第50話 火の道へ逃げる影
布の道をたどると、影は火の方へ逃げた。
それは、偶然ではない。
布は静かだ。
針仕事の家に入り、女たちの手を通り、井戸端の噂に紛れる。
だが、火は違う。
火は目立つ。
火が揺れれば人は見る。
火が消えれば不安になる。
火が燃え移れば、人は理屈より先に走る。
だから影は、布の細い道を見られたあと、火の広い道へ逃げようとしたのだろう。
熱田へ走らせた使いが戻る前から、俺は嫌な予感を覚えていた。
熱田の火は、ただの灯りではない。
社の灯明。
荷場の火。
祭礼の火。
それぞれの名目を分けたことで、ようやく商人も社家も馬借も少しずつ納得し始めた。
そこを乱されれば、すべてが戻る。
祈りを値切った。
商いが社を汚した。
那古野の帳面が熱田の火を曇らせた。
そんな噂が立てば、清洲も熱田もまた閉じる。
火は、人を集める。
だからこそ、影も近づく。
信勝の文は、熱田へ先に届いた。
――火を疑うのではなく、火の周りに立つ者の名と責を明らかにしてください。
この一文が、後で効くことになる。
熱田では、千秋右近がその文を読み、しばらく黙っていたという。
油屋宗次も同じ場にいた。
実円もいた。
清洲から熱田へ火の扱いを見に来ていた若い僧だ。
三人は、熱田の社前に近い小部屋で向き合った。
ここからは、宗次から聞いた話だ。
ただ、宗次は商人らしく、要点の間に余計な値踏みを挟むので、長秀が途中で何度か顔をしかめていた。
「信勝様は、よく火の怖さをご存じだ」
千秋右近が言った。
実円は文をもう一度見て、静かに頷いた。
「火を疑うな、火の周りの名と責を明らかにせよ……これは、社にも通ります」
「通るか」
宗次が聞く。
「はい。火そのものを疑えば、祈りが曇ります。ですが、火番が誰か、油を誰が出したか、どの壺から移したかを明らかにするなら、祈りを守る話になります」
若い僧にしては、よく見えている。
信勝の言葉も効いているが、実円自身も熱田で目を開き始めていたのだろう。
千秋右近は、すぐに火番を集めた。
社の灯明を扱う者。
荷場の火を見回る者。
油を移す者。
それぞれに、今日から壺の口紐と札を確認するよう命じた。
大げさにはしない。
火が危ないと触れて回れば、それだけで町がざわつく。
ただ、いつもより丁寧に見る。
それが肝だった。
夕暮れ前、熱田へ入った若い男がいた。
下男姿。
腰帯に小さな包み。
恒興が追っていた男だ。
熱田へ入る前に一度姿を見失いかけたが、宗次の店の手代が見つけた。
手代は油を運ぶふりをして、男の後ろを離れてつけた。
男は、社前ではなく、荷場へ向かった。
荷場。
そこがまた嫌だった。
社の灯明へ直接手を出せば、社家の目がある。
だが、荷場の火なら商人、馬借、火番、油屋、織田方の者が入り混じる。
責の置き場が曖昧になりやすい。
影は、そういう場所を好む。
男は荷場の隅で、炭を扱う小屋へ入った。
そこで腰帯の包みを取り出した。
包みの中にあったのは、文ではなかった。
乾いた粉。
宗次の手代は、後でそれを「松脂と薬草を混ぜたような匂い」と言った。
おたえも似たことを言った。
火へ投げ込めば、よく煙が出るものだったらしい。
燃え上がるというより、強い匂いと煙を出す。
火事に見せるには足りない。
だが、「火が穢れた」「変な匂いがした」「荷場の火に何か混じった」と騒ぐには十分だ。
男は粉を炭のそばへ隠そうとした。
その時、火番が声をかけた。
「何をしている」
男は驚いた。
逃げようとした。
だが、荷場で働く者は逃げ道をよく知っている。
宗次の手代が先に回り、馬借が荷縄を足元へ投げた。
男は転んだ。
怪我は軽い。
だが、包みは落ちた。
中の粉が少しこぼれた。
近くの火へは届かなかった。
そこまでは、うまくいった。
問題は、そのあとだった。
男が捕まるや否や、荷場の外で声が上がった。
「熱田の火に変なものが混じったぞ!」
早い。
早すぎる。
つまり、騒ぐ者が用意されていた。
火へ粉を入れる役と、外で騒ぐ役。
