第42話 鍬で攻める
鍬で攻める。
言葉にしてみると、ずいぶん間抜けに聞こえた。
槍で攻める。
火で攻める。
兵で攻める。
それなら分かる。
だが、鍬だ。
土を掘り、水を逃がし、橋板を替え、荷車の轍を均す。
それを「攻め」と呼ぶ日が来るとは、少し前の俺なら思わなかった。
けれど、境の古い蔵へ続く道を直すという名目は、こちらが思った以上によく効いた。
蔵を押さえれば、相手は逃げる。
兵を出せば、今川の影は姿を隠す。
だが、道普請なら違う。
馬借が困っている。
荷が増えて道が荒れている。
塩や飼葉を運ぶには橋が弱い。
水が溜まれば馬が嫌がる。
そう言えば、誰も正面から反対しにくい。
反対すれば、なぜその道が直っては困るのかと問われる。
鍬は、槍より柔らかく人の懐へ入る。
そして、入った後で土を返す。
土の下から、何が出るか。
それを見るのが今回の仕事だった。
「若様」
朝、長秀が地図と帳面を持って来た。
目の下は相変わらずだが、今日は少し顔に張りがある。
「楽しそうだな、帳面様」
「楽しんではおりません」
「顔が言っている」
「若様に言われるとは」
「うつった」
長秀は諦めたように息を吐き、地図を広げた。
「境の古い蔵へ続く道は三筋あります。表の荷道、村の脇を抜ける細道、そして川沿いの古い道です」
「普請を入れるのは」
「表の荷道です。名目が立ちます。ですが、実際に見たいのは細道と川沿いです」
「なぜ」
「表を直すとなれば、荷は一時的に細道や川沿いへ逃げます。隠したい荷ほど、そちらへ動くかと」
俺は少し笑った。
「お前、本当に攻め方が嫌らしくなったな」
「若様のもとにおりますので」
「俺のせいか」
「半分は」
長秀まで、もう完全にこの言い方を自分のものにしている。
困ったものだ。
「人は」
「仁助が馬借の苦情役として表へ。村井新七が清洲側の普請役として来ます」
「新七か」
「はい。清洲から正式に出ます。河尻殿の差配です」
村井新七。
清洲の道普請で、土の沈み方を見ていた男だ。
古い家の者ではない。
実務で上がってきた男。
清洲の中にも、ああいう目がある。
使える。
ただし、使い方を誤れば、清洲の古い顔に睨まれる。
「弥三郎と岩室は」
「普請場には出ます。ただし、蔵には近づけません。まだ余計な接触をさせぬ方がよいかと」
「よい」
「恒興殿は全体。犬千代殿は……」
長秀がまた言いづらそうにした。
「また行きたいと言っているか」
「はい」
「今回は?」
「若様が止めても、別の形でついていきそうです」
「厄介だな」
「厄介です」
犬千代は目立つ。
だが、目立つからこそ使える場合もある。
隠れたい者は、目立つ者を見る。
犬千代が表で暴れないように立っていれば、相手の目はそちらへ寄る。
その間に、恒興や仁助が裏を見る。
「犬千代は表だ」
俺は言った。
「よろしいので?」
「ただし、槍は持たせるな。鍬を持たせろ」
長秀が一瞬固まった。
「鍬、ですか」
「鍬で攻めるのだろう」
長秀は、少しだけ笑った。
「承知しました」
犬千代にそれを伝えると、当然ながら大騒ぎになった。
「若様、私は槍働きの者でございます!」
「今日は鍬働きだ」
「鍬で何を斬ればよろしいのですか」
「斬るな。掘れ」
「掘る……」
犬千代は、この世の終わりのような顔をした。
恒興が横で笑っている。
「犬千代、似合うぞ」
「恒興、覚えておけよ」
「鍬で?」
「……斬りません」
「よし」
柴田まで少し笑った。
珍しいことだ。
だが、笑いで済むのは出発前までだった。
境の蔵へ向かう道は、晴れているのに湿っていた。
前日の雨が、道の低いところに残っている。
馬の足跡が深い。
荷車の轍は、思ったより多かった。
ただの炭置き場へ続く道にしては、明らかに通行が増えている。
俺は今回は行かない。
行けば意味が重くなりすぎる。
だから、現場へ出たのは長秀、恒興、仁助、犬千代、村井新七、それに清洲と那古野の普請人たちだった。
俺は那古野で報告を待つ。
待つのはやはり苦手だ。
だが、今回は台所へは行かなかった。
行く前に帰蝶に捕まったからだ。
「信長様」
「まだ何もしていない」
「しようとなさっていました」
「顔か」
「足音です」
足音まで読まれる。
もう終わりだ。
「台所へ行こうと?」
「少しな」
「おたえが緊張します。今日は報告が来るまで、こちらでお待ちください」
