第44話 人の怨みは道に落ちぬ
人の怨みは道に落ちぬ。
その言葉は、朝になっても耳から離れなかった。
道なら見える。
ぬかるみも、轍も、橋板の傷みも、馬の足跡も見える。
塩樽が増えたことも、味噌が動いたことも、飼葉が集まったことも、帳面に残せる。
火も見える。
灯明が消えかけているなら油を足せる。
荷場の火が危ういなら見回りを置ける。
名も、ある程度は見える。
誰が誰の名を掲げ、どの筋で荷を止めたかを問えば、少なくとも紙の上には残せる。
だが、怨みは見えない。
道の上に落ちていない。
橋の下にも、蔵の床下にも、そのままの形では入っていない。
それでも、人を動かす。
外の影に、内の火種を渡す。
昨夜、滝川左内が入った空き屋敷。
そこで聞こえたという言葉。
信長は道ばかり見ている。
人の怨みは道に落ちぬ。
腹立たしい言葉だった。
腹立たしいのは、そこに半分の理があるからだ。
「若様」
夜明け直後、長秀が報告を持って来た。
顔色は悪い。
しかし目は眠っていない。
この男の目は、寝不足になるほど細く鋭くなる。
体には悪いが、仕事には向く。
「蔵の床下を確認しました」
「何があった」
「塩の小袋、干飯、薬草、鉄具。それから、短い書付が二つ」
「書付?」
「名はありません。ただし、合図のようです」
長秀は写しを差し出した。
一つ目には、こうあった。
――火はまだ消えず。
二つ目には、短く。
――飯は届く。
俺はその紙を見て、しばらく黙った。
火。
飯。
こちらがこのところ扱ってきた言葉だ。
清洲の火。
兄弟の飯。
それを、向こうも使っている。
「こちらの言葉を、また盗んだか」
信勝が低く言った。
いつの間にか部屋に来ていた。
顔が硬い。
熱田の言葉を奥の文に似せられた時と同じ痛みがある。
「火はまだ消えず、か」
俺は紙を指で押さえた。
「火種は残っている、という意味だろうな」
「飯は届く、は」
長秀が言った。
「兵糧、あるいは内応者への支援かと」
「内応者というほど大きなものではないかもしれぬ」
佐久間が慎重に言った。
「不満を持つ者へ、こちらは見ている、助ける、という合図かもしれません」
「火種へ飯をやる」
柴田が低く唸った。
「燃やすためですな」
その通りだった。
火種は、放っておけば消えるものもある。
だが、そこへ飯が届く。
塩が届く。
味噌が届く。
言葉が届く。
そうすれば、くすぶっていたものがまた熱を持つ。
外の影は、尾張の内の怨みに餌をやろうとしている。
「左内は」
俺が聞くと、恒興が答えた。
「まだ空き屋敷にいます。夜明け前に一度、外へ出ましたが、すぐ戻りました。作兵衛は蔵を出て三河側へ向かいました」
「追っているか」
「仁助の者が、境の手前まで」
「深入りするな」
「はい」
「空き屋敷の年寄りは見えたか」
「今朝、戸口に出ました。名はまだ。ただ、林美作守様の古い家臣、佐橋勘解由に似ていると、見知った者が」
佐橋勘解由。
その名には覚えがあった。
林美作守の周りにいた古参。
稲生の前には表へあまり出ず、しかし文や使いを運ぶ者たちの後ろにいた男。
戦場で槍を振るうより、人の腹を読む方を好む顔だった。
「生きていたか」
柴田が言った。
「隠居したと聞いておりました」
「隠居した者ほど、怨みを煮詰める時間がある」
俺が言うと、部屋が静まった。
自分で言って、胸が少し冷えた。
年寄りの怨みは厄介だ。
勢いで燃える若者の怒りとは違う。
日々の中で冷め、また温まり、形を変え、理屈をまとい、やがて自分でも正義のように見えてくる。
佐橋勘解由がそうだと決まったわけではない。
だが、昨夜の言葉は古い男の言葉だった。
