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第48話 影も道を使う

道を作れば、人が通る。


 荷も通る。


 噂も通る。


 そして、影も通る。


 それは当たり前のことだった。


 当たり前なのに、いざ目の前に来ると腹が立つ。


 困りごとの道を作った。


 針仕事の家、台所、兵の鍋、馬借、商人、清洲の古い顔。


 外の影へ怨みが流れる前に、こちらへ届くように。


 そう思って作った道だった。


 だが、道は善人だけを選んで通してはくれない。


 偽りの困りごとを持ち込む者が出た。


 仙七のような小悪党もいた。


 それだけなら、まだ分かる。


 だが、その数日後に届いたものは、もっと嫌な匂いがした。


「若様」


 長秀が朝から帳面を持って来た。


 この男が朝から帳面を持ってくるのは、もはや普通だ。


 だが、その日の顔は違った。


 困っている。


 怒っている。


 そして、少し迷っている。


 帳面様が迷う時は、だいたい面倒な紙が来ている。


「何だ」


「困りごとの道から、妙な訴えが入りました」


「誰から」


「名は伏せられています。入口は、針仕事の家です」


 俺は顔を上げた。


 針仕事の家。


 そこは、帰蝶がようやく少し戸を開いた場所だ。


 そこへ妙なものが入った。


 それだけで、気分が悪くなる。


「中身は」


 長秀は紙を差し出した。


 字は女手に見える。


 だが、妙に整いすぎている。


 崩れが少ない。


 文は短かった。


 ――信勝様のお名を慕う家々、いまだ多くございます。されど、信長様の御前へ困りごとを届けよとの触れは、実のところ名を集め、後に処するためのものと聞き及び候。針仕事の家より名が漏れ候えば、女も子もただでは済まず。今は黙し、時を待つべし。


