第43話 作兵衛、夜に来る
その日の道普請は、いつもより少し静かに始まった。
表向きは昨日の続きである。
蔵へ続く荷道の水を逃がす。
橋板を替える。
轍を均す。
馬借の苦情を聞き、清洲の普請役が土を見て、那古野の者が控えを取る。
昨日と同じ。
そう見えなければならなかった。
だが、同じではない。
昨日は、蔵を見た。
今日は、蔵を使う者を見る。
昼の普請は、夜のための覆いだった。
俺は那古野に残った。
行きたい気持ちはあった。
かなりあった。
だが、俺が行けば、作兵衛は来ない。
あるいは、来ても別の顔をする。
だから待つ。
待つことは、時に出陣より難しい。
兵を動かす方が楽だ。
馬へ跨がり、槍を持たせ、進めと言えばよい。
だが、今日の戦は違う。
鍬で道を開き、闇の中で荷の行き先を見る。
こちらが息を荒くすれば、影は逃げる。
「兄上」
信勝が静かに声をかけた。
俺は地図から顔を上げた。
「何だ」
「また歩いておられます」
「歩いているか」
「はい。先ほどから、同じ場所を三度」
「よく見ているな」
「兄上の足音は分かりやすいので」
また足音か。
帰蝶だけではなく、信勝まで読むようになった。
困ったものだ。
信勝は地図の上、境の古い蔵へ目を落とした。
「作兵衛は、本当に来るでしょうか」
「甚六が嘘をついていなければな」
「甚六は嘘を?」
「全部はついていない。だが、全部を言ったとも限らない」
「怖いから見ない。昨日、そういう話でしたね」
「ああ」
人は、悪意だけで嘘をつくわけではない。
怖くて見ない。
見ないから言えない。
言えないから、嘘になる。
甚六のような男は、どこにでもいる。
そして、そういう男の名義の蔵に、影は荷を置く。
「兄上」
「何だ」
「もし、作兵衛の受け手が尾張の者だったら」
「そうだな」
「また、内側の話になりますね」
「ああ」
信勝は少し黙った。
「私の名を使おうとする者でしょうか」
「分からぬ」
「でも、可能性はある」
「ある」
隠しても仕方ない。
信勝はもう、隠して守れる弟ではない。
自分の名がどう使われるかを知っている。
ならば、可能性は伝えるべきだ。
信勝は、深く息を吸った。
「もし私の名が出たら、私が言います」
「何を」
「私の名で外の影を招くことは、私を立てることではなく、私をまた傷つけることだ、と」
よい。
だが、痛い言葉だった。
信勝は、自分が傷ついたことを政の言葉へ変え始めている。
強くなった。
だが、強くなるとは、傷が消えることではないらしい。
傷を使える形にすることなのかもしれない。
「使う」
俺が言うと、信勝は少しだけ笑った。
「まだ文にもなっていません」
「いずれ使う」
「では、覚えておきます」
その時、帰蝶が入ってきた。
手には膳ではなく、湯気の立つ椀がある。
「お二人とも、先に召し上がってください」
「この状況でか」
「この状況だからです」
言い返すだけ無駄だった。
信勝は素直に椀を受け取った。
俺も受け取る。
中身は粥だった。
少し塩が効いている。
塩の味を意識してしまう。
味噌、塩、飼葉、薬草。
食い物の動きが戦の前触れになると知ってから、飯の味まで変わって感じる。
「塩はいつも通りか」
俺が聞くと、帰蝶はわずかに笑った。
「いつも通りです。おたえがそう申していました」
「先回りされたな」
「顔に出ますので」
もう何も言うまい。
夕方、最初の報告が届いた。
表の普請は予定通り進んでいる。
犬千代を置いてきたことは正解だったらしい。
今日の現場は昨日より人が少ない。
犬千代がいなければ、見物人も減る。
見物人が減ると、動く者が動きやすくなる。
それが狙いだった。
村井新七は、表の道で水を逃がす溝を深くしている。
仁助は馬借たちと騒ぎながら、わざと作業を長引かせている。
長秀は表で帳面を取るふりをしながら、細道に人を置いた。
恒興は川沿いの古い道へ回っている。
作兵衛は、まだ来ていない。
夜を待っているのだろう。
日が落ちる頃、第二の報告が来た。
蔵に小さな灯りが入った。
甚六ではない。
蔵の裏手から、三人。
一人は蔵の鍵を持っていた。
一人は馬を引いている。
一人は荷を担いでいる。
顔はまだ分からない。
作兵衛かどうかも不明。
俺は報告を聞き、地図の前で息を止めた。
「始まったな」
柴田が低く言った。
