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第45話 針仕事の家

針仕事の家へ、帰蝶が向かうことになった。


 俺は最後まで止めたかった。


 止めたかったが、止めなかった。


 止めれば、見えないものがある。


 男の足で踏み込めば閉じる戸がある。


 武士の名で問えば、黙る口がある。


 信長の妻という立場で行けば、逆に開くものもある。


 それは分かっている。


 分かっているが、腹の底は落ち着かなかった。


「信長様」


 出立前、帰蝶は静かに俺を見た。


「そのお顔では、私が戦場に出るように見えます」


「同じようなものだ」


「針仕事の家です」


「針も刺さる」


「槍ほどではありません」


「お前の言葉は槍より刺さる時がある」


 帰蝶は少し笑った。


「それは、褒め言葉として受け取ります」


「今回は褒めている」


「では、ありがたく」


 供は少ない。


 目立つ護衛はつけない。


 だが、離れたところに津々木の者を置く。


 帰蝶の身の回りには、台所のおたえが選んだ女中二人。


 表向きは、針仕事を頼むための訪問。


 清洲の女たちの手仕事を、那古野でも使えないか見たい。


 そういう名目だ。


 名目は嘘ではない。


 嘘ではないが、全部でもない。


 政とは、こういう半分の真を積み上げるものなのかもしれない。


 嫌な言い方だが。


「兄上」


 信勝が、俺の隣に立った。


 帰蝶の姿が門の向こうへ消えていくのを、同じように見送っている。


「帰蝶様なら、大丈夫です」


「分かっている」


「分かっていても、心配なのですね」


「お前、最近本当に人の顔を見るようになったな」


「兄上の周りにいると、自然に」


「よくない流行だ」


 信勝は小さく笑った。


 だが、その顔もまた硬い。


 針仕事の家は、信勝の名に心を寄せた家々の女たちが集まる場所でもある。


 稲生の後、夫や父や兄が役を失い、家の中で立場をなくした女たち。


 縁談が止まった娘。


 嫁ぎ先で肩身の狭い思いをする若い妻。


 米を買う量を減らした母。


 男たちの面目が傷ついた時、家の中で先に痛むのは、しばしば女たちの暮らしだ。


 俺は、それを見ていなかった。


 いや、見ようとしていなかった。


 戦の後、許した。


 処分を軽くした。


 役を外し、命は取らなかった。


 それで終わりだと思っていた。


 だが、命を取られなかった者にも、暮らしは残る。


 その暮らしの中で、怨みはゆっくり染みる。


 布に匂いが移るように。


 帰蝶の言葉が、まだ耳に残っていた。


 針仕事の家は、清洲の町外れにあった。


 大きな家ではない。


 古いが、手入れはされている。


 入口には布切れが干されていた。


 白いもの、藍に染めたもの、子供の着物をほどいたもの、古い帯を裁ったもの。


 女たちの手で何度も使われ、直され、別の形へ変えられていく布だ。


 帰蝶は馬を降り、歩いて門をくぐった。


 迎えたのは、五十前後の女だった。


 名をおまきという。


 かつて林美作守の家に近い家へ嫁ぎ、今は未亡人として針仕事をまとめている女だという。


「帰蝶様にお越しいただくとは、恐れ多いことでございます」


 おまきは丁寧に頭を下げた。


 だが、声には硬さがあった。


 恐れだけではない。


 警戒だ。


 帰蝶はそれを無理にほどこうとはしなかった。


「急に訪ねて、こちらこそ失礼いたします。清洲の針仕事は丁寧だと聞きました」


「お褒めいただくほどのものでは」


「見せていただいても?」


 おまきは一拍置き、奥へ通した。


 家の中には、女が八人ほどいた。


 年配の者、若い妻、まだ娘と言ってよい年頃の者。


 皆、手元に布を持っている。


 帰蝶が入ると、一斉に手が止まった。


 針仕事の家は、静かだった。


 だが、その静けさは空っぽではない。


 針が布を通る小さな音。


 糸を引く音。


 布を畳む音。


 誰かが息を呑む音。


 そういうものが、静けさの中に潜んでいた。


「続けてください」


 帰蝶は柔らかく言った。


「手を止めさせに来たのではありません」


