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第46話 困りごとの道

困りごとの道を作る。


 言葉にすれば、簡単だった。


 だが、実際にやろうとすると、これが厄介だった。


 道なら土を掘ればいい。


 橋なら板を渡せばいい。


 荷なら誰が出し、誰が受けるかを書けばいい。


 火なら、どの油で、誰が守るかを分ければいい。


 だが、困りごとは違う。


 形がない。


 重さもない。


 声に出した瞬間に、恥になることもある。


 黙っていれば腐る。


 外へ渡せば火種になる。


 聞きすぎれば、人は監視されたと思う。


 聞かなければ、見捨てられたと思う。


 面倒だ。


 まったく、面倒だ。


 だが、面倒だからと見なかった結果が、境の古い蔵であり、作兵衛であり、滝川左内であり、針仕事の家に届いたあの文だった。


 ――火は消えていない。信勝様の御名を忘れぬ家々へ、飯は届く。急がず、時を待て。


 あの文を、俺は忘れられなかった。


 火。


 飯。


 信勝の名。


 こちらが尾張を縫い直すために使い始めた言葉を、向こうは火種を育てるために使っている。


 言葉は、こちらだけのものではない。


 使えば、盗まれる。


 曲げられる。


 なら、盗まれる前に、こちらから別の道を作るしかない。


「若様」


 長秀が帳面を開いた。


 もう、最近の評定は地図と帳面なしでは始まらない。


「困りごとの届け先ですが、広く触れを出すのは危険です」


「分かっている」


「困っている者は来ます。ですが、困っていない者も来ます。恨みを晴らしたい者、他家を落としたい者、金を引き出したい者も」


「つまり、困りごとも偽物が出る」


「はい」


 予想はしていた。


 だが、長秀の口から聞くと、余計に現実味がある。


 名を騙る者がいる。


 御奥の心を騙る者がいる。


 なら、困りごとを騙る者も出る。


 人は本当に、穴を見つけるのがうまい。


「では、どうする」


 俺が聞くと、信勝が先に口を開いた。


「届く道を分けるべきかと思います」


「道を」


「はい。針仕事の家から届くもの。台所から届くもの。兵の組から届くもの。馬借や商人から届くもの。それぞれ、最初から同じ場所で扱わない」


 長秀が頷いた。


「よいと思います。入口が分かれば、困りごとの種類も見えます」


「入口ごとに聞き役を置く」


 佐久間が続けた。


「ただし、最後に若君へ上げる形は整える必要があります。混ざりすぎれば混乱します」


「混ざらぬように分け、最後に合わせる」


 俺は地図ではなく、別の紙を引き寄せた。


「針仕事、おたえの台所、柴田の兵、仁助の道、久右衛門の商い、清洲の河尻」


「河尻殿も入れますか」


 長秀が少し驚いた。


「清洲の古い顔から見える困りごともある」


「なるほど」


「ただし、河尻には全部は見せぬ。清洲の面目に関わるものだけだ」


「承知しました」


 帰蝶が静かに言った。


「女たちの話は、最初から男の評定に上げない方がよいものもあります」


「分かるか」


「はい。米が足りない、仕事がない、縁談が止まった。そこまでは上げられます。でも、家の中の暴言や、姑との争い、夫が酒に逃げていること。そういうものをそのまま上げれば、話した女が傷つきます」


