第41話 境の古い蔵
境の古い蔵。
地図の上に小さく印をつけただけの場所が、その夜から妙に大きく見え始めた。
尾張と三河の境。
清洲でもない。
那古野でもない。
熱田でもない。
城でもなく、寺でもなく、湊でもない。
ただ、荷が一度置かれる古い蔵だ。
普段なら、炭や薪、時には米を一晩置く程度の場所。
馬借が雨を避け、商人が荷を分け、村の者が「また誰かが通っていった」とだけ思う場所。
そういう場所ほど、戦の前にはよく働く。
大きな城に兵糧を運べば目立つ。
湊に大荷を積めば噂になる。
だが、古い蔵に小口で塩や味噌や飼葉を集めれば、最初は誰も気にしない。
誰も気にしないものを、気にし始める。
それが、今の俺たちの仕事だった。
「若様」
翌朝、柴田が早くから来た。
顔つきがもう戦のものになっている。
「兵を出すには、まだ早い」
俺が先に言うと、柴田は少しだけ眉を動かした。
「言う前に封じられましたな」
「お前の顔が言っていた」
「若君まで顔を読まれるように」
「うつった」
柴田は、ほんの少し口元を動かした。
だが、すぐ真顔へ戻る。
「蔵へ向かう道を押さえるだけなら、兵はいりませぬ。ですが、相手が数百を動かす支度なら、見ているだけでは遅れるやもしれません」
「分かっている」
「では」
「だから、見る」
柴田は黙った。
「見てからでなければ、どこを叩くか分からぬ。兵を出して蔵を押さえれば、一時は気持ちがいい。だが、相手が別の蔵へ移るだけなら、こちらが手の内を見せることになる」
「ならば、相手に使わせたまま見る」
「そうだ」
「危ういですな」
「危うい」
「若君は、危ういことをされる時ほど落ち着いた顔をなさる」
「顔を見るな」
「最近の流行りですので」
まったく、よくない流行だ。
ただし、今回は柴田の言葉にも理がある。
見ているだけでは遅れることもある。
見すぎているうちに、敵が形を持つ。
だから、見ながら止める手も必要だった。
「柴田」
「はっ」
「兵は動かすな。ただし、すぐ動けるように整えろ」
「場所は」
「熱田方面と守山道、二手の備え。だが、表向きは訓練だ」
「承知」
「兵糧は動かすな」
「なぜです」
「こちらが兵糧を動かせば、相手も気づく。まずは兵だけ整えろ。飯は台所に聞く」
柴田が少し妙な顔をした。
「台所に」
「不満か」
「いえ。最近、台所の方が下手な物見より早いので」
それは事実だった。
おたえの台所帳は、すでに長秀の帳面と並べられている。
米、味噌、塩、魚、油、薪、薬草、飼葉。
記号で記された小さな帳面だが、あなどれない。
むしろ、数字だけの帳面より生々しい。
食うものが、どこへどれだけ流れているか。
それは、兵が動く前の呼吸のようなものだった。
「長秀は」
「もう来ています」
恒興が言った。
見ると、廊下の向こうから長秀が歩いてくる。
寝不足の顔だ。
だが、目は働いている。
「寝たか」
「その問いを毎朝いただくようになりました」
「答えは」
「目を閉じました」
「それは寝たとは言わぬ」
「帰蝶様にも言われました」
言われても直らないのか。
俺も人のことは言えないが。
長秀は帳面を広げた。
「境の古い蔵について、仁助から追加の聞き取りをしました。元は炭置き場。持ち主は村の百姓名義ですが、実際には複数の商人が共同で使っております」
「誰が鍵を持っている」
「表向きは百姓の甚六。ですが、鍵は三つあるようです。一つは甚六。一つは清洲の炭商。一つは三河側の荷渡し役」
「三河側の名は」
「まだ不明。ただ、岡崎に近い商い筋と」
岡崎。
またその名が出る。
地図の点が、少しずつ濃くなる。
「直接調べる者は」
「恒興殿、仁助、それから……」
長秀が少し言いづらそうにした。
「犬千代殿が、どうしてもと」
その瞬間、廊下の外で気配が動いた。
隠れているつもりか。
「犬千代」
「はっ!」
案の定、前田犬千代が現れた。