 誰もすぐには動かない。


 おまきが小さく頷くと、ようやく針が動き出した。


 ぎこちない。


 それでも、動いた。


 帰蝶は座敷の端に座り、女中に持たせた布を出させた。


「那古野で使う襦袢の直しを、いくつかお願いしたいのです。急ぎではありません。丁寧な仕事を探していました」


「那古野の仕事を、こちらへ?」


 若い女が思わず口を出した。


 すぐにおまきが目で制する。


 帰蝶はその若い女を見た。


 年は十七、八か。


 少し痩せている。


 目の下に疲れがある。


「お名前は?」


「……志乃にございます」


「志乃さん。清洲の手は、那古野へ届いてはいけませんか」


 志乃は戸惑った。


「いけない、ということでは」


「なら、届いてよいのです」


 帰蝶は布を広げた。


「道も荷も、針仕事も、人が使うものです。よい仕事なら、届く方がよい」


 女たちの手が、少しだけ動きやすくなった。


 言葉は、いきなり怨みを聞くものではない。


 まず、手を動かさせる。


 帰蝶はそれを知っていた。


 しばらく、布の話をした。


 糸の太さ。


 清洲で手に入りやすい染め。


 那古野で足りない白布。


 子供の着物を大人の袖裏へ回す工夫。


 男たちの評定では出ない話だ。


 だが、暮らしはそこにある。


 やがて、おまきが少し声を低くした。


「帰蝶様」


「はい」


「本日は、本当に針仕事のご用だけで?」


 来た。


 帰蝶は、すぐには答えなかった。


 布を一枚畳み、膝の上へ置いた。


「半分は」


 おまきの目がわずかに動いた。


 この言い方まで、もう尾張中に染みているのかもしれない。


「もう半分は、話を聞きに来ました」


「誰の話を」


「ここに来る方々の困りごとを」


 その瞬間、針の音が止まった。


 志乃も、年配の女も、若い妻も、全員が帰蝶を見た。


 困りごと。


 怨みではない。


 不満でもない。


 罪でもない。


 困りごと。


 その言葉を選んだのは、信長だった。


 だが、それをこの場で使える形にしたのは帰蝶だった。


「困りごとなど」


 おまきが言った。


「武家の女でございます。皆、多少のことは」


「多少で済まぬこともあります」


 帰蝶は静かに返した。


「米の量が減ること。仕事がなくなること。縁談が止まること。家の男たちが黙り込むこと。子供が肩身の狭い思いをすること。そういうものは、帳面には載りにくい」


 女たちの顔が変わった。


 誰かが、唇を噛んだ。


 帰蝶は続けた。


「けれど、帳面に載らないものを放っておくと、外から来た者が拾います」


「外から」


「はい。三河から、駿河から、あるいは清洲の奥から。『あなたの痛みを分かっている』という顔で近づく者がいます」


 志乃の手が震えた。


 帰蝶は見逃さなかった。


 だが、すぐには問わない。


 見られたと分かれば、相手は閉じる。


「信長様は」


 おまきが低く言った。


「私どもの困りごとまで、帳面に書こうとなさるのですか」


「いいえ」


 帰蝶は即答した。


「すべてを書けるものではありません。書いてはならないものもあります」


 おまきの表情が少しだけ変わった。


「では、何を」


「まず、聞く場所を作りたいのです。名を出さずともよい。家の恥にしなくてもよい。困りごとを、外の影へ渡す前に、こちらへ置ける場所を」


 長い沈黙が落ちた。


 針仕事の家に、外の鳥の声だけが聞こえる。


 やがて、志乃が小さく言った。


「置いたら、戻ってくるのですか」


 帰蝶は志乃を見た。


「何が?」


「夫の役です」


 部屋の空気が固まった。


 志乃は、言ってしまったという顔をした。


 しかし、もう戻せない。


「夫は、稲生の前に信勝様の側へ寄りました。戦には出ていません。ただ、使いを一度しただけです。それで役を外されました」


 志乃の声は震えていた。


「命を取られなかったことは、ありがたいと思っています。けれど、家には米が減りました。姑は私を責めます。『お前が嫁に来てから運が落ちた』と。夫は黙って酒を飲みます。子はまだ小さいのに、近所の子から、負け犬の家だと言われました」