道だけでは人の怨みは拾えぬ。
それを言える者は、道を見ていない者ではない。
道の外側に、人の腹があると知っている者だ。
「捕らえるか」
柴田が問う。
声は抑えているが、今度こそという響きがあった。
「まだだ」
俺は答えた。
柴田は眉を寄せた。
「若君」
「言え」
「ここまで見えれば、捕らえて吐かせる方が早いのでは」
「早い」
「なら」
「早すぎる」
柴田は黙った。
「佐橋が本当に奥にいる者なら、捕らえた瞬間に周りが切れる。左内も作兵衛も、ただの使い走りになる。三河側の作兵衛が誰へ戻るか、岡崎の誰がこれを知っているか、今川のどこまで届いているか。それが見えぬ」
「しかし、逃げれば」
「逃がさぬための目は置く」
俺は地図を見た。
空き屋敷。
境の蔵。
三河への道。
清洲。
那古野。
そこに薄い線が走っている。
「それに、今は佐橋だけを見ていては足りぬ」
「ほかに?」
「怨みだ」
部屋が静まった。
「佐橋一人を捕らえても、怨みは残る。左内一人を斬っても、似た男はまた出る。稲生の残り火がどこにあるかを見なければならない」
信勝が静かに言った。
「私の名の周りですね」
「ああ」
「では、私も」
「お前は動くな」
信勝が少し息を呑んだ。
「なぜです」
「今、お前が動けば、怨みを持つ者は姿を隠す。信勝様に知られたと思うからだ」
「ですが」
「お前の言葉は要る。だが、今はまだ場に出す時ではない」
信勝は苦しそうに目を伏せた。
自分の名が使われている可能性があるのに、自分が動けない。
それは痛いだろう。
だが、動けば見えなくなるものがある。
「信勝」
俺は少し声を柔らかくした。
「お前が悪いのではない」
「分かっています」
「分かっている顔ではない」
信勝は小さく笑った。
笑ったが、痛みは消えない。
「分かっていても、痛いのです」
「そうだな」
それ以上は言えなかった。
人の怨みは道に落ちぬ。
人の痛みも、帳面にはそのまま載らない。
それでも見なければならない。
午前のうちに、俺は三つの手を打った。
一つ目。
空き屋敷は見張る。
だが踏み込まない。
左内が出る先、佐橋らしき老人へ出入りする者、食い物を運ぶ者を拾う。
二つ目。
境の蔵は、道普請を続ける。
床下の荷は、すぐにはすべて押さえない。
一部だけ「湿気で傷む」として表へ出し、記録に入れる。
隠し荷を完全に奪えば、相手は警戒する。
少しだけ動かし、反応を見る。
三つ目。
稲生の後に処分を軽くした者、屋敷へ戻した者、役を外した者の様子を、改めて聞く。
ただし、詮議としてではない。
暮らしを見に行く。
米は足りているか。
役を失った後、誰と会っているか。
家の者が不満を漏らしていないか。
人の怨みは道に落ちない。
なら、人の暮らしに入るしかない。
「若様」
長秀が言った。
「それは、かなり広い仕事になります」
「分かっている」
「帳面だけでは拾いきれません」
「だから、帳面だけでは拾わぬ」
長秀が顔を上げた。
「おたえの台所帳、仁助の道の耳、久右衛門の商い、柴田の兵、信勝の言葉。全部使う」
「怨みも、帳面に?」
「そのままは書けぬ」
「では」
「困りごとを書く」
長秀の筆が止まった。
「困りごと」
「米が足りぬ。役を失った。面目が潰れた。息子の縁談が止まった。誰も訪ねて来なくなった。そういう形なら書ける」
信勝が静かに頷いた。
「怨みの前には、困りごとがある」
「そうだ」
帰蝶が、そこで初めて口を開いた。
「それは、よい見方です」
「かなりか」
「かなり」
「なら使う」
「はい」
帰蝶は続けた。
「ただし、困りごとを聞く者を間違えると、辱めになります」
