第47話 偽りの困りごと
困りごとの道を作れば、困りごとではないものまで流れてくる。
それは分かっていた。
分かっていたが、実際に来ると腹が立つ。
こちらは、外の影へ怨みが流れる前に受け止める道を作った。
針仕事の家。
台所。
兵の鍋。
馬借。
商人。
清洲の古い顔。
それぞれの入口から、米が足りない、役を失った、縁談が止まった、子供が肩身を狭くしている、夫が酒に逃げている、商いの荷が止まった、道が荒れている、そういう話が少しずつ届くようになった。
小さい声ばかりだ。
だが、小さい声ほど、放っておくと腐る。
腐った声は、外の影に拾われる。
だから聞く。
そう決めた。
だが、人はすぐ穴を見つける。
困りごとを届ければ聞いてもらえる。
ならば、困っているふりをすれば得をするのではないか。
そう考える者が出る。
まったく、人の浅ましさというものは、時々こちらの予想より足が速い。
最初に捕まったのは、清洲の商人を名乗る男だった。
名を仙七という。
実際には清洲の商人ではない。
最近、駿河屋宗右衛門と同じ宿に泊まっていた男だ。
仙七は、稲生の後に役を外された家の名を使い、「困りごとの取り次ぎ料」と称して銭を取ろうとした。
しかも、言い方が巧い。
那古野へ直接訴えるのは恐れ多い。
信勝様のお耳へ入れるには、しかるべき筋が必要だ。
清洲の古い方々も、困る家を見捨てない。
そう言って、米に困る女からわずかな銭を取ろうとした。
わずかな銭だ。
だが、米に困る家にとっては重い。
そして、わずかだからこそ周囲は見落とす。
久右衛門が見抜いたのは、偶然に近かった。
仙七が「清洲の町方も話を通している」と言ったからだ。
久右衛門は、そんな話を通していなかった。
その時点で、嘘が割れた。
仙七は逃げようとしたが、久右衛門の手代に押さえられた。
手代は商人のくせに足が速かったらしい。
その話を聞いた恒興が「商人も侮れませんね」と言い、長秀が真面目に「商人の足も記録しておくべきでしょうか」と言い出したので、俺は止めた。
そこまで書くな。
帳面が国より大きくなる。
仙七は那古野へ連れてこられた。
俺は、最初から会わなかった。
すぐ会えば、男は自分を大物だと思う。
こういう小悪党は、自分が若君の前へ出されたというだけで、妙な箔をつける。
だから、まず長秀に聞かせた。
長秀は帳面を開き、淡々と問うた。
「名は」
「仙七」
「どこの者ですか」
「清洲で商いを」
「清洲の誰の店に?」
「それは」
「久右衛門殿は、あなたを清洲の商人ではないと言っています」
仙七は口を閉じた。
長秀は続けた。
「困りごとの取り次ぎ料、と言いましたね」
「私は、困った方々を助けようと」
「誰へ取り次ぐつもりでしたか」
「信勝様の」
「信勝様の、誰へ?」
「その、御心を知る方へ」
「名は」
「言えませぬ」
「預かった名ですか」
その問いで、仙七の顔が少し変わったという。
名を預かったか。
この問いは、最近の尾張では効く。
預かっていない名を使うことは、盗むことだ。
弥三郎の件で、町にも広がっている。
仙七も、それを知っていたらしい。
「私は、ただ噂を」
「噂で銭を取ったのですね」
長秀は静かに言った。
「困りごとを利用して」
仙七は、そこで黙り込んだ。
だが、すぐに別の顔をした。
「では、困っている者はどうすればよいのです。若君は聞くとおっしゃる。信勝様も聞くとおっしゃる。けれど、下々の者が直接言えるわけがない。間に立つ者が必要でしょう」
これは、ただの言い訳ではなかった。
半分は正しい。
だから厄介だった。
困りごとの道には、取り次ぐ者が要る。
