第51話 影自身に道を歩かせる
権蔵を殺すのは簡単だった。
縛って、詮議して、吐かせて、首を落とす。
それで熱田の火を曇らせようとした一人は消える。
布の道を使い、針仕事の家へ脅し文を運ばせ、古着商や女中や子供の道まで利用した小者が一人消える。
たぶん、皆が少し安心する。
柴田あたりは、分かりやすい処分だと言うだろう。
長秀は、処分としては整っていると帳面に書くかもしれない。
佐久間は、文にするなら筋は通ると言うだろう。
だが、それでは足りない。
権蔵は影そのものではない。
影の中を歩いていた足だ。
足を斬れば、その足跡は止まる。
だが、足跡がどこから来て、どこへ向かい、誰の畳を汚したのかは見えないままになる。
だから、俺は権蔵を歩かせることにした。
影自身に、使った道を明るいところで歩かせる。
それが今回の処分であり、詮議であり、攻めだった。
「若君様」
権蔵は縛られたまま、薄く笑った。
「私を町中へ連れ回すので?」
「連れ回すのではない。歩かせる」
「同じことでございましょう」
「違う」
俺は権蔵を見た。
「晒すためだけなら、縄をつけて市を歩かせればいい。だが、お前には自分が使った場所を一つずつ見てもらう」
「見て、何になるので?」
「お前が何を踏んだか分かる」
権蔵は口元だけで笑った。
「私は、ただ頼まれた荷を運んだだけでございます」
「なら、その荷が誰の家に何を残したか見ればいい」
笑みが少し薄くなった。
こいつは、分かっている。
自分が使った道を、ただの道だと思っていない。
だから嫌がる。
庄助の古着屋。
祠。
飯尾家。
井戸端。
針仕事の家。
熱田の荷場。
境の蔵。
そして、空き屋敷。
全部を歩かせるわけではない。
全部を一度に歩けば、相手も逃げる。
今日はまず、清洲の布の道だ。
権蔵を歩かせる役は、長秀、恒興、仁助、久右衛門の手代。
武士だけでは重すぎる。
商人だけでは軽すぎる。
馬借だけでは荒すぎる。
混ぜる。
犬千代は置いた。
本人は当然のように抗議した。
「若様、なぜでございますか!」
「お前が行くと、晒し刑に見える」
「私は何もしません」
「顔がする」
「また顔ですか!」
犬千代は本気で悲しそうだった。
少し申し訳ない。
だが、今回は本当に違う。
権蔵を脅すことが目的ではない。
権蔵に、誰の暮らしを道具にしたか見せることが目的だ。
犬千代の存在は強すぎる。
「お前は柴田のところで兵を見る」
「また留守番でございますか」
「外の敵に備える役だ」
「……それなら」
少し納得した。
単純で助かる。
いや、単純ではない。
犬千代は犬千代なりに、役を欲している。
そこを間違えると、若い武者は腐る。
これも困りごとの一つだ。
まったく、どこを見ても困りごとだらけである。
清洲へは、俺自身は行かなかった。
行けば重すぎる。
信勝も行かせない。
権蔵が「信勝様の名」を使っていた以上、信勝本人が出れば話が大きくなりすぎる。
帰蝶も、今日は表へ出ない。
針仕事の家の戸を守るためだ。
代わりに、帰蝶の女中が一人、少し離れて見る。
女の道は、女の目で見る。
このやり方にも、だいぶ慣れてきた。
慣れるほど、以前の自分がどれだけ見ていなかったか思い知らされる。
昼前、権蔵は清洲の古着商、庄助の店へ連れて行かれた。
手は縛られているが、縄は目立たないように袖の中を通した。
晒しではない。
だが、逃がしもしない。
庄助は、権蔵の顔を見るなり青くなったという。
「お、権蔵さん……」
「庄助」
長秀が静かに言った。
「今日は責めに来たのではありません。あなたの店を通った布の道を確かめに来ました」
「私は、ただ布を売っただけで」
「分かっています」
長秀は帳面を開いた。
「だから、ただ布を売っただけだと分かるようにします」
庄助は目を上げた。
これは大事だった。
責めるためではない。
潔白なら潔白と残すために聞く。
そう言わなければ、小商いの者はすぐ口を閉ざす。
長秀も、ずいぶん言葉を選ぶようになった。
権蔵は横で黙っている。
庄助は震える手で、古布の束がどこから来たかを話した。
境に近い村の女たちが持ち込んだ布。
権蔵が仲立ちした布。
那古野から買い戻しの話が来た布。
そして、権蔵が多めの銭で買っていった布。
「多めの銭を出された時、怪しいとは思わなかったか」
長秀が問うと、庄助は目を伏せた。
「思いました」
「なぜ売った」
「店の米が、少なくて」
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
庄助には、困りごとがあった。
米が少ない。
商いが細い。
多めの銭を断れない。
そこへ権蔵が入った。
影は、困っている者の隙間から入る。
権蔵は横を向いた。
逃げるような顔だった。
「権蔵」