「誰に聞かせる」
「女の困りごとは女が聞いた方がよいこともあります。台所、針仕事、子供、嫁入り。そこから出る怨みもあります」
「おたえか」
「おたえだけでは足りません。私も聞きます」
俺は帰蝶を見た。
「お前が?」
「はい」
「危なくないか」
「信長様が直接聞くよりは危なくありません」
それはそうだ。
反論できない。
「美濃でも、女たちの怨みは男たちの戦より先に家を割ることがあります」
帰蝶の声は静かだった。
「台所の耳は、食い物だけを聞くのではありません」
その通りなのだろう。
俺は、また一つ知らない戦場を見せられた気がした。
午後、仁助から作兵衛についての続きが来た。
作兵衛は三河へ戻る途中、境の宿で薬売りと合流した。
そこで短い言葉を交わしたという。
――尾張の火種は残る。
――だが、信長は鍬を入れてくる。
――なら、怨みを掘られる前に移せ。
怨みを移す。
俺はその言葉を聞き、眉を寄せた。
「移すとは、どういう意味だ」
佐久間が考え込む。
「火種を別の場所へ移す、ということでしょうか」
柴田が言った。
「あるいは、人を動かす。左内や佐橋を移すかもしれませぬ」
「空き屋敷からか」
「はい」
長秀が帳面をめくった。
「佐橋勘解由らしき者がいる屋敷。もし本当に佐橋なら、長く同じ場所にはいないかもしれません」
「今夜動くか」
「可能性はあります」
俺はすぐ決めた。
「空き屋敷の見張りを増やせ。ただし、囲むな。逃げ道は一つ残す」
柴田が顔を上げた。
「逃げ道を?」
「逃げる先を見る」
「またですか」
「まただ」
柴田は大きく息を吐いた。
「若君は、魚を網に入れてからも泳がせる」
「網の先にいる者が見たい」
「承知しました」
このやり方は危険だ。
逃げられるかもしれない。
途中で誰かを殺されるかもしれない。
荷を消されるかもしれない。
だが、今ここで捕らえても、怨みは別の場所へ移る。
相手が「移せ」と言ったなら、その移し先を見る。
夜になる前、信勝が俺の部屋へ来た。
手には紙を持っている。
「兄上」
「何だ」
「私の名の周りで困っている者たちへ出す言葉を、考えました」
「見せろ」
信勝の字は整っている。
文は短かった。
――かつて私の名に心を寄せてくださった方々へ。私は、その心を忘れません。されど、私の名をもって外の影を招くことは、私を立てることではなく、私の名をふたたび傷つけることです。困りごとがあるなら、名を隠してでも届けてください。兄上とともに、聞きます。
俺は読み終えて、しばらく黙った。
「どうでしょうか」
信勝は不安そうだった。
「よい」
俺は言った。
「かなり」
信勝は少しだけ目元を緩めた。
「ただし、そのまま広くは出さない」
「はい」
「まず、信頼できる者を通して、届くべきところへ置く」
「分かっています」
「それから、最後の『兄上とともに』は効く」
「入れるべきか迷いました」
「入れろ」
信勝は頷いた。
「私一人で聞くと言えば、また私の名が独り歩きします。兄上だけが聞くと言えば、怖くて届かない者もいる。だから、共に、と」
「よく見えている」
「痛いからです」
信勝は静かに言った。
「自分の名が使われる痛みを知ると、見えるものがあります」
俺は何も言えなかった。
その文は、佐久間に整えさせた。
大きな触れにはしない。
旧臣筋、信勝に心を寄せていた家々、稲生の後で役を外された者たちへ、密やかに届くようにする。
密やかに、と言っても、完全な秘密ではない。
「信勝様が聞く耳を持っている」「信長様もそれを許している」という噂が流れればよい。