分かれている。
影は、一人ではない。
宗次はすぐ動いた。
「火を止めるな!」
大声で言った。
「火はそのまま。壺を見ろ。札を見ろ。火番を呼べ!」
火を消せ、と言わなかったのがよかった。
火を消せば、噂は「熱田の火が消された」になる。
火を疑うのではなく、火の周りの名と責を明らかにする。
信勝の文が、ここで生きた。
千秋右近もすぐ来た。
実円も来た。
社の灯明は変わらず燃えている。
荷場の火も、粉は入っていない。
炭小屋で包みが見つかった。
火番が誰か。
油壺の札はどれか。
炭を運んだ者は誰か。
全部その場で確認した。
火は燃えている。
穢れていない。
混じったのは火ではなく、火の周りへ入ろうとした影だ。
その言い方をしたのは実円だったという。
若い僧、なかなか言う。
騒ぎはすぐには収まらなかった。
だが、大きくはならなかった。
火が消えていないからだ。
社家が慌てていないからだ。
油屋が壺を示したからだ。
火番が名を出したからだ。
そして、実円が祈りの側から言った。
「火は曇っておりません。曇らせようとした者を問います」
この一言で、荷場の空気が変わった。
火を疑う者から、捕まった男を見る者へ。
責の向きが変わった。
俺がその報せを聞いたのは、夜に入ってからだった。
使いは馬を急がせて戻ってきた。
俺は小評定の間にいた。
信勝、長秀、佐久間、柴田、帰蝶、おたえ、恒興も集まっていた。
熱田からの報告を聞き終えた時、俺はまず息を吐いた。
怒りではなく、安堵だった。
それが少し悔しい。
「火は消えなかったか」
「はい」
使いが答える。
「社の灯明も、荷場の火も無事です」
「捕まえた男は」
「名を弥助と。熱田の者ではありません。清洲の外れから来たと申しておりますが、定かではありません」
「清洲の外れが多すぎるな」
俺は低く言った。
長秀が筆を走らせている。
「包みの粉は」
「宗次殿が封じ、千秋右近殿が預かっています。おたえ殿に見せるように、と」
おたえが少し眉を上げた。
「また匂いですか」
「頼む」
「はい」
信勝は、文を握っていた。
自分の言葉が熱田で効いたことへの安堵と、また火を曇らせようとされた怒りが混ざった顔だった。
「兄上」
「何だ」
「火を疑うな、と書いてよかったです」
「ああ」
「もし、火そのものが疑われていたら」
「熱田は荒れた」
「はい」
信勝は静かに目を伏せた。
「言葉は、間に合うこともあるのですね」
「間に合ったな」
「でも、また盗まれるかもしれません」
「盗まれても、また言う」
信勝は頷いた。
もう、その答えを知っている顔だった。
「柴田」
「はっ」
「熱田へ兵は出さない」
柴田は一瞬だけ目を動かした。
だが、今回はすぐ頷いた。
「火事ではなく、詮議でございますな」
「そうだ。兵を出せば、熱田の火が大事になったように見える」
「承知しました」
「恒興」
「はい」
「弥助の道を追え。清洲の外れ、古着商、権蔵、左内、作兵衛。どことつながるか」
「はい」
「長秀」
「はい」
「熱田の火番、油壺、炭小屋、捕まえた男、外で騒いだ者。全部を一枚にしろ」
「承知しました」
「外で騒いだ者は捕まったか」
「一人は逃げました。もう一人は馬借に押さえられたそうです」
「名は」
「まだ」
「そこも見る」
帰蝶が静かに言った。
「外で騒いだ者は、火そのものより噂を燃やす役ですね」
「ああ」
「なら、捕まえた男より、そちらの方が火種に近いかもしれません」
「見る」
火へ粉を入れる者。
外で騒ぐ者。
噂を走らせる者。
それぞれ役が違う。
影は、役を分けてきた。
つまり、組織立っている。
小悪党だけではない。
左内や佐橋のような者の知恵もある。
そして、その向こうに三河や今川の目がある。
翌朝、熱田から粉が届いた。
厳重に包まれている。
おたえはそれを少しだけ取り、火に近づけず、まず匂いを嗅いだ。
「松脂。乾いた薬草。少し硫黄に似た匂いもあります」
「燃えるか」
「よく燃えるというより、よく煙が出ます。臭いも強いでしょう」
