだけ自分の名を取り戻せた気がします」
俺は弟を見た。
信勝の顔は疲れていた。
だが、まっすぐだった。
「そうか」
「はい」
「なら、忘れるな。名は一度取り戻して終わりではない」
「何度も、ですね」
「何度もだ」
信勝は頷いた。
「分かっています」
那古野へ戻ったのは夕暮れ前だった。
帰蝶が待っていた。
「火は」
「守られていた」
「権蔵は」
「熱田で火番の下働きだ」
帰蝶は少しだけ目を細めた。
「よい処分ですね」
「かなりか」
「かなり」
「逃げるかもしれん」
「逃げたら、逃げた先が見えます」
「お前も嫌な言い方をするようになったな」
「信長様の妻ですので」
言い返せなかった。
その夜、俺は地図に熱田の火前を示す印をつけた。
権蔵は、ひとまず熱田に置いた。
左内と佐橋はまだ残る。
作兵衛は三河へ戻った。
岡崎の点は、濃いままだ。
だが、今日一つ、火の道には明かりを増やした。
火番の名。
油屋の責。
実円の言葉。
信勝の名。
権蔵の置き場。
影が火へ逃げたなら、火の前で影に形を与える。
それができた。
小さな勝ちだ。
大きな戦の前の、小さな勝ち。
けれど、こういう小さな勝ちを積まなければ、尾張は大きな戦に耐えられない。
俺は灯火を見た。
火は静かに燃えている。
その向こうの影は、まだ濃い。
だが、今日は少しだけ、影より火の方が強く見えた。