左内や佐橋のような者が、怨みを外へ渡す前に、こちらへ漏らす道を作る。
人の怨みは道に落ちない。
なら、怨みが歩ける道を作る。
それが今日の答えだった。
夜、空き屋敷が動いた。
報せは二つに分かれて来た。
一つ。
滝川左内が屋敷を出た。
荷は持っていない。
だが、袂に小さな包み。
川沿いではなく、清洲方面へ向かった。
二つ。
佐橋勘解由らしき老人は、屋敷を出なかった。
かわりに、屋敷の裏から若い女が一人出た。
下女の姿。
籠を持っている。
中身は野菜に見える。
だが、籠の底に文が隠されている可能性がある。
「女か」
俺は呟いた。
帰蝶がすぐに反応した。
「その女は、男たちの見張りでは止めにくいですね」
「ああ」
「私の者を出します」
「いるのか」
「います」
即答だった。
やはりいる。
もう驚かない。
「危なくないか」
「女の道には、女の目が必要です」
「頼む」
帰蝶は静かに頷き、すぐ動いた。
信勝の文、帰蝶の目、長秀の帳面、柴田の兵、仁助の道。
それぞれが同時に動き始めた。
戦場ではない。
だが、確かに戦だった。
深夜、帰蝶の者から報せが来た。
下女姿の女は、清洲の町外れにある小さな針仕事の家へ入った。
そこは、稲生の後に役を失った者の妻たちが、ときどき集まる場所だった。
男たちの怨みではない。
女たちの怨み。
家の面目が落ちたこと。
収入が減ったこと。
縁談が流れたこと。
夫が酒に逃げるようになったこと。
子供が肩身の狭い思いをしていること。
そういうものが、そこにある。
俺は、背筋が冷えた。
見えていなかった。
道ばかりではない。
男ばかりでもない。
怨みは、台所にも、針仕事の場にも、子供の寝顔の横にもある。
それを外の影が拾おうとしている。
「人の怨みは、道に落ちぬ」
俺は小さく呟いた。
帰蝶が隣にいた。
「はい」
「だが、台所には落ちるか」
「落ちるというより、染みます」
「染みる」
「はい。布に匂いが移るように」
嫌な言い方だ。
だが、分かる。
「帰蝶」
「はい」
「その針仕事の家へ、お前が行けるか」
「行けます」
「危険だ」
「だから、私が行きます」
俺は黙った。
止めたい。
だが、止めれば見えない。
帰蝶でなければ開かない戸がある。
「護衛は」
「目立たぬように」
「如才ないな」
「美濃の娘ですので」
帰蝶は少し笑った。
俺は、その笑いに救われたのか、不安になったのか分からなかった。
夜明け前、俺は一人で地図を見た。
空き屋敷。
境の蔵。
清洲の針仕事の家。
岡崎。
三河。
今川。
そして、那古野。
点が増えた。
道に落ちるもの。
台所に染みるもの。
針仕事の布に移るもの。
人の怨みは、形を変えてあちこちに潜む。
それを全部帳面に書くことはできない。
だが、見ないわけにはいかない。
俺は、今まで道を直せば国が少し整うと思っていた。
それは間違いではない。
だが、道だけでは足りない。
人の怨みを、外の影へ渡させない場所が必要だ。
困りごとを届ける道。
聞かれる場所。
責の置き場。
名の守り方。
飯を共にする場。
それら全部がいる。
面倒だ。
気が遠くなるほど面倒だ。
だが、ここを見落とせば、今川の影は必ずそこから入る。
俺は灯火を見た。
火は揺れている。
影も揺れている。
そして、影の中には人の顔がある。
怨みを持った顔。
困りごとを抱えた顔。
自分でも何を恨んでいるのか分からなくなった顔。
それらを、敵と呼んで斬るのは簡単だ。
簡単だから、たぶん危ない。
次は、そこへ入る。
鍬でも、槍でも、帳面でもなく。
人の暮らしの中へ。
外の影を断つために、内の怨みを見る。
それが、次の戦だった。