背筋は伸びている。
顔は真剣だ。
だが、目が「連れていけ」と叫んでいる。
「今回は斬らぬ仕事だ」
「心得ております」
「槍はいらぬ」
「短いものなら」
「いらぬ」
「では、脇差だけ」
「使うな」
「はい」
恒興が横で笑いをこらえていた。
犬千代は不満そうだったが、今回は使える。
若い目は、時に大人が見落とすものを見る。
ただし、見つけた瞬間に飛びかかる癖がある。
そこだけが問題だ。
「犬千代」
「はい」
「お前の役は、相手の数を見ることだ。喧嘩を売ることではない」
「数、ですか」
「馬の数。飼葉の量。人の足跡。荷を担ぐ者の肩。そこを見ろ」
犬千代は少し目を丸くした。
「肩?」
「兵なら、荷を担ぐ時の体が違う。商人や百姓と同じふりをしても、歩き方が違うことがある」
柴田が頷いた。
「若君の仰せの通りだ。槍を持つ者は、手が違う。馬を扱う者は、足が違う。見ろ」
「承知しました」
犬千代の顔が引き締まった。
こういう具体を与えると、この男は強い。
「恒興」
「はい」
「お前は全体を見る。仁助は道を見る。犬千代は人を見る。三人の見たものを合わせる」
「承知しました」
「見つかるな」
「はい」
「見つかっても、こちらの命とは言うな」
「もちろんです」
「犬千代」
「はい」
「斬るな」
「……はい」
少し間があった。
心配だ。
だが、送り出すしかない。
昼過ぎ、三人は那古野を出た。
表向きは、境近くの荷の流れを確認するためだ。
馬は替えず、急ぎすぎない。
急げば目立つ。
境の古い蔵までは、一日で往復できる距離ではあるが、無理をすれば怪しまれる。
だから、行きはゆっくり、途中で別れ、夕方前にそれぞれ違う場所から蔵を見る。
戻りは夜になるか、場合によっては翌朝。
俺はそう命じた。
待つのは苦手だ。
だが、今は待つ。
待っている間、俺は台所へ行った。
城主が台所へ行くのは、あまり褒められたことではない。
少なくとも、政秀なら眉をひそめる。
帰蝶は、なぜか最初から知っていたように台所の入口にいた。
「やはり来られましたね」
「待つのが苦手だ」
「存じています」
台所では、おたえが女中たちに記号を教えていた。
米は丸。
味噌は四角。
塩は線。
魚は波。
薪は火。
飼葉は草。
薬草は小さな葉。
見れば分かる。
簡単だ。
だが、その簡単さが強い。
「これは、今日の分か」
俺が聞くと、おたえは少しも慌てずに答えた。
「はい。那古野へ入る分、出る分を分けております」
「三河方面は」
「塩が多うございます。あと、飼葉がまた少し」
「飼葉か」
「馬は嘘をつきませんから」
おたえがさらりと言った。
俺は思わず笑った。
「それは誰の言葉だ」
「馬屋の若い者です。女中に愚痴っておりました。『人は商いだと言えるが、馬は食った分しか走らぬ』と」
「よい言葉だ」
長秀がいたら書いただろう。
俺は覚えておくことにした。
帰蝶が横で言う。
「書かせましょうか」
「顔に出たか」
「はい」
「もういい」
結局、書かせた。
馬は食った分しか走らぬ。
戦場の前触れを見るには、よい言葉だ。
夕方になっても、恒興たちは戻らなかった。
当然だ。
それでも落ち着かない。
柴田は訓練場で兵を整えている。
信勝は清洲と熱田への文を見直している。
長秀は、台所帳と塩帳を照らしている。
佐久間は、何かが起きた場合の文を三通用意している。
帰蝶は、俺の飯を用意させている。
皆、それぞれの火を守っている。
俺だけがうろうろするわけにはいかない。
分かっている。
分かっているが、うろうろした。
「信長様」
帰蝶が廊下の角で言った。
「歩幅が少し荒いです」
「足まで見るのか」
「音で分かります」
「台所の耳だけではなく、廊下の耳もあるな」
「はい」
認めた。
もう驚かない。
「待つのは嫌いだ」
「存じています」
「だが、待たねばならぬ」
「はい」
「飯は」
「食べてください」