「命令か」
「お願いです」
「お願いの形をした命令だな」
「半分は」
俺は観念して部屋へ戻った。
信勝もそこにいた。
信勝は、清洲と熱田へ出す文の草案を見ていたが、俺が戻ると顔を上げた。
「兄上も待つのが苦手ですね」
「お前もか」
「はい」
「そうは見えぬ」
「見せないようにしています」
「俺も見せないようにしている」
帰蝶が横で静かに言った。
「信長様は見えています」
「なぜ俺だけ」
「足音が大きいので」
信勝が笑った。
俺も少し笑った。
笑っている場合ではないのだが、笑わなければ待つ時間が重くなりすぎる。
境の道では、その頃、普請が始まっていた。
あとで長秀から聞いたところによると、最初は本当にただの道普請に見えたらしい。
仁助が馬借の代表面をして、声を張る。
「ここが沈むんですよ。塩樽積んだ馬が足を取られたら、誰が責任取るんですかって話で」
村井新七が土を踏み、真面目な顔で頷く。
「水が逃げていません。溝を切る必要があります」
犬千代は鍬を持って立っている。
ひどく不満そうだったが、見栄えはした。
若い武者が鍬を持っている。
それだけで、村の者も馬借も見に来る。
隠れて様子を見たい者も、自然と視線をそちらへ向ける。
犬千代は、本人が思っている以上に役に立っていた。
「そこを掘れ」
仁助に言われ、犬千代は鍬を振り上げた。
「こうですか!」
「強すぎる! 土を殺す気ですか!」
「土は死ぬのか!?」
「死にはしませんけど、崩れます!」
そのやり取りで、周りが少し笑ったという。
笑いはよい。
笑いがあれば、普請は自然に見える。
その間、恒興は人の流れを見ていた。
表の荷道に人が集まると、案の定、蔵の裏手から小さな荷が動いた。
細道へ回す荷だ。
荷は俵二つ。
小さい。
だが、担いでいる男の足運びが農民ではない。
軽すぎる。
荷を重く見せている。
恒興は、それを追わなかった。
追えば見つかる。
ただ、どの道へ入ったかを見た。
川沿いの古い道。
そこに、もう一人待っていた。
薬売りの姿をした男。
以前、三河との境で見かけた者に似ている。
恒興は、そこで犬千代を連れてこなくてよかったと心底思ったらしい。
犬千代なら飛び出していたかもしれない。
いや、たぶん飛び出していた。
仁助の方も別のものを見ていた。
馬の足跡だ。
表に見える馬は少ない。
だが、細道の奥に残る蹄の跡は多い。
しかも、同じ方向へ何度も往復している。
荷を置きに来ただけではない。
集めたものを、さらにどこかへ分けている。
新七は、新七で土を見た。
「この轍、昨日のものではありません」
長秀にそう言ったという。
「なぜ分かる」
「雨の後に一度乾きかけています。その後でまた踏まれた。今朝か、昨夜遅くです」
「夜に荷が動いた?」
「はい」
長秀は、その言葉を帳面に書いた。
夜の荷。
塩。
飼葉。
薬草。
槍の柄らしきもの。
そして、川沿いの古い道。
点が線になる。
普請が昼に差しかかった頃、蔵の持ち主とされる百姓、甚六がやって来た。
痩せた男だった。
顔色が悪い。
こちらを見る目に怯えがある。
だが、ただの怯えではない。
何かを隠している者の怯えだ。
「甚六」
長秀が穏やかに声をかけた。
「この蔵は、あなたの名義ですね」
「へ、へい」
「最近、荷が増えています」
「商人衆が、置いていくだけで」
「誰が」
「それは、その」
甚六は目を泳がせた。
そこで犬千代が鍬を肩に担いで近づこうとした。
恒興が慌てて止めた。
「犬千代、顔が怖い」
「何もしていない」
「顔がしている」
長秀は、犬千代を下がらせてから、改めて甚六に言った。
「責めに来たのではありません。道を直すために、誰がどれだけ使っているか知りたいだけです」
「本当に?」
「今は」
長秀の「今は」が効いたのか、甚六はさらに青くなった。
「三河の荷渡し役が、鍵を持っていますね」
「……はい」
「名は」
「作兵衛」
「どこの」
「岡崎の方から来ると聞いています。ただ、本人は岡崎の者とは言いませぬ」
岡崎。
また出た。
長秀の筆が、少しだけ止まった。
「作兵衛は、今どこに」
「今日は、来ておりませぬ」
「昨日は」
「夜に」
「何を運んだ」
「分かりませぬ」
「見なかった?」
「見ないようにしております」
甚六の声は小さかった。
見ないようにする。
それもまた、道の上の罪だ。
悪意ではない。
怖いから見ない。
