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第49話 布の道をたどれ

布は、道を持っている。


 そんなことを、俺はこれまで考えたこともなかった。


 米には道がある。


 塩にも、味噌にも、油にも、飼葉にも道がある。


 馬が通り、荷車が通り、商人が値をつけ、馬借が文句を言い、長秀が帳面に書く。


 それなら分かる。


 だが、布だ。


 古い着物をほどいた端切れ。


 子供の袖から取った裏地。


 破れた帯を裁って、別のものへ縫い直すための布。


 そんなものにも道がある。


 そして、影はその道を使った。


 針仕事の家へ届いた脅し文。


 その紙は、古布の束に挟まれていた。


 布には薬草と馬小屋の匂いが残っていた。


 境の蔵にあった薬草。


 飼葉。


 馬。


 それが、清洲の古着商を通り、針仕事の家へ入った。


 つまり、布はただの布ではなかった。


 影が言葉を運ぶための、小さな船だった。


「若様」


 長秀が朝から言った。


「布の帳面を作りました」


「本当に作ったのか」


「はい」


「俺は止めたはずだが」


「止められてはいません。ためらわれただけです」


「お前、言葉の隙間を突くようになったな」


「若様のもとにおりますので」


 長秀は平然としていた。


 帳面様、いよいよ怖い。


 机の上に置かれた帳面には、米や塩とは違う項目が並んでいた。


 布の種類。


 色。


 匂い。


 染み。


 縫い目の有無。


 古着商の名。


 持ち込んだ者。


 行き先。


 途中で触れた可能性のある荷。


「これは、誰が見分ける」


「帰蝶様、おたえ、針仕事の家のおまき、そして古布を扱う女中たちです」


「女の帳面だな」


「はい。私一人では無理です」


 長秀が素直に言った。


 珍しい。


 いや、最近の長秀は、自分一人で全部を抱え込まなくなっている。


 よいことだ。


 倒れられると困る。


「布の道をたどる」


 俺は帳面を見ながら言った。


「はい」


「だが、庄助をいきなり捕らえるな」


「分かっています」


「古着商が文の中身を知っていたとは限らぬ」


「むしろ、今のところ巻き込まれた可能性が高いです」


 長秀は帳面をめくった。


「庄助は商いが小さい。境の村から古布をまとめて買ったのは最近ですが、支払いはまともです。ただ、その仲立ちをした権蔵という男が怪しい」


「滝川左内の使い走りか」


「はい」


 権蔵。


 作兵衛、左内、佐橋。


 そこへまた一つ名が増えた。


 名前が増えるほど、線も増える。


 線が増えるほど、地図は見づらくなる。


 だが、見づらいからと目を逸らせば、影はその線の中へ消える。


「権蔵はどこにいる」


「清洲の外れをうろついています。定まった店はありません。小間物、古布、薬草、時には馬具まで扱うと」


「何でも屋か」


「はい。こういう者は、道の隙間におります」


 道の隙間。


 よい言い方だ。


 いや、嫌な言い方だ。


 影は、道そのものではなく、道の隙間を使う。


 そこを埋めすぎれば、暮らしが詰まる。


 放れば、影が通る。


 また線引きだ。


「帰蝶は」


「針仕事の家へ出す次の布を見ています」


「次の布?」


「はい。こちらから、印をつけた布を流すそうです」


 俺は顔を上げた。


「印?」


「縫い目の中に、見れば分かる者だけが分かる糸を一本入れると」


 帰蝶らしい。


 派手な印ではない。


 武士が見ても分からない。


 だが、針仕事の者なら気づく。


 布の道をたどるなら、布の言葉で印をつける。


 なるほど。


 俺が思いつかないわけだ。


 その頃、帰蝶はおたえとおまきから送られた女を相手に、布を見ていた。


 ここから先は、後で帰蝶から聞いた話だ。


 彼女は、那古野の奥で一枚の古布を広げていた。


 藍染めの地味な布。


 どこにでもある。


 だからこそ、道に紛れやすい。


「ここへ、赤い糸を一本」


 おたえが言った。


「赤では目立ちます」