長秀が呼ぶ。
「あなたは、庄助が断りにくいと知っていましたか」
「商いとは、そういうもので」
「知っていたのですね」
権蔵は黙った。
庄助は何か言いたげだったが、久右衛門の手代がそっと首を横に振った。
今は言わせすぎない。
庄助を怒らせれば、話は責め合いになる。
ここでは、穴を見る。
庄助の店を出る時、長秀は言った。
「庄助。今後、小包や古布を他家へ渡す時は札を使う。久右衛門殿から話がある」
「札ですか」
「誰から誰へ、何のために。それだけでよい」
「面倒では」
「面倒です。ですが、その札があれば、あなたは怪しい頼まれ物を断れる」
庄助は、しばらく考えてから頭を下げた。
「……それなら、ありがたいです」
よし。
小包札は効く。
帳面では重すぎる場所に、札を置く。
これも道の目だ。
次に向かったのは、小さな祠だった。
権蔵が布を置き、村の娘が拾った場所だ。
昼の光の中で見ると、本当に何でもない祠だったという。
古い石。
草。
小さな供物の皿。
村人が通りがかりに手を合わせる程度の場所。
こういう場所は、誰も長く見ない。
だから、荷を置ける。
仁助が地面を見た。
「ここ、足跡が多いですね」
「祠だから当然では?」
長秀が言う。
「祠にしては、男の足が多い。しかも、立ち止まった跡が妙に同じ場所にあります」
仁助は草の倒れ方を指した。
「ここへ荷を置く。拾う者は反対側から来る。そういう使い方を何度かしてます」
権蔵の口元がわずかに動いた。
当たりだ。
「権蔵」
恒興が言った。
「ここへ何度置いた」
「覚えておりませぬ」
「なら、思い出すまで立っていろ」
権蔵は黙った。
しばらくして、低く言った。
「三度」
「誰が拾った」
「その時々で違います」
「名は」
「知らされませぬ」
「知ろうとしなかった?」
「知れば、面倒になる」
仁助が鼻で笑った。
「面倒になるから知らない。知らないから何でも運べる。便利な目ですね」
権蔵は仁助を睨んだ。
だが、言い返せなかった。
祠には、札を置けない。
置けば、祠が怪しい場所になる。
信仰の場を詮議場にするのはまずい。
そこで長秀は、村の者へはこう伝えることにした。
祠へ荷を置くことを禁じるのではない。
ただし、祠は祈る場所であり、荷を隠す場所ではない。
落とし物や預かり物があれば、村の年寄りへ届ける。
文にすれば硬い。
だが、村人の口なら届く。
そこは仁助に任せる。
「俺、最近何でも任されてません?」
「道の者だからな」
「便利な言葉ですね」
「そうだ」
昼過ぎ、飯尾家へ向かった。
ここが一番難しかった。
飯尾又十郎は、目立つ男ではない。
妻の針仕事で家計を補っている、小さな武家。
権蔵がここを使ったのは、怨みではなく困窮を見たからだ。
それが分かっているから、踏み込みすぎると家を壊す。
飯尾の妻は、顔色を悪くして出てきた。
名を八重と言った。
権蔵を見ると、怯えと怒りが同時に浮かんだ。
「この方が、何か」
八重は声を震わせた。
長秀は頭を下げた。
「飯尾殿の家を責めに来たのではありません」
「では、なぜ」
「あなたの家が、影に道として使われました。そのことを明らかにし、今後使われぬようにするためです」
八重は唇を噛んだ。
「私が悪いのでしょうか」
「悪いかどうかを、今決めに来たのではありません」
長秀は慎重に言った。
「なぜ、この家が使われたのかを聞きたいのです」
八重はしばらく黙った。
やがて、小さな声で言った。
「銭です」
単純だった。
そして重い。
「夫の役は軽く、家は苦しい。針仕事だけでは足りません。権蔵殿は、布をほどいて包みを作るだけで銭をくれました。中身は薬だと」
「中を見ましたか」
「見ていません」
「なぜ」
「見れば、もっと怖くなると思いました」
見ないようにする。
甚六と同じだ。
怖いから見ない。
だが、見なかった場所へ影が入る。
権蔵は視線を落としている。
八重は、そこで権蔵を見た。
「あなたは、知っていたのですね」
権蔵は答えない。
「うちが困っていることを、知っていたのですね」
「……商いですから」
「商い?」
八重の声が少し震えた。
「うちの女中に、何も知らないまま井戸端へ包みを持たせたのも、商いですか」
権蔵は黙った。
「もしあの子が捕まっていたら? もしうちの名が出ていたら? 商いですか」
権蔵の顔から、いつもの薄笑いが消えた。
これは効いている。
怒鳴られるより効く。
利用した相手に、静かに問われること。
権蔵は、それを避けて生きてきたのだろう。
だから歩かせた。
これを見るために。
長秀は、その場で八重に小包札の話をした。
今後、布や薬の包みを預かる時は、送り主と受け手を書く。
書けないものは預からなくてよい。
断る理由にできる。
八重は、深く頭を下げた。
「それなら……断れます」