「火を汚したように見せるためか」
「おそらく」
おたえは眉をひそめた。
「台所で使う火には、絶対に近づけたくないものです」
「熱田の火にもだ」
「はい」
長秀が粉の包みを見て言った。
「これを作れる者は限られますか」
「薬草を扱う者なら作れます。ただ、松脂と混ぜる加減は知っている者でしょう」
「薬売り」
俺は呟いた。
境の道で出入りしていた薬売り。
宗右衛門と一緒にいた男。
作兵衛と合流した者。
また線がつながる。
「薬売りの道も見る」
長秀は、少しだけ遠い目をした。
「また道が増えました」
「出世だ」
「今回は聞き流します」
少し疲れているらしい。
あとで寝かせる必要がある。
たぶん無理だが。
昼前、熱田から続報が届いた。
捕まった弥助は、最初は何も言わなかった。
だが、火番と実円の前で、千秋右近が問うと少し崩れた。
弥助は、粉を火へ入れろとは言われていない、と言った。
炭小屋に置け、とだけ言われた。
置けば、あとは誰かが騒ぐ。
熱田の火が変な匂いになったと言えばよい。
そうすれば、社の者が怒り、商人が疑われ、那古野の触れが悪いことになる。
誰に言われたか。
弥助は、権蔵の名を出した。
また権蔵だ。
権蔵は、布の道にも関わっていた。
火の道にも関わっている。
使い走りにしては、道が広い。
左内の下にいるだけか。
それとも、別の者にもつながっているのか。
「権蔵を捕らえるか」
柴田が言った。
今度は、俺も少し迷った。
権蔵はかなり線の中心に近づいている。
泳がせすぎれば逃げる。
捕らえれば、後ろが切れるかもしれない。
だが、熱田の火へ手を出した以上、放置もしにくい。
「捕らえる」
俺は言った。
柴田の目が少し鋭くなる。
「兵を」
「使わない」
「では」
「商人と馬借で押さえる」
柴田が目を瞬いた。
「商人と馬借?」
「権蔵は商いと荷の道を使っている。武士が行けば逃げる。久右衛門と仁助に動かせ」
長秀が頷いた。
「よいと思います」
「ただし、怪我は少なく」
「それは難しいかと」
仁助が廊下から顔を出した。
いつからいた。
「お前は本当に、必要な時に出るな」
「道の者ですから」
「権蔵を押さえられるか」
「場所が分かれば」
「清洲の外れ、古着商と薬売りの道。お前なら見えるだろう」
「見ます」
「斬るな」
「俺は武士じゃありませんので」
「殴るな」
「それは約束しにくいですね」
こいつもこいつで厄介だ。
だが、使える。
久右衛門にも使いを出した。
商人の顔で権蔵を呼び出す。
古布と薬草の取引があると言えば来る可能性が高い。
場所は清洲の外れではなく、道普請中の橋近く。
そこなら仁助の者もいる。
長秀の者もいる。
逃げても道が分かる。
午後、罠はかけられた。
権蔵は来た。
思ったより堂々と来たらしい。
小柄な男。
顔は笑っているが、目は落ち着かない。
久右衛門の手代が古布の束を見せ、薬草の値を聞いた。
権蔵は最初、慎重だった。
だが、古布の中に印のついた布の端があるのを見て、少し顔が動いた。
その瞬間、仁助が合図した。
馬借二人が、荷縄を広げる。
権蔵は逃げようとした。
速い。
小柄な分、身軽だった。
だが、道普請のために橋板が一枚外されていた。
そこを飛び越えようとして足を滑らせる。
仁助が肩を押さえた。
久右衛門の手代が腕を取った。
権蔵は短刀に手をかけた。
そこへ、なぜか犬千代が飛び出した。
呼んでいない。
絶対に呼んでいない。
「斬るな!」
誰かが叫んだらしい。
おそらく長秀だ。
犬千代は短刀を持つ権蔵の手首を、槍ではなく棒で打った。
短刀が落ちる。
権蔵は取り押さえられた。
犬千代は胸を張った。
「斬っておりません!」
そこは褒めてやっていい。
ただし、なぜいたのかは後で詰める。
権蔵が那古野へ連れてこられたのは、夕方だった。
顔には土がついている。
目はまだ死んでいない。
こういう男は、すぐには折れない。
「権蔵」
俺は名を呼んだ。
男は口元だけで笑った。
「若君様にお目通りとは、出世でございますな」