その取り次ぎを誰が担うのか。
そこが曖昧なら、仙七のような男が入り込む。
小悪党は、道の穴を教えてくれることがある。
腹立たしいが、役に立つ。
長秀は、その言葉をそのまま帳面へ書いた。
仙七は、自分の言葉が書かれたことで少し得意げな顔をしたらしい。
そこも腹が立つ。
後で報告を受けた俺は、思わず言った。
「殴りたいな」
帰蝶が横から静かに言った。
「殴ると、問題の穴が塞がりません」
「分かっている」
「顔は分かっていないようです」
「顔を見るな」
「見えますので」
まったく。
俺の顔は、もう尾張の公共物なのか。
小評定を開いた。
長秀、佐久間、信勝、柴田、帰蝶、おたえ、久右衛門も呼んだ。
今回は商いの穴でもある。
「仙七をどう処すか」
俺が聞くと、柴田がまず言った。
「困った者から銭を取ろうとした。打ち据えて道普請へ」
「すぐ鍬か」
「若君の近頃の流儀かと」
「間違ってはいない」
長秀が言った。
「ただ、仙七の言い分の中に、こちらが考えるべき点があります」
「取り次ぎか」
「はい。困りごとを誰に届ければよいのか。そこが曖昧だと、また同じことが起きます」
久右衛門も頷いた。
「商いでも同じです。正しい問屋が決まっていなければ、怪しい仲買が増えます」
「困りごとの問屋か」
俺が言うと、久右衛門は苦笑した。
「商人の言葉で申せば、そうなります」
信勝が静かに口を開いた。
「ですが、困りごとの取り次ぎを決めすぎると、そこへ行けない者も出ます」
「なぜ」
「たとえば、夫の不満を言いたい妻が、夫の知り合いを通すことはできません。兵の不満を、組頭にだけ言えと言われれば、組頭そのものが困りごとの原因である時に言えません」
おたえが頷いた。
「その通りでございます」
柴田が少し気まずそうにした。
兵の組頭が困りごとの原因になることもある。
武家の男たちは、そこを見落としがちだ。
俺も含めて。
「では、入口を複数にするのはそのまま」
俺は言った。
「ただし、取り次ぎ料を取る者は認めない」
「完全に無償で?」
久右衛門が聞いた。
「困りごとの届けに銭を取れば、困る者ほど言えなくなる」
「ごもっともです」
「ただし、仕事として聞く者には、こちらから手当を出す」
長秀が顔を上げた。
「手当を」
「ああ。針仕事の家、おたえの台所、馬借、商人、それぞれに無償で負担させれば、結局どこかで歪む」
帰蝶が少し目元を緩めた。
「よいと思います」
「かなりか」
「かなり」
珍しく、ほっとした。
いや、ほっとした顔が出たらしい。
帰蝶が少し笑った。
「ただし」
佐久間が慎重に言った。
「手当を出すと、今度は困りごとを増やして手当を得ようとする者が出ます」
「出るな」
「はい」
「では、数ではなく、役に手当を出す。届けた数で増やさない」
長秀が筆を動かした。
「入口役、ですね」
「入口役」
信勝が繰り返した。
「困りごとの入口を守る者」
「そうだ」
「では、その入口役の名は明らかにしますか」
「一部は。だが、全部ではない」
帰蝶が言った。
「女たちの入口は、表に名を出さない方がよいです」
「商人は?」
久右衛門が答える。
「商人は、名を出した方がよい場合があります。久右衛門を通せ、と分かれば仙七のような者が入りにくい」
「馬借は仁助か」
「若様、俺の名がまた道に」
いつの間にか仁助も呼ばれていた。
廊下の外にいたらしい。
もう皆、勝手に集まってくる。
「嫌か」
「嫌ではないですけど、俺のところに全部来たら困ります」
「お前一人ではない。馬借の中で二、三人選べ」
「銭は?」
「手当を出す」
「なら、真面目に選びます」