 俺は読み終えて、しばらく何も言わなかった。


 紙の端を押さえる指に、力が入る。


 信勝の名。


 針仕事の家。


 女と子。


 名を集めて後で処する。


 つまり、こちらが作った困りごとの道は罠だ、と言っている。


 腹が立つ。


 怒鳴りたくなる。


 だが、怒鳴れば負けだ。


 これは怒らせるための文だ。


 信長が怒って針仕事の家を調べれば、「ほら、やはり名を集めて処するつもりだった」と言える。


 針仕事の家を閉じれば、困りごとの道は塞がる。


 無視すれば、不安だけが残る。


 実に嫌な手だった。


「兄上」


 信勝が来ていた。


 長秀が呼んだのだろう。


 文を読んだ信勝の顔は、静かに青くなった。


「私の名が、また」


「ああ」


「そして、針仕事の家を疑わせようとしている」


「そうだ」


 信勝は紙を見つめた。


「これは、私を慕う家々を守るように見えて、針仕事の家を閉じさせる文ですね」


「よく見た」


「痛いほど分かります」


 信勝は、もうただ傷つくだけではなかった。


 傷つきながら、見ている。


 それが頼もしく、そして痛ましい。


「帰蝶を呼べ」


 俺が言う前に、廊下から声がした。


「ここにおります」


 帰蝶が入ってきた。


 もう驚かない。


 廊下には耳がある。


 帰蝶には、その耳を束ねる手がある。


「読んだか」


「写しを先に見ました」


「早いな」


「おまきが、すぐこちらへ回しました」


「おまきは信じているか」


「揺れています」


 帰蝶は正直に答えた。


「おまき本人は、この文が危ういものだと分かっています。けれど、女たちの中には怯える者が出ます」


「志乃は」


「黙っています。けれど、子のことを言われると揺れます」


 女と子もただでは済まぬ。


 嫌な言葉だ。


 家の中で一番弱いところを刺してくる。


 男の面目より、子の身を案じる母の方が深く刺さる。


 外の影は、それを知っている。


「長秀」


「はい」


「この文の狙いは」


「困りごとの道を閉じさせること。針仕事の家を疑わせること。信勝様の名を、信長様への不信に結びつけること」


「もう一つ」


 帰蝶が言った。


「女たちの入口を、男たちの詮議へ引きずり出すことです」


 俺は頷いた。


 ここで俺が武士を送って針仕事の家を問い詰めれば、終わる。


 女たちは二度と口を開かない。


 困りごとの道は、外から壊されるのではなく、こちらの手で壊れる。


「どうする」


 俺は帰蝶に聞いた。


 帰蝶は少し考えた。


「まず、針仕事の家へ兵を出さないことです」


「当然だ」


「次に、こちらが疑っていないことを、言葉ではなく仕事で示します」


「仕事?」


「はい。予定通り、追加の針仕事を出します。支払いも遅らせません。いつも通りに人を通わせます」


 信勝が頷いた。


「不安を否定するより、普段通り続ける」


「はい」


 帰蝶は続けた。


「その上で、私がもう一度行きます」


「危険だ」


「行かなければ、この文だけが残ります」


 分かっている。


 分かっているから腹が立つ。


「護衛はつける」


「目立たぬように」


「それから」


 信勝が口を開いた。


「私の文も持っていってください」


 帰蝶が信勝を見る。


「どのような」


「私の名を使って、女や子を脅す者は、私の心を知る者ではない、と」


 部屋が静まった。


 信勝の声は穏やかだった。


 だが、言葉は鋭い。


「よい」


 俺は言った。


「書け」


「はい」


 信勝はすぐ座り、筆を取った。


 迷いはなかった。


 文は短かった。


 ――私の名を覚えてくださる方々へ。女や子を脅して沈黙を求める者は、私の心を知る者ではありません。困りごとは恥ではなく、聞かれるべきものです。名を伏せて届ける道は、罰するためではなく、外の影へ渡さぬためにあります。私は兄上とともに、その道を閉じません。