「やはりか」
「待つ時ほど、食べてください。空腹で待つと、悪い方へ考えます」
これも正しい。
腹立たしいほど正しい。
俺は食った。
味は少し薄く感じた。
すると、おたえがすぐに言った。
「塩はいつも通りです」
「顔に出たか」
「箸で分かります」
台所まで俺を読む。
もう逃げ場がない。
夜半近く、恒興が戻った。
犬千代もいる。
仁助は少し遅れて別口で戻るらしい。
恒興の衣には土がついていた。
犬千代の頬にも泥がある。
血はない。
よかった。
「斬っていないな」
俺が最初に言うと、犬千代は少し不満げに胸を張った。
「斬っておりません」
「殴ったか」
「一度だけ」
「誰を」
「犬に吠えられまして」
「犬を殴ったのか」
「いえ、吠えられて驚いた自分の膝を」
恒興が吹き出した。
緊張が少し緩む。
だが、報告はすぐに始まった。
「蔵には、確かに荷が集まっていました」
恒興が地図の上を指した。
「塩樽が六。味噌樽が四。干し魚の包みが十ほど。飼葉は束で二十以上。薬草の小袋も見ました」
「兵は」
「兵として立っている者はいません。ただ、荷運びにしては体つきの揃った男が八人」
「武器は」
「表にはありません。ですが、蔵の裏で槍の柄らしきものを見ました」
柴田の顔が険しくなる。
「穂先は」
「確認できません」
犬千代が口を挟んだ。
「柄だけなら、農具と言えます。ですが、握りの磨り減り方が鍬とは違いました」
柴田が犬千代を見た。
「よく見た」
犬千代の顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
「調子に乗るな」
「はい」
「馬は」
俺が聞くと、恒興が答えた。
「表に三頭。裏に二頭。足跡から見て、昼の間にさらに数頭が出入りしています」
「飼葉の量と合うか」
柴田が聞く。
恒興は少し首を振った。
「多すぎます。五頭分にしては飼葉が多い。近くに別の馬がいるか、これから増えるか」
「仁助の報告が要るな」
俺が言うと、ちょうど廊下から声がした。
「呼ばれました?」
仁助が入ってきた。
相変わらず、こういう時の間がよい。
「道は」
「蔵へ入った荷は、全部が三河へ抜けるわけじゃありません。半分は、蔵に置いたままです」
「置いたまま」
「はい。あそこを小さな溜まり場にするつもりですね。必要になったら、三河へも尾張側へも動かせる」
部屋が静まる。
尾張側へも。
それは重要だった。
「尾張側へ動かすなら、何に使う」
信勝が言った。
「小勢を尾張へ入れる」
柴田が答えた。
「あるいは、尾張の内にいる誰かへ渡す」
長秀が静かに言った。
俺は地図を見た。
境の古い蔵。
そこに食い物が集まっている。
三河へ戻すためだけではない。
尾張側へ動かすこともできる。
つまり、今川の影が尾張へ入るための足場。
あるいは、尾張の中にいる誰かとつながるための置き場。
「清洲か」
佐久間が低く言った。
「奥かもしれません」
信勝が言った。
「あるいは、清洲とは別の、尾張の不満を持つ者か」
俺は頷いた。
稲生は終わった。
だが、不満は消えていない。
林美作守の周辺。
信勝をまだ担ぎたい者。
清洲の古い名に寄りかかる者。
守護家の名を使いたい者。
そういう者が、今川の影とつながる可能性はある。
証拠はまだない。
だが、可能性は見えた。
「蔵を押さえるか」
柴田が言った。
「まだだ」
俺は答えた。
柴田の顔が少し動く。
だが、反論はしなかった。
「押さえれば、今川の影は別の場所へ移る。それに、尾張側で誰とつながるかが見えなくなる」
「では、泳がせる」
「半分は」
「もう半分は」
「蔵を使いにくくする」
長秀が顔を上げた。
「どうしますか」
「道普請だ」
部屋の何人かが同時にこちらを見た。
俺は地図の蔵へ続く道を指した。
「この道、雨でぬかるむ場所があるだろう」
仁助が頷いた。
「あります。蔵の手前の細い道ですね」