「なら」


「名を伏せて、形だけを上げます。必要な時だけ、私が詳しく話します」


「任せる」


 帰蝶は頷いた。


 その横で、おたえが控えていた。


 台所の者が評定の隅に座ることにも、皆が少しずつ慣れてきた。


 柴田だけはまだ少し居心地が悪そうだが、それでも文句は言わない。


「台所の困りごとは」


 おたえが言った。


「食べ物の減り方で分かるものもございます」


「どういうことだ」


「急に飯を減らす家があります。子供の分だけ買いに来る家もあります。味噌を薄める家も。そういう家は、だいたい何かございます」


 長秀が筆を動かす。


「味噌を薄める家」


「はい。ただ、家の名までいきなり書かれると、誰も話しません」


 おたえは長秀を見た。


 長秀は少しだけ困った顔をした。


「分かっています。名を残さない記録も作ります」


「帳面様が、名を残さない帳面を?」


 おたえが言うと、部屋に小さな笑いが起きた。


 長秀は肩を落とした。


「その名は台所にまで」


「台所は早いので」


 おたえは平然としている。


 強い。


 この城の女たちは、皆どこか強い。


「名を残さない帳面か」


 俺は言った。


「よいな」


 長秀が顔を上げた。


「よろしいのですか」


「全部を名で縛れば、人は逃げる。名を伏せて傾きを見る帳面も要る」


「傾き」


「どこに困りごとが増えているか。米か、役か、面目か、縁談か、兵か。名ではなく傾きを見る」


 長秀は、しばらく黙っていた。


 それから深く頷いた。


「作ります」


「また帳面が増えるな」


「今回は、必要です」


 自分で言った。


 帳面様、かなり成長している。


 いや、最初からそういう男だったのかもしれない。


 こちらがようやく追いついただけで。


 困りごとの道は、三日で形になり始めた。


 針仕事の家には、那古野から正式な仕事を出した。


 仕事を出すだけではない。


 布を届け、仕上がりを受け取り、銭を払う者が行き来する。


 その行き来の中で、困りごとは少しずつ置かれる。


 おまきは、帰蝶へ名を伏せた紙を渡すようになった。


 志乃の家。


 夫が役を外され、米が減っている家。


 姑の言葉がきつく、子供が近所でからかわれている家。


 名は書かれていない。


 だが、事情は分かる。


 帰蝶はそれを読んで、すぐに助ける家と、様子を見る家を分けた。


「すぐ助ける家と、助けてはいけない家があります」


 帰蝶は俺に言った。


「助けてはいけない?」


「はい。いきなり米を渡せば、周囲に知られて余計に傷つく家があります。仕事を渡す形にした方がよい家もあります。逆に、今夜の飯に困る家は、形を気にしていては遅い」


「難しいな」


「暮らしですので」


 暮らし。


 この言葉も最近、重くなった。


 戦より小さいようで、戦より扱いにくい。


 柴田の兵からも、話が上がってきた。


 稲生で敵味方に分かれた後、同じ鍋を囲ませてはいる。


 だが、まだ昔の組に戻りたがる者がいる。


 柴田に従うことへ不満を持つ者。


 逆に、柴田が信長へ従ったことを「腰が折れた」と陰で言う者。


 信勝の名を口に出さないが、心の中ではまだそちらを見ている者。


 柴田は、それを怒鳴って黙らせるのではなく、まず鍋の後で聞くようにした。


 武骨な聞き方だったらしい。


「不満があるなら、飯を食ってから言え」


 それだけだ。


 だが、腹が満ちると、人は少し言葉を選ぶ。


 怒りのまま叫ぶ者は減る。


 代わりに、ぽつりと本音が出る。


「父が林方だったので、家で肩身が狭い」


「柴田様についていけば、また裏切り者と言われぬか」


「信勝様を悪く言う者も、信長様を怖がる者も、同じ鍋で黙るしかないのが苦しい」


 柴田は、それを全部覚えてきた。


 いや、全部ではないだろう。


 だが、思った以上に覚えていた。


「柴田」


 俺が言うと、柴田は少し不満そうにした。


「何でございましょう」


「お前、聞ける男だったのだな」


「褒めておられますか」


「かなり」


「……それは、どう受ければよろしいのか」


「素直に受けろ」


 柴田は少しだけ頭を下げた。


「兵の不満は、放れば刃になります。刃になる前は、ただの愚痴です」


「よい言葉だ」


「長秀殿が書きそうですな」


「もう書いている」