 帰蝶は首を横に振った。


「赤く見えない場所へ入れます。縫い代の奥です。ほどかなければ分かりません」


 針仕事の家から来た女、名を千代という。


 志乃より少し年上で、手が早い。


 千代は布を指先で撫でた。


「赤より、少し色の褪せた茜がよいです。古い血の染みに見えます」


 おたえが顔をしかめた。


「物騒な言い方をしますね」


「でも、古布にはそういう染みもあります」


 帰蝶は頷いた。


「では、茜で」


 印は小さく入れられた。


 見た目には分からない。


 だが、ほどけば必ず分かる。


 さらに、布の端には、針目が一つだけ逆に入れられた。


 右から左へ揃った縫い目の中に、一つだけ左から右へ。


 男の目なら見落とす。


 だが、針仕事の者なら違和感を覚える。


「これは、道しるべです」


 帰蝶が言った。


「もしこの布が、針仕事の家以外の場所で見つかれば、誰かが道を曲げたことになります」


 千代は静かに頷いた。


「布にも、道があるのですね」


「はい」


 帰蝶は答えた。


「そして、道には目が必要です」


 その布は、予定通り那古野から清洲の古着商、庄助のところへ出された。


 表向きは、古布の買い戻しである。


 庄助は疑わなかった。


 むしろ、那古野から仕事が来たことで少し喜んだらしい。


 庄助は小さな商人だ。


 大きな政など知らない。


 知りたくもないのだろう。


 だが、影はそういう者の店を通る。


 知らないことが罪になる時もある。


 知らなかったことを理由に、すべて許すわけにもいかない。


 だから見る。


 庄助を潰すためではなく、庄助の店を通る影を見るために。


 布は、庄助の店へ入った。


 その日のうちには動かなかった。


 翌朝、権蔵が店に現れた。


 久右衛門の手代が見ていた。


 権蔵は、古布をいくつか買った。


 その中に、印をつけた布も入っていた。


 代金は少し多め。


 庄助は断らなかった。


 小商いの者にとって、多めの銭は断りにくい。


 責めるのは簡単だ。


 だが、断れるだけの余裕がない者もいる。


 これも困りごとの一つなのかもしれない。


 権蔵は布を背負い、清洲の町外れへ向かった。


 そこから、左内の使う空き屋敷ではなく、別の道へ入った。


「別の道?」


 俺は報告を聞いて眉を寄せた。


 久右衛門の手代は言った。


「はい。針仕事の家とは反対です。祠の裏を抜ける細道へ」


 仁助が地図を指した。


「女や子供が使っていた道ですね」


「そこへ布を」


「はい」


 権蔵は、細道の途中にある小さな祠へ布の束を一度置いた。


 祈るふりをした。


 それから、その場を離れた。


 しばらく後、村の娘が来て、布の束を拾った。


 年は十四、五。


 娘は何も知らない顔だったという。


 布の束を抱え、清洲の別の家へ運んだ。


「どこの家だ」


 俺が聞くと、長秀が帳面を見た。


「清洲の下級武士、飯尾又十郎の家です」


「飯尾」


 聞き覚えは薄い。


 佐久間が補った。


「林美作守の周辺にいた者ではありません。ただ、妻の実家が佐橋勘解由と遠い縁にございます」


「遠いな」


「はい。遠いから見えにくい」


 見えにくい縁。


 影が好む道だ。


 近すぎれば警戒される。


 遠すぎれば使えない。


 遠縁、古い婚姻、針仕事、古布。


 そういう細い糸が、影を運ぶ。


「飯尾家へ踏み込むか」


 柴田が言った。


 もう、この問いも毎回のようになってきた。


「まだだ」


 俺は答えた。


 柴田は、予想していたように頷いた。


「見ますか」


「見る」


「承知しました」


 飯尾家を調べるには、男の目では難しい。


 表向きは何もない家だ。


 小さな武家。


 妻が針仕事を頼まれ、古布を受け取った。


 それだけなら、何の罪にもならない。


 帰蝶の者が動いた。


 千代も使う。


 針仕事の家から来た布の目を持つ女だ。


 飯尾家へは、追加の縫い仕事を頼む名目で近づいた。


 そこで、印の布が見つかった。