 おまきが目を伏せた。


 他の女たちも、誰も志乃を止めなかった。


 つまり、皆知っていたのだ。


 志乃は続けた。


「信長様は、許したとおっしゃるのでしょう。けれど、許された後の家は、誰が見るのですか」


 帰蝶は、すぐに答えなかった。


 答えが簡単ではないからだ。


 ここで「信長様が見ます」と軽く言えば、嘘になる。


 かといって、「それは仕方ない」と言えば、この家の戸は二度と開かない。


「志乃さん」


 帰蝶は静かに言った。


「戻せるものと、すぐには戻せないものがあります」


 志乃の目に、少し怒りが浮かんだ。


「では」


「ですが、見ないままにはしません」


「見て、どうなさるのですか」


「まず、使いを一度しただけの者と、火をつけようとした者を同じに扱わないよう、改めて調べます」


 志乃は黙った。


「役を戻せるかどうかは、その後です。ただ、仕事を完全になくせば家が潰れます。家が潰れれば、怨みだけが残る。それは信長様も望まれません」


「本当に?」


「本当です」


 帰蝶は、まっすぐ言った。


「ただし、外の影へ頼れば、戻れるものも戻れなくなります」


 志乃の肩が震えた。


「誰か、来ましたか」


 帰蝶が問う。


 志乃は唇を噛んだ。


 しばらくして、かすかに頷いた。


「下女の姿の方が」


 おまきが息を呑んだ。


「何を」


「困っているなら、清洲の古い方々が見捨てない、と。信勝様の本当のお心を知る方もいる、と」


 帰蝶の目が、ほんのわずかに冷えた。


「信勝様の名を?」


「はい」


「その方は、どこへ」


「ここへは一度だけ。文を預かってくれと」


「預かったのですか」


 志乃は首を横に振った。


「怖くて、おまき様に相談しました」


 おまきが静かに頷いた。


「私が預かりました」


「見せていただけますか」


 おまきは迷った。


 だが、帰蝶は急かさない。


 やがて、おまきは奥の小箱から、小さく折られた紙を持ってきた。


 帰蝶は受け取り、開いた。


 そこには短く書かれていた。


 ――火は消えていない。信勝様の御名を忘れぬ家々へ、飯は届く。急がず、時を待て。


 同じ言葉。


 火。


 飯。


 信勝の名。


 帰蝶は文を閉じた。


「これは、信勝様のお言葉ではありません」


 志乃が目を伏せた。


「分かっています。けれど、少しだけ、信じたくなりました」


「なぜ」


「誰かが、見てくれていると思いたかったからです」


 その言葉は、帰蝶の胸にも刺さった。


 信長にも、後で刺さることになる。


 誰かが見てくれていると思いたかった。


 怨みとは、怒りだけではない。


 見られなかった悲しみが、形を変えたものでもある。


「志乃さん」


 帰蝶は言った。


「この文は、私が預かっても?」


「はい」


「その代わり、あなたの家の困りごとは、名を伏せて信長様と信勝様へ伝えます」


「信勝様にも?」


「はい」


 志乃の顔が揺れた。


 信勝の名が、まだ彼女の中では特別なのだろう。


 それは危うい。


 だが、そこを否定しても閉じるだけだ。


「信勝様は、ご自分の名で外の影を招くことを望まれません」


 帰蝶は静かに続けた。


「けれど、ご自分の名を頼った者の困りごとを聞かぬ方でもありません」


 志乃は、初めて少し泣きそうな顔をした。


 泣かなかった。


 針を持つ女たちは、そう簡単に人前で泣かないのかもしれない。


 その後、別の女も口を開いた。


 兄が役を失った家。


 夫が清洲の古い者に誘われている家。


 姑が「信勝様なら」と言い続ける家。


 子供が那古野へ奉公に出たいが、家の名で断られた家。


 ひとつひとつは小さい。


 だが、小さいものが積もっている。


 それは、塩樽や味噌樽と同じだった。


 小口で集まり、ある時、大きな荷になる。


 帰蝶は全部を覚えた。


 書かなかった。


 この場で書けば、女たちは閉じる。


 帰った後で、おたえと二人で、名を伏せて形にする。