「現金だな」
「飯を食わなきゃ道は歩けません」
その通りだ。
飯の話は、どこまでも戻ってくる。
仙七の処分は、その場で決めなかった。
まず、誰とつながっているかを見る必要がある。
駿河屋宗右衛門と同じ宿にいた。
それだけでは、今川の者とは言えない。
ただの小悪党が、今川の影の近くで商売を学んだだけかもしれない。
それでも、放ってはおけない。
「仙七には、明日から道普請へ出てもらう」
俺が言うと、柴田が少し頷いた。
「やはり鍬ですな」
「ただし、今回はただの罰ではない」
「では」
「困りごとを騙った者には、本物の困りごとを見る役をさせる」
長秀が筆を止めた。
「どういうことでしょう」
「道普請に出す。そこで、米を得るために働く者、役を失って仕事を探す者、針仕事の家から布を運ぶ者、そういう者たちと同じ場に置く。自分が騙ろうとしたものが何だったか見せる」
信勝が静かに頷いた。
「よいと思います」
「甘いか」
「いいえ。恥だけ与えれば、仙七は恨みます。けれど、見せれば、少しは変わるかもしれません」
柴田が言った。
「変わらねば?」
「その時は、次だ」
俺は答えた。
「一度は鍬。二度目は縄。三度目は……」
「分かりやすいですな」
「分かりやすい方がよい」
仙七にそれを伝えると、男は不服そうだった。
「私は商人でございます。道普請など」
「困りごとを取り次ぐと言ったな」
俺は初めて仙七の前へ出た。
男はぎょっとした。
自分が若君の前へ出られたことで、少し得意げになるかと思ったが、さすがに緊張が勝ったらしい。
「は、はい。困った者のために」
「なら、困った者がどう働いているか見ろ」
「私は」
「銭を取ろうとした分は、鍬で返せ」
仙七は顔を歪めた。
「私は今川の者ではございませぬ」
「まだ聞いていない」
男の顔が固まった。
自分から言った。
こういう時、人は余計なことを言う。
長秀の筆が、すぐ動いた。
「聞いていないことを答えたな」
俺が言うと、仙七は青くなった。
「い、いえ、その」
「駿河屋宗右衛門と同じ宿にいたそうだな」
「商いの縁で」
「何の商いだ」
「塩を少し」
「塩」
俺は男を見た。
「塩で飯を食う者が、米に困る家から銭を取ろうとしたか」
仙七は黙った。
「明日から道普請だ。逃げれば縄。もう一度困りごとを騙れば、その時は清洲にも那古野にも商いの道はない」
仙七は、床に額をつけた。
その姿を見ても、俺の腹は晴れなかった。
むしろ重くなった。
小悪党を押さえても、穴は残る。
穴を塞ぐ仕事の方が大きい。
翌日から、困りごとの入口役が整えられた。
商人は久右衛門。
馬借は仁助と、仁助が選んだ二人。
兵は柴田の組ごとに、鍋の後で聞く者を置く。
女たちの入口は表に名を出さず、おまきとおたえ、そして帰蝶の者が受ける。
清洲の古い面目に関わる話は、河尻へ静かに通す。
信勝の名に関わるものは、必ず信勝にも届く。
ただし、そこで止めない。
俺にも届く。
これが大事だった。
信勝だけに届けば、また信勝の名だけが育つ。
俺だけに届けば、怖くて言えない者がいる。
だから、二人へ届く。
兄弟の飯と同じだ。
一人ではなく、並んでいることを見せる。
そのために、信勝と俺はまた同じ膳を囲むことになった。
帰蝶の思うつぼである。
「信長様」
帰蝶が膳を置かせながら言った。
「今日はよく召し上がってください」
「また噂にするつもりか」
「半分は」
「もう半分は」
「本当に食べていただきたいだけです」
「聞いたことがある」
信勝が笑った。
俺も笑った。
飯の席で、信勝が言った。
「兄上」
「何だ」