「その口で何人へ嘘を運んだ」
「商いでございます」
「火へ煙を入れる粉もか」
「何のことでございましょう」
長秀が包みの写しと、弥助の証言を出した。
権蔵は目を細めた。
「弥助め、口が軽い」
「認めたな」
権蔵は舌打ちしそうになり、こらえた。
「私は頼まれただけです」
「誰に」
「商いの相手に」
「名は」
「商人は、客の名を軽々しくは」
「なら、道普請へ行くか」
権蔵の顔が初めて嫌そうに歪んだ。
鍬は、思ったより効く。
だが、こいつには鍬だけでは足りない。
「布の道、火の道、薬草の道。ずいぶん広い商いだな」
俺は言った。
「誰から道を習った」
権蔵は黙った。
「左内か」
顔は動かなかった。
「作兵衛か」
少しだけ、目が動いた。
見逃さない。
「作兵衛か」
権蔵は笑った。
「若君様は、よく道をご覧になる」
「お前ほどではない」
「私など、ただの小者でございます」
「小者は火を曇らせる粉を熱田へ入れない」
「小者だから入れられるのです。大物は、手を汚しませぬ」
これは本音だろう。
そして、後ろに大物がいると自分で言っているようなものだ。
「その大物は誰だ」
「存じませぬ」
「では、誰に飯をもらっている」
権蔵の顔が少し変わった。
飯。
この言葉は効く。
銭ではなく、飯。
小者は銭だけで動くとは限らない。
飯をもらい、寝床をもらい、使い道を与えられる。
そうすれば、いつの間にか誰かの影になる。
「答えろ」
俺は言った。
「誰の飯を食っている」
権蔵はしばらく黙った。
やがて、小さく言った。
「左内様のところで」
「左内の飯か」
「時々」
「作兵衛は」
「荷をくれる」
「佐橋は」
権蔵は黙った。
当たりだ。
「佐橋勘解由を知っているな」
「……名だけは」
「嘘が下手だ」
権蔵は笑った。
「若君様、道ばかりでなく人も見始めたと聞きましたが、本当のようで」
「誰から聞いた」
「道で」
「影の道か」
「影も道を使いますので」
こいつ。
こちらの言葉を知っている。
どこかで聞いたのか。
あるいは、こちらの言葉をわざと返しているのか。
腹が立つ。
だが、怒るな。
「権蔵」
「はい」
「お前は使い道がある」
権蔵の目が一瞬揺れた。
「私を、お使いに?」
「すぐには殺さぬ」
「ありがたき」
「礼は早い。お前には、自分が通った道を全部歩かせる」
「道を?」
「庄助の店、祠、飯尾家、井戸端、空き屋敷、熱田の荷場。全部だ」
権蔵の顔から笑みが消えた。
「なぜ」
「お前が影として使った道を、今度は明るいところで歩く。誰を使い、誰を巻き込み、誰の困りごとを食ったか、自分で見ろ」
「それは、晒しでは」
「半分は」
俺は言った。
「もう半分は、責の置き場だ」
権蔵は黙った。
こいつが改心するとは思わない。
だが、道を歩かせれば、周囲にも見える。
影がどの道を使ったか。
誰が巻き込まれたか。
どこに穴があったか。
それを見せる。
同時に、権蔵を殺さずに置くことで、後ろにいる左内や佐橋がどう動くかを見る。
夜、信勝が言った。
「兄上」
「何だ」
「権蔵を生かすのですね」
「ああ」
「怖くありませんか」
「怖い」
「でも、生かす」
「殺すには、まだ早い」
信勝は頷いた。
「影の道を、影自身に歩かせる」
「そうだ」
「それは、かなり嫌な罰ですね」
「お前も言うようになったな」
「兄上の影響です」
「俺のせいか」
「半分は」
俺たちは少し笑った。
だが、その笑いはすぐ消えた。
権蔵を捕らえた。
これは一歩だ。
だが、左内はまだいる。
佐橋もいる。
作兵衛も三河へ戻っている。
岡崎の名も、今川の影も消えていない。
むしろ、権蔵を捕らえたことで、向こうは次を動かす。
火の道へ逃げた影を、ひとつ掴んだ。
だが、影はまだ長い。
俺は灯火を見た。
今夜の火は、少しだけ明るく見えた。
その分、影も濃い。
けれど、もう見えない影ではない。
火の周りに名と責を置けば、影は形を持つ。
形を持てば、追える。
次は、権蔵の歩いた道を、こちらが歩く番だ。