「そこを直す」
「え?」
仁助が目を丸くした。
「直したら、かえって使いやすくなりませんか」
「ただ直すのではない。清洲と那古野の取り決めに沿って、道普請の名目で人を入れる。水の流れ、橋板、荷の重さを調べる。そうすれば、蔵の出入りを正面から見られる」
長秀の目が光った。
「道を塞がず、目を置く」
「そうだ」
「さらに、道普請の費えを誰が出すか問えば、蔵を使う者の名が必要になります」
「そういうことだ、帳面様」
長秀は、今度は嫌がらなかった。
「これは使えます」
柴田が低く笑った。
「若君、兵ではなく鍬で攻めますか」
「鍬も兵だ」
「まことに」
犬千代が少し興奮した顔をした。
「では、私も道普請へ」
「お前は行くな」
「なぜですか」
「顔に出る」
犬千代は本当に悲しそうだった。
だが、今回も置く。
道普請に見せかけて目を置くには、犬千代は目立ちすぎる。
「仁助」
「へい」
「道が悪いと馬借から声を上げろ」
「俺からですか」
「ああ。『最近、塩や飼葉の荷が増えて道が荒れる。直さないと困る』と」
「それなら自然です」
「長秀」
「はい」
「清洲にも話を通す。塩帳にも関わると言え」
「承知しました」
「信勝」
「はい」
「お前の名はまだ出さない」
「分かっています」
「だが、熱田と清洲の火の話で、道を守ることは祈りを守ることにもつながると、必要なら使う」
「はい」
決まった。
蔵を押さえない。
だが、蔵へ続く道に目を置く。
兵ではなく、道普請で近づく。
相手が食い物と飼葉で戦の前触れを作るなら、こちらは泥と橋板でその前触れを読む。
地味だ。
だが、今はこれが一番効く。
翌朝、早速動いた。
仁助が馬借たちの声として、蔵へ続く道の修繕を申し出た。
清洲の久右衛門には、塩帳の流れを見るためにも必要だと伝えた。
那古野からは長秀の者を出す。
表向きは完全に道普請だ。
そして、道普請の名目なら、誰も強く反対しにくい。
反対すれば、なぜその道を見られたくないのかと問われる。
昼過ぎ、清洲から返事が来た。
久右衛門は賛成。
河尻も、道の荒れを放置するわけにはいかぬと認めた。
ただし、清洲の奥からはまだ返事がない。
「奥は、どう出るか」
信勝が言った。
「反対すれば、蔵を庇っているように見える」
「黙れば、道普請が進む」
「だから、別のところで邪魔をするかもしれぬ」
帰蝶が静かに言った。
「たとえば?」
「道普請に出る者へ、噂を流す。那古野が境の商いを奪うつもりだ、と」
「あるだろうな」
「その前に、こちらから言葉を置くべきです」
「何と」
信勝が少し考えた。
「道を直すのは、商いを奪うためではなく、商いが疑われずに通るためである、と」
長秀が即座に書いた。
「よい」
俺は言った。
「これも使う」
信勝はもう驚かなかった。
少しだけ笑って、頷いた。
「はい」
その夜、俺は一人で地図を見た。
境の古い蔵。
その周りに、塩、味噌、飼葉、薬草、槍の柄、馬の足跡、岡崎、今川、清洲の奥。
いくつもの言葉が浮かぶ。
戦場の前触れは、もうはっきり匂い始めている。
だが、まだ戦場ではない。
だからこそ、今が大事だ。
槍が見えてから動く者は、遅い。
味噌が動いた時に気づく者が、先に立つ。
父上は、きっとそれを知っていた。
政秀も知っていた。
道三も知っているだろう。
俺は今、ようやく知り始めている。
外から影が伸びる。
内から火を守る。
台所が聞き、帳面が残し、馬借が運び、道普請が目になる。
戦とは、思ったよりずっと早く始まる。
境の古い蔵は、まだ静かに立っている。
だが、その静けさの中で、今川の影は少し形を持った。
次は、その影が誰の手に食い物を渡すのかを見る。
そこに、尾張の次の割れ目があるかもしれない。
俺は灯火を消さずに、地図を閉じた。
火は小さいままでいい。
ただし、影を見失わないだけの明るさは要る。