 俺は読み終えた。


「これでいい」


「強すぎますか」


「いや。今は強い方がいい」


 帰蝶も頷いた。


「針仕事の家では、この強さが要ります」


 長秀が文を写す。


 だが、これは広く触れにしない。


 まず針仕事の家。


 おまき。


 志乃。


 その周り。


 狭く、確実に届かせる。


 影の文が細い道を使うなら、こちらも細い道を使う。


 ただし、こちらは逃げない。


 昼過ぎ、帰蝶は針仕事の家へ向かった。


 俺はまた待つことになった。


 待つのは本当に嫌いだ。


 だが、今回は歩かなかった。


 歩けば帰蝶にあとで言われる。


 代わりに、地図を見た。


 針仕事の家。


 空き屋敷。


 境の蔵。


 三河への道。


 岡崎。


 そして、那古野。


 影も道を使う。


 なら、その道を逆にたどれば、影の形が見える。


「長秀」


「はい」


「この文は、どうやって針仕事の家へ入った」


「今、調べています。おまきによれば、朝早く、布の端切れの束に挟まれていたと」


「誰が持ち込んだ」


「近くの古着商の娘が、端切れを売りに来たそうです」


「娘は」


「十歳ほど。おそらく文の中身は知りません」


「古着商は」


「清洲の町外れ。最近、境の蔵に出入りする者が古着を買った記録があります」


 線がつながる。


 塩や飼葉だけではない。


 古着。


 端切れ。


 針仕事の家。


 女たちの道。


 影は、男の荷道だけでなく、布の道まで使っている。


「久右衛門に聞け。古着商の流れを」


「すでに使いを出しました」


「早いな」


「帳面様ですので」


 自分で言うようになった。


 もはや諦めを超えている。


「それから、おたえにも聞け。台所へ古着や端切れを持ち込む者がいるか」


「はい」


 その日の夕方前、帰蝶が戻った。


 顔は落ち着いている。


 だが、疲れがある。


「どうだった」


「戸は閉じていません」


 俺は息を吐いた。


「よかった」


「ただ、揺れています」


「だろうな」


 帰蝶は座り、ゆっくり話した。


 針仕事の家では、女たちが集まっていた。


 おまきは表向き落ち着いていたが、手元の針目がいつもより乱れていた。


 志乃は子を抱いて来ていた。


 信勝の文を読んだ時、最初に泣きそうになったのは志乃ではなく、おまきだったという。


「おまきが?」


「はい。あの方は、ずっと皆の不安を受け止めていました。けれど、自分が疑われるかもしれないという不安もあったのでしょう」


「文は効いたか」


「効きました。特に、『女や子を脅して沈黙を求める者は、私の心を知る者ではありません』という一文が」


 信勝は、静かに目を伏せた。


「よかった」


「ただし、文だけでは足りません。予定通り仕事を出すこと、支払いを遅らせないこと、そして針仕事の家を詮議の場にしないこと。それを約束してきました」


「守る」


「はい」


 帰蝶は小さな紙を差し出した。


「それから、おまきからです」


 中には、文を持ち込んだ端切れの束の切れ端が入っていた。


 布の色は、ありふれた藍。


 だが、端に小さな染みがある。


「何だ」


「おたえに見せたいと思います。味噌か、薬草か、何かの匂いがします」


「布の匂いまで見るのか」


「女たちは、布の匂いも覚えます」


 また新しい帳面だ。


 布の帳面。


 いや、そこまでは言わない方がいい。


 長秀が本気で作りかねない。


 おたえに見せると、彼女は布を指先でこすり、匂いを嗅いだ。


「薬草です」


「分かるか」


「はい。傷に使う草を干した匂いが少し。あと、馬小屋の匂いもあります」


「馬小屋」


「端切れを置いた場所が、薬草と飼葉の近くだったのでは」


 境の蔵。


 薬草。


 飼葉。


 古着の端切れ。


 やはりつながる。


 影は、蔵から布の道へ文を流した。


 長秀の筆が忙しく動いた。


「若様」


 長秀が言った。


「古着商から針仕事の家へ、布の流れを追えます」


「追え」


「ただし、古着商の娘は巻き込まれているだけかと」


「子供は傷つけるな」


「はい」


「古着商本人は?」


「そこを見ます」


 夜、久右衛門から報告が来た。


 古着商の名は庄助。


 小さな商いで、普段は大きな荷に関わらない。


 だが、最近、境の蔵に近い村から古布をまとめて買った。


 その仲立ちをしたのが、滝川左内とつながる男だった。


 名は権蔵。


 左内の使い走り。


 また一つ、線が濃くなった。


「捕らえるか」


 柴田が聞いた。


「庄助はまだだ。権蔵を見る」


「左内は」


「まだ泳がせる」


 柴田は、もはや慣れたように息を吐いた。


「若君は本当に、魚をなかなか網から上げませぬな」


「腐る前には上げる」


「その見極めが難しい」


「ああ」


 俺は地図に布の線を加えた。