 長秀は横で筆を動かしていた。


 柴田は少し笑った。


 兵の愚痴。


 台所の薄い味噌。


 針仕事の家の継ぎ布。


 馬借の道の文句。


 商人の値の不安。


 それぞれが、困りごとの道を通って集まってくる。


 集まりすぎると、今度は溺れそうになる。


 国とは、これほど人の小さな困りごとでできているのか。


 正直、気が遠くなった。


 その日の午後、仁助が来た。


 いつもの軽い顔ではない。


 少しだけ真面目だった。


「若様」


「何だ」


「道の困りごと、拾ってきました」


「言え」


「境の蔵へ続く道普請、効いてます。向こうは荷を動かしにくくなってる。けど、そのせいで、別の細道へ荷が流れ始めました」


「どこだ」


 仁助は地図を指した。


「ここです。小さな祠の裏を抜ける道。普段は村人しか使わない」


「荷は」


「少ないです。けど、軽い荷が多い。文か、小袋か、薬草か」


「誰が運ぶ」


「子供と女です」


 部屋が静まった。


 女。


 子供。


 相手も道を変えてきた。


 男の馬借や商人が見られるなら、女や子供を使う。


 これが、外の影の嫌なところだ。


 見えにくい場所へ入る。


「帰蝶」


「はい」


「また、お前の目が要る」


「分かっています」


 帰蝶の顔は、もう少しも驚いていなかった。


 むしろ、予想していたようにも見える。


「おたえ」


「はい」


「村の女たちの道を聞けるか」


「聞けます。ただ、急げば怪しまれます」


「急がず、だが見失うな」


「難しいご命令です」


「俺もそう思う」


 おたえは少し笑った。


「ですが、やります」


 この城の女たちは、本当に強い。


 夕方、清洲から久右衛門が来た。


 商いの顔で来たが、用件は困りごとの道だった。


「若君」


「今度は何だ」


「困りごとを届ければ聞いてもらえる、という噂が広がり始めました」


「早いな」


「早すぎます」


 久右衛門の顔は渋い。


「本物の困りごともあります。ですが、便乗も出ています」


「やはりか」


「はい。ある商人が、『那古野へ困っていると言えば税をまけてもらえる』と触れ回っています」


 長秀が眉を寄せた。


「誰です」


「名は後で。ただ、清洲の商人ではありません。最近入り込んだ者です」


「今川の影か」


「かもしれません。あるいは、ただの小悪党かもしれません」


 困りごとの道を作れば、偽物が来る。


 来ると分かっていた。


 それでも腹が立つ。


「どうする」


 久右衛門が聞いた。


 俺は少し考えた。


「困っていると言っただけでは、何も減らさぬ」


「では」


「困りごとは聞く。だが、何をどう困っているか、誰が見たか、どこで直せるかを聞く。困りごとは、免じるためだけでなく、直すためにある」


 久右衛門は頷いた。


「よいと思います」


「商人には、お前から言え」


「私が?」


「清洲の商いの話だ。那古野から言えば押しつけになる」


「承知しました」


「長秀」


「はい」


「困りごとの道に、偽物を見分ける筋を入れろ」


「具体には」


「一つ、困りごと。二つ、困った理由。三つ、誰が見たか。四つ、どう直せるか。五つ、すぐ助けるか、仕事に回すか、様子を見るか」


「整理します」


「ただし、細かくしすぎるな。細かすぎれば、本物が逃げる」


「はい」


 困りごとを聞くにも、作法がいる。


 聞きすぎれば尋問になる。


 聞かなすぎれば、騙される。


 また線引きだ。


 この数十日、俺はずっと線ばかり引いている気がする。


 清洲と那古野の線。


 祈りと商いの線。


 名と責の線。


 火と影の線。


 そして今度は、本物の困りごとと偽物の困りごとの線。


 面倒だ。


 だが、この線を引かないと、人は外の影に引かれていく。


 夜になって、信勝が文を持ってきた。


 旧臣筋へ静かに回す文の改めだ。


 前より少し短く、強くなっていた。


 ――困りごとは、恥ではありません。けれど、困りごとの名を借りて他家を傷つけることは、恥です。私の名を頼るなら、外の影へではなく、兄上と私の前へ届けてください。


 俺は読み、頷いた。


「よい」


「強すぎませんか」


「強い方がいいところだ」


「困りごとは恥ではない、だけでは甘いと思いました」


「ああ。偽物も出ている」