いつの間にか来ていた。
呼んではいない。
だが、来ると思っていた。
「兵は」
「動かしておりませぬ。ですが、すぐ出せるようには」
「よい」
「若君」
「何だ」
「今夜、もし尾張の内の受け手が見えたら」
「捕らえるかどうかは、その時だ」
「逃がせば」
「次が見えるかもしれぬ」
「捕らえれば」
「線は切れるが、証は残る」
柴田は頷いた。
「難しいですな」
「槍なら楽だろう」
「楽です」
即答した。
柴田らしい。
俺も少し笑った。
夜が深くなる。
報告を待つ間、長く感じる。
やがて、恒興自身が戻ってきた。
急ぎ足だが、息は荒くない。
訓練されている。
「若様」
「言え」
「作兵衛と思われる男が来ました」
「顔は」
「三十半ば。商人には見えますが、腰が商人ではありません。馬の扱いに慣れています」
「荷は」
「塩樽二つ、味噌一つ、飼葉数束。薬草の小袋。それから、槍の穂先ではなく、短い鉄具が複数」
「鉄具?」
「槍の留め金か、荷車の修理具にも見えます。ですが数が多い」
長秀が横で筆を走らせる。
「受け手は」
俺が聞くと、恒興の顔が少し硬くなった。
「尾張側の者が来ました」
「名は」
「まだ確定できません。ただ、林美作守の旧臣筋に近い男です」
部屋の空気が凍った。
林。
稲生の傷。
俺は一度、林美作守を斬らずに縛った。
屋敷に出入りする者の名を書き出させている。
だが、その周辺にいたすべての者が完全に離れたわけではない。
外の影は、そこを見たのか。
「本人か」
柴田が低く聞いた。
恒興は首を振った。
「林様ご本人ではありません。名は滝川左内。以前、美作守様の使い走りをしていた者です。今は表向き、清洲寄りの商人に雇われていると」
「滝川左内」
長秀が帳面をめくる。
「名があります。稲生前に信勝様方へ出入りしていた者の一人。ただし、主だった者ではありません」
信勝の顔が白くなった。
「私の」
「お前のせいではない」
俺はすぐ言った。
「ですが」
「お前の名の周りにいた者だ。お前そのものではない」
信勝は唇を結んだ。
痛いだろう。
また、自分の名の周りが使われる。
だが、ここで信勝が折れてはいけない。
「続けろ」
俺は恒興に言った。
「左内は、作兵衛から荷を直接受け取ってはいません。蔵の奥で話し、塩樽一つと小袋を別に分けさせました」
「どこへ」
「すぐには運ばず、蔵の床下に隠しました」
「床下か」
「はい。残りの荷は、三河側へ戻す分としてまとめ直しています」
蔵は、置き場だ。
尾張側へ渡す荷は、すぐ動かさない。
床下に隠す。
必要な時に取り出す。
それは、兵糧というより、合図か備えか。
あるいは、少人数の者を尾張内で動かすための食い物か。
「捕らえたか」
柴田が聞いた。
恒興は首を振った。
「まだです。若様の命通り、受け手を見ることを優先しました。左内は、蔵を出て川沿いへ向かいました。仁助の者が離れて追っています」
俺は少し考えた。
ここからが難しい。
作兵衛を捕らえるか。
左内を捕らえるか。
床下の荷を押さえるか。
見続けるか。
どれも正しい。
どれも間違える可能性がある。
「作兵衛は」
「まだ蔵にいます」
「左内は」
「川沿いを北へ」
「北?」
地図を見る。
北へ向かえば、清洲に寄る道もある。
だが、そのまま村を抜ければ、林の旧臣が潜みやすい小さな屋敷筋にも出る。
どちらだ。
「柴田」
「はっ」
「兵は出すな」
柴田は一瞬だけ目を閉じた。
出したいのだろう。
俺も出したい。
「恒興」
「はい」
「作兵衛を見張れ。逃がすな。だが、まだ捕らえぬ」
「はい」
「仁助の者に、左内を追わせる。ただし、近づきすぎるな」
「はい」
「長秀」
「はい」
「床下の荷を押さえる手は?」
「道普請の名目で、明朝、蔵の床下が湿っていないかを見ることはできます」
「よい」
「ただ、今夜中に動かされる可能性も」
「作兵衛がいる限り、動かしにくいだろう」
帰蝶が静かに言った。
「左内が戻る可能性は?」
「ある」
「なら、戻ったところで、二人が再び何を話すか見たいですね」
その通りだった。
帰蝶は、本当に嫌なところを見る。
「見続ける」
俺は決めた。
「今夜は捕らえぬ。だが、蔵を囲むように目を置く。逃げ道を三つ見ろ」
「承知」
恒興がすぐ下がった。
柴田は残った。
顔に不満がある。
「言え」