 境の蔵から、古着商。


 古着商から、針仕事の家。


 影は道を使う。


 しかも、こちらが作った道だけではなく、元から暮らしの中にある細い道を使う。


 布。


 薬草。


 飼葉。


 女の手仕事。


 子供のお使い。


 そういうところへ入ってくる。


 厄介だ。


 だが、見えた。


 見えたなら、次は塞ぐのではなく、目を置く。


「信勝」


「はい」


「お前の文は効いた」


「よかったです」


「だが、また使われる」


「分かっています」


「それでも、また書けるか」


 信勝は、まっすぐ俺を見た。


「書きます。私の名を勝手に使われるなら、私は何度でも自分の名で言います」


 よい。


 本当に、よい。


 そして、少し怖い。


 信勝は、自分の名を取り戻し始めている。


 その名は、いつか俺の横だけでなく、別の場所へも立つかもしれない。


 だが、今はそれでいい。


 名を奪われる弟より、自分の名を持つ弟の方がずっといい。


 翌日、こちらは動いた。


 古着商の庄助には、何も言わない。


 ただ、那古野から正式に古布の買い付けを入れた。


 帰蝶の名ではなく、台所と針仕事用の名目で。


 庄助を怖がらせず、商いをこちらへ向ける。


 同時に、久右衛門が清洲の商人として、古布の出所を丁寧に聞く。


 仁助は、境の蔵から古布を運ぶ者を探る。


 おたえは、布につく薬草と馬小屋の匂いを覚える女中を二人選んだ。


 長秀は、布の流れまで帳面に入れた。


「本当に布まで書くのか」


 俺が聞くと、長秀は真顔で答えた。


「影が布を使うなら、布も道です」


「そうだな」


「また帳面が増えました」


「嬉しそうだぞ」


「半分は」


 もう何も言うまい。


 昼過ぎ、仙七が道普請から戻された。


 汗と泥にまみれていた。


 昨日より顔つきが違う。


 善人になったわけではない。


 だが、少し目が落ち着いている。


「若君」


「何だ」


「私は、困りごとの道を騙りました」


「知っている」


「今日、道普請で、針仕事の家から来た女に言われました。『嘘の困りごとは、本物の困りごとの口を塞ぐ』と」


「そうか」


「私は……仙七という男は、信用されませぬ」


「当たり前だ」


「ですが、信用されぬ男だから聞ける話もあります」


 俺は仙七を見た。


 男の目は、まだずるい。


 だが、そのずるさが使える時もある。


「何を聞いた」


「駿河屋宗右衛門は、困りごとの道だけではなく、古布の道も見ていました。『女の道は男の道より細いが、止めにくい』と」


 帰蝶の目が冷えた。


「誰から聞いた」


「宿で。酔ったふりをしていた時に」


「なぜ今言う」


「鍬より縄が嫌なので」


 正直すぎて、少し笑いそうになった。


「よい。話せることは全部話せ。嘘を混ぜれば、また鍬だ」


「縄ではなく?」


「二度目は縄と言ったな」


 仙七は青くなった。


「話します」


 小悪党は小悪党のままだ。


 だが、使える。


 ただし、信用はしない。


 困りごとの道には、こういう者も流れ込む。


 綺麗な水だけではない。


 濁り水も来る。


 なら、濁りを濾す場所がいる。


 俺は仙七を見ながら思った。


 この男も、道の一部にするか。


 それとも、いずれ切るか。


 まだ決めない。


 決めるには早い。


 夜、帰蝶が言った。


「信長様」


「何だ」


「影が布の道を使ったことで、こちらも布の道を見るようになりました」


「ああ」


「影は厄介ですが、影が通ったことで見えたものもあります」


「道を閉じず、目を置く」


「はい」


「そればかりだな」


「それが、今の尾張には合っているのかもしれません」


 俺は地図を見た。


 道。


 火。


 飯。


 困りごと。


 布。


 塩。


 飼葉。


 岡崎。


 清洲の奥。


 空き屋敷。


 境の蔵。


 線だらけだ。


 戦国の地図なのに、城や兵の線より、暮らしの線の方が増えている。


 妙な地図だ。


 だが、この妙な地図こそ、今の尾張なのだろう。


 影も道を使う。


 なら、道を作る者は影を見る覚悟も要る。


 味方だけが通る道などない。


 正しい者だけが来る入口もない。


 困りごとの道には偽物が来る。


 針仕事の家には脅し文が来る。


 台所には噂が混じる。


 商人の荷には間者が紛れる。


 それでも、道を閉じてはいけない。


 閉じれば、本物も来られなくなる。


 俺は灯火を見た。


 火は小さく揺れている。


 影も揺れる。


 影があるということは、火があるということだ。


 なら、火を消すのではなく、影の形を見る。


 それが今の俺の戦だった。


 槍を抜くには、まだ早い。


 だが、戦は確かに続いている。

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