「だから、困りごとの名を借りる者を止める言葉が必要です」


「その通りだ」


 信勝は少しだけ安心したようだった。


 自分の言葉が、ただ柔らかいだけでは足りないと分かってきている。


 時には、柔らかい布にも針がいる。


 針仕事の家を見た後だからか、そう思った。


 その夜、帰蝶が小さな包みを持ってきた。


 中には、針仕事の家から戻った布が一枚入っていた。


 継ぎ目が丁寧だ。


 古い布と新しい布が、うまく合わされている。


「志乃さんの手です」


 帰蝶が言った。


「そうか」


「銭は、正しく払いました」


「家の様子は」


「少しだけ米が買えたようです。ただ、夫の方はまだ沈んでいます」


「役を戻すか」


「まだ早いかと」


「なぜ」


「役が戻れば、周囲は『困れば戻る』と見ます。夫本人も、何もせず戻ったと思われれば余計に肩身が狭い」


「では」


「小さな仕事からです。那古野の下働きではなく、清洲でできる仕事。文運びではなく、布や道具の修繕に関わるものがよいかと」


「文運びは駄目か」


「また利用されます」


 その通りだ。


 一度、使い走りとして巻き込まれた男を、また文運びに戻せば同じ穴に落ちる。


 別の道を作る必要がある。


「長秀に伝える」


「はい」


「帰蝶」


「何でしょう」


「お前がいなければ、見えなかった」


 帰蝶は一瞬、驚いた顔をした。


 今日は俺の勝ちかもしれない。


 だが、彼女はすぐに静かに笑った。


「では、見えた分だけ働いていただきます」


「そう来るか」


「はい」


 まったく。


 勝った気がしたのは一瞬だった。


 翌日、困りごとの道に最初の形ができた。


 広い触れではない。


 大きな制度でもない。


 ただ、いくつかの入口を決めた。


 女たちの困りごとは、針仕事の家と台所へ。


 兵の困りごとは、鍋の後で組頭へ。


 商人の困りごとは、久右衛門を通じて。


 馬借と道の困りごとは、仁助を通じて。


 清洲の古い面目に関わるものは、河尻へ。


 そして、信勝の名に関わる困りごとは、信勝の文を通じて、必ず俺のところへも届くようにする。


 全部を直接聞くわけではない。


 だが、流れる道を作る。


 外の影へ渡る前に、こちらへ届く道を。


 その日の夕方、最初の偽物も捕まった。


 清洲の商人を名乗った男が、困っている家の名を使い、銭を引き出そうとした。


 久右衛門が見抜いた。


 男は最近、駿河屋宗右衛門と同じ宿に泊まっていたという。


 まだ今川の者とは断定できない。


 だが、影に近い。


「どう処しますか」


 久右衛門が聞いた。


「すぐ斬るな」


「はい」


「困りごとを騙った者には、本物の困りごとを見せる」


「と、申しますと」


「針仕事の家へは近づけぬ。だが、道普請へ回せ。飯を食うために働く者の横で働かせろ」


 長秀が少し笑った。


「また道普請ですか」


「責の置き場だ」


「便利ですね」


「便利だから使う」


 柴田が低く言った。


「若君、最近は罰が鍬に寄りますな」


「鍬で攻めているからな」


 部屋に小さな笑いが起きた。


 だが、笑いだけでは終わらない。


 困りごとの道は、できたばかりだ。


 これから何度も騙されるだろう。


 曲げられるだろう。


 外の影は、必ずこの道にも入ってくる。


 だが、道がなければ、本物の困りごとまで影へ流れる。


 なら、道を作るしかない。


 泥の道。


 火の道。


 飯の道。


 そして、困りごとの道。


 尾張の地図には、目に見えない道が増えていく。


 俺は夜、地図の端に小さく書いた。


 困りごとは、恥ではない。


 だが、困りごとの名を盗む者には責を置く。


 信勝の言葉と、俺の言葉が混ざった。


 たぶん、それでいい。


 尾張は一人の言葉では足りない。


 裂けた布を縫うには、糸も針も手も要る。


 布を引く者、押さえる者、縫う者、直した後に着る者も要る。


 困りごとの道は、まだ細い。


 いつ切れてもおかしくない。


 だが、一本通った。


 外の影へ流れる前に、こちらへ戻る細い道が。


 それだけでも、今日は前に進んだと言っていい。


 たぶん。


 いや、かなり。

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