 ほどかれていた。


 縫い代の奥に入れた茜の糸が、抜かれていた。


 つまり、誰かが印に気づいた。


 あるいは、布をただ使うためにほどいたのか。


 それだけでは分からない。


 だが、逆向きの針目は残っていた。


 千代はそれを見つけた。


 そして、もう一つ気づいた。


 布の一部が切り取られている。


 ただの補修ではない。


 小さな紙を包むのにちょうどよい大きさだ。


「紙を包んだ?」


 帰蝶の報告を聞き、俺は言った。


「おそらく」


「どこへ」


「飯尾家の女中が、夕方、清洲の井戸端へ出ました。そこで別の女へ小さな包みを渡しています」


「その女は」


「まだ名は分かりません。ただ、佐橋勘解由の空き屋敷へ野菜を運んでいた下女と似ています」


 つながった。


 布の道は、庄助から権蔵へ。


 権蔵から祠へ。


 祠から飯尾家へ。


 飯尾家から井戸端へ。


 井戸端から、佐橋の空き屋敷へ。


 男の荷道では見えない。


 針仕事と井戸端の道だ。


「信長様」


 帰蝶は静かに言った。


「影は、女たちの道を使っています。けれど、その女たちが全員、影の意味を知っているわけではありません」


「分かっている」


「飯尾家の女中も、ただ頼まれただけかもしれません」


「だから、まだ踏み込まぬ」


「はい」


「だが、線は見えた」


「見えました」


 俺は地図に細い線を引いた。


 庄助。


 権蔵。


 祠。


 飯尾家。


 井戸端。


 空き屋敷。


 境の蔵。


 岡崎。


 線が、ついに一つの形を持ち始めている。


 ただし、中心はまだ見えない。


 佐橋か。


 左内か。


 作兵衛か。


 それとも、さらに奥にいる誰かか。


「長秀」


「はい」


「飯尾家の困りごとは」


「調べます」


「違う。まず聞け」


 長秀が顔を上げた。


「疑う前に?」


「疑うためにも聞く。なぜその家が使われたのか。銭か、縁か、怨みか、ただの無知か」


「承知しました」


 信勝が静かに言った。


「困りごとの道が、影の道に重なっていますね」


「ああ」


「なら、影を追うことと困りごとを聞くことは、同じ仕事になる」


「そうだ」


 信勝は少し目を伏せた。


「難しいですね」


「難しい」


「誰かを助けようとして近づけば、疑っているようにも見える。疑って近づけば、助けられない」


「まったくだ」


 帰蝶が言った。


「だから、入口が大事なのです」


「飯尾家は、どの入口で入る」


「女の入口です。まず、妻と女中の話を聞きます」


「頼む」


 その日の夜、飯尾家について少し分かった。


 飯尾又十郎は、稲生では直接動いていない。


 だが、妻の実家が佐橋勘解由と古くつながる。


 近頃、家計が苦しい。


 又十郎は役が軽く、収入も少ない。


 妻は針仕事で少し銭を得ている。


 古布を受け取ることは珍しくない。


 そこへ権蔵が入り込んだ。


 「少し布を縫ってくれ」と頼んだ。


 包みを井戸端で渡すように言った。


 女中には、中身は薬の包みだと言った。


 嘘か本当かは分からない。


 だが、女中が中身を知らなかった可能性は高い。


「飯尾家は、怨みというより困窮か」


 俺が言うと、帰蝶は頷いた。


「はい。今のところは」


「なら、使われた」


「おそらく」


 困っている家は、影に使われる。


 信勝の名を慕う家だけではない。


 清洲の古い顔につながる家だけでもない。


 銭に困る家。


 仕事が足りない家。


 女の手仕事でなんとか保っている家。


 そこへ、影は小さな頼み事を置く。


 危険な頼みだとは言わない。


 薬の包み。


 古布の受け渡し。


 井戸端への使い。


 そうやって、いつの間にか道の一部にする。


「若様」


 久右衛門が言った。


「小商いの家を守る仕組みが要ります」


「守る?」


「はい。庄助のような古着商、飯尾家の針仕事。大商いではありません。けれど、影はそういう小さな商いを使う。彼らに『怪しい頼まれ物を断る理由』を与えなければ、銭で押されます」