見なければ関わらずに済む。
だが、見ない者の蔵に、影は荷を置く。
「甚六」
長秀は言った。
「見ないようにしても、あなたの名義の蔵です」
「はい」
「名を貸したなら、責も来ます」
甚六は震えた。
「私は、ただ場所を貸しただけで」
「だから、今ならまだ場所を貸しただけです。何が置かれたかを知り、誰が使ったかを言えば」
長秀はそこで言葉を切った。
追い詰めすぎない。
逃げ道を残す。
最近の長秀は、その加減がうまくなっている。
甚六は、しばらく黙った後、言った。
「作兵衛は、明日の夜にも来ます」
「何をしに」
「荷を分けると」
「どこへ」
「三河へ戻す分と、こちらへ置く分を」
「こちらとは」
「尾張の内、としか」
尾張の内。
それで十分だった。
古い蔵は、ただ三河へ兵糧を送る場所ではない。
尾張の内へ何かを入れる場所でもある。
その日の夕方、長秀たちは普請を終えたふりをして引き上げた。
実際には、溝を途中まで切り、橋板を数枚外した。
道は完全には直さない。
明日も作業が必要な形にする。
つまり、明日も堂々と人を置ける。
鍬で攻めるとは、こういうことだ。
夜、長秀たちが戻ってきた時、俺は待っていた。
帰蝶に飯を食わされ、信勝と一緒に茶まで飲まされた後だった。
腹が満ちている分、少し落ち着いていた。
たぶん、帰蝶の狙い通りだ。
「報告を」
俺が言うと、長秀は帳面を開いた。
恒興、仁助、犬千代、新七。
それぞれの見たものが並ぶ。
塩樽。
味噌。
飼葉。
薬草。
槍の柄。
夜の荷。
川沿いの古い道。
三河側の作兵衛。
岡崎の方から来る男。
尾張の内へ置く分。
話が進むにつれ、部屋の空気が重くなった。
柴田は腕を組み、目だけを動かしている。
佐久間は文を考えている顔だ。
信勝は静かに聞いているが、指先に力が入っている。
帰蝶は、何も言わず地図を見ていた。
「明日の夜、作兵衛が来る」
俺は言った。
「はい」
長秀が頷く。
「捕らえますか」
柴田が問う。
「まだだ」
「まだ?」
「作兵衛が誰へ尾張の荷を渡すか見る」
「危ういです」
「分かっている」
「相手が逃げれば」
「逃がさぬように見る。だが、蔵で捕らえるより、受け手を見たい」
柴田は少し不満そうだったが、今回は黙った。
俺の言いたいことは分かっているはずだ。
作兵衛一人を捕らえても、線はそこで切れる。
尾張の内へ置く荷。
それを受ける者。
そこを見なければ意味がない。
「長秀」
「はい」
「明日も普請を続ける。表は今日と同じ。裏に目を置く」
「承知しました」
「恒興」
「はい」
「川沿いの道を見る」
「はい」
「仁助」
「へい」
「馬の動きを見る」
「任されました」
「犬千代」
「はい!」
「明日は行かない」
「なぜですか!」
「今日目立ちすぎた。二日続けて行けば、相手が警戒する」
犬千代は明らかに不満だった。
だが、ここは譲れない。
「代わりに、那古野で柴田の訓練に出ろ。外の敵に備える稽古だ」
「……承知しました」
少し納得した。
やはり犬千代には外敵という言葉が効く。
「新七は」
長秀が言った。
「明日も出します。清洲側の普請役として自然です」
「よい。だが、危険を知らせておけ。巻き込まれるなと」
「はい」
「信勝」
「はい」
「お前は動かない」
「分かっています」
「だが、明日の結果次第で、清洲への文にお前の言葉を使う」
「はい」
信勝は、もう自分の言葉が必要な時を理解し始めている。
怖がりながらも、逃げない。
それでいい。
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
境の古い蔵。
作兵衛。
岡崎。
尾張の内へ置く荷。
その受け手。
誰だ。
清洲の奥か。
稲生の残り火か。
守護家の名に寄る者か。
それとも、まったく別の不満を持つ者か。
外の影は、内の割れ目を探す。
飯の噂で兄弟の割れ目が塞がって見えた。
柴田の鍋で兵の割れ目も少し塞がって見えた。
なら、相手は次の割れ目を見る。
その一つが、この蔵だ。
鍬で攻める。
泥を掘る。
水を逃がす。
橋板を外す。
そうしながら、影の足跡を見る。
派手ではない。
だが、今はこれが戦だ。
槍を抜く前の戦。
誰も戦と呼ばない戦。
その最中に、俺たちはいる。
翌朝。
空は晴れていた。
道普請には、うってつけの日だ。
そして、影を見るにも。