 そう決めていた。


 針仕事の家を出る時、おまきが頭を下げた。


「帰蝶様」


「はい」


「私どもは、信長様を憎みたいわけではございません」


「分かっています」


「けれど、誰かを憎まねば立っていられぬ夜があるのです」


 帰蝶は、その言葉を受け止めた。


「その夜を、外の影に渡さぬようにしたいのです」


 おまきは黙って頭を下げた。


 帰蝶が戻ったのは、夕暮れ前だった。


 俺は待っていた。


 当然のように帰蝶は言った。


「歩いておられましたね」


「足音か」


「はい」


「もう言い訳もしない」


「それがよいと思います」


 帰蝶は座り、文を出した。


 俺は開いた。


 火は消えていない。


 信勝様の御名を忘れぬ家々へ、飯は届く。


 急がず、時を待て。


 信勝が隣で読んだ。


 顔が白くなった。


「私の名を」


「使われている」


 俺は言った。


 信勝は文を握りしめそうになり、途中で止めた。


 紙を破らなかった。


 それだけでも、あいつは強くなっている。


「誰が受け取ったのですか」


 信勝が聞いた。


 帰蝶は志乃の名を出さなかった。


「名は伏せます。ですが、困っている家があります」


「私に心を寄せていた家ですか」


「はい」


 信勝は目を閉じた。


「聞かせてください」


 帰蝶は、ゆっくり話した。


 志乃の家のこと。


 役を外された夫。


 減った米。


 姑の言葉。


 子供の肩身。


 下女姿の女が来たこと。


 文を預けようとしたこと。


 おまきがそれを止めたこと。


 他の女たちの困りごと。


 俺は黙って聞いた。


 柴田も、長秀も、佐久間もいた。


 誰も口を挟まなかった。


 話し終えると、部屋には重い沈黙が落ちた。


「私は」


 信勝が言った。


「私は、自分の名を使われることばかり恐れていました」


 声が震えていた。


「けれど、私の名を頼った者たちの暮らしも、見ていませんでした」


「お前一人の責ではない」


 俺は言った。


「兄上」


「俺の責でもある」


 それは、本心だった。


 許す。


 処分する。


 役を外す。


 命を取らない。


 そういう大きな線は引いた。


 だが、その後の暮らしを見ていなかった。


 それは、俺の落ち度だ。


「長秀」


「はい」


「稲生後に役を外した者たちを、三つに分ける」


「三つ?」


「一つ、明確に火をつけようとした者。二つ、流されて使いをした者。三つ、家の名だけで巻き込まれた者」


 長秀の筆が動く。


「それぞれで扱いを変える」


「はい」


「佐久間」


「はっ」


「仕事を戻せる者、別の仕事を与える者、しばらく見守る者を分ける文を作る。ただし、恩赦とは言うな」


「では」


「暮らしの見直しだ」


 佐久間が頷いた。


「承知しました」


「信勝」


「はい」


「お前の文が要る」


「書きます」


 即答だった。


「私の名を頼った者へ。外の影へ文を渡す前に、困りごとをこちらへ届けよ、と」


「そうだ」


「そして、私も聞く。兄上とともに」


「ああ」


 信勝は、深く頭を下げた。


「書きます」


 柴田が低く言った。


「若君」


「何だ」


「兵の家でも同じことが起きます。役を外された者、組を変えられた者、かつて敵味方に分かれた者。家の中で火種が残ります」


「見ろ」


「はい」


「同じ鍋だけでは足りぬかもしれない」


「なら、鍋の後で話を聞きます」


 柴田らしい。


 だが、それでいい。


「帰蝶」


「はい」


「針仕事の家へ、那古野の仕事を出す」


「はい」


「ただし、施しにするな」


「もちろんです。仕事として」


「値も正しく払え」


「承知しています」


「それから、おまきに伝えろ。困りごとの置き場になってくれるなら、こちらも守る、と」


「はい」


 帰蝶は静かに頷いた。


 それは、小さな約束だった。


 だが、重い。


 針仕事の家は、ただの聞き取り場所ではなくなる。