俺が言うと、柴田は遠慮しなかった。
「若君。左内は稲生の残り火です。作兵衛は三河の影。二つが蔵で会ったなら、捕らえるには十分では」
「十分だ」
「なら、なぜ」
「左内の後ろを見る」
「後ろに林がいると?」
「分からぬ。林本人でなくとも、その周りにまだ誰かいる。ここで左内だけ捕らえれば、後ろは切れる」
柴田は黙った。
「お前は、すぐ斬りたいか」
「斬りたいわけではありませぬ。ただ、逃がしたくない」
「俺もだ」
「では」
「逃がさず、後ろを見る」
柴田は深く息を吐いた。
「難しい命ですな」
「だから、お前には兵を止めてもらう」
柴田は俺を見た。
少しして、頭を下げた。
「承知」
その後、夜はさらに深くなった。
信勝は黙っていた。
俺は弟へ向き直る。
「勘十郎」
「はい」
「左内の名に覚えは」
「あります」
「どんな男だ」
信勝は少し苦しそうにした。
「よく喋る男でした。私を直接担ごうとしたというより、周りの顔色を見て、強い方へ寄る者でした」
「なら、今川へ寄ったか」
「あるいは、今川へ寄っている者へ寄ったのかもしれません」
「よい見立てだ」
「兄上」
「何だ」
「もし私の名を使っていたら、私からも言わせてください」
「ああ」
「私は、もう誰かの便利な名にはなりたくありません」
その声は静かだった。
だが、強い。
信勝は本当に変わった。
稲生の敗者ではなく、自分の名を取り戻そうとする男になっている。
「お前の言葉は要る」
俺は言った。
「ただし、今夜はまだだ」
「はい」
夜明け前、仁助が戻った。
顔に疲れがある。
だが、目は生きていた。
「左内を見ました」
「どこへ行った」
「清洲ではありません。林様の旧臣がよく使っていた、小さな屋敷へ」
「誰の」
「表向きは空き屋敷です。ただ、火が入ってました」
「中に誰が」
「一人、年寄り。顔は見えませんでした。ただ、左内はその相手に、こう言いました」
仁助は少し声を落とした。
「『三河の支度は整いつつある。尾張の内も、まだ火種は消えておりませぬ』と」
火種。
俺は拳を握った。
稲生の火種。
信勝の名の火種。
清洲の奥の火種。
それを、今川の影が見ている。
「相手は何と」
「『焦るな。信長は道ばかり見ている。人の怨みは道に落ちぬ』と」
部屋が静かになった。
人の怨みは道に落ちぬ。
嫌な言葉だ。
そして、半分は当たっている。
道を直しても、人の怨みが消えるわけではない。
帳面に名を書いても、心の奥に残ったものは消えない。
俺はそこを見落としていたか。
いや、見ていたつもりだった。
だが、つもりだけだったのかもしれない。
帰蝶が俺を見た。
何も言わない。
顔に出ているのだろう。
「左内は」
「屋敷に入りました。まだ出ていません」
「見張りは」
「置いています」
「よし」
俺は地図を見た。
境の蔵。
左内。
空き屋敷。
三河の支度。
尾張の内の火種。
線が、見えた。
だが、まだ中心は見えない。
屋敷の年寄り。
それが誰か。
林か。
林に近い者か。
別の古い家か。
あるいは、清洲の奥とつながる者か。
「朝になったら、蔵の床下を押さえる」
俺は言った。
「はい」
長秀が頷く。
「左内は?」
「屋敷から出るまで見る。出たら、行き先を追う」
「捕らえぬのですか」
「まだだ」
柴田が今度は何も言わなかった。
代わりに、低く頷いた。
「若君。兵は止めます」
「頼む」
「ただし、屋敷から兵が出る気配があれば」
「その時は動け」
「承知」
空が白み始めた。
夜が終わる。
だが、戦はまだ始まっていない。
いや、始まっている。
槍が出ていないだけだ。
鍬で攻めた道から、今川の影と尾張の火種が一本の線でつながった。
作兵衛は夜に来た。
そして、夜は尾張の内側に隠れていた怨みを少し照らした。
人の怨みは道に落ちぬ。
その言葉が、胸に残る。
ならば、次は人を見る。
道だけではなく。
荷だけではなく。
帳面だけではなく。
誰が怨みを持ち、誰がその怨みを外の影へ渡そうとしているのか。
そこを見なければならない。
俺は朝の光の中で、地図の空き屋敷に小さな印をつけた。
火種。
そう書くには、まだ早い。
だから、点だけを打った。
岡崎と同じように。
点は、増えていく。
そして、いずれ線になる。
こちらが先に線を読むか。
相手が先に火をつけるか。
勝負は、もう始まっていた。