「断る理由」


「那古野と清洲の取り決めで、古布や薬草の小包を他家へ渡す時は、送り主と受け手を簡単に記す、と。大げさな帳面ではなく、札でよい」


 長秀の目が光った。


「小包札」


「そうです」


 久右衛門が頷く。


「商人が断る時に、『札がないものは扱えません』と言えます」


「よい」


 俺は言った。


「作れ」


「また帳面が増えますね」


 信勝が少し笑った。


 長秀は、もはや否定しなかった。


「札なら、帳面より軽いです」


「帳面様が軽さを語る日が来るとはな」


「若様」


 少し場が緩んだ。


 だが、方向は決まった。


 小さな包み、小さな布、小さな薬草。


 それらに、小さな札をつける。


 誰から誰へ。


 何のために。


 名前を書けない場合は、入口役を通す。


 これで影が完全に消えるわけではない。


 だが、影が通る時に、少し足音が出る。


 それでいい。


 夜半、恒興から急ぎの報せが来た。


「若様」


「何だ」


「空き屋敷から、文が出ました」


「どこへ」


「境の蔵ではありません。熱田方面へ」


「熱田?」


 予想外だった。


 いや、考えるべきだった。


 影は一本の道だけを使わない。


 布の道が見えたら、次は火の道かもしれない。


「誰が運んだ」


「下男姿の若者です。荷は持っていません。ただ、腰帯に小さな包みを入れていました」


「追っているか」


「はい。ですが、熱田に入る前に、人混みに紛れるかもしれません」


「熱田へ知らせろ。千秋右近、油屋宗次へ。だが騒がせるな」


「承知しました」


 帰蝶が静かに言った。


「布の道をたどったことで、相手も道を変え始めたのでしょう」


「ああ」


「次は火かもしれません」


 信勝が顔を上げた。


「熱田の火を曇らせるつもりでしょうか」


「分からぬ」


 だが、あり得る。


 清洲の火。


 熱田の火。


 信勝の言葉。


 困りごとの道。


 布の道。


 影は、こちらが作ったすべての道を使おうとしている。


 腹立たしい。


 だが、同時に、それは相手がこちらの道を恐れている証でもある。


 道を壊すのではなく、道を利用しようとしている。


 つまり、道そのものには力がある。


「布の道は見えた」


 俺は言った。


「次は、火の道を守る」


 長秀が頷いた。


「熱田へ、どの文を」


「信勝」


「はい」


「お前の言葉がいる。火を守る者へ、影が近づいている、と。ただし、怯えさせるな」


 信勝は少し考え、筆を取った。


 短く書いた。


 ――火は、人を集めます。だからこそ、影も近づきます。火を疑うのではなく、火の周りに立つ者の名と責を明らかにしてください。


 よい。


 本当によい。


「使う」


 俺が言うと、信勝は小さく頷いた。


「はい」


 その夜、熱田へ使いが走った。


 布の道をたどった先で、影は別の道へ逃げようとしている。


 それでも、こちらは一つ見た。


 影は、布を使った。


 女の道を使った。


 小商いを使った。


 困窮した家を使った。


 そして、見つかると火の方へ動こうとした。


 なら、次も見る。


 道を閉じずに。


 目を置いて。


 俺は灯火を見た。


 火は揺れている。


 影も揺れている。


 だが、今夜の俺は、その影の揺れ方を少しだけ読めるようになっていた。


 布の道は、細かった。


 細いが、確かにつながっていた。


 なら、どんな細い道でも侮らない。


 尾張は、そうやって縫い直すしかないのだ。

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