「困りごとの道は、これから何度も騙されますね」
「ああ」
「それでも、続けるのですね」
「続ける」
「なぜ」
「本物を拾うためだ」
信勝は、箸を置かずに頷いた。
成長したな。
以前なら、こういう話になると箸が止まっていた。
今は食べながら聞ける。
帰蝶の教育は恐ろしい。
「偽物を恐れて道を閉じれば、本物が外へ流れる」
俺は続けた。
「偽物を見分ける目を増やすしかない」
「その目も、いつか曇るかもしれません」
「だから、入口を一つにしない」
「なるほど」
「お前の言葉も要る」
「はい」
信勝は少し考えた。
「困りごとの名を借りる者は、本当に困っている者の道を狭くする。そう書きます」
「よい」
「強いですか」
「強くていい」
その文は、短い触れではなく、入口役たちへ渡す言葉になった。
困りごとの名を借りる者は、本当に困っている者の道を狭くする。
この言葉は、思ったより早く広がった。
針仕事の家では、おまきが女たちに伝えた。
台所では、おたえが「嘘の困りごとは味噌を薄めるより悪い」と言った。
馬借たちは、仁助が乱暴に言い換えた。
「嘘で困ったふりすんな。本当に困ってる荷が詰まる」
商人たちは、久右衛門がもっと商人らしく言った。
「偽の困窮は、信用を食う」
それぞれの言葉で広がる。
同じ文をそのまま押しつけるより、この方が届く。
夜、長秀が報告に来た。
「仙七、道普請で働きました」
「逃げたか」
「逃げませんでした。ただ、最初はかなり不満を漏らしていました」
「今は」
「針仕事の家から来た布を運ぶ女と話した後、少し黙ったそうです」
「何を話した」
「女が言ったそうです。『あなたが取り次ぎ料を取ろうとした家は、今朝の味噌を薄めた家ですよ』と」
俺は黙った。
仙七がそれで変わるかは分からない。
小悪党は、一度の言葉で善人にはならない。
だが、見た。
自分が騙ろうとした困りごとが、誰かの朝の味噌の薄さだったと知った。
それは、鍬より効くかもしれない。
「若様」
長秀が続けた。
「仙七から、少し話が出ました」
「何だ」
「駿河屋宗右衛門は、困りごとの道ができたことを面白がっていたそうです」
「面白がる?」
「はい。『道を作れば、道を使う者が増える。信長殿は、自分で影の通り道も作っている』と」
俺は笑った。
腹立たしい。
だが、向こうもよく見ている。
その通りだ。
困りごとの道を作れば、影も入ろうとする。
道とはそういうものだ。
味方だけが通る道などない。
「なら、通ってきた影も見る」
俺は言った。
「はい」
「道を閉じるな。目を増やせ」
「承知しました」
長秀は、少しだけ嬉しそうだった。
帳面様は、本当に目を増やすことが好きらしい。
その夜、俺は地図ではなく、白い布を見ていた。
帰蝶が針仕事の家から持ち帰った布だ。
古い布に新しい布が継がれている。
継ぎ目はある。
だが、丁寧だ。
遠くから見れば、傷ではなく模様にも見える。
困りごとの道も、そうなればいい。
裂けた場所を隠すのではなく、継ぎ目として残す。
そこを次に裂けないようにする。
偽りの困りごとは、これからも来る。
今川の影も、清洲の奥も、稲生の残り火も、きっとこの道を使おうとする。
だが、道があるから見えるものもある。
閉じれば、全部闇へ行く。
なら、開けておく。
ただし、目を置く。
責を置く。
飯を置く。
仕事を置く。
言葉を置く。
尾張を縫い直すには、ずいぶん手間がかかる。
けれど、手間を惜しんだ布は、次の雨で裂ける。
俺は、裂けた尾張をもう一度そのまま戦場へ着ていくつもりはない。
縫う。
何度でも。
偽物が混じっても。
本物を拾うために。