「仕事も、別に回します」
長秀が言うと、八重は驚いた。
「仕事を?」
「布をほどく仕事ではなく、那古野へ納める補修仕事です。値は正しく払います」
八重は、今度こそ少し目を潤ませた。
ここで泣かせすぎてはいけない。
長秀はすぐ話を切り、家を出た。
夕方近く、井戸端へ向かった。
井戸端は、女たちの場だ。
ここに長秀たちが長くいるのはよくない。
だから、帰蝶の女中と千代が前へ出た。
長秀や恒興は少し離れて見る。
権蔵だけは、井戸のそばへ立たせた。
女たちの視線が集まる。
権蔵は居心地悪そうにした。
千代が言った。
「この人から包みを受け取った人、いますね」
誰もすぐには答えない。
井戸の水が汲まれる音だけがする。
やがて、一人の女中が小さく頷いた。
飯尾家の女中ではない。
別の家の者だった。
「私は、中を知りませんでした」
「分かっています」
千代は柔らかく言った。
「今日は責めに来たのではありません。これからは、札のない包みは預からなくてよい、と伝えに来ました」
「断ったら、怒られます」
女中が言った。
「誰に」
「頼んだ人に」
「なら、こう言ってください。『札がない包みを預かると、私だけでなく、頼んだ方の名も疑われます』と」
女中は目を見開いた。
断る言葉を与える。
これは大事だ。
人は、断り方が分からないから受けてしまうことがある。
札は、断るための盾にもなる。
権蔵は、その場で何も言わなかった。
だが、女たちの目に晒されることで、いつもの逃げ場を失っていた。
晒し刑ではない。
だが、見られる責だ。
夜、長秀たちが戻った。
俺は報告を聞いた。
庄助。
祠。
飯尾家。
井戸端。
それぞれで、影がどこを踏んだか少し見えた。
そして、それぞれで小さな対策が生まれた。
小包札。
祠への預かり物の扱い。
針仕事の正当な仕事。
女中たちの断り文句。
どれも地味だ。
しかし、影が使った道に、一つずつ灯りを置いた。
「権蔵は」
俺が聞くと、長秀は少し考えた。
「変わったとは言えません」
「だろうな」
「ですが、笑いが減りました」
「なら、一歩だ」
「明日は熱田へ?」
「ああ」
権蔵が使った火の道も歩かせる。
熱田の荷場。
煙の粉。
火番。
宗次。
実円。
そこまで見せる。
権蔵が本当に折れるかは分からない。
だが、折れなくてもいい。
歩かせることで、周囲が見る。
影が使った道を、道自身が知る。
それが大事だ。
信勝は報告を聞き、静かに言った。
「兄上」
「何だ」
「権蔵は、影として歩いていた時は誰にも見られていなかった。けれど、今は皆に見られている」
「ああ」
「見られることは、責なのですね」
「そうだな」
「私の名も、見られるところへ置かなければならない」
また、信勝は自分の話へつなげた。
よい。
痛みを他人事にしない。
「お前の名は、影の中へ置くな」
「はい」
「火の前へ置け」
「火の前?」
「皆が見えるところだ」
信勝は少し考え、頷いた。
「分かりました」
その夜、帰蝶が布を持ってきた。
飯尾家の八重が直した布だという。
継ぎ目は丁寧だった。
だが、針目の一部が少し乱れている。
「泣きながら縫ったのか」
「泣いたかどうかは分かりません」
帰蝶は言った。
「ですが、手は震えたのでしょう」
「仕事として払う」
「はい」
「そして、次も出す」
「それがよいと思います」
俺は布を見た。
影が布の道を使った。
だが、布の道は影だけのものではない。
仕事の道にもなる。
困りごとを拾う道にもなる。
断る理由を渡す道にもなる。
影が通った道を、こちらの道へ戻す。
それが、今日の意味だった。
翌朝、権蔵は熱田へ向かうことになった。
その前に、俺は一度だけ権蔵を呼んだ。
「昨日、何を見た」
権蔵は、少しやつれた顔で答えた。
「小商いと、女たちでございます」
「それだけか」
「……困っている者は、断れませぬ」
「お前はそこへ入った」
「はい」
初めて、はっきり認めた。
「今日、熱田へ行く」
「火のところへ」
「ああ」
権蔵は、ほんの少し顔をこわばらせた。
火は、布より人の目が多い。
熱田での責は、さらに重い。
「若君様」
「何だ」
「私は、殺されるので?」
「まだだ」
「まだ」
「お前が全部歩き終えた後で決める」
権蔵は苦く笑った。
「長い道でございますな」
「お前が長くした」
権蔵は、何も言い返さなかった。
影自身に道を歩かせる。
それは、罰であり、詮議であり、修繕だった。
影が通った道を、ただ塞ぐのではない。
道にいる者たちへ、影がどう入ったか見せる。
そして、断る言葉と札と仕事と責を置く。
まだ、全部ではない。
左内も佐橋も作兵衛も残っている。
岡崎の点も、今川の影も濃いままだ。
だが、少なくとも一つ、こちらは影の足を明るみに出した。
次は、火の前だ。