 外の影へ怨みを渡す前に、困りごとを置く場所になる。


 そこが壊されれば、女たちは二度と口を開かない。


 守らなければならない。


 その夜、信勝は文を書いた。


 何度も書き直した。


 俺も見た。


 佐久間も整えた。


 帰蝶も目を通した。


 最終的に、短い文になった。


 ――私の名を覚えてくださる方々へ。その心を、私は忘れません。けれど、その心を外の影へ渡さないでください。困りごとがあるなら、名を伏せても届けてください。私は兄上とともに聞きます。私の名は、尾張を割るためではなく、尾張で生きる者を見捨てぬために使いたいのです。


 信勝の文だった。


 俺には書けない。


 だから、意味がある。


 その文は広く触れとしては出さない。


 針仕事の家、おまき、信頼できる女たち、旧臣筋の一部へ、静かに回す。


 また盗まれるかもしれない。


 曲げられるかもしれない。


 だが、黙れば向こうの文だけが残る。


 なら、こちらも置く。


 何度でも。


 翌日、那古野から針仕事の家へ正式に仕事が出された。


 襦袢の直し。


 旗の端布の縫い直し。


 兵の下着の補修。


 地味な仕事だ。


 だが、きちんと銭が払われる。


 名目は施しではない。


 仕事だ。


 志乃の家にも、少しだけ仕事が回るようにした。


 夫の役はまだ戻さない。


 だが、家の米が完全に途切れないようにする。


 甘いと言う者もいるだろう。


 だが、飢えた怨みは外の影に食われる。


 それよりは、仕事として糸を渡す方がよい。


 俺は地図の空き屋敷と針仕事の家の間に、細い線を引いた。


 その線の横に、こう書いた。


 困りごとの道。


 長秀がそれを見て、少し考えた。


「若様」


「何だ」


「また道が増えましたね」


「ああ」


「今度は、泥ではなく人の中の道ですか」


「そうだ」


「帳面に書きにくい道です」


「だから、お前だけでは足りない」


 長秀は頷いた。


「帰蝶様、おたえ、信勝様。皆の帳面が要りますね」


「そういうことだ」


 長秀は、少し笑った。


「尾張は、ずいぶん帳面の多い国になります」


「嫌か」


「いいえ」


 珍しい答えだった。


「ただ、寝る時間は減りそうです」


「そこは増やせ」


「努力します」


 信用ならない返事だった。


 その夜、帰蝶が言った。


「針仕事の家は、まだこちらを信じたわけではありません」


「分かっている」


「仕事を一度出しただけでは、足りません」


「ああ」


「でも、戸は少し開きました」


「清洲の扉と同じだな」


「はい。女たちの戸は、もっと静かに開きます」


「閉まる時もか」


「静かに閉まります。だから、気づきにくい」


 俺は黙った。


 気づかなければならない。


 道の泥だけでなく、台所の塩だけでなく、布に染みた怨みまで。


 国を持つとは、どこまで見ればいいのか。


 答えはない。


 ただ、見えたものから逃げることはできない。


 人の怨みは道に落ちない。


 だが、針仕事の布には染みる。


 その染みを、外の影が拾う前に、こちらで受け止める。


 それもまた、戦だった。


 槍も馬も出ない。


 けれど、尾張を割らせないための戦だ。


 俺は灯火を見た。


 火は小さい。


 その横で、帰蝶が針仕事の家から持ち帰った布を畳んでいた。


 布は、何度も直されている。


 継ぎ目がある。


 だが、まだ使える。


 尾張も、そうなのかもしれない。


 裂けたところを隠すのではなく、丁寧に縫い直す。


 縫い目は残る。


 だが、残ってもよい。


 縫い目があるから、そこを次は気をつけられる。


 俺は、うつけと呼ばれた男だ。


 鍬で攻め、帳面で名を残し、飯で噂を流し、今度は針仕事の家で怨みを拾う。


 ずいぶん妙な戦をしている。


 だが、悪くない。


 いや、かなり悪くない。

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